カテゴリ:甲斐駒ケ岳資料室
甲斐駒ケ岳(二九六六米) 深田久弥
『日本の名山 16 甲斐駒ケ岳』 串田孫一氏・今井通子氏・今福竜太氏 編 博品社 1997刊 一部加筆 山梨歴史文学館
東京から山の国甲斐を貫いて信州に行く中央線。 私たち山岳宗徒にとって最も親しみ深いこの線路は、一たん甲府盆地に馳せ下った後、今度は釜無川の谷を左手に見おろしながら、信州の方へ喘ぎながら上って行く。さっきまで遠かった南アルプスが、今やすぐ車窓の外に追ってくる。甲斐駒ヶ岳の金字塔が、怪異な岩峰摩利支天を片翼にして、私たちの眼をおどろかすのもその時である。汽車旅行でこれほど私たちに肉薄してくる山もないだろう。 釜無川を距て仰ぐその山は、河床から一気に二千数百米も突きあげているのである。 日本アルプスで一番代表的なピラミッドは、と問われたら、私は真っ先にこの駒ヶ岳をあげよう。その金字塔の本領は、八ヶ岳や霧ヶ峰や北アルプスから望んだ時、いよいよ発揮される。南アルプスの巨 峰群が重畳している中に、この端正な三角錐はその仲間から少し離れて、はなはだ個性的な姿勢で立っている。まさしく毅然という形容に値する威と品をそなえた山容である。 日本アルプスで一番奇麗な頂上は、と訊かれても、やはり私は甲斐駒をあげよう。眺望の豊かなことは 言うまでもないとして、花園岩の白砂を敷きつめた頂上の美しさを推したいのである。信州ではこの山を白崩山と呼んでいたが、その名の通り、遠くからは白砂の峰に見えるのである。私が最初にこの峰に立った時は、信州側の北沢小屋から仙水峠を経、駒津峰を越えて行った。六方石と称する大きな岩の傍を過ぎると、甲斐駒の広大な胸にとりつくが、一面に真白な砂礫で眼映ゆいくらいであった。九月下旬のことでその純白のカーペツトの上に、所どころ真紅に紅葉したクマコケモモが色彩をほどこしていて、さらに美しさを添えていた。ザクザクと白い砂を踏んで、頂上と摩利支天の鞍部へ通じる道を登って行くのだが、あまりにその白砂が奇麗なので、踏むのがもったいないくらいであった。南アルプス中で、花崗岩の砂疎で美しいのは、この甲斐駒とお隣りの鳳凰山だけである。 頂上に花崗岩の玉垣をめぐらした祠のほかに、幾つも石碑の立っているのをみても、古くから信仰の篤かった山であることが察しられる。祭神は大己貴命で、昔は白衣の信者が登山道に続いたものだという。その表参道ともいうべきコースは、甲州側の台ケ原あるいは柳沢から登るもので、両登山口にはそれぞれ駒ケ岳神社がある。この二つの道は、山へ取りかかって間もなく一致するが、それから上、頂上までの道の途中に、鳥居や仏像や石碑が点綴されている。 日本アルプスで一番つらい登りは、この甲斐駒ヶ岳の表参道かもしれない。何しろ六百米くらいの山麓から、三千米に近い頂上まで、殆んど登りずくめである。わが国の山で、その足許からてっぺんまで 二千四百米の高度差を持っているのは、富士山以外にはあるまい。 木曽駒ケ岳は、木曽からも伊那側からも、それに近い高度差を持っているが、登山道は緩く長くつけられている。甲斐駒ほど一途に頂上を目がけてはいない。 甲斐駒の表参道は、途中の黒戸山あたりの弛みを除けば、あとは急坂の連続である。上へ行くにつれて傾斜は激しくなり、険しくなり、梯子や鉄の鎖や針金などが次々とあらわれる。山麓から一日で頂上へ達するのは普通不可能であって、五合目あるいは七合目の小屋で一泊しなければならない。 わが国には駒ケ岳と名のつく山が多いが、その筆頭は甲斐駒であろう。西にある木曽駒ケ岳と区別するために、以前は東駒ケ岳と呼ばれたが、今は甲斐駒で通っている。山名の由来は、甲州に巨摩郡、 駒城村などの地名のあるところから推しても、かつて山麓地方に馬を産する牧場が多かったので、それ に因んだものと思われる。 甲斐駒ケ岳は名峰である。もし日本の十名山を選べと言われたとしても、私はこの山を落さないだろ う。昔から言い伝えられ崇められてきたのも当然である。この山を讃えた古い漢詩を一つ最後にあげて おこう。「駒ケ岳ヲ望ム」と題し、僧海量の作である。
甲峡ニ連綿トシテ丘壑重ナル 雲間独り秀ズ鉄驪ノ峰 五月雪消モア絶頂ヲ窺ヘバ 青天ニ削出ス碧芙蓉
言うまでもなく鉄驪ノ峰とは甲斐駒のことである。これは甲州側から映じたのだが、信州側からすれ ば碧芙蓉でなく白芙蓉ということになろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年10月28日 21時43分19秒
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