カテゴリ:著名人紹介
『日本の名家・名門人物系譜総覧』 森鴎外家(文人・学者)
別冊 歴史読本 『日本の名家・名門人物系譜総覧』 新人物往来社編 2003・8・9 一部加筆 山梨歴史文学館
鴎外、森林太郎(一八六二~一九二二)
『阿部一族』などの小説やゲーテの『ファウスト』の翻訳などでも知られる作家であると同時に、陸軍軍医総監にまで登り詰めた医学者である。 その一族も、自然科学か文学、あるいはその両方に、優れた才能を有している者が多い。系図には医者に物書き、大学教授が名を連ねている。 鴎外の母、峰は、代々津和野藩の典医を務める森家の一人娘だった。気性の激しい努力家で、藩儒の下で学ぶ息子の助けにと夜遅くまで漢籍に目を通し予習復習を手伝った。一方、女婿の静夫は穏和な人物だったという。 鴎外には弟が二人、妹が一人ある。篤次郎は兄と同じく医師となったうえ、三木竹二の筆名で劇作と劇評にも活躍。その下の潤三郎は、鴎外の伝記『鴎外森林太郎』などを著した著述家である。妹の貴美子は人類学者で帝太教授の小金井良精に嫁ぎ、その息子の小金井良一は海軍軍医少将になった。孫はショートショート作家の星新一である。 鴎外自身は二度の結婚で五人の子供をもうけた。長男の於菟(おと)が生まれた明治二十三年(一八九〇)、鴫外は雑誌『国民之友』に『舞姫』を発表する。 二十二歳の陸軍青年士官だった鴫外が、留学先のドイツで金髪の美少女と恋に落ち、帰国を機に離別した甘くも悲しい恋愛経験を題材にした小説である。 息子の於菟は東京帝大に進んで医者となり、大正十丁年(一九二二)に、かつて父も学んだドイツヘ留学する。このとき於菟には、すでに妻子があった。息子から、留学しますとの報告を受けた鴫外は、微笑みながらこう言ったという。 「お前のようになってから行くのでは、面白いこともないなあ」 於菟の息子たちは自然科学を得意とする者が多い。名前はいずれも西洋風で真章(マクス)、富(トム)は鴎外が名付け親。 礼於(レオ)、樊須(ハンス)、常治は於菟が名付けた。 後妻しげとの間にできた子供たちは、文筆を得意とした。長女の茉莉(マリ)は『恋人たちの森』など独特の美意 識と文体の小説家。その弟の不律(フリツ)は 夭折。妹、杏奴(アンヌ)は『晩年の父』など の随筆で知られる。 杏奴は洋画家の小堀四郎と結婚。文系夫婦の間に生まれた融二郎は、祖父の鴫外と同じ医学の道へ進む。 長女の銚子は作家横光利一の次男と結婚した。この二人の仲を取り持ったのは、ノーベル賞作家の川端康成であるという。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年10月04日 19時44分06秒
コメント(0) | コメントを書く
[著名人紹介] カテゴリの最新記事
|
|