カテゴリ:歴史 文化 古史料 著名人
労働争議と疑獄事件で右往左往した内閣
『歴代内閣総理大臣のお仕事』 2017・11.20発行 編集者『内閣総理大臣研究会』 一部加筆 山梨歴史文学館
在職 ■1948年3月10日~1948年10月15日 生年 ■1887年い‥月15目 没年 ■1959年6月20日盾‥歳) 出身地■京都府
内部分裂により瓦解した片山内閣の後、総理に指名されたのが民王党総裁の芦田均(ひとし)だ。 だが、連立を組む与党が社会党、国民協同党と前政権と同じ顔ぶれであったため、その政権誕生は決して歓迎されたものではなかった。政策に行き詰まった3党が再登場したことに、野党から「政権のたらい回し」と批判を浴び、世論も芦田の登板を疑問視。内閣支将卒も30%台という寂しい船出であった。 その芦田内閣は発足直後から逆風に直面する。逓信省職員の労働組合である全逓信労働組合(現日本郵政グループ労働組合)などが、賃金引き上げを訴え大規模なストライキを決定。GHQの介入で中止となる一方、その後マッカーサーは公務員のストライキを禁じる書簡を発し、これを受けて芦田内閣は公務員の団体交渉権と争議権を否認する「政令201号」を制定。また、ストの原因となった給与の新体系を巡って、民主立と社会党の問で意見が対立する。さらに民間でも、映画製作会社の東宝で戦後最大と言われる規模の労働争議、いわゆる「東宝争議」が勃発する。4月に会社側が1200人以上の解雇を通告し、これに反発した労組側が撮影所を占拠。警察官2500人以上に加え米軍の戦車まで動員する騒動に発展し、芦田政権は対応に振り回されることになった。
一方、芦田内閣の課題は食糧難の解決やインフレの制御であったが、これらはGHQの支援なしには克服できない。そのため芦田は「占頷下の日本では誰が首相になってもGHQの指令に従うしかない」と嘆息。施政方針演説でも「連合国からの援助を受けるためにも、我々はGHQの信頼に背いてはならない」と発言し国民に釘を刺す。
それでも国家行改組戦法を整備し、海ヒ保安庁や水産庁、建設省(現国土交通省)など省庁の新設や改編を実現。戦後目本の行政基盤を築き、一定の業績は残している。 だが、政権は昭和電工疑獄事件により、その命運を絶たれてしまう。昭和電工の社長が復興金融金庫からの融資に便宜を図ってもらう目的で、3000万円もの金品を政官界にばら撒いたことが発覚。9月には、大蔵省主計局長の福出赳夫など政府高官や政治家64名が逮捕され大問題となった。芦田白身は潔白を訴えたが、副総州の西尾末広が逮捕されたことで「道義的責任を感じる」との談話を発表し、10月15目に総辞職した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年09月24日 20時30分37秒
コメント(0) | コメントを書く
[歴史 文化 古史料 著名人] カテゴリの最新記事
|
|