カテゴリ:山口素堂資料室
山口素堂の家族
山梨歴史文学館 編集
第一章の冒頭で本人については少しく触れた。白身も隠士たる所以か、出身系譜や家族などについて、二三を除いて黙しており、この時期の諸本も、森川許六が「風俗文選・歴代滑稽伝」の俳家列伝で若干触れているだけである。 素堂もその著作は一切出版しないし、来歴も語らないから判らないのである。唯その交際は広範に亘り、公家・大名諸侯から名の有る学者・文人、茶人・書家・家元などと多彩であり、趣味も好き者の域を遥かに越えていたのである。 この素堂が出身・系譜を残していない事は、系譜の当主を譲って、世捨て人の境域に入っているのだから、と云う事からか、或いは幕府が寛永十八年に「寛永諸家系図」を編纂して以来、巷で贋系図作りが横行を始めた事がら、度々禁令を出したが治まらず、元禄から享保年代にかけては出版物に、妄りに先祖等の事を掲載するのを禁じた。これを素堂の近親者が遵守したためでもあろうか。
数ある俳諧系譜は正確に伝えているものは少なく、あっても殆どが誤った甲斐国志の引用である。 出身を甲斐とし、甲府に住んで居たとの記述も何ら根拠の無い説であり、甲府濁川工事への関与の資料は甲斐国志の創作挿入記事である。それは他の近辺資料に素堂のことは皆無で、時の代官桜井孫兵衛の孫が後に建てた碑にも、素堂のことは一言も触れていない。代官が治水を行うことは業務であり、素堂介入する隙は無く、これは官の事業でしかも業者の請負事業でもある。
さて素堂白身が記す家族を、年代順に表すと 元禄五年 母の喜寿の賀。 元禄七年 妻の死、河合曾良への手紙。 元禄八年 甲山記行に、母の死・妻の郷∴外 野田氏。 友人等から 元禄六・七年 妹の死、芭蕉の色紙(杉風家所蔵) 元禄八年 母の死、人見竹洞の日記。
次に黒露であるが、安永四年春刊の七回忌追善「留守之琴」(均戸編)に 『黒露、姓は山口氏、名は守常、初め雁山』 とある。また 『幼従伯父素堂』 ともある。
明和六年冬刊の三回忌追善「みをつくし」には『蕉門山口素堂は露叟が渭陽』(老亀斎)黒露白身の集では明和二年の「摩詞十五夜 まかはんや」(素堂追善五十回忌)に「亜父」「我舅氏」、享保二年の素堂一周忌追善「通天橋集」には、露沾が序を寄せて「猶子雁山」、雁山の「悼亡の記」に「再び舅氏に」とある。 亜父とはおやじさん(実父につぐ)の尊敬語で、舅氏は伯父・叔父で母方の兄弟の尊敬語で、姪との記述は無い。ただ外甥の記述も他の本に在るので、素堂の妻の兄弟の子とも云える。 さて、素堂の親族と云う寺町百庵、素堂の孫と云う山口素安、この二人は相互の関係でしか登場しないが、黒露と百庵は元文ごろから百庵が己百として登場し、無交渉(没交渉)でなかった事は判る。 では黒露・百庵・素安の続柄はどうなっているのか、刊行年代順に紹介すると
○元文元年(1736)「毫(ふで)の秋」 (百庵編)
百庵の子の安明の一周忌追善業で、素安が悼文を寄せ
まことや往し年九月十日吾祖父素堂亭に一宴を催し(中略) 秋月素堂が位牌を拝す。 百庵もとより素堂が一族にして誹道に志厚し。 我又誹にうとければ、祖父が名廃れなむ事を借み、 此名を以て百庵へ贈らむと思ふにぞ(中略) よって享保乙卯の秋九月十一日に素堂の名を己百庵へあたへぬ。 山口素安
この素安は医者であったのか、儒学者であったのかは判然としないが、少なくとも馬光を筆頭とする葛飾派の周辺には居なかったらしい。黒露も素安については触れていないし、正体不明として置くしか無い。 しかし「我が祖父」といっている以上、その関係は間違いない。また素堂亭がこの年まで現存していたことも明らかである。
○「連俳睦百韻」百庵の序(安永八年)
抑々素堂の鼻祖を尋るに、其の始め河毛氏郷の家臣、 山口勘助良佞(後呼佞翁)町家に下る。 山口素仙堂太良兵衛信章、俳名來雪、其の後に素仙堂の仙の字を省き、素堂と呼ぶ。 其の弟に世をゆずり、後の太良兵衛、後ち法体して友哲と云ふ。 後桑村三右衛門に売り渡し、侘び家に及ぶ。 其の弟三男・山口才助納言、林家の門人、尾州摂津侯の儒臣。 その子清助素安、兄弟多くあり皆死す。 其の末子幸之助侘び名片岡氏を続ぐ。 ・
雁山(黒露)の親は友哲、家僕を取立て、山口氏を遺し山口太良右衛門、其の子雁山也。 後浅草蔵前米屋笠倉半兵の子分にして、亀井町小家のある方へ婿に遺し、 其の後放蕩不覇にて業産を破り、江戸を退き遠国に漂泊し、 黒露と改め俳諧を業とし、八十歳にして終る。(中略) 佐々木一徳来雪は、黒露の門に(中略) 今般、素堂の芳名を附て、来雪庵素堂と改名したきよし、予に告ぐ。 予(寺町百庵)も其の名の事は四十余、 素堂の孫・素安、我に名乗るべきよし之を伝う。(「毫(ふで)の秋」) 恐れあれば名乗らず。
同じく「改名附言」(来雪庵素堂) 前文略 しかいふものは古素堂の外甥黒露・素翁嫡孫素安・同親族百庵、 かく連綿と伝系正しき三世の素堂云々
その外の記述 ○『俳家奇人談」中之巻 〔竹窓玄々一編〕文化十三年刊行 山口氏は江戸の人(中略)老母に仕へて至孝なり。 人あるひは妻を迎へん事をすゝむるを、固辞してやみぬ。 これ親の心に違はん事を恐るればなり。篤実の君子歎称すべし。(後略) 尚、「続俳家奇人談」の山口黒露の項では、 宗斎、江戸の人。黒路道人・須磨星と号す。 つねに巷に居り、一瓢をもて足れり(中略) 俳諧は伯父素堂に学びえて、風流なり。師の没せし時 猿曳にはなれて猿の夜寒かな (後文略)
○「とくとくの句合」享保十二年版 雷堂百里の跋文に
山口松兵衛の時、交り貧しからずありけるを、 こがらしの筑波はげしき冬の風の、煙にあふ事幾度か、 悔事なく老母を供して、行水の流もとのあらぬ(後略)
以上が概ね素堂の家族について、触れられている文献類である。 兎角、山口星あるいは山口市右衛門名は出て未ない。ただ市右衛門については寛文年間に、大黒星の家人・尊賠守の旦那(宗門改め帳)として登場するし、宝永期の宗門改め帳には山口屋市郎左衛門名があり、その妻が魚町市右衛門女(寛文八年生)である。尚魚町山口屋市右衛門は酒造帳に元禄十年・享保八年には健在で記帳がある。魚町から山口屋が見られなくなるのは、享保十二年の甲府大火以降であり、素堂の晩年に没落したとするには無理があるし、この山口屋との続柄は文献上は全く認められない。この外、桑村三右衛門については今日のところ未詳である。また黒露が称した須磨星の号が解明しがたいし、延宝期の山口言友が何に当たるのか不明である。
山口素堂の祖先は蒲生氏郷の家臣であったとされる、勘助良佞が致仕して町家に下ったと云う。氏郷は天正十年羽柴秀吉に属して江州日野を領し、同十二年に伊勢松ケ崎(安濃津)に移され、十六年伊勢松坂に築城。十八年岩代会津を入封。文禄四年に京都で病没した。(享年四十才) その家臣である勘助について、近江時代の家臣団の中には、現在のところ見当たらないと云う。とすると、氏郷が伊勢を所領してからと云うことになろうか。この勘助か致仕した時も所も不明で、一つ考えられる事は、素堂の土地感が有ると見られる行動範囲が、京都・大坂・摂津・近江・伊勢・江戸であることから、氏郷の会津転封を期にしたか、氏郷の死去のあたりであろう。勘助は京・大坂を動かなかったようである。この勘助から素堂は三・四代目に当たろうか・・・・。 母は元和二年の生まれ、素堂出産は二十九才。元禄八年に八十才で没した。一説に元禄三年十二月十四日没(魚町山口市右衛門尉老母)の墓塔が甲府尊躰寺にあるが、前述の如く素堂が市右衛門を名乗ったと云う確証が無いし、老母の死が元禄八年夏であるから、別人である事が知られるのである。
素堂の妻女は野田氏の娘で甲州の生まれ、結婚した年次は不詳だが、寛文年間の中頃で有ろう。 恐らく、寛文の初めに甲府町奉行を勤めた市左衛門と考えられる。元禄八年当時町奉行職に有った野田官(勘)兵衛は、妻の弟であった可能性が強く、妻女の死は元禄七年暮秋である。 芭蕉が病死した折は喪の最中であり、素堂は芭蕉追善の興行に参加しなかった。喪の期間は「忌服令」によれば、妻が忌日廿日間・服日九十日。母(嫡母)が十日・三十日で、兄弟姉妹は妻と同じである。
「連俳睦百韻」の系譜は、素堂の次弟が太良兵衛友哲。三弟は才肋納言、その子が清肋素安、その末子が幸之助。守常(唐山・黒露)の親は友哲の養子太良右守門、その子が雁山となる。問題は「古素堂の外甥黒露・泰翁嫡孫素安・同親族百庵」とある事と、泰安の「吾祖父素堂」と云う事である。これに従い図を作ると 山口氏系譜略図(参考)
野田氏 ○良佞(勘肋)――?――素堂――訥言(清助)――素安(才助) ――女(寺町氏に嫁ぐ?) ――女 ――太郎右衛門――守常 ――女 ――友哲 ――訥言(清助 素堂の子か)――幸之助(継ぐ片岡氏) ――守常(雁山・黒露)
女――三貞――三知(百庵)
以上の様な家系になろうか。少々判り難い家系に成っているが、資料が少ないから仕方がない。素堂は素堂一代で完結すれば良いのであるから。 甲府の山口市右衛門家と素堂家との関係は全く見出せない。結論として素堂は江戸か京都で生まれ育った。素堂が継いだとされる酒造業山口屋は、諸歴史の誤伝である。
山口素堂 甲州俳人伝より 功刀亀内著 昭和七年四月 昭和七年四月 甲州文庫主人識 一部加筆 山梨歴史文学館
寛永十九年五月五日(一月四日)北巨摩郡蓬莱(鳳来)村{(上教来石村山口)に生る。 ✖幼名重五郎、父を市左衛門と呼び、幼時一家甲府魚町に移転し、酒造業を営む。 【割注】✖市左衛門 ○市右衛門 父死後襲名して市左衛門と改む。名は信章、宇は子晋又公商、 幼より風雅を好み、中年家を弟に譲り、母と共に江戸に出て、 官兵衛と改称し、東叡山下に寓居す。茶を今日庵宗丹に学び、書を持明院に学び、 和歌は清水谷家に受け、俳諧は京都北村季吟に師事し、其の蘊奥を究む。 風流諸芸に通じ、交遊多く諸藩に出入りする。 しばしば火災に蒙り深川に庵を遷し、後葛飾阿武の芭蕉庵の隣りに住む、 葛飾風の一派を創め門葉多く、馬光(素堂)今日庵二世を継ぐ。 素堂母に孝心篤く、母の心に違はんごとを恐れ、修身娶らず、 元禄五年母の七十七秋七月七月の賀宴を開く、黒露著「秋の七草」に委し。 元禄八年甲府代官桜井政能を援けて、甲府緑町に仮居して濁を治水する。 時人之を徳として蓬沢村に、桜井政能と共に其の生碑を建て山口霊神と称す。 (桜井政能・享保十六年二月十四日没、年八十二)
素堂弟太郎兵衛後法体して友哲と云ふ、後桑名三右工門に家を売り忿家に及。 其の第三弟山口才助訥言林家の門人、尾州摂津守殿の儒臣、 其子清助素安兄弟数多あれど皆死。其末子幸之助侘名片岡氏を続。 太郎兵衛友哲の子雁山、後黒露。 素堂号今日庵、其日庵、信章斎、蓮池翁、来雨、葛飾隠士、江上隠士、武陽山人、素堂亭 享保元年八月十五日没す。行年七十五歳。法号 直誓桂完居士
辞世句 ズツシリと南瓜落て秋寒し
素堂の墓 甲斐国志に谷中感応寺(今の天王寺)に葬るとあれど墓現存せず。位牌一基を蔵之。 小石川区指ケ谷町厳浄院に山口黒露の建し碑あり。 明和元年中庚の歳四十九の春秋と成より小碑を黒露建と刻せり。
素堂、小石川厳浄院の碑 ○碑面に長方形の穴にして、碑銘大□只左に黒露建碑を刻せしのみ。 ○現に穴の中に素堂翁之墓と刻せし小碑をハメあるは、 明治三十年頃宇田川と云ふ人の、ものせしときく。
○甲府尊体寺に山口家代々の墓あり、素堂の碑ありと聞けど不詳。 ○明治三十一年五月、内務省属織田定之金原昭善と謀り、 本所区原庭町芭蕉山桃青寺内に時の農相品川弥二郎撰文 「素堂翁治水碑」を建てしが、震災に遭い現存せず。 ○甲府市寿町金毘羅堂境内に「素堂翁治水碑」あり。 明治三十二年八月、甲府平原豊撰文山田藍々(弘道)篆額、後裔山口伊兵衛建碑す。 ○谷中天王寺(元感応寺)に位牌一基在蔵す。山口今日庵、享保元丙中年八月十五日 広山院秋厳素堂居士 六世今日庵社中再興之。
素堂著書 ○とくとくの句合 一冊 自序 自句を自ら評せし句合なり。 享保十二年刊行さる。玉箭山人叙・百里芦。異板延享三年書林浅草辻本刊行。序跋無し。 ○素堂句集 一冊 未刊 (子光編のものか不詳) ○素堂文集 一冊 仝 (随斎編のものか不詳) ○俳聯五十韻 一冊 仝 漢語連俳 ○松の奥 二冊 元禄三年編 俳諧之式法、此の書偽書の説もある。 ○野のかげ 一冊 刊行 追善集。(その影 素丸(馬光)線享保七年、七回追善) ○野分集 一冊 文久二年貢五十回忌、東都今日庵五世楽音 刊行。 ○ふた夜の影 一冊 五十周忌追善集 (馬光追善) ○睦百韻 一冊 宝暦二年黒露刊行する。 ○連俳睦百韻 一冊 五十回忌 三代素堂刊行。安永七年。〔八年、襲名披露〕
糸梅に袖にむさし野鳥のこえ 素堂 (短冊一行写) 西瓜ひとり野分もしらぬあしたかな 素堂 (百五十周忌追善野分集写)
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最終更新日
2020年09月28日 15時55分06秒
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