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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年09月29日
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 須玉ゆかりの作家 高浜虚子

 

 『須玉町誌』第五章 第六節 ゆかりの作家

 

一部加筆 山梨歴史文学館

 

 解説 高浜虚子

❖ 明治七年(一八七四)二月二二日生まれる。

❖ 昭和三四年(一九五九)四月八日没。

❖ 俳人・小説家。正岡子規没後「ホトトギス」の主宰者。

❖ 俳友飯田蛇笏と共に大正六年(一九一七)六月二九日増富温泉を訪れる。

この時の紀行文を「国民新聞」に大正六年七月九日から一八日まで掲載した。

 

◇増富 

甲府を出たのは二十九日の朝五時の汽車であった。朝から暑かった。同伴者は蛇笏君一人であった。

二人とも菅笠を用意した。日野春に着いたのは六時十三分であった。

 

日野春駅には土地の人が大勢出迎えてくれた。これより先甲府運輸事務所長の工富君や甲府駅旅客係の上原君が尽力をしてくれて、日野春駅長中村君はじめ土地の多くの人々と交渉して二頭の馬を用意してくれる事になっていた。

果たして乗鞍を置いた一匹の乗馬と、荷物鞍を置いた一匹の駄馬とが、我等が多くの人に擁せられて暫く休憩した『鶴屋』という宿の門前に我等を待ち受けていた。我等を擁した多くの人の中に俳人守屋青楓君があった。青楓(せいふう)君は東道の役として増富まで我等と同行することになった。

 

日野春の空気はすがすがしく冷たくて、さすがに高地であることを思わしめた。富士を背景とする避暑地として日野春が第四位に立ったことは土地の人の憤慨に耐えぬところであるらしいのも尤もなことと同情された。

 

駅前に立って見ると富士は七里岩の上に聳えて半腹以上の美しい形を見せ、右手には地蔵岳、駒ケ岳などの峻峰が片雲をとどめない碧空に描きだされ、左手には金峰山、端境山などの高嶺がこれも雄々しく時っている。我等は今日その端境山の麓まで馬を打たせねばならないのだと聞いた時、これは大変なことだと思った。その瑞牆(みずがき)山の前には重なり合って峰があった。近い峰ほど色が濃く遠い峰ほど色が薄かった。その濃淡こもごもの峰を少なくとも三つ位は越えねば瑞牆山の麓には行かれそうになかった。

 

増富への道路の嶮岨は既に三四の人から説き聞かされて十分の注意を与えられていた。私は大きな覚悟をもって馬に跨がった。但しそれは駄馬の方であった。そうして跨がったというよりも駄馬の背中に攀じ登って荷鞍の上にしがみついたのであった。蛇笏君は物馴れた調子で乗鞍に腰を据えて手綱を握った。青楓君は草履履きで馬の後についた。

 

五里の山路は一生懸命であった。私は馬から落ちぬようにとそればかりに心が緊張していた。直下千尺というような奇哨(きしょう)な眺めの所に来るといよいよ馬にしがみついた。蛇笏君も青楓君もただ私が馬から落ちねばよいがとそればかりを心配しているらしかった。

鳥居峠という峠は勾配の恐ろしく急な登りで、殊に大きな石や岩がごろごろしている上を馬は蹄に火を出して登って行くので、手綱をしかと手繰りよせて馬の口の所を握った馬方がヨイ、コラと馬に警戒を加えながらこれも一生懸命になっていた。(大正六年七月九日「国民新聞」)

 

◇増富

 

途中で私は急に馬から降りたくなったけれども、もうこうなると降りるという余裕も無いせっぱ詰まった光景で、私は運を天に任せて馬にしがみついているより外仕方がなかった。そうして運命の馬は結局私を振り落さなかった。私の後から登って来ている蛇笏君は、自分が馬上に在るという事などは忘れてしまって、私の危なっかしい姿にのみ気を取られているらしかった。青楓君は馬方と声を合せつつ、私の馬にひっ添うて警戒していた。

 

こう書き立てると増富の諸君は、そんなに増富を危険なところにしてしまっては困るというであろう。その不平は尤もである。一足踏み外せば千尋の渓谷に落ちるというのはうそではない。そういう所は三四ケ所もある。

けれどもそれは私が危なっかしい腰付で馬に乗っているからの事である。馬を降りて歩きさえすればそんな危険は毛頭無い。道幅も広いし地盤も堅固だしそんな心配は少しも無い。私も馬上でさえなければ一生懸命などにはなりはしない。又馬に馴れてさえいれば馬上であっても一生懸命などになりはしない。つまり増富の路が危険などでは無くて私の乗馬が危険なのである。

 

殊にこの路は八万円の経費に二万円の有志の醵金(きょきん)を足し十万円の工費で近々改築する運びになるだろうとう事である。そうなるとやがては自動車位が駆けづり廻るようになるかも知れぬ。呉々も増富の路が危険なのではなくて、私の馬上の腰付きが危険なのである。その証拠に私は帰路は駕に乗ったのであるが、この鳥居峠は駕から降りて歯のついた日和下駄で上り降りとも闊歩した。たしかに闊歩した。駕担ぎは空駕をかついでぜいぜい呼吸を切らしながらあとからついて来た。

 

私の乗った馬は馬鹿におとなしい馬であった。蛇笏君の乗った馬は大分お転婆であった。但し両方とも女馬であった。この地方は仔馬が重要な産物の一つになっている位で馬といえば女馬ばかりである。男馬に比べれば一體おとなしいのであるが、それでもなかには蛇笏君の乗った馬のようなお転婆なのもあるのである。もし私が蛇笏君の乗った馬に乗ったら早くに落ちていたであろう。

その私も乗っているうちにだんだん馴れて来て、増富に入って『三英館』という宿の前にさしかかった時、路上の石を踏み滑って馬が前足を片膝折った時、私は旨く中心を取って落馬せずにすんだ。兎も角無事に増富に着いたのであった。途中で馬から降りて休んだことが四五度もあって、中には一時間以上も休んだことがあって、八時に日野春を出て増富に着いたのが五時であった。途中は堪え難いほど暑かった。

  (大正六年七月一〇日「国民新聞」)

 

  増富『金泉湯』

の別館の前に馬が着いた。馬方に引かれて帰る私の馬を見た時に名残が惜しまれる様な心地がした。五里の山道を無事にここまで連れて来てくれた忠実な牝馬に感謝の意を表したかった。十七であると言う若い.馬方に銀貨を一個与えてこれで何か馬に食わせてやってくれと言った。「必ず馬に食わしてやってくれ、お前が使ってはいけないよ。」と言った。若い馬方は手を高く差し上げてそれを受取った。

 

この別館というのもあまり広くはない。室数は五つか六つはなかった。私達より先にそこに二人の客がおった。意外なことはその一人は川崎門下の瀬崎真一君であった。他の一人は古いホトトギスの読者であるという笠原敬輔君であった。笠原君とは生面(せいめん)であったが瀬崎君を介して始めてホトトギスの読者である事を明らかにした。

金泉湯の主人公である津金胤行(たねゆき)君を始めとして四五の人の来談に接した。その夜は草臥れて早く寝た。

 

私は前回に書き落としたがここに来る途中、ある峠の上で大空高く鷹の舞っているのを見た。鷹の舞うという事は話にのみ聞いていた事であったが今、目のあたりそれを見ることが出来たのは非常に愉快であった。この増富村も海抜四五千尺の高地であって、深山というを憚らぬ。蚊は一匹もいない。前の蜂の上に十一日の月がかかっているのが、物凄いような心地がした。その前日の甲府の暑さも、途中の坂道の日の照り付けた暑さをも忘れてしまった。秋のような感じのする高地の家に一夜の快眠を貪るのであった。疲れ切った体は、横になったと思ったらもう眠りに落ちていた。

 

翌朝は怪しげに曇っていた。まだ梅雨が降り足らないのであるから連日晴れ間のない霖雨にでもなったらこの山道を下る事は大困難を極めるであろう。いよいよそういう天候と見込がつけば大事にならぬうちに早く山を下りたいものであると考えたが、今朝集って来た土地の人は容易にそれを許さなかった。是非切論だけは見て帰ってもらわねばならぬと頑強に主張するのであった。

瑞牆と言うのは日野春駅から遠望した石骨の露出しているあの高山ではないか、あれまで登らなければならぬとなっては大変な事と考えて私は、「ここまで来れば増富村の大体の感じは判ったのであるからそれにも及ばないでしょう。いよいよ天候が容易に晴れないものと定まればすぐ引返す事にしたいものです。」と言った。(大正六年七月一一日「国民新聞」)

 

折節窓の下を二三人の木樵が笠も著ないで山の方に登って行った。蛇笏君がそれを見て、「木樵が山に登るようなら天気は大丈夫ですよ。」と言った。所の人も、「一時降るは降るでしょうが、雲が高いから大した事はないと思います、昼頃には晴れか雨か確かに見当が付くでしょうから昼まで待つ事にしましょう。」と言った。兎も角昼まで待つ事に私も賛成した。その内雨は落ちてきた。一時は非常な勢いで降り始めた。その中を又二三人の木樵が山に登って行くのが目に留った。青楓君が窓から声を掛けて天気模様を聞いた。大した事はあるまいという意味の事を方言で答えてその木樵等は窓の下を通って行った。

 

木樵の予言は確かに的中した。私が机にもたれてペンを握っている二三時間の間に雨は晴れかかって来た。昼飯を食ったらいよいよ土地の人の言葉に従って瑞牆の方に出掛ける事にした。私が原稿を書いている間は蛇笏君も青楓君も土地の人も皆私の室から去ってしまっていた。

蛇笏君は何処に行った事かと思ったらその間雨に濡れながら遥か下の谷を流れている川で山女魚と岩魚とを釣っていたのであった。そうして丁度私が原稿を書いてしまった時分に五匹の獲物を誇りかに携えて帰ってきた。山女魚の色は殊に美しかった。

 

昼飯を食ってからいよいよ瑞牆に登る事になった。一挺の山篭と一匹の乗鞍を置いた馬とが用意されていた。私は籠に来った。蛇笏君は山女魚を釣った時、石の間で生爪を剥がしたその親指を包帯して大分痛む様子であったが、それを我慢して馬に跨がった。瀬崎、笠原の両君も同行する事になった。

 

両君はそれぞれ病後の人であるに拘らず、なかなかの荒武者でいずれも下駄履きで出掛けた。土地の人々は皆草鞄脚絆を締めて甲斐甲斐しく装うていた。私は菅笠を山龍の上に結び付けて手拭いで頬冠をして乗った。蛇笏君は頬冠をした上に菅笠を披って馬に跨がった。一行は前記の外にこういう人々であった。 

丹羽宗寿。大和田武四郎。山本小太郎。大柴仁壹。藤原重吉。依田庄内。藤原市松。白倉米政。津金胤行。 (大正六年七月一二日「国民新聞」)

 

駕はまだ本当の道になっていないかと思われる様な所を平気で通って何時か本谷川の辺りに出ていた。日野春から増富に来るまでに我等がしばしば渡った塩川の上流で蛇笏君が山女魚や岩魚を釣ったのもこの河である。我等の一行はその本谷川の河原伝いに上流へ上流へとつき進んで行くのであった。雲は段々と切れて明るい日が木の間を洩れて我等の上に落ちてきた。ある時は聳え立った岩のうえを通ったり、湿った林の間に出たりした。本谷川の水は岩に突き当たったり、林の中を走ったり、淀んで淵となったり、激して瀬となったり、落ちて滝となったりしていた。怪奇の景勝送迎に暇あらずと言った様な有様で、一行は駕を止めたり馬を止めたりしてその景色に眺め入った。

 

その中には金泉湯八景の称のある親子不知、銚子岩、岩穴沢、その他があった。私の駕を担いでくれている白倉峰松外一人の両君は非常に屈強な人で、私の駕を肩にして、石の上に片足をかけ、刀杖で他の石の上を突っ張り、いかなる険難の道でも飛ぶが如くに駆け出す勢はたいしたものであった。私はスミズの飛行振りを見ていて何の不安をも感じないのと同じように、この両君の様子を見ていると自分の生命を託している人々としてそこに何等の不安をも感じなかった。如何なる渓谷を俯瞰する時でも如何なる危橋を渡る時でも私は安んじて駕の上にあった。こう言う駕の名手さえあれば老幼婦女子でも安んじてこの深谷に遊びに来られると思った。

 

この白倉峰松君は今年四十八歳になると言ったが、口で米の四斗俵を喰えて両手を用いずに馬の鞍に持って行く事が出来るという猛者で、若い頃は近郷切っての宮相撲の大関で、中央線が出来る時、木曽の福島であったか大阪の大関が来た時、それと相撲を取って勝ったとか言う話であった。

鼻下に大きな八字髭を蓄えて、その四斗俵を喰えると言う真っ黒い歯をむきだして大言壮語し呵呵大笑する様子は少しも邪気を留めなかった。それの相棒になっている人の方も名前を聞いたがつい忘れてしまった。これは痩せ形の六尺ばかりもある丈高い人で、日に焼けながらもどこか皮膚の白い優しい顔をした人であった、この人は年も若いし、峰松君に劣らぬ頼もしい勇者であった。

 

笠原敬輔君は神経痛が因になって肋膜炎をやった揚げ句この増富のラジウムに来て既に一月近く静養していると言う事であったが、元来日向の山奥に育ったとかで、これ位の山は朝飯前だと言ったような調子で下駄ばきで駆けずり廻っていた。本谷川の流れを千切の谷に俯瞰する或る巨巌の上に来た時分に、その岩の壁に生えている岩茸を採ろうとして笠原君は岩の上に後ろ手を突いて、ちょうど鉄棒で問下がりをする様な姿勢をして、ズルズル上りながら足の爪先を岩茸の辺りに持って行った時には、流石の白倉峰松君も「危ない、危ない。」と連呼した。

笠原君は首筋のあたりの筋を緊張させて顔に赤い血潮を脹らせて海老のように体を反らしながらその両方の足の指の間に岩茸を摘み取って後ろ向いたままずり上がって来た。私はこんな冒険を初めて見て肝を冷やした。もし牛若丸が鞍馬を出てここへ通りかかったら、差し向き笠原君や峰松君はその股肱の臣となるに違いないと思った。

 

この本谷川上流からかけて瑞牆山に至るまでの景色は、不折(ふせつ)君の激賞した備中の豪渓よりも今少し怪奇を極めたものであると或る人が言った事を思い出したが、豪渓を知らない私はその言の当否を判別する事が出来なかった。

 

弁慶の力石と称するものは、耶馬渓あたりで見る事の出来ないものであった。沿岸に屏風の如く突っ立っている岩の奇勝はとても耶馬渓に及ばないように私には思われたが、この川の中央に天から降ったと思われる楕円形の巨岩が、僅かに二三畳敷きの別の石の上に支えられて、千番に一番のかね合いと言った様な軽業めいた調子で腰を据えている所は頗る奇抜なものであった。それも一通りの大きさであるとただ一寸珍しい位な軽い好奇心をそそるに過ぎないが、これは思い切って大きくって、この本谷川上流の奇巌軽石のうち私は最も愛賞するに足るものと思った。私は一行の人々が私のために急拵えに懸けてくれた丸木橋を渡って、その力石の麓に出てそれを一周しているうちに、石と石との間の空処に落葉が高く積もっている処を矢張り下に石があるものと心得で、踏み損なって膝小僧をしたたか前の岩に打ちつけた、他の諸君はいづれも猿のごとくその力石の頂上を這いまわったり蛇のごとくその下の穴を潜り抜けたりしていた。 (大正六年七月一三日「国民新聞」)

 

この本谷川の沿岸を上へ上へと二里近くも登ったと思う頃そこに僅か二三軒の家ほかない一つの小村があった。ソレは金山村と称える所で、昔武田信玄がその後の山から金を掘った所でその金鉱を粉にしたと言う石臼が一軒の家の庭先にあった。私達は暫くそこに休んでから更に登り路に就いた。これからの道は本谷川の沿岸とはすっかり形勢を異にして、如何にも高山らしい趣を見せて、山つつじ、山荷薬(しゃくやく)、山杜若(かきつばた)の花等がとりどりに咲いていた。その他鬼芹とか、雷草とか山豌豆(えんどう)とか、山人が煙草の代りにする五葉とか、餅草の代りにする裏白とか言うような初めてみる山草が沢山あった。

 

一帯この辺の山人は出に生えているこれらの草を摘んで食物とするのだそうである。金鳳毛とか言う草は非常な毒草で、岡谷と言う村の兄弟二人の青年が、知らずにこの草を摘んで帰って茹でて食ったが、忽ちその場で死んだと言う様な事を一行打の人は話し合っていた。その外木立も大分趣を異,にして来て、楢(なら)とか白樺とか樺(かば)とか椎(しい)とか言う木が多かった。それに桜の樹も所々にあった。

上になる程それらの木は、密集して生えておらずに、羊歯(しだ)などの交じっている雑草の中に稀に突っ立っていた。そうしてその中には立枯れになっている木もあった。二抱え三抱えもありそうな大木が大空を突くようにして、枯れている景色は、これも高山でなければ見られぬ景色であろうと思われた。椎の枯木の股には椎茸の生えているのもあった。

 

と、ある山の背に出ると、そこは瑞牆山の頂上を指呼の間に眺めて、その峰つづきになっている金峰山の頂上も手に取るように見えた。そうして我等がその瑞牆、金峰の両峰を後にして立った時に、前方にわたっている山脈の凹所に、白雲が漠々として漲り湧いている丁度そこに富士山が見えるのだと案内の人々は言ったが、今は生僧官のために見えなかった。

 

ここから金峰山の頂上まで何時間あったら行けるのだろうと間いてみたら、二時間ならば十分に行けるとの事であった。海抜八千何百尺の高峰に二時間で行けるところまで来たと思うと何となく壮快であった。

 

そこは坂上と称える所で、ここから後に引返してもよいのであるが、更にこれからつき進んで反対の方向に下って行って、一つの山を一巡して裏の方から帰ると言うことになった。そこには広い牧場があった。そこは奮(旧)牧場と称えてそこにいた沢山の馬は今新牧場の方に移されているとの事であった。私の駕は広々とした旧牧場を矢の如く飛ぶのであった。行く手は甲信の国境でその国境を過ぎれば信州の南佐久郡となるとの事であった。

日に光って見える雪の山は赤岳、八ケ岳の峻峰であった。

 

旧牧場を突破してしまった所に一軒の小屋があった。それは牧場の番小屋のようなものでそこは五十過ぎの男がただ一人居た。私等はそこに腰を掛けて休んだ。ビールやサイダーや缶詰などが取り出されて一同は渇を医(いや)した。この番小屋の光景は頗る面白かったが、それを叙述している暇がなかった。

 

これを要するに、増富の現状は金泉湯、三英館、増富ラジウム鉱泉商公等を中心とし、その他の村人が一致団結して小さい争いなどをせぬようにして今後の発展を計らねば成らぬ。又現在に於いてもそういう傾きの見えているのは結構なことである。

もっぱら進んで言えば、日野春と増富との関係も同じ事である。増富が盛んになれば自然日野春も盛んになる。日野春が天下に知らるれば自然増富に来る客も増える訳である。賢明なる両地の諸君はそんな事は朝飯前に承知の事であろう。元来増富に来るのには韮崎で汽車を降りると、大豆生田迄乗合馬車や人力車の便がある。それから後を馬なり駕なりで行く方が、日野春から馬や駕で行くよりも便利だと言う事で

ある。

 

そう言う点に於いて増富村の人達は日野春よりも韮崎の方に重きを置いているようである。それも尤もな次第である。しかし旅客の身に取っては、往復共に同じ道を取るよりも、大した時間の相違なしに異なった道を取る事が出来るならば、その方が興味が多いに決まっている。されば往路を韮崎に取ったものは帰路を日野春にとり、往路を日野春に取ったものは帰路を韮崎にとると言ったように、或るべく変化あらしめる事が必要な事であろうと思う。増富、韮崎、日野春はこの点から言っても相まって発展すべき土地である。 (大正六年七月一六日「国民新聞」)

 

瑞諭探勝にも同行し茶話会にも同席した丹羽宗寿(そうじゅ)君は、増富村大字御門正覚寺の住職で、その正覚寺の持ちになっている岩屋堂と言うのは、天然の岩石が数十丈の高さに及んで、その中に間口六間奥行六間の大きな建物があって、そこに如意輪観音を安置し、その周囲には数百年を経た杉や雑木が繁茂していて、大正年間以来の霊場である上に、避暑地遊覧地としても好適の所であるから是非一遊せよとすすめられたけれど、時間がない為に残念ながら割愛した。

 

翌朝四時半と思ったのが少し遅れて五時過ぎに三英館を出て帰路に就いた。瑞牆探勝以来世話になった人々の多くは増富を出て第一の峠である長坂峠の頂上まで見送って来てくれた。その中には下駄履きの笠原君もあった。

私は篭、蛇笏、潮時の両君は馬、青楓君は例によって徒歩であった。長坂峠の頂上では小一時間も休んだ。老鴬はのべつに鳴いていた。その間に雄や山鳩が鳴いた。雄の鳴き声は初めて聞いたのであった。蛇笏君の話す所によると、雄が鳴くときは翼で空を打って二三尺も飛び上がるそうである。又山鳩の鳴くときはホウホウと声を出す度にクルクルと体の方向を転換するそうである。蛇笏君の馬には生まれて五ケ月ばかりになるという仔馬がついて来たのであるが、この茶屋に休んでいる間にその仔馬は悪戯をして、私の乗り捨てて置いた山篭を鼻先で引っ繰り返したりなどした。そういう峠の立場茶屋の光景を私達は面白く眺めながら昨晩拵えてもらっておいた握り飯を食って朝飯を済ませたり、恰も茶屋に備えつけてあった短冊に即景の俳句を書いたりして時間を費やした。

 

例の鳥居峠は駕を下りて歩いた。馬や駕で上下しようとするからこそ危険なので、歩いてみれば少しも危険な事はなかった。

この帰路は半ば駕にのり半ば歩いた。五里の山路は例え歩き通した所で、決してそれ程困難なものでもあるまいと思われた。行きがけはこんな所に行くのかと前途が危ぶまれた上に、乗り馴れない馬に跨がったので危険をも感じ行路難をも訴えたが、帰路は大概様子がわかったので、爪皮のある日和下駄を履いて、平坦の道こそ駕にのったが、勾配のある峠は大概歩いた。かの鳥居峠もその歯のある下駄で結構上下することが出来たのであった。

増富の道は決して坦坦たる大街道と言う事は出来ない。しかしながら健脚の人には左程の難路ではない。例の十万円の新工事ができ上がった暁には忽ち面目を改めて安易の道となる事であろうと思う。増富の前途は多望と言わねばならぬ。

 

日野春に著いたのは丁度正午であった。五時過ぎに増富を出て途中で一時間も休んで十二時に着いたとすると五里の山路は六時間で十分踏破する事が出来るのである。少し急げば五時間で十分であらう。

 

日野駅に著いて、一時の汽車で瀬崎君の東帰するのを停車場に送って私と蛇笏君とは青楓、三井甫彰、相吉保治の三君に引率されて猿返しと称へる一つの丘阜の上に立った。そこは近く公園にする計画があるそうで、ここに登れば日野春の土地の人が誇として居る富士を背景とした釜無川の眺めは一望の中に集まるのである。

 

こゝに七里が岩と称へるものは釜無川の沿岸に露出して居る巨岩の連りであって、それが川に沿って七里の長さに互って居ると云ふところから此名が起ったのである。

今私達の立って居る此丘阜もその七里が岩の一部分であって、其岩の私達の前面に流れている上に富士山は露出して居るのである。この七里が岩はただ岩の連りと言ふと小さく聞えるが、この岩の上に幾多の村落があって、日野春駅は固よりの事、其次の穴山肌も皆其岩の上にあるのである。岩は釜無川に沿うて屏風のごとき壁面を見せて居るが、其他は颯爽たる樹木に取囲まれて、それが白雲の下を走って七里の長さに互って居る。「あの向ふに煙の見えて居る処が穴山駅にあたって居ます。」と三井君は説明して呉れた。

 

七里ケ岩の絶壁の下には釜無川の白白とした広い河原が我等の脚下の岩陰から現はれて、我等の眼界を遮るもののある限り大空の穹霳(きょうりょう)と互に相接触するかのやうに際限もなく向ふに伸びて居る。小武川は別に右手の駒ケ岳、地蔵ケ岳の聳え立って居る高地から急斜面を奔流して白い河原を此釜無川に合して居る。その小武川や釜無川の流域の田畑は、此処に立って見ると宛も碁盤縞を見るやうで、その中に耕して居る人や馬は蟻位にほか見えない。

 

信濃の銕捨山から川中島を俯瞰(ふかん)した景色に似て居る処もあるが、それよりも男性的であって而も複雑である。正面に富士あり、眼前に七里ケ岩、釜無川、小武川あり、すぐ右手の蒼空を摩するものに駒ケ岳、地蔵ケ岳あり、遠く左方の天に聳立するものに金峰山、瑞牆山あり、後への空際に八ケ岳ありと言った有様で、甲州の高山は我等を取囲んで空辺に犇めき会って居る如な感じがする。

こせこせした盆地盆山に気取った名前を付けて誇りかに振舞って居る人は、宜敷此日野春駅頭の猿返し(野猿)に立って天斧の大景に眼を放つべきである。

 

「ここの風は下から吹き上げて来ます。」と相吉君は言った。恰も日中の烈日は我等の頭上を照りつけるのであったが、一度釜無川原を吹いた風が七里ケ岩に衝き当り松の木立を吹き煽って我等の脚下を襲うて来るのは如何にも清涼であって酷熱を忘れしむるに足りた。私達は其大景に対し涼風を満喫して猿返しを下った。駅前の鶴屋に集まって来た土地の人は多勢であった。此等の人々は私達を歓迎する為に今夜七時から宴会をするとの事であったが、私はそれを辞退した。それは今日四時の汽車で是非とも甲府に帰らねばならぬ日程となって居たからである。処が土地の人々は其を以て非常に不満足として是非私達に今夜日野春に一泊する事を強要した。

 

私達は十二分に其好意を受酌んで而も四時に出発して甲府に帰る事の許しを得た。其私達の為に歓迎の意を表すべく期待して居て呉れた人々の連名状には次の如き名前があった、即ち

 日野春村長向井定太郎。□子村長香月喜六。日野春駅長中村□。同助役五十撮要蔵。

郵便局長跡部豊太郎。斎藤為𠮷。三井甫彰。向井源吾。小林好雄。相方保治。中村喜男。

五味英知。大柴良。岩下善次郎。向井弥市。小澤□□。茂原利一。龍田寅方。

相吉亀太郎。堤良正。松井直道。小坂国太郎。藤森喜十郎。深沢□正。三井森太郎。

加室豹平。堀部旭。佐久善三郎。小林今朝𠮷。小林増平。輿石病院。辻村駅員

 

の諸君であった、さうして此内の重立った数氏は次の穴山肌まで態々見送って呉れた。

 (大正六年七月一八日「国民新聞」)

 

 増冨温泉不老閣にて揮亳

 

 ぬれ縁にいづくともなき落ち葉かな






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最終更新日  2020年09月29日 19時04分41秒
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