カテゴリ:山口素堂資料室
素堂上方への旅
素堂と芭蕉の関係は兄弟以上のものであった事は一部俳諧研究者により究明されているが、それは延宝年間からのことでそれは他の追随を許さないほど密着していた。 芭蕉は元禄七年十月十二日に大阪にて死去する。素堂は妻の死の忌中であり、大阪へは行けなかったがその後京阪に訪れる際や句作の中で芭蕉への思慕があふれている。 一、寛文 五年(1685) 素堂二十四才 《大和》 二、延宝 二年(1674) 素堂三十三才 《京都》 三、元禄 十年(1697) 素堂五十六才 都ゆかしく いづれゆかむ蓮の實持て広澤へ 予も又其志なきにしもあらず 四、元禄十一年(1698) 素堂五十七才 《京都》 五、元禄十三年(1699) 素堂五十八才 《京都》 六、元禄十四年(1670) 素堂五十九才 《京都》 七、元禄十七年(1704) 素堂六十三才 《京都》 八、宝永 二年(1705) 素堂六十四才 《京都》 九、宝永 四年(1707) 素堂六十六才 《京都》 十、年不詳 《大阪》
この他にも素堂の京都訪問はあると思われるがここでは省く。 『国志』によれば素堂は京都の持明院家や清水谷家での修養が記されているが資料を持たない。但し堂 の著した『松の奥』に記載中には次の記述がある。
亦道の邊に清水流るゝ歌は、そゝき上たるゝごとし、 至極きょうなる所と持明院殿は仰せられしなり
延宝二年の北村季吟訪問も「信章歓迎百韻」である。素堂を季吟門とする書が多いが、それは間違いである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年09月29日 09時27分32秒
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