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2020年09月27日
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太宰治(だざいおさむ)と甲府(二) 白倉一由氏著

 

  『甲府市研究』第3

  19861 甲府市市史編纂委員会

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

太宰治と甲府(二)

 

 

「甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出してゐる。酸漿に似てゐた。」

 

喜びのある穏やかな甲府での新婚生活が始まっている。酸漿に富士が見えるのは快適な大宰の人生を最も良く言い表している表現である。

 

甲府市御崎町五六番地の借家に移動したのは昭和一四年一月六日であった。この家は秋山浅次郎の借家で美知子の母がみつけてくれた八疊と三疊の二宮の家で家賃は六円五〇銭であった。一月七日東京耶杉並区濤水町二四番地の井伏宅に行き、八日井伏鱒二夫妻が媒酌し、出目真一夫妻(美知子の姉夫婦)斉勝文二郎夫人、中畑慶吉 (津島家名代)元首四郎等が同席して石原美知子との結婚式を挙行した。同夜おそらく美知子を連れて新宿発の列車で甲府に帰り御崎町の家に落ち着いた。大宰の第二期の甲府時代の作品はこの家において書かれる。

 

この家での最初の作品は『黄金風景』であり、大宰は持ちかまえていたように美知子に口述筆記させた。以後前記した『富嶽百景』に続き、『女生徒』『懶惰の歌留多』『折折の言葉』『葉桜と魔笛』『畜犬談』などを書いた。

 『黄金風景』は『満願』更に『富嶽百景』に表われた人生への希望が現実的になっていった発想によって生まれてきた作品である。家を追われ、窮迫した自炊生活をしている行、戸籍調べの巡査に声をかけられる。彼の妻は私の実家に奉公していた女中のお慶だと言う。

 私は幼い時彼女をさんざん虐めたが、三日後払の所に一家で挨拶に来る。私は驚き所用だと言い外出するが、帰りにお慶一家を海辺で見る。あれほどいじめたのに自分を褒めている言葉が聞こえてきた。私はこの言葉を聞き立ったまま泣き「負けた。これは、いいことだ。さうなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また払のあすの出発にも、光を与へる。」と思った。

 いじめられても相手に対して報復するのでなく感謝の気持を持つお慶に対して人間の愛の尊さを見出す。人を憎まず恨まず信頼と愛こそ人間のいくべき道だと太宰は新しい人生観を見出すのである。

新しい結婚生活の第丁作目にふさわしい作品である。

 

『新樹の言葉』『黄金風景』の主題の延長の作品である。新しい生活により新しい人間の生き方に歩み出そうとする作者の心境が表れ、新生の宣言が主題になっている。「新樹の言葉」は再生、新生の言葉であった。

 大宰の書く自然は大宰の心情によって左右されることは『富嶽百景』で既に考察したことだが、本件においても変わりはない。

  

甲府を『擂鉢の底』と評しているが、当っていない。甲府はもっとハイカラである。

シルクハットを逆さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲

府だと思へば、間違ひない。きれいに文化の、しみとほってゐるまちである。

 

甲府賛美である。甲府に好感をもって書いているのは、美知子との新婚生活によって過去のみじめさから脱出し、健康的な明るい家庭を持ったからであった。そのゆとりが甲府がきれぃな文化の染み透った町に見えてくる。勿論甲府は文化の伝統もあるが、よりそれを感じるのは太宰の心境の問題であった。

 この作品の主人公青木大蔵は太宰治である。自分の現在の心境を語ろうとしてぃるが、虚構化して表現している。一見私小説風であるがフィクションの濃い作品である。大蔵の所へある時幸吉が訪問する。彼はかつて大蔵の乳母をしていた、つるの子供であった。大蔵は一目でいい青年だと思い大歓喜と言えるほど喜ぶ。太宰は幼年時代を『思い出』に書いているが、彼の教育は女中のタケによってなされていた。

「たけといふ女中から本を読むことを教へられた。二人で様々の本を読み合った。たけは私の教育に夢中であった。」

 

タケは青森県北津軽郡金木村大宇金木字朝日山三七六番地に生まれ、一歳の時太宰治の子守として津高家に住みこんだ。乳母が一年で去ったので、叔母のきゑが面倒をみたタケが子守をした。大宰は『思ひ出』に叔母のことを「私は叔母に貰われたのだと思ってゐた」と書いているが、大宰のことは叔母のきゑが母代りをしていた。

彼女は母親たねの妹で、五所川原に分家するが、この時二・二年後ではあるがタケも五所川原へ行っている。この二人は幼時を回想する時忘れ得ぬ人だった。つるは二人の人物によって創造された人物である

と思う。現在甲府で家庭を持って一人前になるにつけて思い出すのは実家のことであり、またその家での幼なき日々のことであったと思われる。現在の生活の充実は迷惑をかけてきた一族への思いが募り、家との断絶など過去の自分の反省、故郷への傀槐が生まれてきたと思う。両親でなく使用人に向けられていることは義絶の身であることを意識しているのかも知れない………。

 当時の大蔵は

「東京での、いろいろの恐怖を避けて、甲府へこっそりやって来て、誰にも住所を知らせず、やや、落ちついて少しづつ貧しい仕事をすすめて」

いる作者であり、「過去の悲惨」さを持っている人間である。従って郵便屋に「幸𠮷さんの兄さんです。」と言われると自分の過去を抉(えぐ)り出されるような感じになり、「不愉快・災難・逆転・難題」 と思い、白葡萄酒をがぶ飲みしたくなる。この大蔵は太宰の心境であると思う。

 

大蔵は幸吉と会うなり好感を持ったが、回想話をすると一層その感じを強くする。

「こんなに陰で私を待っていた人もあったのだ。生きていてよかったと思った。」

大蔵のこの思いは精神病院入院、妻との自殺を経験した太宰ではなかったか……過去の悲惨の体験を経た人は人の愛を強く感ずるものである。大蔵は幸吉にどこへ勤めているかを聞くと「そこのデパートです。」眼をあけると、大丸デパートの五階建の窓々がきらきら華やかに灯っている。「当時甲府の唯一のデパート松林軒を大丸にしている。町名は桜町・柳町と実名を使用している。小説全体実と虚との融合により成立している。

デパートに沿って右に曲折すると、柳町である。ここは、ひっそりしている。けれども両側の家々は、すべて黒すんだ老舗である。甲府では最も品格の高い街であろう。

柳町に限ったことではないが、主人公の心境によって街の捕え方も変ってくる。明るい大宰の心情は自然と街を良い街にする。太宰の新生の感情は街の品格さえも変えていくのである。

幸吉の連れて行った所は望仙閣であり、かつての幸吉の家であった。幸吉は平然としているが大蔵は驚きここでは酒は飲めないと言う。しかし幸吉は「感傷なんか無いんです。」と言い、寧ろ久しぶり来てみるともの珍しく「僕はうれしいです」と言って楽しそうに微笑している。この幸吉の態度に大蔵は感激して強く生きることに人生の意義を見出す。「自愛」の言葉を繰り返し用い「死ぬもんか「投げ捨てよ過去の森」と言い泣くやつがあるかと言って自分では泣いている。暗影な過去を捨て輝かしい未来に向って強く歩もうとする太宰である。望富閣には幸吉の姉も来た。大蔵は既にかなり酔っていたが、姉の声をはっきり聞いている。姉の「うれしいのよ」との声は嫁に行く時のつるに似ていた。大蔵は「それまでの、はげしい泥酔が、涼しくほどけていって、私は、たいへん安心して」眠ってしまう。不安定な自虐の自己は他の爰の存在により、安心し更生の道を歩むことができる。隣人の純粋な愛が示された時、人は生きる張りが出てくる。今まで自分はだめだと自己否定的な考えに促われていた者が相手の愛により、信頼されることにより人間としての本来の自己を取り戻すのである。幸吉兄妹の出現は大蔵にとって救いの存在であって、この着想は宗数的発想によっていると考えて良いではないか。大宰は壁書の文句を念頭において書いているのではないかと思う。

 

「黒ずんだ間口五間ほどもある古風」の望富閣は太田町五九・六〇・六一番地(現在の遊亀公園の南西の隅)にあった望仙閣である。当時の望仙閣は渡辺弥告の経営で甲府での高級料亭であり、太宰も誰かに招待されたものと思われ、ここをモデルにしたのであろう。当時火事になった記録はないので火事の件はタケの嫁人先が三度火事にあっているのでそれの連想である。なお望仙閣を望富閣としたのは『富嶽百景』を書いた直後であるので富士への興味から「仙、を富」に変えたものと思われる。

 

大蔵は望仙閣の火事を群衆と共に見に行く。恐らく当時の甲府の人々は火事と言えばとび出すのが常であったと思う。火事を見るために舞鶴城跡に登っていく、城跡は高いので甲府市街を良く見ることができ、火事の件の描写はリアルに描いているではないかと思う。お城で大蔵は幸吉に肩を叩かれ、うしろに幸吉兄姉が微笑して立っている。大蔵は焼けているのが望仙閣とわかると舌がもつれうまく言えないが、兄嫁は平然として微笑している。彼等は過去に何のこだわりもない「焼ける家だったのですね。父も、母も仕合せでしたね。」彼等の過去は世間的にみて幸福と言えるものではなく、母は死に商売はうまくいかなく父は井戸に飛び込み狂い死にしたのであった。しかしその時どきを人間として充実した生きた者にとって過去に後侮はない。彼等はかつての自分の家が焼けるのを笑って眺められる心の余裕がある。大蔵の過去は追っていた。「この十年来感傷に焼けただれてしまってゐる」のであり、この兄姉の心境を思うにつけ「愚かさを、恥づかしく」思い「醜悪」にさえ感じた。

太宰の過去の恥ずかしさ、醜悪さである。現在の自己の生活をみるにつけ、過去の醜さがみえ恥ずかしさがこみあげてくる。過去の反省・懺悔と明日への再生、新生の強い願いである。『新樹の言葉』は深い反省とこれから生きるべき決意の表明である。『新樹の言葉』は新生への言葉であるが、相手に対する普遍的愛………自己中心的な愛でなく、相手のことのみを考える愛がある時初めて実現できるものであることを示唆している作品である。

 

『女生徒』は女生徒の一人称告自体の形式を用い読者に語りかけると言う独特の構想によっている。五月一日の起床から就寝までの一日の生活を描き、若い女性の心理の動揺を詳細に描写している。

朝は灰色で圧世的で自信がない。一人で食事をし、畠道を通り駅へ行き電車でお茶の水の学校に行く。学校ではモデルなんかをして、放課後は美容院へ行き、帰宅して母と客のためにロココ料理を作る。

独り風呂に入り、客を送って戻った母の肩を揉み、夜中洗濯をして床につく。この一日の間に少女が大人になる肉体の成長、微妙な心理を描いている。労働者・先生・電車の中の女性・母・客など相手を細かに観察し鋭く批判し、大人、女の醜さ・醜悪さ・世俗さを感じ、純粋さ・素直さにあこがれ、理想的なものを求めようとするが、生きていくためにはそれを押し通すこともできなく両者の間に微妙に揺れる自己を発見する。

雑誌などで人々はいろいろのことを説くが、本当の愛、本当の自覚が書かれていないのでたよりない。又理想のみを求めることができない俗世間への不安、父の死、姉の結婚など人生の楽しさを失いかけている自分、私の好きなロココの芸術は「華麗のみで内容空疎の装飾様式」であり、「純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。」と私の考える美の世界など私の心境を示す。

私は外部の世俗的な人々に批判的で不安であるが、生きる明るさはある。明日も又同じ日がくるであろう。幸福は一生来ないのだと解っていながら、きっとくる、明日は来ると信じて生きようとしている。

「幸福は一夜おくれて来る。」………幸福は遅れてくるがそれを待ち続ける者である。

私は少女であるが大宰である。現世の人間への疑問を持ち不安であり、理想、純粋さを求めるが人々の思惑を考え卑屈に生きなければならない。平和なやすらぎの中にある不安であるが、とにかく明日は来るであろう幸福を信じ、遅れてくる幸福を待とうとしている。

平静な調和の中に一時の安らぎを求める大宰を伝えている。

「現実と非現実の往環の中で、作者は静かに内環を閉じる。

 

 待つことに芸術家の大成を決意している太宰をみることができ、

前期のロマンチズムから中期のリアリズムヘ移行していく太宰治を読みとることができる。

 

『畜犬談』は甲府には多くの犬がいるが、その犬に対しての恐怖、憎悪が内容になっている。甲府で太宰が体験したことであり、

私は大宰自身である。私は犬極度に嫌い、憎悪の感情をもつが、これは犬に対してであると共に人間に対してでもある。

 友を売り、妻を離別し、おのれの身ひとつ、

その家の軒下に横たへ、忠義顔して、かつての友に吠え、

兄弟、父母をも、けろり と忘却し………。

 

犬の非難は人問の非難である。犬を通して人間の内にもつ醜さを指摘している。人間やその社会はまるで犬のように大宰を襲い、噛みつく。犬に対して微笑をたたえ、いささかの阻害心のないことを示し、相手の機嫌をとりやさしい人間であることを知らせようとする。従ってつくづく「自身の卑屈」がいやになり、「泣きたいほどの自己嫌悪」を感ずる。当時の太宰の人に対する態度と自己嫌悪を表わしているではないか………。

 

大宰が住んでいた御崎町を西へいき、甲府中学校の前を更に西へ相川を越えると四九連隊の練兵場になるが、早春の頃その辺を散歩していたところ一匹の小犬がついてくる。この犬を飼うことにするのは私の「内心畏怖の情」であり、小犬に対する愛情からでなく犬に対する憎悪と恐怖からの老獪な駈け引きであった。

ポチと言う名を付け長く飼っているが、ポチを愛してはいない。恐れ、憎んでおり死んでくれたら良いとさえ思っている。

遂にポチは息災を放つ皮膚病にかかり、私は毒殺しようとして練兵場へ連れて行く。その途中ポチは赤毛の犬と喧嘩をするが、「私も共に死ぬるやうな気がし」「おれは噛み殺されたっていいんだ。」「ポチよ、思ふ存分、喧嘩をしろ、と其様に力」むのであった。この時点になると私はポチに同情し、愛情を感じていくのである。人間不信から人間信頼への道を歩む太宰であると思う。

 

毒をつけた肉を練兵場で食べさせたがポチは死ななく、甲府中学校の前まできて振り向くとポチはちゃんとついてきて面目なげに首をたれ視線をそらした。「あいつには、罪が無かったんだぜ。芸術家は、もともと弱い者の味方だった筈なんだ。」………私のポチに対する考えは変りポチを東京へ連れていこうと決心する。ポチに対して真実の愛情にめざめてきたのであり、太宰の人間に対する愛の発想の表われであると考えられる。

 

人間一般への不信を、人間の個々との関係を解き明かすことにより、解消さしていこうとしたのである。

人間不信、世間不信にとらわれていた太宰が人間信頼へ脱出模索していく道がポチと私との関係の中に描き出されているのである。

大宰の甲府での作品は皆人生を肯定的に考えた明るいもので、基本的思想として人間の信頼と愛に期待するものであった。

 

病気はむろん恢復した。しかし心に深くうけた傷は、何ものを もってしても癒されなかったよ

うである。自ら致命傷と感じたそのことが原動力となって、太宰の創作はつづけられたと言って

よかろう。

 

傷ついた者が他者の信頼と愛とによって生きようとするもので、傷ついた者がもつことのできる愛の深さと明るさがある。

 

私のこれまでの生涯を追想して、幽かにでも休養のゆとりを感じた一時期は、私が三十歳の時、

いまの女房を井伏さんの媒酌でもらって、甲府市郊外に一箇月六円五十銭の家賃の、最小の家を

借りて住み、二百円ばかりの印税を貯金して誰とも逢はず、午後の囚時頃から湯豆腐でお酒を悠々

と飲んでいたあの頃である。(『十五年間』)

 

甲府での太宰治の生活は毎日三時頃まで机に向かいそれから現在の朝日五丁目二四番地の喜久の湯に行く。その間に支度しておいて、夕方から飲み始め、夜九時頃までに、六・七合飲んで、ときには「お炭伝兵衛」や「朝顔日記」の一節を語ったり、歌舞伎の声色を使ったりしていた。夫婦水入らずの楽しい生活であった。なお酒は近所の現在続いている窪田酒店から豆腐は分部豆腐店から買っていた。

 

太宰の全生涯を通して甲府での一時期は最も恵まれた良き時であった。御坂峠の天下茶屋に来た時はそれまでの生活の離脱、強い反省、再生の意気に燃えていた。太宰のこの心境は作品で言えば『満願』以来のものであった。『満願』は忍耐の後の愛の喜びを問題にしたものだが、以来不安は持ちつつも正常な人間の生き方を求め続けてきた。従って大宰の自己の暗さからの脱出、再生の意識は彼の意志によってなされたものであるが、これを支え実現させたのは妻の美知子であった。大宰にとって美知子の存在は大きく、太宰文学を評価する時彼女の存在なしには考えられない。特に甲府時代の文学の太宰の考え方に大きくかかわっていると思う。

 

美知子は石原初太郎、くらの四女で、初太郎は理学士であり、石原泉は当時四〇〇坪位の敷地に大きな家を持ち、借屋の長屋二軒をもった経済的には裕富で教育熟心な堅実な家庭であった。彼女は山梨県立都留高等女学校の教師をしているなど智的であり、主体性のあるしっかりした女性であり、経済的観念にとぼしく、いいかげんで常識的生活のできない大宰とは正反対の人物であり、小説家の主婦として理想的な人物であった。大宰の甲府での生活の明るさは美知子に負うところが多かったと思う。

石原美知子は、初代とは全く対照的な理智的で教養のある娘であった。大宰は美知子との結婚生活によって、はじめこの八年間の大宰を支えたものが、外の娘なら恐怖と嫌悪を持ったであろう彼の過去を怖れもせずに結婚し、彼の生活を支えてきたのは彼女の知性と教養が太宰を認めていたのであった。誰よりも太宰を理解していたのは彼女であったと思う。美知子と共に彼女の母の存在も大きかった。特に甲府時代を考える時、母親なくして語れないと思う。寿館、御崎町の家を見つけたのも母であり、御崎町に世帯を持った時生活の必需品の総ての面倒をみたのは母親であり石原家であった。その他井伏鱒二を初め、甲府の人々の暖い志が太宰治を支え、太宰文学の成立に関係していると思う。






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最終更新日  2020年09月27日 19時14分27秒
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