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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年10月03日
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カテゴリ:山口素堂資料室

素堂と内藤風虎(ないとうふうこ)

生年:元和五年(1619) 

没年:貞享二年(1685)  

年六十七才。

 

風虎は寛永十三年(1636)に十八才で従五位下、左京亮に叙任。

寛文十年(1670)素堂二十九才のおり、風虎(内藤頼長・義概)は父忠興の隠居により、五十二才で陸奥国岩城平七万石の城主になる。

俳諧作品の初出は『御点取俳諧俳諧百類集』。北村季吟・西山宗因・維舟らと深い交流が見られる。又和歌や京文化へのあこがれも強かった。

 素堂は通説では致任して市中から不忍池畔の池の端に住居を移し、寛文年間初期から、風虎の江戸桜田部の「風虎文学サロン」の常連であったと諸研究書に記されてある。

風虎の父、忠興は大阪城代を勤めた時期もあるが、文人としての活動は不明である。素堂が風虎の文人交友者を通じて文人の道に入ったことも推察できるが、寛文十年頃素堂は未だ何れかに勤仕していたのである。

素堂が生まれてから寛文七年の初出『伊勢踊』までの歩みは不詳部分が多くあり定かではないが、何れにしても内藤風虎と素堂の関係解明が必要である。風虎の文人としての活動は息子露沾に引き継がれるのである。

風虎の別邸は鎌倉(光明寺)にあり、内藤家の家譜にある人々の墓が現存して鎌倉の指定文化財になっている。

素堂の「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句は鎌倉で詠んだものであり、年代から押しても風虎の別邸で詠んだ可能性が高い。

又水間沾徳を内藤家に紹介したのも素堂で林家に入門させたのも素堂と伝える書もある。

延宝五年の風虎主催の『六百番俳諧発句合』に素堂も参加してその中の句

「茶の花や利休の目には吉野山」

は、長年にわたり書俳書に紹介されている。

 

内藤風虎については、『国語と国文学』(昭和三十二年四月号)【内藤風虎 岡田利兵衛著】に詳しい。それによると、

 

岩城平城主四代政長、その子忠興は承応三年(1654・素堂十三歳)~万洽三年(1666・素堂十九歳)まで大阪城代をつとめるなど幕府に重用された。

 

〔風虎年表〕 前記、岡国利兵衛氏著を参考。

 

○元和五年(1619)に江戸桜田邸(上屋敷)で生まれる。内藤忠興の長男。

 母は小山旧氏(甲斐郡内)

 

○寛永 五年(1628) 十歳。 将軍に初目見え。

○寛永十三年(1636) 十八歳。義概と改める。

○承応 三年(1654) 三十六歳。父忠興大阪城代着任。

素堂 十三歳。

○万冶 三年(1660) 四十二歳。父忠興と共に大阪より帰府。

  素堂 十九歳

○寛文 元年(1661) 四十三歳。季吟日記に五ヶ所(風虎)記載あり。

  素堂 二十歳

○寛文 二年(1662) 四十四歳。帰国賜暇。七月、西山宗因岩城城着、九月末帰路。

  素堂、二十一歳

○寛文 四年(1664) 四十六歳。

○寛文 五年(1665) 四十七歳。

  素堂、二十四歳 素堂、大和三輪神社に詣でる。

○寛文 六年(1666)四十八歳。風虎『夜の錦』成立。

  素堂、二十五歳

O寛文 七年(1667)四十九歳。『続山之井』北村季吟、湖春編。人集。

  素堂、二十六歳 伊勢加友編、『伊勢踊』に入集する。

○寛文 八年(1668)五十歳。『磐城風土記』編纂。

  素堂、二十七歳

○寛文 九年(1669)五十一歳。子、露沾(義英)十五歳、俳諧デビュー。

  素堂、二十八歳

○寛文 十年(1770)五十二歳。

  風虎岩城藩六代家督相続する。

露沾(義英)従五位下下野守に叙任する。

  素堂、二十九歳

○寛文十二年(1702)五十四歳。風虎編『桜川』の序文を北村季吟が著。

  素堂、三十一歳。立儀編『女夫草』入集。

○延宝 元年(1703)五十五歳。

  素堂、三十二歳

○延宝 二年(1704)五十六歳。風虎の父忠興卒。

北村季吟『俳諧令法』を風虎に献上する。

   素堂、三十三歳 北村季吟の【信章歓迎百韻」に参加。付け句十一入集。

〇延宝 三年(1705)五十七歳。西山宗因江戸にて『談林十百韻』の興行、

  西山宗因、風虎の江戸藩邸を宿とする。

  素堂、三十四歳

○延宝 四年(1706)五十八歳。北村季吟編『続連珠』に入集。

  素堂、三十五歳

○延宝 五年(1707)五十九歳。内桜田御番仰せ付けられる。

【六百番発句合」興行。素堂、信章号で参加。判者北村季吟。

  素堂、三十六歳

 

○延宝 六年(1708)六十歳。江戸住。

素堂、三十七歳 冬には信章、桃青、(芭蕉)伊東信徳三吟。『江戸三吟』。

『草枕』(旨怒編)俳号、信章。

『江戸八百韻』(高野幽山編.素堂翁の号、来雪) 

『新付合物種集』(井原西鶴編)。

『江戸広小路』(岡村不ト編) 

『鱗形』(雲紫編)。『江戸新道』(池西言水編.素堂の号、来雪)。

  俳号、信章・来雪。この年

   目には青葉山郭公はつ鰹  素堂

 

○延宝 七年(1709)六十一歳。風虎、江戸住。

素堂、三十八歳

この年素堂は新春を肥前唐津で迎える。

  『玉手箱』(蝶々子細) 『富士石』(四月、岸本調和細、処女選集)

   二万の里唐津と申せ君が春  素堂

   『江戸蛇之酢』俳号、来雪(池西言水編)

延宝七年か八年の秋の作(『芭蕉年譜大成』による)

  【両吟発句脇二組」 【三吟三物一組】

 

市中より東叡山の麓に家を移せし頃

蛙の時宿は豆腐の雨夜哉

茶に煙草にも蘭の移り香

張抜の猫も知る也今朝の秋

七つになる子文月の歌

 

○延宝 八年(1680)六十二歳。西丸御番となる。

素堂翁、四十歳。

 

    天和 二年(1682)六十四歳。嫡子義英(露法)疾と称して退身。

三男義孝家督を継ぐ。西山宗因歿。

素堂、四十一歳

 

    貞享 二年(1685)六十七歳。九月病気につき岩城に下向する。

九月十九日逝去。墓は鎌倉光明寺。

素堂翁、四十二歳

 

風虎は大体一年交代で江戸と岩城を往復していたと云う。

風虎と素堂がどの年度でばれるか確認は出来ないが、仮に素堂が江戸に出たとされる寛文初年の出所が甲斐府中で無かったら、素堂はそれまで京都か大阪に居たとする説も成り立つ。

素堂翁の京都に対する思慕は尋常では無く特に「広沢の池」への執着は強く何度も句を詠んでいる。また実際に晩年は頻繁に京都に訪れある年は越年している。

素堂と京都を結ぶものそれこそが青年期素堂の活動の解明につながるのである。

素堂が自ら編んだ『とくとくの句合』に興味ある記述がある。

 

それは五番右の句に

所以ありて弥生の頃東武へ下りけるに

   ふんぎって都の花に下りけり

 

自判には

五文字におほくの心をこめて、

一句すこやかなり。

洛陽の信徳ややもすれば、此句をいひ出しけるとなり。

判者(素堂)も又信徳のこころをこころとす。

 

とある。この句を詠んだ年代が明確ではないが、素堂が自ら

 

ふんぎって多くの心をこめて

 

という。多くの心とはどんな思いなのだろうか。それは一つには、青年時代の事、一つには晩年に廣澤の池への思慕を『ふんぎって』江戸定住を決めたときの事である。

 もしこの句が先の「風虎年表」の万治三年風虎が父忠興の大阪城代の役を終えて江戸に帰府時に、素堂も何らかの理由で江戸に出たとは考えられないだろうか。

その時点で江戸での勤仕先が決まっていたのかどうかは定かではないが、若海の著した『俳諧二百年史』には素堂翁の役職が「御普請役」と記されている。真実とすると世襲制この時代からして素堂の父親も「御普請没」か、それに類する役職に勤仕していた可能性がある。もしこれが事実なら山口素堂は甲斐府中で酒造業を営み財を成したなどの現在伝えられる素堂とは大きくかけ離れたこととなるのだが。

 

ここに素堂の勤仕先を窺う貴重な論文がある。それは山梨県於いて素堂の研究の第一人者清水茂夫先生が「山梨大学公開講座」に於いて発表された「山口素堂の伝統」と題されたものである。その中に次ぎの記述がある。

 

ところで信章は延宝六年(1678)夏には長崎旅行をし、

翌年暮春の頃江戸に帰りました。

そしてほどなく致任して上野不忍池のほとりに隠居しました。

それまでは林春斎に朱子学を学んだ信章は、

儒官として何所かに任官していたと思われますが、確証はありません。

上に記した長崎旅行の際、唐津まで赴いて次ぎの句を吟じています。

    二万の里唐津と申せ君が春 素堂

上の句は延宝七年(1679)岸本調和編(処女選集)『富士石』入集している。

君が春とは御代の春と同じで、任官している唐津の主君の新春を祝っていると考えま

すと、唐津藩主にでも任官していたのではなかろうかとも考えられのです。しかしこ

の旅行を契機として理由はわかりませんが致任しています。そして不忍池のほとりに

隠居し、それと共に信章を素堂に改名しました。

 

と記されている。 

 

唐津藩は『藩史大辞典』によると、肥前国上松浦を中心とした譜代中藩であり、寺沢、松平、土井、水野、小笠原の順に転封が続いた。(中略)

慶安二年(1649)播磨国の明石より大久保忠職が八万三〇〇〇石で入封した。跡を継いだ忠朝は延宝六年(1678)に下総国佐倉に移封となった。忠職は慶長九年(1604)に生まれ、寛文十年(1670)歿。忠朝は寛永十九年(1642)に生まれ(素堂翁と同年)正徳二年(1712)に歿している。

素堂がもし大久保家に勤仕していたとすると、忠職・忠朝に仕えていたことになる。忠朝は延宝六年(1678)に唐津藩から下総佐倉に転封となるが、延宝五年(1677)から元禄十一年(1698)まで幕府老中としてその任に当たっている。甲斐の国にも馴染のある大久保忠隣は忠朝の祖父にあたる。

しかし延宝六年の夏から延宝七年春までと云うと既に大久保家は下総佐倉に移封して変わりに松平大給(乗久、おぎゆう)氏が佐倉から肥前松浦郡六万五千石と筑前恰土郡三千四百八十五石に入封して元禄三年(1690)九月まで続く。

 松平大給氏は乗久の子乗春、その子乗邑は老中に就任している。

 

素堂と和漢聯句(年不詳)を巻いた知幾(桐山正哲)。

 

貞享四年(1687)の『句錢別』には「芭蕉、江戸を立って伊賀に向かう時の諸家の饉別句」には桐山正堅一絶、素堂翁三絶の漢詩が掲載されている。

この桐山正哲・正堅は同一人物か兄弟かは判明しないが

この正哲は長崎の大通事(通訳)大木栄左衛門の弟なり

 

と素堂の甥とされる山口黒露談として『類聚名物考』を引いて萩原羅月氏が『芭蕉の全貌』に紹介されている。

素堂の長崎旅行にはこの桐山正哲との関連もあるのだろうか。素堂の旅行の本来の目的については興味ある提言をされている研究者もおられる。(後述)

 

 さて本題の内藤風虎関連について資料をあげて述べて見る事とする。

 

 『国文学』昭和四十五年発行。【芭蕉の軌跡】 

「市井の俳諧師時代。信章との風交、絶妙の二人三脚」 広田二郎氏著。

 

奥州岩城平七万石の領主内藤義概、俳号・風虎はとりわけ文学を好んだ大名で、よく知られている。俳諧師では重頼系の幽山、季吟系の似春。吟市らがそこの主要メンバーであった。……(中略)……信章はというと、寛文初年、二十歳前後の頃甲州から江戸に出て、林春斎の門に入って漢学を修めたものと見倣されている。また、信章は当時和歌も学んだと見られるから、漢詩.和歌.俳諧を愛する風虎型の文人として内藤家に出入りするようになっていたのであろう。……(中略)……寛文の中頃から次第に俳諧に興味を持つようになっていった跡を残している。そんな中で信章はとりわけ芭蕉。幽山と親しくなっていったものと思われる。……(中略)……(連句)に於いて信章(素堂)と桃青(芭蕉)が最も個性を発揮し、力量を出し尽くすことが出来たのは、両人組み合わせによる興行の場に於いてであった。それは絶妙の二人三脚と称すべきものであった。

 

素堂が林家に学んだ事はかの人見竹洞(友元.宜卿)は素堂を

「林家三才之随一」(『含英随記』)

と評していることからも間違いのない事であるが、漠学者の伝記書をいくら読んでも素堂の名前は出てこない。

又素堂の晩年の世話をしていた子光は『素堂句集』(享保六年/1721)の自序の中で素堂の青年時代を次ぎのように述べている。

「弱冠(二十才)より四方に遊び、名山路水、或いは絶(すぐれたる)神社、或いは

古跡の仏閣とあますこと無く歴覧す。」

 

と記して、素堂の事蹟を語る場合に常に引合いに出され引用される『甲斐国志』には

 

「少小より四方の志あり、屡々江戸に往還して章句を林春斎に受く、亦京都に遊歴

し書を持明院家に、和歌を清水谷家に受く。連歌は再昌院法印北村季吟を師とす云々」

 

とある。

素堂の博識は人見竹洞を初め当時の俳諧人たちの共通した認識である。これは幼少よりの勉学と実生活に基づくものであると考えられる。

 

さて素堂が江戸に出たとされる寛文元年(1661)の前年万治三年(士660)甲斐府中は市中を舐めつくす大火災に遇っている。勿論素堂の生家とされる山口家も当然この火災に遇っているのである。時の甲府殿は緊急措置として焼けだされた町民たちを幕府の資金をもって救済に当たっている。

素堂は『甲斐国志』によると弟に家督を譲るとあるが、この被災を放置して江戸に出ることなど素堂の性格からして有り得ない話である。

素堂が早くから出入りしていたと伝えられる内藤風虎サロンについては山梨では語る人はいない。『甲斐国志』から脱却することはタブーなのだろうか。

特に素道(堂、国志のみ、道)の項は真実と創作と推察が入り混じっている記載となっている。

風虎・季吟と山口素堂を結ぶ線は素堂翁の青年期を解く鍵である。

内藤風虎と素堂を結び付ける事証には素堂が序文を著した『俳林一字幽蘭集』(水間沾徳編)がある。

『俳林一字幽蘭集』を編んだ水間沾徳は『俳諧大辞典』によると、

 

 内藤風虎の江戸藩邸の常連である素堂の手引きにより林家に入門する。

 

と見える。

沾徳が林家に入門した年代は明確ではないが、最初調和門であったのをその門人調也に師事し調也に随伴して猟虎江戸藩邸に出入りしていた。この時点で素堂とも接触下と考えられる。後露沾と共に素堂を介して蕉門に親しみ其角と末長く提携したとも記されている。

尚、水間浩徳は寛文二年(1662)に生まれ享保十一年(1726)歿している。

浩徳の号は内藤風虎の子息露沾の沾の字を賜ったものである。

『俳林一字幽蘭集』の序文の中で素堂は

 

「前文略……さきの岩城の城主猟虎公撰したまふ所の「夜の錦」、「桜川」、「信太ノ浮嶋」

此の三部の集世に行なはれざるを愁いてなり……(下略)……」

 

素堂は風虎興行の『六百番俳諧句合』にも参加している。素堂は現在も北村季吟の門人として諸書に紹介され松尾芭蕉と同門と俳諧系譜にも伝えられているが、内藤風虎も季吟に師事はしているもののその他の著名な俳人たちとも交友続けている。素堂も一派に限定する事無く幅広い活動をしている。

これは他の俳人とは大きく違い「職業俳人」ではなかった所に有る。素堂も一時はそれを目指したとの推察も出来る年代もあるが、生涯に渡ってアマチュアを貫き通して多くの俳人と接触して俳諧の隆盛に貢献したのである。それは素堂が逝去した翌年に編まれた「通天橋」の入集俳人に依っても明らかである。

 

又享保二年(1715)素堂の一周忌追善句集『通天橋』(山口黒露編}の序文は風虎の子息である露沾(義英)が著している。

余談ではあるが、『俳諧こばなし』(風律編)によると素堂は和田蚊足(芭蕉『貝おほひ』にも名が見える)を秋元但島守に口入れしている。

 

「二百石取りで和田源助と云い、肖像をよくかく人にて、翁(芭蕉)遷化に像を書きて 

深川に置かれしに近附の者とも芭蕉未だ存生のよし申候程の事なり。」

 

との消息を伝える書もある。

 

寛文七年(士667)著、寛文八年刊行の加友選の『伊勢踊』の前書きからは投句時以前から加友は素堂を認識していたものと思われる。

荻野清先生の『山口素堂研究。上』には寛文五年頃には大和の三輪神社に詣でていると云い、又若海の『俳諧二百年史』を引いて素堂の退隠する前の公職を「御普請役」と紹介されておられている。「御普請役」の名称は江戸前期『手代』と呼ばれていた。素堂が元禄九年(1696)に甲斐の濁川改浚工事に於いて時の代官桜井孫兵衛の「手代」として活躍が『甲斐国志』に記載されているが、これは創作されている。

素堂にとって甲斐は、【妻の故郷】と『甲山記行』(素堂自著)は伝える。

内藤風虎と素堂の関係は現在において人々に尤も親しまれている素堂の、

    目には青葉山ほととぎす初鰹

の句の成立に深くかゝわっている節がある。この句は『江戸新道』に始めて掲載されたものであり、。そして前書に「鎌倉一見の頃」とあり、内藤風虎の菩提所は鎌倉光明寺にある。大きな蓮池もあり青年歯堂翁が出入りしていた江戸風虎邸の父忠興はこの光明寺に寄進をした書状もあり、東京内藤家より寄託された忠興の木像も安置されている。忠興は江戸霊巌寺にあった父家長などの墓所を移し大檀那として寺領百五十石、当麻曼陀羅縁起絵巻(国宝)などを寄進した、延宝元年(士673)歿。(天照山光明寺』)この裏山から見る鎌倉海岸は秀逸であったとされる。

 

私も一泊二日で調査に行った折りには樹木も大きく当時の面影はなく内藤家の墓所も寺敷地から離れた所に存在して現在は鎌倉市教育委員会で管理している。その墓石大きさは当時の内藤忠興や風虎(義慨)の光明寺に対する気持と威厳が漂っていた。

忠興父政長の娘(養女)は素堂の祖先が仕えていた蒲生氏郷の家臣蒲生源左衛門に嫁ぎ、娘の一人は蒲生氏郷の孫の忠知(伊予松山城主)に嫁いでいる。

とすると素堂と内藤忠興及び風虎の関係は青年素堂が江戸に出る以前からの深い繋がりであったことを窺い知ることができる。(『連俳睦百韻』別述。)

 

風虎と諏訪家

 

話は横道にそれるが又風虎の娘は三代藩主諏訪忠晴(号時春、露葉)に嫁いでいる。

忠晴は寛永十六年(1639)に生まれ、元禄八年(1695)に歿している。素堂が生まれたのが寛永十九年(1642)であるからその俳諧における素堂や芭蕉、曾良とも周知の中と云うことなる。明暦三年(1657)父の跡を次ぎ諏訪藩を襲封する。十八歳の時である。上諏訪の出自の曾良は慶安二年(1649)の生まれでこの時八歳である。曾良は幼少諏訪にいて武士の道をいくのであれば、忠時に仕える事も可能であったとも考えられる。(別述)

忠時は文人としても活躍している。特に風虎の養女を妻に迎えてからは風虎や露沾の影響を受けて忠時の子息忠虎も文人生活をおくる。麻布六本木の内藤風虎藩邸への諏訪領主忠恒、忠時、忠虎と三代に渡り出入りしていた。其角らとの交遊も深くこうしたことからも芭蕉や素堂とも十分認識があったことが考えられ、又、先人俳講師斉藤徳元、望一等にも影響を受けていることもありうる。

 

素堂も晩年、京都往来の折りには木曽路上り中山道を通っている。

  

木曽路をのぼる比  

夕立にやけ石涼し浅間山  素堂 

 

素堂も生家が甲斐巨麻(摩)郡教来石字山口であり、故郷の記憶があれば諏訪から故郷を通り少年期を過ごした第二の故郷甲府府中にも寄り甲州街道で江戸に戻るコースを通る筈である。

何度となく京都と江戸を行き来するが避けるように甲斐入国はなく、素堂と甲斐は遠くなり「素堂は甲斐の出身ではない」の思いが調査を深める度に大きく成長するのが怖い。

 

さて話を戻してみる。素堂の「目には」の句はこうした内藤風虎と鎌倉光明寺との深い関係から、光明寺周辺で詠んだことが十分推察できるのである。内藤家と素堂関係は今後資料が集積されてくればもっと深い関係が見えてくることになる。岩城平の内藤家及び諏訪の内藤家と素堂、素堂の近い周辺にいる榎本其角や水間沾徳も諏訪内藤家とは親密な交友が結ばれていた。(後述有り)






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最終更新日  2020年10月03日 11時35分38秒
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