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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年09月29日
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カテゴリ:山口素堂資料室

素堂の上方への憧れ、その根底に潜んでいるものは?

素堂上方への旅

 

素堂と芭蕉の関係は兄弟以上のものであった事は一部俳諧研究者により究明されているが、それは延宝年間からのことでそれは他の追随を許さないほど密着していた。

芭蕉は元禄七年十月十二日に大阪にて死去する。素堂は妻の死の忌中であり、大阪へは行けなかったがその後京阪に訪れる際や句作の中で芭蕉への思慕があふれている。
 素堂は芭蕉死後頻繁に京都を訪れている。あるときは京都で越年して過ごしている。素堂が京都を訪れた事を資料によって示したい。

一、寛文 五年(1685) 素堂二十四才 《大和》 
資料…荻野清氏『山口素堂の研究 上』

二、延宝 二年(1674) 素堂三十三才 《京都》
資料…北村季吟『廿会集』「信章歓迎百韻」

三、元禄 十年(1697) 素堂五十六才
資料…『真木柱』 

都ゆかしく いづれゆかむ蓮の實持て広澤へ
資料…『とくとくの句合』
  小野川洛陽に住居求むとて登りける頃、

予も又其志なきにしもあらず
    蓮の實よとても飛なら広澤へ

四、元禄十一年(1698) 素堂五十七才 《京都》
資料…『続有磯海』・『橋南』・『去来抄』

五、元禄十三年(1699) 素堂五十八才 《京都》
資料…『風の上』

六、元禄十四年(1670) 素堂五十九才 《京都》
資料…『元禄俳諧集 年表』

七、元禄十七年(1704) 素堂六十三才 《京都》
資料…『元禄俳諧集 年表』

八、宝永 二年(1705) 素堂六十四才 《京都》
資料…『去来書簡』

九、宝永 四年(1707) 素堂六十六才 《京都》
資料…『白蓮集解説』

十、年不詳   《大阪》
資料…『蟻道が句のこと 素堂序文』

 

この他にも素堂の京都訪問はあると思われるがここでは省く。

『国志』によれば素堂は京都の持明院家や清水谷家での修養が記されているが資料を持たない。但し堂

の著した『松の奥』に記載中には次の記述がある。

 

亦道の邊に清水流るゝ歌は、そゝき上たるゝごとし、 

至極きょうなる所と持明院殿は仰せられしなり

 

延宝二年の北村季吟訪問も「信章歓迎百韻」である。素堂を季吟門とする書が多いが、それは間違いである。

 

素堂上方への旅

 

すでに第一章で、素堂の退隠後も度々上方への旅をしていたことは述べた。それ以降については多くの研究者が、素堂は隠士であるからと、殆ど江戸に居たように論じている。しかし詳細に見て行くと隠士にしては、結構小まめに旅行に出ているのである。だが、芭蕉が大坂で客死するまでは、極めて短期間で行っていたようである。

しかも、元禄三年の時などは、芭蕉と擦れ違いの如き旅もしていた。年代順に並べると

 貞享四年春  上京、大和巡り。

 元禄三年秋  上京。

 〃 十一年夏 〃  芭蕉の墓参をかねて。

 〃 十三年春 〃

 〃 十四年春と秋、二度の上京。

 〃 十五年 越年して春、江戸に戻る。

 〃 十六年 上京。

 宝永元年四月、上洛して越年。

 〃 二年、三月に上洛した支考と逢う。五月、名古屋を経て帰る。

 〃 四年春、東海道記行。

 正徳二年春、上京。年内に江戸に戻ったか。

 

これ以外に元禄八年の甲州、宝永五年の武州川越とあるが、隠士としては似つかわしくない行動派である。

 

素堂の剃髪

素堂の上京を詳述する前に、剃髪等について述べておくと、延宝七年退隠と共に剃髪したかは不詳であるが、儒学等の構授をしていたとされる。ひょっとすると退隠と共に剃髪したかもしれない。しかし元禄四年一月、儒者に対して「蓄髪令」が出されたが、これに従ったかも不明である。『甲斐国志』には、元禄九年『素堂ハ薙髪ノママ挟双刀、再称山口官兵衛』また元禄十五年三月刊の「花見車集」 (轍士撰)に『流れの身となり給はず、わかき時より髪をおろし』と詞書している。「甲斐国志」はさておき、概ね剃髪をしていたとされる事は事実の様である。

 

素堂の仕官

 

また、素堂が仕官しなかった事は、黒露(雁山・守常)が「摩詞十五夜」で

『ある高貴の御家より高禄をもて召ねけれども不出して処子の操をとして終りぬ』

と述べる。師の林春斎は延宝八年五月に没し、その後は子の鳳岡が継いだ。元禄元年頃には学問好きの、時の将軍綱吉が儒学を奨励したことから、諸侯を始めとして儒者を求める向きが多く、これまた学問好きの桜田家の綱豊も、老臣に命じて儒者探しを始めた。

そこで老臣は幕学の家である林家に儒者を求めたのだが、当主の鳳岡は何かと派遣を避けたとされる。伝えられるところでは、鳳岡は綱豊とそりが合わないためと言うが、白羽の矢を立てられた素堂が、辞退をし続けたと云うのが真相であるらしい。林家では元禄五年に至り桜田家の「林門侍講招致」の申し入れを、最終的に断ったのだが、素堂としては旧主家であると云う事が、本音であったらしい。

桜田家は六年十二月、木下順庵の門人・新井白石を侍講とする。

 

 素堂 上方への旅行

さて、素堂の上方への旅行は、貞享元年夏の旅は西鶴との約束が有ったものか不明だが、四年の春から夏にかけての上洛は,大和巡りに主眼が有ったらしい。

 

暮春井出の里にて 

春もはや山吹白く苣苦し 

 

の吟がある。恐らく夏中には江戸に戻ったと考えられるが、中秋八月、芭蕉は「鹿島諧」として月見に行き、庵に戻るのを待って素堂は

 

予が園にともなひけるに、

又竹の小枝にさがりけるを

みの虫にふたゝびあひぬ何の日ぞ

 

と、第二章冒頭の『みのむし相聞』となったのである。

その十月、芭蕉の帰郷を兼ねた卯辰紀行を

 

もろこしのよしの奥の頭巾かな

 

と餞別を贈った後の十一月、其角の「続虚栗集」に「序文」を求められて著した。この集には発句五、蓑虫記が入集している。

 

春もはや山吹白く苣苦し

芭蕉いづれ根笹に霜の花盛り

年の一夜王子の狐見に行かん

 

元禄二年三月、己巳九月十三夜遊園十三唱に

国より帰る

 われをつれて我影帰る月夜かな

 

 元禄三年は秋から冬にかけて上洛し

 

奥山氏の園中に遊びて

西瓜ひとり野分をしらぬあした哉

づっしりと南瓜おちてゆうべかな

 

と吟じている。恐らく西鶴の門人・北条団水にも逢っているようだ。三井秋風ともこの時に再会しているらしい。この旅は短期間であった。

○ 北条団水 西嶋の門人。十月廿八日刊の「秋津嶋」団水編言水序。西嶋は六年没。

○ 三井秋風 梅盛門、伊藤信徳と同門、後に宗因に師事。この年「俳諧吐受鶏」刊。

 

この年の六月に素堂は服部嵐雪の「其袋集」に序文を頼まれ、また編集を助けたが刊行は秋に成った。同じ秋日には前年、葛飾の素堂亭を訪れた甲斐の原田吟夕に、依頼された「甲斐酒折奉納俳諧序」(庚午秋日)を著している。

また芭蕉より曾良に宛てた手紙(九月十二日付)では、素堂への伝言などが書かれ

 

「幻住庵の記を清書して御目に懸けたいから、内談を承って欲しい」

 

とか

 

「素堂の最近の文章は無いか」

 

などが記載されており、同廿六日付で曾良は「嵐雪の其袋」が刊行された事、大津の尚白依頼の素堂の「菊の句」色紙、幻桂庵の記を拝見したいなどと記されているから、素堂はまだ江戸に居たわけである。それに素堂は十二月廿日奥で「松と梅序」を書いているから、上洛したのは十月から十二月に掛けて上洛した事になる。しかも芭蕉たちに出会わずにである。

 

元禄七年は素堂の身内に不幸が続き、八年にはこの夏に没した母の代参に、八月から九月にかけて「身延詣」に行き、十月には「芭蕉の一周忌」に臨み

 

頭巾きて世のうさしらぬ翁かな   (俳諧翁草)

 

などと吟じ、翌九年には十月「芭蕉翁三回忌」に一座して吟じている。

 

あはれさやしぐるゝ比の山家集

 

元禄十年刊行の「真木柱集」(挙堂編書)に、『都ゆかしく』と題して

 

いづれゆかむ蓮の実持て広沢へ     

 

の吟がある。後に

 

蓮の実よとても飛なら広沢へ

 

 

『小野川洛陽に住居を求むとて』

 

の吟もある。一時は京都移住を考えていたようであるが後述。

 元禄十年十一月、芭蕉の墓参を兼ねて上洛した。

  

芭蕉塚墓参

秋むかし菊水仙とちぎりしが

苔の底泪の露やとどくべし

  六月晦日鴨川にあそびて

みだらしやなかば流るゝとしわすれ

  八月十六夜に広沢にあそびて

 我舞て我にみせけり月夜かな

  北山の草枯にいざなはれし頃

 茸狩りやひとつ見付しやみの星

 

別の色紙には

 

戊寅の秋洛陽に遊び、一日鳴滝に茸狩して帰りぬ。

(中略)

其片袖は大津の浦の一隠士安世のかたへ、此三唱を添て送ならし

茸狩や見付ぬさきのおもしろさ

  松茸やひとつ見付し闇の星

  袖の香やきのふつかひし松の露

 

北山の茸狩りの発句を「二句」に分けて利用した句である。素堂の句作にしては珍しい。以後も何何か有る。そして

   

江戸に向ふとき

ふんぎって都の秋を下りけり

 

この時、「芭蕉庵六物の記」の「桧笠」の項に

 

洛陽のかへさに膳所にやどりけるころ、

珍夕(浜田酒堂)たづさへ来りて

銘あらむ事をもとめらるゝによりて銘して

 

として五言絶句を草したのである。

 

次いで元禄十三年の春、素堂は上洛していた。江戸を三月に立って上洛した嵐雪が、その途時に粟津ケ原の義仲寺を訪れた時、そこで素堂に出会った(『風の上』)と門人に宛てた手紙に書いた。

宝永四年に嵐雪が病没した時、素堂は「嵐雪を悼む辞」の中で、その間の事情を

 

洛陽に遊びしころ、大津のうら四の宮にて

本間佐兵衛丹野事勧進能の沙汰を間てまかりけるに、

嵐子も彼浦にありて、山本氏の別業にて両三日相かたらひ、

それより高観音にうそぶき、唐崎にさまよひ、

八町の札の辻にてたもとをわかちしより 云々

とある。

素堂は摂津・伊丹・播磨などを訪れていた。

その十月は杉風主催の「芭蕉翁七回忌追善」に出席するため江戸に戻った。この追善業は杉風編の「冬かつら集」で追悼吟七章を著している。春に嵐雪と出会ったころの吟に

 

粟津ケはらにて旧友はせをの墓をたづねしに

志賀の花この海の水それながら

むかひに志賀の山、前に湖水あり。

そらはたぶさにかけるたて糸かゝり、三世の仏に花奉る。

また一休の詠に 

山城の瓜や茄子もそのまゝに

たむけになすぞ鴨川の水も 

此二言にすがりていふ。

 

翌元禄十四年、春二月廿日上洛の旅に上り、廿五日に島田宿で「宗長庵記」を著し、京都では小野辺りに住居を探し求めたらしい。一旦江戸に戻った素堂は八月、再び京都に向かった。途中(十二日)島田の塚本如舟の長休庵に泊った。大井川の川留め止めに合ってのことである。京都に到った素堂はそのまゝ越年し、翌元禄十五年夏五月、江戸に戻った。

この年、向井去来の著書が成ったとされる。安永四年に暁台が編集刊行した『去来抄』である。その巻末に

 

今年素堂子洛の人に伝へて日。蕉翁の遺風天下に満て、漸又変ずべき時いたれり。

 冊子こゝろざしを同じうして我と吟会して、一ツの新風を興行せんとなり。

 

去来云、

 先生の言かたじけなく悦び侍る。予も兼て此思なきもあらず、

 幸に先生をうしろだてとし、二三の新風を起さば、

おそらくは一度天下の俳人をどろかせん。

しかれども、世波老の波日々にうちかさなり、

今は風雅に遊ぶべきいとまもなければ、唯御残念おもひ侍のみと申。

素堂子は先師の古友にして、博覧賢才の人なり。元より俳名高し。

近来此道うちすて給ふといへども、又いかなる風流を吐出されんものと、

いと本意なき事なり。

 

素堂が繁々と京都に通い、京都移住まで考えていたのかは、芭蕉の死後に「芭蕉庵十哲」と称された門人遠の分裂に、芭蕉をバックアップしていた素堂としては、その行方にかなりの危機感を抱き、門人間の対立を何とか調整しようと図った訳で、近江の許六との論戦は有るものゝ温厚な去来に白羽の矢を立て、関西での蕉風新風の先頭に立たせようとしたらしい。

 

この門人の対立は杉風と嵐雪に始まり、其角と支考、去来と許六などだが、江戸での対立は修復には

時間が掛かる事から、上方が纏め易いと考え、伊賀蕉門を説き、去来の引き出しに掛かった訳で、去来は世事から離れられず、しかも新風を起こすだけの自信も無かった。つまり芭蕉の教えを守ろうと云う事で、素堂の斡旋は挫折せざるを得なかったと見られる。

 

元禄十六年、この年も上洛したらしいが不詳。十二月、前月の廿二日に発生した大地震(元禄地震)

は、連日余震が続き、月末に至って小石川の水戸邸より出火し、数日間に亘る江戸大火となった。その火は本郷・深川に及んだのである。

翌宝永元年四月上旬「元禄俳諧集年譜」によれば、上洛の旅に出た。そして吉備中山の除風に頼まれ

『千句塚序』を著し

   

しほみても命長しや菊の底

 

と寄せ、京都で越年した。

翌二年三月、上洛した支考が滞在中の素堂に面会し、摂津伊丹まで遊び、「寸の宇集」の序を頼まれて著し、閏四月に京都を出て尾張に至って、鳴海の蝶羽(知足の長男)の亭に滞在し、依頼によって知足の選集「千鳥掛」の編集に助言をして、五月五日立って江戸に向かった。恐らく中仙道を行ったものと考えられる。

宝永元年の上洛は、去来説得に一婁の望みを託していたろう、去来はその九月十日病没してしまったのである。これで完全に素堂の望みは絶たれて仕舞ったようである。

 

宝永四年春二月、再び上洛の旅に出た。『東海道記行』である。その二月の来に其角は病死したが、旅中であったからどのような連絡がなされていたのかは不明である。また素堂が何時江戸に帰ったのかも判らないが、十月十三日に病死した嵐雪の時は江戸に在り、『嵐雪を悼む辞』を草して

 

何となくそのきさらぎの前のかほ

 

と、鳴立沢の西行堂に投じた句の

 

何となくそのきさらぎの前の河

 

を改めて吟じた。

 

最後の上京となった正徳二年春、すでに素堂は七十歳に達していた。その六月、尾張鳴海の蝶羽が京都の旅亭に尋ねて、父の知足稿の編集仕上げを相談し、その序を依頼した。刊行されたのは素堂臨終の年の享保元年であった。

 

千鳥聞し風の薫りや蘭奢待

 

いつ素堂が江戸に戻ったかは未詳である。

素堂の上方への旅は、芭蕉門下の結束させるための旅であったが、意に反して結束策は烏有に終わった。

宝永七年秋の大病の後

 

星やあふ秋の七草四人なし

 

と吟じたが、如何にも象徴的である。結局、素堂の隠士としての暮らしは、宝永年間に入ってからのようである。






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最終更新日  2020年09月29日 16時11分26秒
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