カテゴリ:山口素堂・松尾芭蕉資料室
山口素堂の考察
山梨歴史文学館編
芭蕉を諭す素堂
江戸時代の前期末から中期にかけて江戸を中心に、和漢学者であり俳諧人として活躍した山口素堂は、俳諧の親友松尾芭蕉の陰に隠れ、後の識者からは正しい評価を与えられていない。その要因は後世に於いて、俳聖芭蕉に信仰に近い評価を加えた人達の、その行為にあると考えられる。 芭蕉を神さま仏さまと崇める余りに周囲の俳人たちの研究を怠った研究者の罪は大きい。 無二の親友として深く交わりながら、ある時は素堂を師とも仰いだ芭蕉と俳諧者として「天才肌の芭蕉」の才能を愛し、同じ俳諧人として共に歩みながら、所謂蕉風(正風)と呼ばれる俳諧の新風を育んでいた。 後に芭蕉が 「俳諧の道を究める事は、旅の中に有る」 として吟行を重ねたのである。 その芭蕉の行き過ぎに危具を感じていた素堂が、それとなく忠告をするが、
芭蕉は素堂の真意を理解できずに走り過ぎ、 あるところまで走っては立ち止まり、 その事に気付いて素堂に意見を仰ぐと云う、 そうした生き方を続けていのである。
素堂は芭蕉が、俳諧の神髄を極めるための行脚吟行も良いが、 「命を粗末にせずに時には腰を落ち着けて、じっくりと研究をしなさい」 と、事ある毎に言っていた。 一方、芭蕉は忠告に耳を貸さずにその説を疎んじ、走っては見たもの留まっては振り返り見ると、素堂の説が身にしみて意見を聞きたくなると、そんな事を繰り返しながら、己の命を縮めて行ったと忠われる。
芭蕉の最後の吟行となる元禄七年の西国行も、今日に残されている書簡等から「死期の近いのを感じて」などと解釈されているのが一般的であるが、追求して見ると違う感じである。それは、これまでの吟行等では工夫の処など、素堂に意見を求めているのであるが、最後の時には旅の途中から「借りた書物を返してくれ」と、手紙にチラリと出て来るだけで、遺言には素堂の素の字も出て来ないのである。或いは書いたが残されていないのかもしれない。
本稿は芭蕉論では無いが推測すると、晩年の芭蕉は素堂の行き方に多くの反発を感じていたかも知れない。或いは劣等感に苛まれていたかも知れない。ともかく芭蕉と素堂との間隙は、元禄五年辺りに有るようだ。その一つに芭蕉の「閉開の辞」があるが、これなど自身の体調不良を装うための方便であり、おごりも感じられるが、一つに芭蕉の素堂離れの、つまり自立の時とも考えられる。素堂は「一生を旅に終るは愚」としているのに、芭蕉は「旅に死するは本望」としたのである。
素堂は芭蕉の才能を惜しみ「俳諧新風の考案は腰を据え」と、意見をしていたと考えられ、芭蕉はこの意見に反発を感じ、闇雲走ってしまったようである。
芭蕉の死後、その拠り所を失った門人等はそれぞれ門派を興し、その門派の理論上の対立を収めるため「協力して新風を興さん・・・・」と論じたが不発に終わった。以来、素堂は自ら新風の先頭に立とうとはしなかった。後年、芭蕉の蕉風に対して葛飾正風なる門派が出来た。素堂を門祖とする門人の後継が開いた門流である。しかし素堂は系譜に見られるような門派を成した形跡は見えない。後世の俳人の作である。
俳諧好きではあるが俳諧者とは成らなかった素堂は、芭蕉の応援者として隠士を標ぼうしていたから、俳諧の門弟を捨っていたとは考えられない。しかし、和漢学の門人ならいたであろう。隠士とは「立身を願わずに世俗を逃れた人士」のことで、所謂「世捨て人」の意味である。「人士とは教養あるいは地位ある人」一般に云う隠居とは性質が違う。晩年は隠遁指向がかなり強く成っていた素堂ではある。 素堂の偉大さは、周囲の俳人の選書への序跋の多さであり、それは俳諧に留まらず、茶書や歌舞伎俳優の序跋見られる。また人見竹洞や当時の幕府儒官たちとの交流も多々あり、俳諧人素堂の域を遥かに超えている。
職業俳諧者に成らず、嗜みの俳諧人として全うした素堂の句を、当時の人は「ザレまたはシャレ」句の達人と称した。一番よく知られた句は
鎌倉にて 目には青葉 山ほとゝぎす 初松魚 (この句は、当時の江戸風虎サロンの主、内藤家の墓所 鎌倉材木座光明寺裏山にて)
今日、素堂辞世の句とされているのは
髭宗祗 池に蓮ある たぐひかな
とあるが違う。素堂が最後に猶子雁山(黒露)に宛て送った書簡にある
初夢や 通天のうきはし 地主の花 が、それである。
後年、素堂の句作は寡作、あるいは愚作者などと評する人が出た。確かに優れた句ばかりではないが、歌仙を見れば芭蕉も似たり寄ったりだし、寧ろ句作の質は素堂が上である。発句も芭蕉の練りに練ったものより、枯れた味わいの素堂の即興の句も捨て難いのである。
西山宗因の旋風の後、江戸俳諧の双璧を成した素堂と芭蕉だが、芭蕉のみが抜きん出た形となり、江戸後期に蕪村や一茶を始めとする素堂見直しの運動は有ったものゝ、今日まで圧倒的に芭蕉信奉が続いている。今回はそろそろ素堂の見直しを再開しても良いのではと思い、素堂論と云うような研究論文でなく、ザックバランに素堂像を切って見ようと考えた。
さて、それではと素堂の事を調査して行くうちに、芭蕉ほど多くの資料が残されていないのち困惑した。兎角、謎がいっぱいである。素堂の研究をされている先学は多数おられる。 微に入り細に亘って解かれ、その根拠の一つとなっているのが、江戸文化年間に編纂された「甲斐国志」であった。これを中心に追求して行くと、必ず璧に突き当たる。そこで「甲斐国志」を脇に置いて周りから調べる事にしたのである。
幸い、同じ山梨県白州町在住の小川氏が歴史文学に詳しく、資料も保存されているのに参与し、その過程で少々視点を変え、素堂像の解明に進めたのである。
何しろ、残存資料が断片的なものが大多数である。芭蕉が俳諧者の俳聖であれば、素堂は俳諧を嗜む好き者達人である。芭蕉やプロとすれば、素堂はアマと云う事になるが、和漢学者であるから理論家でもあるし、今日で云えば評論家でもあろう。 一時は俳諧者として立とうとしたであろうが、一生を通して俳諧者とは成らず、他の仕事や交際を育む中で俳諧の好者として生涯を終えたのである。また隠士としての立場を守り、出版物をださず、ために当時の資料も殆ど無い。多くは他の出版物に掲載されているものや、自筆の書が大半であり、また散逸したものも少なくない。
劇的な生涯を終えた芭蕉に対し、ひょうひょうとして終えた素堂は、如何なる人物で有ったのか。これを素堂の謎として綴れば、興味本位の一つの読み本に成ろうが、それでは「素堂像」の考察の目的から外れる。そこで、この謎を追いながら、生い立ちから生き様と考察する事にする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年09月29日 09時30分03秒
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