山梨の古代 「黒駒」伝説が残る優駿の山地
山梨の原像二 県史編纂20年の成果 山梨日日新聞 2008・3・21 一部加筆 山梨歴史文学館
【筆註】この記事には数か所の誤りがある。その箇所を太字で示す。
古代甲斐の特色は、なんといっても馬だろう。「日本書紀」(雄略天皇十三年九月条)には、駿馬(しゅんめ)の誉れ高い「甲斐の黒駒」に乗った使者が処刑されそうになっている本工職人を救うエピソードが記されている。 聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って大空を駆け、富士山頂に至ったという伝説もある。いずれの伝説もうのみにはできないが、甲斐では古くから馬の飼育が行われていたことは、近年の考古学の成果からも明らかだ。
塩部遺跡(甲府市) では、五世紀前後の方形周溝墓から日本最古級の馬の骨が出土。富間田遺跡や永井原5遺跡(いずれも北杜市)では、九世紀から十世紀代にかけての馬を飼育したと思われる集団のムラの跡や牧場跡と思われる遺構が見つかっている。
飼育も担当 奈良・平城京の長屋王邸跡で発見された八世紀初頭の木簡からは、同王家の馬の飼育を担当する部署「馬 司(うまのつかさ」に甲斐から飼育係が派遣され、働いていたことが分かる。甲斐が馬の産地として上級 貴族に馬を貢上し、飼育も任されていたことがうかがえる。 名馬の産地として、甲斐のほか、信濃や上野、武蔵が知られているが、いずれも蝦夷(えみし)に対する最前線の東国。日本に馬が伝わったとき馬を使う戦術が有効として、大和政権発展のために前線地域で飼育されたのだろう。馬の食糧になる草水が豊富な土地柄も好条件だったようだ。その中でも黒駒の伝説がある甲斐は、特別だったのではないか。 平安時代には、朝廷に馬を献上すための牧場「御牧(みまき」が、穂坂(韮崎市)、柏前(かしわざき)、真衣野(まきの)=いずれも北杜市=に置かれた。
【この地名比定が最大の誤りである。確かな史料を持たない説で、現在山梨では定説化している。】
その御牧で飼育された馬の中から毎年定められた頭数を都へ送る「駒牽(こまひき」は、宮廷の年中行事にもなった。 駒牽は八月の定められた日に開催。天皇が紫宸殿(ししんでん)などで、群臣とともに良馬を見定め、臣下にも配分した。甲斐からは、毎年六十頭が責馬された。穂坂の馬は競馬(くらべうま)で活躍するなど、足の速い馬として評判だった。 しかし、決まった期日に定数の馬を納めるには大変な苦労があったようだ。甲斐からは東海道を通って馬を運んだが、平行門の乱などの人為的な争乱や洪水などの自然災害によってたびたび開催が遅れた。結局、駒牽行事は土世紀ごろには信濃を除いてすたれてしまう。
私牧で存続 駒牽はすたれたが、牧そのものは消滅したわけではない。隣接した荘園などに吸収され、小笠原牧、 逸見牧(いずれも北杜市)石間牧(市川三郷町)飯野牧(身延町)など、有力者が経営した私牧として存続した。 甲斐源氏の源清光は、八ケ岳南ろくにつくられた逸見牧の後身の逸見荘を拠点に甲斐の支配を進めた。それが後世になって甲斐源氏が発展する地盤になった。
「古事記」に「稽古照今(けいこしょうこん)とあるように、歴史を学ぶ目的は 「いにしえを考え、今を照らす」 ことである。歴史の事実を明らかにすることによって、将来の白分かちの進むべき道を照らす・・・。歴史はそういうものでなければいけない。 県史編さん事業では、支配者による編さん物だけでなく、木簡や墨書土器などの文字資料も読み解き、山梨の過去の人々の暮らしの跡をたどろうと努めた。明らかになった歴史を、将来のあるべき山梨の理想像を描く鑑(かがみ)としてほしい。(随時掲載) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年09月30日 15時46分31秒
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