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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年09月30日
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須玉町 所縁の作家 飯田蛇笏

 

『須玉町史』 第5章 第6節 ゆかりの作家

  一部加筆 山梨歴史文学館

 

解説 飯田蛇笏

❖明治十八年(一八八五)四月二六日、境川村に生まれる。

❖昭和三七年(一九六二)一〇月三日没。

❖俳人。「雲母」を主宰する。

 

高浜虚子と共に大正六年(一九一七)六月二九日増富温泉を訪れる。

同行記「山の饗宴・・虚子映像・・」を、

「文学」昭和一三年(一九三八)一一月号(第六巻第一一号)に発表、

随筆集『土の饗宴』(昭和一四年七月、小山書店)に収録する。

昭和四年(一九二九)二月二四日江草村の如空庵を訪れ句会を行った。

(俳句の項参照。)

 

『山の饗宴 唐子映像』

 

 いまから二昔前へ逆戻りしたころのことであるから、いくぶん茫漠とした感じでないこともないが、併しなにか不思議な其の時の行動が頭に恪(や)きついてゐるところがある。其のみぎり、ふたりで倶に携へて行った菅笠の一つは、今もなほ我が出廬の壁間にぶらさげられてあるのであるが、少々煤ぼけ、かの嵯峨の落柿舎に吊されてある古行脚笠なんど連想されかねないむきである。さういふ物があつたりするほどの事実は、思ひ出の図面を薄らがせないことに勿論有力であつたであらう。

 古笠にしたためられた墨跡を見ると

 

大正六年六月二十七日、甲府談露館にて此笠を購ひ、二十八日日野春駅より馬上之を被りて増富温 

泉に遊ぶ。二十九日増富を発して瑞牆(みずがき)山下に向ひ、月をいただいて帰着。虚子、蛇笏

 

 とある。

翁が東京へ携へ帰った同じ笠にも同文句が認められてあった筈である。翁はその時、「国民新聞」の依頼で、富士岳麓の河口湖と此の増富温泉を書くために、僕は「山梨日日」から同じ依嘱により行をともにしたのである。河口湖上に於ける、地方有力者たちの歓待、あちらまかせの豪遊を舐め昧うて後、増富へ向つたのであるが、日野春駅から五六里もあらうと思はれる山道を、笠の小文にもある如く馬上に揺られて行った。その一年か前に平福百穂が出かけて落馬したとかいふことを訊き、翁甚だ不安気味であったやうであるが他に方法がなかった。果して温泉近い渓流を馬が急ぎ渉らうとしたとき、危く落ちさうに身が傾いた。翁が何か鋭い声をあげたやうであった。その馬は跳ねることを知らぬげの豚のやうなものであったけれども、落ちてはたいへんだと咄嵯に思った少壮の僕は、自分の元気な乗馬に足撲ちを呉れて跳ね寄り

さま、ひっ抱へる積りだったが、そのことは無く済んだ。

少々ばかり乗馬の経験を持つ自分は馬子をしりぞけ、翁が乗った豚馬にはM-といふ後年県会議員の候補に立ったりした頗る屈強な人物に手綱をとらせきりにしておいたのだが、後になって考へてみると、険難の悪路にかゝったりすると、豚馬こそ却って危険で、御しやうにもよるけれども、駿馬の方が安全であることを知った。

 山の湯の心をこめた馳走は、まことにうれしいものであった。秋のしめぢに似た、名の知れない茸が椀にも皿にも山盛りに盛られてあったり、喉に噛みついて来る酒が、大きな徳利からごぼッごぼッとあけられたりした。その日、渓谷の清流に山女魚釣りを見せるといふので、彼等も釣り、此方も教へられた通り糸を垂れてゐるうち小さなのを三尾ほど釣り上げ、やゝ得意になっていると、晩餐の膳には、彼等の釣った鱒のやうな巨大なる山女魚が焼け焦げにされた上、煮くたされて大皿に盛られてあった。美酒佳肴が斯様に振舞われる間に、なんと日向くさい袋菓子が、接待の人々の手によって破られた袋から、盆の上といはず畳の上といはずざらざらとこぼれるのである。彼等接待者たちの中には上戸もあり下戸もある。そ の下戸の側は、上戸がぐびぐびと喉を焼いてゐる間に、強健な歯で、木の実のやうな固い菓子をぼりぼりと噛み砕きながら話を交はすのである。

恐らく、南京豆の糖菓は、彼等の談論風発するにつれて唾液とともに破片となり、彼等相互の頬辺に飛びついたことであらう。和気粛々たる一夜の歓楽のだみ声が、増富幽谷の空に浮び上り、首夏の檀色な月を頂いた大嶺が谺(こだま)する気配であった。

 ラヂウム含有量天下第一と宣伝する此処の宿りに、熟睡し、すっかり旅塵を洗ひ落したところで、各自原稿を認め終った後、また彼等の案内によって、渓流を淵り、往昔武田機山(信玄)が採掘した金鉱の跡を尋ねて、増富牧場から温泉山を大きく一と饒り廻ってみようといふことになった。昨日落馬しかけたことに鑑みて虚子翁は馬を排し山駕によることに決した。僕は乗り心地のいゝ栗毛の逞しいのを択んだ。行く行く渓流のほとりに、少し少し誇張すれば鴉のやうだとも形容できる大揚羽蝶が翩翻(へんぼん)と舞っているのを見た。人影に狸れない蝶は、あるひは肩越しに流れ真一文字に激流をこえて常山木(くさぎ)の花に妖しく双翼を顕はせてゐた。

たまたま草刈りの山童を見かけた。その二人の童たちは、草刈鎌と共に、ひそかに天蚕糸(てんぐす)と釣鈎(つりばり)とを携へることを忘れなかった。さうして随所に葭(あし)竹を伐りとり、その貧しい速成の釣竿に綸と釣とを塩梅して、岸近い礫(こいし)を返してはちょろ虫を捕り、それを餌として山

女魚釣りを試みるのである。山童の或者は、一荷の刈草と共に巨大な山女魚を草蔓にぶら提げて帰った。

 機山の往昔を偲ぶ金鉱のある山腹へ辿りついたとき、其処に上古の棲家を思はせるような草葺の農家が一戸を構へているのを見た。傾斜した山畠が数畝耕され、物置小屋には使い古された農具が懸り、母屋には炉煙りが上っていた。増富の有力者たちが休憩を伝へたところから、この家のあるじ夫妻が茶を振舞ふために炉を焚きつけたことが判った。こゝは瑞牆や金峯の諸嶺へ登単する一路にあたつてをり、偶々一宿を乞ふ者さへあるといふことを案内の人々から聞いた。

 老姐が炊事場の方から、よろよろと茶を持って出て来た。褐色をした此の熱いお茶を、興味あるものの如く皆が飲み、駕夫たちは、飲みはたした茶碗を、そつと巌の上へ置く者もあれば、或は飲みかけの茶碗を地(つち)の上へおく者もあった。この地上は、風雨に洗はれ、何物も及びがたい清浄たる感じであった。ところが、一瞬にして此の清浄たる感じを蔽(おお)ひ尽し、直ちに人間社会を直感せしめる、一種異様な臭気が鼻を衝いてきた。家のあるじか茶受の沢庵清を出して来たのである。小皿に盛ったそれを、人々の間を縫って虚子翁と僕との間に持って来て、慇懃に置いて引きさがつたのである。山里、既に初夏に及んだ古沢庵漬は、彼等増富の人々さへたじたじと後へ下ったことを瞭(あき)らかに見てとった。虚子翁如何と見てあれば、翁その一片をつまみ上げ口へ入れたりけり矣。ひそかに然も分明に見てとり、見

ざる風によそはふと雖も、翁の泰然自若たる風貌には、ほんとのところ僕もまいってしまったのである。それでも、あるひは其処らの草叢をのぞんで、げっと一と吐き、百花燎乱たるものを胎すかと思ひの外、富に光風霽月、洒洒然たる、まさに一代の翁が映像をつたへて余りあるが如く思はれた。

 青草を吹く瑞牆颪が、また発足する一行の気心を爽かにしていた,

 

増富温泉不老閣にて揮毫。

 

 鷹たかくかえる山川の哲哉

 

(八巻恭介家蔵)






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最終更新日  2020年09月30日 17時56分30秒
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