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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年10月28日
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カテゴリ:甲斐駒ケ岳資料室

甲州駒ケ岳(甲斐駒ヶ岳)

 

ヴイルヘルム・シュタイニッツアー (安藤勉訳)

 

『日本の名山 16 甲斐駒ケ岳』

  串田孫一氏・今井通子氏・今福竜太氏 編

  博品社 1997

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

 われわれは汽車でまず甲府に向かった。甲府までの距離はわずか百二十キロメートルであったが、列車がこの距離を進むのに夕方の六時三十分までかかった。それというのも、まず第一に、甲府は東京よリ三百メートル標高が高い。第二には、日本の鉄道はヨーロヴパのそれのような神経質な性急さにはむ

とんちやくで、おのれの軌道を慎重かつ威厳をもってひたすらたどるからだ。甲府までの汽車の旅は、

ものすごい数のトンネルで興ざめしたものの、それでも、とても魅力にあふれていた。甲府は、四方八

方が高峰に囲まれた大盆地で、西方には日本で最大最高の山脈がそびえ立っている。わたしは、まず手

はじめに、この山脈に登る心積もりである。

 この山脈は本来の日本アルプスには属してはいないが、またとない絶好の機会を授けてくれた。果てしない日本の山岳を少しでも多く体験できるし、山というものにまったく無縁なわがボーイが新しい世界に順応してゆく様子をこの目で確かめることができるからである。

この連峰は、無数の高峰を擁する広大な山脈で、代表的な山には白根山〔北岳・間ノ岳・農鳥岳の総称。単に北岳だけを指すこともある〕(三千百五十メートル)、甲州駒ケ岳(三、〇〇一メートル??)、鳳凰山(二、九一〇メートル)などがある。

 

目ざす山は駒ケ岳である。

出発地点は、甲府から鉄道で一時間のところにある日野春駅であった。夕方六時四十五分にやっとの思いで列車から降りたときは、すでに夜のとばりはおり、幸先よく満天の星が輝いていた。宿屋は幸いにして、とてもまともなところがすぐ見つかった。夕食をかき込むようにして食べ終わるが早いか、岩壁、岩棚、岩壁の割れ目などの夢を見るべく、やわらかい〈フトン〉(綿が入った厚い寝具、日本にはベッドはない)にもぐり込んだ。

 翌朝四時、部屋の障子を開け放つと、ちょうど束の空が白み始めるところで、雲ひとつない空か素敵

な一日を約束してくれていた。まるで今始まろうとしている山旅の前途を祝福してくれているかのようであった。慌ててボーイを起こすと、さらにボーイが宿の人びとを起こした。リュックザックに荷を詰め、朝食を済ませ、日野春を出発したときは、五時を少し回っていた。日野春では案内人は得られなかったが、開くところによると約七キロメートル先の台ケ原には居るとのことであった。われわれは、意気揚々と山々に向かって一歩一歩進んだ。行く手には釜無川の向こうに駒ケ岳がどっしりとした山容を見せ、振り返ると、はるか彼方に、まだ雪をいただいている富士山の頂が望まれた。空気は冷涼、新鮮で、路傍に咲いているエゾキスゲの硫黄色のうてなに、朝露がきらきらと光っていた。釜無川に架けられた仮橋を渡り、さらに田舎道を進み、六時三十分台ケ原に到着した。

 

 日本は慢性的な橋の欠乏症に悩んでいる。雨期明け直後に内陸部を旅行する場合、地図上に記された橋が跡型もないことを覚悟しておかねばならない。その原因は、ほとんどの橋が木造で、洪水の暴威にはとても太刀打ちできないからである。橋の多くは毎夏、恒例行事のように流され、より耐久性のある橋に再建しようにも先立つ資金がない。鉄やコンクリートは、たいてい、大規模な鉄道橋にしか用いられない。

 台ケ原到前後の最重要課題は、案内人の手配であった。何回かむだ足を踏みつつ尋ね歩いた結果、隣の白須村の小農家の主人が一円(二マルク)という破格の日当で駒ケ岳まで案内してくれる、ということが分かった。その人は、暑さや重荷をものともせず常に陽気かつ親切で、飛び切りの好漢であった。

 少しのんびりとしていたので、やっと腰を上げて白須の村をあとにしたのはすでに七時すぎであった。

稲田や明るい感じの森を歩いていると、太陽は早くも肌に痛かった。二十分ほどして、陽気な水音をたてている小川のほとりの小さな神社(甲斐駒ケ岳神社)に着いた。この小社は、聖なる山への登山がここで始まることを示している。日本には、神聖な香気に包まれた山が数多あり、毎年数限りない登山者が訪れる。駒ケ岳もまたそのひとつである。われわれは、溝のようになった険路を小一時間ほどあえぎ登った。幸いなことに、その間ずっと頭上を覆うように茂みが垂れ下がってくれていた。それを抜けると、今度は恐ろしいクマザサが現れた。

 この植物は、時には人間の背丈をはるかに上回る強じんな茎に大きな葉がつき、日本の山を登る際には恐怖の的になる。わたしは熱狂的とも言える植物マニアではあるが、このクマザサだけは、さすがのわたしも心底〈くたばれ〉と呪いたくなった。

そこにゆくとヨーロッパ・アルプスのハイマツなどは、日本のこの悪魔の植物に比べると、楽しみでさえある。洪水のようなクマザサのブッシュは、分け入ることはほとんど不可能で、絶望的な戦を挑まねばならない。両側から頭上に垂れ下がる丈高い茎のもと、うだるような暑さが荒れ狂い、足はすべすべしたクマザサの茎で絶え間なくつるつる滑ってしまう。少しでも山頂に向かって前進したければ、やみくもに両手を洪水の中に突っ込み一歩また一歩と体を引きずり上げるしか術がない。両手はたちまち、八学期目〔ドイツの大学は年二学期制〕を迎えたドイツの学生

の顔のように、蒼白になってしまう。幸いにも、この学期試験のような修羅場はそう長くは続かず、道は良くなり、傾斜もゆるやかになった。大規模な落石や土砂崩れのため道が谷底に突き落とされている個所がいくつかあり、何回か迂回しなくてはならなかった。

 正午頃、案内人が、食事にしよう、と指示を出した。与えられたこの権利に飛びついたのは言うまでもない。わたしは、故郷をほうふつとさせるようなモミの本陰にどっかりと座り込み、冷えた米飯にか

じりついた。

 ふつう、このような山旅の場合、昼食用に、毎朝炊きたての湯気の立つ米飯をベントウ(木製の小箱)に詰めておく。オレンジマーマレードや果実缶詰を添えた冷たい米飯のようなうまい昼食を、故郷のアル

プスでも食べたことがない。どんなパン、どんなサンドイッチより、千倍も食欲をそそるし消化にもよい。

 

 前方はるか彼方、釜無川の向こう側にそびえるのこぎり歯状の八ケ岳連峰(最高峰は二、九三二メート

ル)の眺めはすばらしかった。南を向くと、遠くに、富士山の形のよい山山巓がふたたび頭をもたげてい

た。一時間の休憩後、道はさらに傾斜を増し、シャクナゲの愛らしい桃色の花がここそこに散りばめられた小暗いモミの森の中に入った。午後二時、宿泊用の小屋と水場があるとされている狭い鞍部に達した。だが、悲しいかな、小屋は、まるで空中楼閣のように、ペチャンコになって地面に潰れていた。冬期の積雪のしわざであった。しかも、水場といっても、花肖岩の岩肌に穿たれた葉巻き箱大の窪みのことで、そこに滴り落ちるしずくが集められている。せめてもの救いは、その水が歯に沁みるほど冷たく、とても美味であったことだ。少し時間をかけてあちこち見て回った結果、鞍部直下に何かあることがわかった。近くに行ってみると、岩壁に幾つかの石仏が安置され、一種の祭壇がしつらえられていた。

 日本で、人煙まれな土地や高峰を訪れると、このような石仏や祠によくお目にかかる。この種の石仏や祠はたいていの場合、それほど芸術的につくられているわけではないが、古い日本の深い宗教的感性をどことなく感じさせる風情を見せている。新しい世代はこのような佇まいにいまでは余り関心を示さないが、地方の人びとは深い畏敬の念をいだいている。庶民階級の無数の巡礼者たちが、祈祷をあげるために毎年このような聖地を訪れる。

 まだまだ日が高かった。最初の計画では登頂を翌朝まで待つつもりであったが、急きょ、休憩もそそくさと繰り上げて出発することに決めた。ここまで来るとさすがに、高山の風情が漂っていた。太い鉄鎖の助けを借りてやっとの思いで岩壁を登り終えた。と思うと、またもやハシゴ、本の根、鉄鎖にしがみつかなければ突破できない険路が、深い森のなかに一頻り続いた。小一時間ほど登高を続けると、次に現れたのは、地面を這うような背の低いハイマツ帯であった。ハイマツに混じって、やはり背の低いシャクナゲ(植物名は三好・牧野編の植物図鑑による)がクリーム色の花を覗かせ、ハイマツの暗緑色と不思議な対照を見せていた。登るにつれて、これらの植物もだんだん数が少なくなってきた。巨大な花崗岩が岩礁のようにそそり立ち、深くえぐられた峡谷のすばらしい眺めが開けた。頂上が目前に迫ったところに、漢字が一面びっしりと刻まれた火花崗岩が空に向かってそびえ立っていた。聖なる経文である。風が一段と激しくかつ冷たくなった。

 五時三十分、われわれは二、四〇〇メートル以上の標高差を克服し、ついに頂上に立った。わたしはとるものもとりあえず、まず第一に、はるか北西の彼方、雄大な山並みを見せる日本アルプスに目を向けた。密雲が口本アルプス上空に広くわき上がり、どれがどの山なのかさっぱり分からなかった。周囲三六〇度、山々が大海のように広がっていた。なかでも、八ケ岳の山塊はひときわ目前に迫り、はるか眼下できらめく天竜川の向こう側には、信州の山岳地帯が広がっていた。南を見れば、どこに行っても必ず目を向けたくなる日本の象徴、富士山がピラミッド形の巨体を空高くすっくとのばしていた。目と鼻の先には、白根山と鳳凰山の頂が迫り、花崗岩の黄色の岩肌が、黒々とした森の縁から突き出ていた。わたしはその場に立ち尽くし、粛然として目を凝らし続けた。はるかな高みから未知の世界をはじめて目にするときの血潮の高鳴り。これを理解できるのは、アルピニストの魂だけだ。

そのうち、うっすらとした夕霧が天竜川の谷から上がり、太陽はしだいに深く、深く傾いていった。赤みを帯びた光が富士山の端巌とした頂を包みはじめ、下山を考えねばならない時刻になっていた。

 森林地帯にはすでに深い夕闇が支配していた。ハシゴ、木の根、鎖につかまりながら石仏のある宿営地点に戻ったのは、七時三十分であった。そこには活気がみなぎっていた。わたしたちがいない間に、八人の信仰登山者が登ってきていた。彼らは、燃えさかる焚火を囲んで車座になり、夕餉の支度に余念がなかった。料理の手を動かしながら、盛んに言葉を交し笑い声を立てていた。ひとり残らず、楽しげで何の不安もない表情をしていた。そのため、わたしまでも心から晴れやかな気分になり、しばらく見とれていた。ただ、残念でならなかったことは、そこで太らかに語られている機知に富んだ会話がまったく理解できなかったことである。彼らは夕食が終わると、今度はキセルを吸いはじめ、それがすむと、マントにも兼用できる持参のゴザの上に、長々と体を横たえた。次第次第に静寂が漂いはじめた。もうわたしも眠ることを考えねばならない時刻になった。わたしは、崩壊した小屋から板切れを盛って来て椅子代わりにし、雨外套に身を包みひざ小僧をかかえ、ある聖者の尊い石像(偉大なる弘法大師であろう)に寄りかかった。あまり快適な寝心地ではなかったが、いつのまにか眠り込んでいた。その日の行動はきつかったからである。

 冷たい突風で思わず飛び起きた。時計を見ると-まだ真夜中であった。神秘的な輝きをただよわせた月が、中空にかかり、樹々のこずえごしに野宮地に微光を投げかけていた。まどろんでいる巡礼者たちの焚火の残り火が、まだ弱々しく燃えていた。だが、彼らも起き出した。薪を加えられて、火は再び燃え上がり、にぎやかなおしゃべりが再開された。やがて朝食が始まった。彼らの朝食は、特大の握り飯で、黒褐色の外皮状のものが焚火にかざして暖められ、いかにも日本人の食欲をそそりそうな香りをただよわしていた。彼らはその後、順番にのどの渇きを癒すため例の水櫛へ足を向けた。

日本式の朝に欠かせないガラガラ、パッという音が森の中に音楽のように響いた。そのあと、巡礼者たちは出発の準備にとりかかった。

 出発前に彼らは、朝の祈りをささげるべく石像の前に整列した。この朝の祈祷の、どこまでも魅力的かつ不思議な光景は、決して忘れることができない。石像のおぼろげな輪郭が、月光に照らされた岩肌に投影されていた。祈り続ける巡礼者の姿が黒々と沈み、消えかけているたき火が、彼らの腰のある衣服に踊るような光を投げかけていた。老若ふたりの巡礼者が前に進み出て、祈りを司った。年長の巡礼者は暗い日差しになり、祈りの文句を硬いが朗々たる声で唱え始めた。同時に、まるで祈りを聞き入れることを神に強要でもするかのように、両の腕で鬼気迫る激しい身振りを始めた。いや、それは、呪いの言葉だったのだろうか? 年下の男は、明るい音色を奏でる小さな鈴を振って、ときおり祈りに割って入った。その間、他の巡礼者は声をひとつも発せず、じっと耳を澄ませている様子であった。

この感銘深い光景はおよそ十五分間続いた-そのあと、厳粛な雰囲気は一変して明るい笑い声に変わった。そして、ひとりまたひとりと森の闇の中に姿を消した。これらの人びとがまっ暗な森の中で木の根、ハシゴ、鉄鎖を乗り越えてどのように高みに辿り着いたのか、わたしにはいまもって不思議である。

 四時にやっと空か白み始め、われわれは朝食の準備に取りかかった。だが水場の穴は、巡礼の人びとが最後の一滴まで使い尽くしていた。かすかな雲が空を覆い始めたので、昨日のうちに頂上を踏んでおいてよかった、とつくづくと思った。

 五時を過ぎてすぐ、登って来たときよりも方向を南にずらして下降を開始した。登りよりは、だらだらと長い道ではあったが、その分だけ傾斜がゆるやかであった。九時に白頭に到着し、同行案内人の自宅の庭先で休憩を取った。その間に厚い雲が引き、太陽がぎらぎらと焼けつくように照りつけ出したので、「日野春まで自分の馬を使って下さい」という案内人の申し出に、渡りに船とばかりに飛びついた。木製鞍は固いし馬は純血種ではなかったものの、ますます息苦しくなる炎天のもと日野春までの七キロメートルの道を歩かずにすむことは幸運であった。日野春駅に帰着したのは正午頃であった。一時間後、わたしはボーイを伴って松本へ向かう汽車に乗り込んだ。汽車の旅は死ぬほど暑かった。同乗の日本人たちは涼しげな衣服を着て快適そうにしていたので、ニューギュアに行ったときのことが鮮明に思い出された。途中の駅という駅では、ごく一般的な飲み物、――たいていは緑茶――が大量に飲まれた。しかし、この汽車の旅もついに終点に達した。夕方の五時少し過ぎ、われわれは松本の駅に降り立った。

 






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最終更新日  2020年10月28日 21時48分36秒
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