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2020年10月28日
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カテゴリ:甲斐駒ケ岳資料室

甲斐駒ケ岳 単独行の夜 古由吉氏著

 

『日本の名山 16 甲斐駒ケ岳』

  串田孫一氏・今井通子氏・今福竜太氏 編

  博品社 1997

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

 年に数回新宿・松本間を仕事で往復する男がそうして三年近く経った或る日のこと、韮崎過ぎの車窓から、こんな近くにこんな高い山が、まるで昨日地から突き上げたばかりのように立っているのに驚かされた。

それが十何年か前に自分も登ったことのある甲斐の駒ケ岳であることに気がつくまでに、多少の間があったという。

人の目と記憶ほど頼りにならないものはない。しかし甲斐駒自身にも、そんなように車窓から間近に眺められながら見すごされるところがある。あまりにも間近なのだ。あれはどの山ならば普通は前山の尾根の重なりの彼方から爽やかな峰をのぞかせて、車窓の目をはるかに吸い寄せるものであるのに、これは前山などがまず控えているべきところにいきなり全身を、根もとから天辺まであらわしてしまう。

人の目はそんな高度を自然には押し上げられない。新宿を発って信州の境の手前ではまだ高山を見上げる準備ができてもいない。だから、中腹から上が多少とも腐って紛れていると、山国の空というものは重苦しいものだな、などと思いながら、蜂のある気配にも目を凝らさず打ち棄てておく。

                                                  

ところが空の光が静まるとき、甲斐駒は遠近のばかしを受けつけない質感をもって、農家のちらほら見える山麓から三千メートル近くの頂まで一気に突き上げる。静的な眺望となっておさまりはしない。

山の生成が追ってくる。激しい生成がつかのま凝固して、唯一無二の形を取って、次の動きへ息を凝らしている。いや、動いているようにさえ見える。根元から突き上げる力を細くは尖らさずに、むしろ重たるく集めた蜂の丸い頭が、時間の大海を渡っていく。峰の右手の鋸状の尾根は波を押し分ける舳先、鮮やかに白い、蜂の花圈岩の崩れは、吹きかかる時間の飛沫……。

 今から二十年近く前の、十月なかばの或る夜、私はその甲斐駒の七合目の小屋の床にたった一人寝袋にくるまって転がっていた。こわばったような眠りがすこしでも浅くなると、風が谷から吹き上げ、小屋の裏手から人が喘ぎ走ってくるようなさざめきが近づき、トタン屋根を木の実がぱらぱらと叩いて通り過ぎる。そのたびに、私は頭をすこし起して足もとのほうを見る。窓から月の光がぼうっと床に流れている。そしてそこに人が膝を抱えてうつむきこんでいるような、そんな気配がどうにも払いのけられない。

 その前の晩、私は麗の駒岳神社に泊って、良くない話を聞かされてきた。そのまた前の晩、七丈小屋で私と同じような若い男が睡眠薬自殺を図り、薬が回りきらなかったのか、小屋の前の水垢まで這い出てきてそのまま昏睡していたのを、翌日になって通りかけた登山者が見つけて、その日で仕舞う五丈小屋へ知らせ、麗へ担ぎ下ろすの病院へ運びこむの、大騒ぎをしたという。

 一命は取り止めたというので私はたいして気にも病まなかった。そして朝まだ暗いうちに神社を出て、ひと汗かいたところで、三方の尾根が霧の中からひとすじずつ明けてくるのを眺め、単独行者というものはとかくそうなのだが、雲ひとつない空と樹林の香りに酔ったように歩いて、苦もなく七丈小屋まで着き、まだ昂ぶった気持がおさまらず、荷物を小屋に放りこんで、またすこし登るうちに、明朝来るつもりの頂上まで来てしまった。踏みしめて登った厚い霜柱が、頂上からあまりにも清澄な夕暮れの空と山を非現実のもののように見渡してきたその帰りには、足もとでさっきよりも冴えた冬の音を立てた。

巌の裂け目に天へ向けて突きたてられた無数の赤くボロボロに錆びた鉄の剣が、けうとかった。それか

ら小屋にもどってT人で夕飯をつくって喰い、後をかたづけてウイスキーを飲み、寝るばかりになって

喉の渇きを覚え、水場に出て、ゴムホースで引かれた水の、細さにもどかしくなってホースに口をつけたとき、そのときようやく思い出した。 

 単独行の山の夜は、死者や亡霊が恐いのではなく、むしろ生者が、つまりここではたった一人の生者である自身が恐いのだ。物の数にも入らぬちっぽけな存在が、とにかく自分は生きているという意識によって、巨大な自然の沈黙と、おのずと張り合ってしまうのだ。

 あの夜、私は七丈小屋の床の上で生殺しの眠りの中から、吹き渡る風を聞き、ときおり山鳴りのように湧き起る虚ろな轟きを聞きながら、麗にむかって剥き出しに立つ甲斐駒を、時の大海にじかにさらされた山頂と白くあがる飛沫をじっと思い浮べて、我が身の存在をしのいでいた。






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最終更新日  2020年10月28日 21時38分39秒
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