2303746 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2020年09月27日
XML
カテゴリ:山口素堂資料室

山口素堂の家族

 

山梨歴史文学館 編集

 

 第一章の冒頭で本人については少しく触れた。白身も隠士たる所以か、出身系譜や家族などについて、二三を除いて黙しており、この時期の諸本も、森川許六が「風俗文選・歴代滑稽伝」の俳家列伝で若干触れているだけである。

 素堂もその著作は一切出版しないし、来歴も語らないから判らないのである。唯その交際は広範に亘り、公家・大名諸侯から名の有る学者・文人、茶人・書家・家元などと多彩であり、趣味も好き者の域を遥かに越えていたのである。

 この素堂が出身・系譜を残していない事は、系譜の当主を譲って、世捨て人の境域に入っているのだから、と云う事からか、或いは幕府が寛永十八年に「寛永諸家系図」を編纂して以来、巷で贋系図作りが横行を始めた事がら、度々禁令を出したが治まらず、元禄から享保年代にかけては出版物に、妄りに先祖等の事を掲載するのを禁じた。これを素堂の近親者が遵守したためでもあろうか。

 

 数ある俳諧系譜は正確に伝えているものは少なく、あっても殆どが誤った甲斐国志の引用である。

出身を甲斐とし、甲府に住んで居たとの記述も何ら根拠の無い説であり、甲府濁川工事への関与の資料は甲斐国志の創作挿入記事である。それは他の近辺資料に素堂のことは皆無で、時の代官桜井孫兵衛の孫が後に建てた碑にも、素堂のことは一言も触れていない。代官が治水を行うことは業務であり、素堂介入する隙は無く、これは官の事業でしかも業者の請負事業でもある。

 

さて素堂白身が記す家族を、年代順に表すと

元禄五年 母の喜寿の賀。

元禄七年 妻の死、河合曾良への手紙。

元禄八年 甲山記行に、母の死・妻の郷∴外 野田氏。

 友人等から

元禄六・七年 妹の死、芭蕉の色紙(杉風家所蔵)

元禄八年 母の死、人見竹洞の日記。

 

次に黒露であるが、安永四年春刊の七回忌追善「留守之琴」(均戸編)に

『黒露、姓は山口氏、名は守常、初め雁山』

とある。また

『幼従伯父素堂』

ともある。

 

明和六年冬刊の三回忌追善「みをつくし」には『蕉門山口素堂は露叟が渭陽』(老亀斎)黒露白身の集では明和二年の「摩詞十五夜 まかはんや」(素堂追善五十回忌)に「亜父」「我舅氏」、享保二年の素堂一周忌追善「通天橋集」には、露沾が序を寄せて「猶子雁山」、雁山の「悼亡の記」に「再び舅氏に」とある。

 亜父とはおやじさん(実父につぐ)の尊敬語で、舅氏は伯父・叔父で母方の兄弟の尊敬語で、姪との記述は無い。ただ外甥の記述も他の本に在るので、素堂の妻の兄弟の子とも云える。

さて、素堂の親族と云う寺町百庵、素堂の孫と云う山口素安、この二人は相互の関係でしか登場しないが、黒露と百庵は元文ごろから百庵が己百として登場し、無交渉(没交渉)でなかった事は判る。                                 

 では黒露・百庵・素安の続柄はどうなっているのか、刊行年代順に紹介すると

 

○元文元年(1736)「(ふで)の秋」 (百庵編)

  

百庵の子の安明の一周忌追善業で、素安が悼文を寄せ

  

まことや往し年九月十日吾祖父素堂亭に一宴を催し(中略)

秋月素堂が位牌を拝す。

百庵もとより素堂が一族にして誹道に志厚し。

我又誹にうとければ、祖父が名廃れなむ事を借み、

此名を以て百庵へ贈らむと思ふにぞ(中略)

よって享保乙卯の秋九月十一日に素堂の名を己百庵へあたへぬ。  

山口素安

 

この素安は医者であったのか、儒学者であったのかは判然としないが、少なくとも馬光を筆頭とする葛飾派の周辺には居なかったらしい。黒露も素安については触れていないし、正体不明として置くしか無い。

しかし「我が祖父」といっている以上、その関係は間違いない。また素堂亭がこの年まで現存していたことも明らかである。

 

○「連俳睦百韻」百庵の序(安永八年)

  

抑々素堂の鼻祖を尋るに、其の始め河毛氏郷の家臣、

山口勘助良佞(後呼佞翁)町家に下る。

山口素仙堂太良兵衛信章、俳名來雪、其の後に素仙堂の仙の字を省き、素堂と呼ぶ。

其の弟に世をゆずり、後の太良兵衛、後ち法体して友哲と云ふ。

後桑村三右衛門に売り渡し、侘び家に及ぶ。

其の弟三男・山口才助納言、林家の門人、尾州摂津侯の儒臣。

その子清助素安、兄弟多くあり皆死す。

其の末子幸之助侘び名片岡氏を続ぐ。             ・

  

雁山(黒露)の親は友哲、家僕を取立て、山口氏を遺し山口太良右衛門、其の子雁山也。

  後浅草蔵前米屋笠倉半兵の子分にして、亀井町小家のある方へ婿に遺し、

其の後放蕩不覇にて業産を破り、江戸を退き遠国に漂泊し、

黒露と改め俳諧を業とし、八十歳にして終る。(中略)

佐々木一徳来雪は、黒露の門に(中略)

今般、素堂の芳名を附て、来雪庵素堂と改名したきよし、予に告ぐ。

予(寺町百庵)も其の名の事は四十余、

素堂の孫・素安、我に名乗るべきよし之を伝う。((ふで)の秋

恐れあれば名乗らず。

 

同じく「改名附言」(来雪庵素堂)

 前文略

しかいふものは古素堂の外甥黒露・素翁嫡孫素安・同親族百庵、

かく連綿と伝系正しき三世の素堂云々

 

その外の記述

○『俳家奇人談」中之巻 〔竹窓玄々一編〕文化十三年刊行

山口氏は江戸の人(中略)老母に仕へて至孝なり。

人あるひは妻を迎へん事をすゝむるを、固辞してやみぬ。

これ親の心に違はん事を恐るればなり。篤実の君子歎称すべし。(後略)

 尚、「続俳家奇人談」の山口黒露の項では、

宗斎、江戸の人。黒路道人・須磨星と号す。

つねに巷に居り、一瓢をもて足れり(中略)

俳諧は伯父素堂に学びえて、風流なり。師の没せし時 

猿曳にはなれて猿の夜寒かな  (後文略)

 

○「とくとくの句合」享保十二年版 雷堂百里の跋文に

 

山口松兵衛の時、交り貧しからずありけるを、

こがらしの筑波はげしき冬の風の、煙にあふ事幾度か、

悔事なく老母を供して、行水の流もとのあらぬ(後略)

 

以上が概ね素堂の家族について、触れられている文献類である。

兎角、山口星あるいは山口市右衛門名は出て未ない。ただ市右衛門については寛文年間に、大黒星の家人・尊賠守の旦那(宗門改め帳)として登場するし、宝永期の宗門改め帳には山口屋市郎左衛門名があり、その妻が魚町市右衛門女(寛文八年生)である。尚魚町山口屋市右衛門は酒造帳に元禄十年・享保八年には健在で記帳がある。魚町から山口屋が見られなくなるのは、享保十二年の甲府大火以降であり、素堂の晩年に没落したとするには無理があるし、この山口屋との続柄は文献上は全く認められない。この外、桑村三右衛門については今日のところ未詳である。また黒露が称した須磨星の号が解明しがたいし、延宝期の山口言友が何に当たるのか不明である。

 

山口素堂の祖先は蒲生氏郷の家臣であったとされる、勘助良佞が致仕して町家に下ったと云う。氏郷は天正十年羽柴秀吉に属して江州日野を領し、同十二年に伊勢松ケ崎(安濃津)に移され、十六年伊勢松坂に築城。十八年岩代会津を入封。文禄四年に京都で病没した。(享年四十才)

その家臣である勘助について、近江時代の家臣団の中には、現在のところ見当たらないと云う。とすると、氏郷が伊勢を所領してからと云うことになろうか。この勘助か致仕した時も所も不明で、一つ考えられる事は、素堂の土地感が有ると見られる行動範囲が、京都・大坂・摂津・近江・伊勢・江戸であることから、氏郷の会津転封を期にしたか、氏郷の死去のあたりであろう。勘助は京・大坂を動かなかったようである。この勘助から素堂は三・四代目に当たろうか・・・・。

母は元和二年の生まれ、素堂出産は二十九才。元禄八年に八十才で没した。一説に元禄三年十二月十四日没(魚町山口市右衛門尉老母)の墓塔が甲府尊躰寺にあるが、前述の如く素堂が市右衛門を名乗ったと云う確証が無いし、老母の死が元禄八年夏であるから、別人である事が知られるのである。

 

素堂の妻女は野田氏の娘で甲州の生まれ、結婚した年次は不詳だが、寛文年間の中頃で有ろう。

恐らく、寛文の初めに甲府町奉行を勤めた市左衛門と考えられる。元禄八年当時町奉行職に有った野田官(勘)兵衛は、妻の弟であった可能性が強く、妻女の死は元禄七年暮秋である。

芭蕉が病死した折は喪の最中であり、素堂は芭蕉追善の興行に参加しなかった。喪の期間は「忌服令」によれば、妻が忌日廿日間・服日九十日。母(嫡母)が十日・三十日で、兄弟姉妹は妻と同じである。

 

「連俳睦百韻」の系譜は、素堂の次弟が太良兵衛友哲。三弟は才肋納言、その子が清肋素安、その末子が幸之助。守常(唐山・黒露)の親は友哲の養子太良右守門、その子が雁山となる。問題は「古素堂の外甥黒露・泰翁嫡孫素安・同親族百庵」とある事と、泰安の「吾祖父素堂」と云う事である。これに従い図を作ると

山口氏系譜略図(参考)

 

 野田氏

○良佞(勘肋)――?――素堂――訥言(清助)――素安(才助)

              ――女(寺町氏に嫁ぐ?)

              ――女

              ――太郎右衛門――守常

              ――女

          ――友哲 

          ――訥言(清助 素堂の子か)――幸之助(継ぐ片岡氏)

          ――守常(雁山・黒露)

      

女――三貞――三知(百庵)      

 

以上の様な家系になろうか。少々判り難い家系に成っているが、資料が少ないから仕方がない。素堂は素堂一代で完結すれば良いのであるから。

甲府の山口市右衛門家と素堂家との関係は全く見出せない。結論として素堂は江戸か京都で生まれ育った。素堂が継いだとされる酒造業山口屋は、諸歴史の誤伝である。

 

山口素堂 甲州俳人伝より

  功刀亀内著 昭和七年四月

  昭和七年四月 甲州文庫主人識

一部加筆 山梨歴史文学館

    

寛永十九年五月五日(一月四日)北巨摩郡蓬莱(鳳来)村{(上教来石村山口)に生る。

✖幼名重五郎、父を市左衛門と呼び、幼時一家甲府魚町に移転し、酒造業を営む。

【割注】✖市左衛門 ○市右衛門 

父死後襲名して市左衛門と改む。名は信章、宇は子晋又公商、

幼より風雅を好み、中年家を弟に譲り、母と共に江戸に出て、

官兵衛と改称し、東叡山下に寓居す。茶を今日庵宗丹に学び、書を持明院に学び、

和歌は清水谷家に受け、俳諧は京都北村季吟に師事し、其の蘊奥を究む。

風流諸芸に通じ、交遊多く諸藩に出入りする。

しばしば火災に蒙り深川に庵を遷し、後葛飾阿武の芭蕉庵の隣りに住む、

葛飾風の一派を創め門葉多く、馬光(素堂)今日庵二世を継ぐ。

素堂母に孝心篤く、母の心に違はんごとを恐れ、修身娶らず、

元禄五年母の七十七秋七月七月の賀宴を開く、黒露著「秋の七草」に委し。

元禄八年甲府代官桜井政能を援けて、甲府緑町に仮居して濁を治水する。

時人之を徳として蓬沢村に、桜井政能と共に其の生碑を建て山口霊神と称す。

(桜井政能・享保十六年二月十四日没、年八十二)

 

素堂弟太郎兵衛後法体して友哲と云ふ、後桑名三右工門に家を売り忿家に及。

其の第三弟山口才助訥言林家の門人、尾州摂津守殿の儒臣、

其子清助素安兄弟数多あれど皆死。其末子幸之助侘名片岡氏を続。

太郎兵衛友哲の子雁山、後黒露。

素堂号今日庵、其日庵、信章斎、蓮池翁、来雨、葛飾隠士、江上隠士、武陽山人、素堂亭

享保元年八月十五日没す。行年七十五歳。法号 直誓桂完居士

 

辞世句  

ズツシリと南瓜落て秋寒し

 

素堂の墓 

甲斐国志に谷中感応寺(今の天王寺)に葬るとあれど墓現存せず。位牌一基を蔵之。

小石川区指ケ谷町厳浄院に山口黒露の建し碑あり。

明和元年中庚の歳四十九の春秋と成より小碑を黒露建と刻せり。

 

素堂、小石川厳浄院の碑

○碑面に長方形の穴にして、碑銘大□只左に黒露建碑を刻せしのみ。

○現に穴の中に素堂翁之墓と刻せし小碑をハメあるは、

明治三十年頃宇田川と云ふ人の、ものせしときく。

 

○甲府尊体寺に山口家代々の墓あり、素堂の碑ありと聞けど不詳。

○明治三十一年五月、内務省属織田定之金原昭善と謀り、

本所区原庭町芭蕉山桃青寺内に時の農相品川弥二郎撰文

「素堂翁治水碑」を建てしが、震災に遭い現存せず。

○甲府市寿町金毘羅堂境内に「素堂翁治水碑」あり。

明治三十二年八月、甲府平原豊撰文山田藍々(弘道)篆額、後裔山口伊兵衛建碑す。

○谷中天王寺(元感応寺)に位牌一基在蔵す。山口今日庵、享保元丙中年八月十五日

 広山院秋厳素堂居士 六世今日庵社中再興之。

 

素堂著書

○とくとくの句合 一冊 自序 自句を自ら評せし句合なり。

 享保十二年刊行さる。玉箭山人叙・百里芦。異板延享三年書林浅草辻本刊行。序跋無し。

○素堂句集    一冊 未刊 (子光編のものか不詳)

○素堂文集    一冊 仝  (随斎編のものか不詳)

○俳聯五十韻   一冊 仝  漢語連俳

○松の奥     二冊 元禄三年編 俳諧之式法、此の書偽書の説もある。

○野のかげ    一冊 刊行 追善集。(その影 素丸(馬光)線享保七年、七回追善)

○野分集     一冊 文久二年貢五十回忌、東都今日庵五世楽音 刊行。

○ふた夜の影   一冊 五十周忌追善集 (馬光追善)

○睦百韻     一冊 宝暦二年黒露刊行する。

○連俳睦百韻   一冊 五十回忌 三代素堂刊行。安永七年。〔八年、襲名披露〕

 

  糸梅に袖にむさし野鳥のこえ    素堂 (短冊一行写)

  西瓜ひとり野分もしらぬあしたかな 素堂 (百五十周忌追善野分集写)

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020年09月28日 15時55分06秒
コメント(0) | コメントを書く
[山口素堂資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

10/27(日) メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X