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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年10月28日
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カテゴリ:甲斐駒ケ岳資料室

鋸岳縦走記 鵜殿正雄氏著

 

『日本の名山 16 甲斐駒ケ岳』

  串田孫一氏・今井通子氏・今福竜太氏 編

  博品社 1997

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

 一、戸台渓

 

 十月六日(大正二年 1913)晴、黒川出発午前六時三十分、二人は小田の間を通って川辺に出た、黒川の流れは瑠璃色の波を九てていつも西へ西へと向っている、樹々の繁り合う対岸の山は、燃えたつような桜楓、黄な衣を纒った樺桂が、緑色の間を点々と彩っている、

「観てゐれば折りたくなりぬ和歌楓」

という東山の詩もさこそと思いやられた、朝日をうけた鋸岳は、濃藍色のギザギザな姿を東空に浮べている、黒川の製材所を見、蛇紋岩のある断崖の下の、湿っぽい道を通り、尾勝の谷口に出た、谷奥にはびこっている岳樺の、黄葉の壮観、半ば雲に隠れていたが、胸がせいせいするような気がした。

 戸台の入口へは、黒川から一里余、戸台川と小黒川との出合の少し上で、現在二軒ある、一軒は昔時平家滅亡後、その家人が落人となって来て、この地に隠栖したという小松某の家で、その時分の遺物があるそうだ、途上ここで泊ることも出来る、いつか赤艶い錆色に変った錆岳は、私等の頭上を圧して、厳めしく突ったってきた。

 戸台の渓流につき、緩傾斜の砂利間をすぎ、右岸に渡り、前岳の基部にあたる山際の雑木林の下を潜って、栃島(宛字)に出た、ここには、山奥に奇らしい赤松の樹が数木あった。右手の方から洞ケ谷(宛

字)という谷が落ちてくる、この谷の入口は、十数丈の断崖で、吊懸谷のようになっていて、口元は狭

いが奥の方は広い。対岸も同じく断崖で、この間は極めて狭い、今より六十年前までは、この断崖が続

いておって、この上流一丁余の間は、小さき池であったそうである。

左川岸に移って少し登ると、獅子岩というがあり、その頭部には、サルオガセを吊った杜松(とどまつ)や、紅葉をかざしたニシキギが、根のまわりに苔を纒ってたっていた。わずかへだって、ウシロットビ沢が左方から、なお少々上流の右方からは濁沢(宛字)と涸沢(宛字)とが、順次続いて落ちてくる。三石と称するところで、丸木橋を渡って右岸に出ると、朱色に役行者と刻まれた小さき石碑が、傍らの大きな漂石上に建立せられていた。

これから数丁のところへ、左方からは、ネキゴ半沢と角兵衛ノ沢(宛字)とが、やや隔てて落ち、この二つの沢の中間にあたるところへ、右方からはウタジク沢(藤太郎の言、沢の字は私が勝手に付したもの)がくる、なお四五丁登ると、右方から水沢(宛字)左方からは熊ノ穴沢(宛字)が朝してくる。この辺から東、駒ケ岳の方へ真直ぐに延びている河原は、赤褐色を呈した花崗岩?が沢山に散乱して、赤く反映するためか、古来この付近一帯の河原を、赤河原と称している。黒川よりここまで約三里、二時五十五分間かかった。

 十五分間ばかり停休して後、熊ノ穴沢に入り、白檜、樅、栂、五葉松、落葉松、扁柏、花柏等の茂っている人跡絶えた、昼もなお暗い密林の内を掻き分けて登る、この密林の終り目が諸岩の押し出しで、傾斜がはなはだしく急になる、点々とある岳樺の梢や、ナナカマドの枝を動かしながら、この急坂を斜めに右に避け、登り易いところを求めて行く。ミソサザイや、五十雀の声が、樹々の梢を掠めてくる。

やがて、いと細き湿布のかかっている或る断崖に、偶然行き当った、水量は人の尿水くらいしかない、

永き旱天の後、このくらいであるから、あるいは不断あるかも知れぬ、がこの沢を上下するものの他は、

先ず使用されぬと云ってよい、ここに瀑布のあることは、今まで何人も知らなかったと、案内省は云っ

た。

 ここは、鋸岳の最南蜂(『山岳』六年三号で星氏の称せられた不動山ならん)に続いた尾根の西北面であろう、断崖の上端に樹つ柴の梢間、及びその上を東西に飛ぶ淡き雲間を透かして、青空が断続的に見える、動くものは蒼穹か雲かまた柴か……人心かとこの小さき瞳が、大なる自然力の一端に触れた、刹那、不覚こんな感が閃いた。滝水を掬い、行李を開いて飢渇を凌ぎ、この断崖を敬遠して左方のやや緩やかな山背を絡み、熊ノ穴沢の主碩に戻り、再び、露出した急坂を旱じ、零時二十分、甲信の国界を割る鞍部(二、

四八二米?)に憩い、西風に浴して汗を拭った。

東方甲州方面は、一帯に雑木が生い繁り露出地が至って少ないが、これに反して西信州方面は、半服以上おおむね禄地で、冗々な岩塊の斜垂、険しき岩壁が多い。赤河原の方からしきりに霧をあおって来る。

 

二、刃渡り

 

これから西北に方る一峰に向い、先年星氏の通られたと覚しき崩潰した赫岩の斜垂にかかった、折々崩岩がガラガラと音がして墜落したが、あるいは同氏の経路と違う所なのかもしれぬ、私はそれほど危険困難を感ぜず無造作に一小隆起を超え、二時五十分一峰(第二高点二、六五五米?)に登った。頂上は甚だ狭く岩片が無作法に積み重ねてあり、傍らには落葉松や岳樺の楼樹が天風に晒され、力なき枝椏を横たえている、濃緑な厚い小葉の上に、紅色の珊瑚をかざしたような苔桃の実は、少なからず私の心をそそり、口中を爽やかならしめた。あいにく霧が多く湧き起り、遠き近き眺望、全く見えの外になってしまった。

 第二高点から偃松の間を通って少しく降れば、一大裂罅(すき)が横たわりて無遠慮に虚空を咬もうとしている、震える足を踏み締めながら一端に立って見ると、十数丈もあろうかと思われる削壁で、容易に一行の通過を許さない、若し過って辷り落ちたならば、五体は粉塵となり、たちまち鬼籍の人となるであろう、かつて星氏の前進を阻められた所もまたここか。二人は信州側に少し下って探したが下れそうなところが更にない、次に偃松、岳樺、ナナカマド等の叢間を押し分け、甲州方面を探り、一丁ばかりでようやく、雑木に蔽われた薄暗い硲に下った、面削壁は、わずかに身を容れ得るほどに迫り、その虚隙からは、水が滴れていた、たまたま日が南から西へと傾き、まいて、霧がいっぱい罩(こめ)て来て、一層暗くなったので、恐ろしく陰影ないやな感じがした。この峭間(しょうま)を二人接行するのは、岩石墜落の恐れがあるから、案内省を先に駆らせ、私は蝙蝠のように側壁の一部にしがみつき、不定の間隔をとり、彼の声を合図に登って鞍部に出た。ここは丁度二個の薬研の各尖端を横に斜断し、への字(勿論凹部を空に向け四十五度の勾配に)形に続き合わせたような所で、両手は充分に張れないほど狭い、伊那町方面から望見すると、あたかも木匠の使う横鋸の歯間のような形態のところを天半に曝し、常に私共を威嚇しているかの如く見えるものはここである、とにかく、絶大なる斧鋸で彫刻したものは、私等の擬し得ない妙味がどこかに潜んでいる。信州側は硬砂岩の諸茶けた崩塊が中腹まで続いていた。

 国界を辿って最高峰に行くべく苦心したが、思うようにいかないので、少し信州側に下り、やや見込みのありそうな所を発見して、藤太郎を偵察にやった、が空しく引き還して来た。峭壁の基部を大迂回して行けば、勿論行けるかもしれぬ、しかし今日はもう晩い、今からすぐ、赤河原に下って一泊し、明日決行するにしても、この谷が容易に下れるや否や覚束ないので、前の鞍部に返って、今度は甲州側に下らずに、分水界を通って、第二高峰に戻る径を、南方岫壁の一部に見出した、ここは最初下りの際、その峭頭に臨み、急峻なのに驚いて避けた場所とは、わずかばかりしか隔たっていなかった。

かような捷径が知れてみれば、来路を赤河原に下るには、まだ早いから、もう一遍前進を企ててみようと思い、この度は二人協力して、小さい樺の樹の基部を手頼りとし、先ず藤太郎をして危げな一岩角を超えしめ、上方の偵察を命じたところ、しばらくたって、とにかく尾根の一部に登れると云って、喜んで返って来た、そこで樺の木(もしこの木が失せたなら、容易にここは越せまい)の株際に綱をかけ、荷物を引き揚げ、私も続いてここを登り、狭き山稜で最高峰の南方に連なっている、二つの同局なる隆起を登降し、午後三時四十分、ついに最高峰(二、六七四米?)を迎えた。

 絶頂は心臓形に尖って、はなはだ狭く御料局第三号と彫刻せられた花肖岩の標石が建てられてあり、傍らに崩岩の破片が、積み重ねられてあった。これによって見ると、本岳絶頂の先登者は、測量部の連中かもしれぬ。ここでもまた霧のために、どこもよく見えなかった。ただ、北方間近の小峰頭にある、破れた測櫓の一柱が、霧の漂う間から、かすかに透かされた、これが多分、陸地測量部で建てた、鋸岳主脈中唯一の測櫓であろうと思い、そこまで行くことに定め、午後四時、名刺を残して最高峰に別れをつげた。

 途中、二、五九一米?の一小峰を超え、三十分を経て、第四高峰(最南峰不動ノ頭を第三高峰と仮定して云う)についた。この峰は南北に細長い尾根をなして、約一丁ほどあり、南方国郡界のある地点が、

最高で、三角点は北端の一、二米低い所にある。測量をした時の切り間けが、まだ判然と残っている。

付近には測櫓の破片罐詰及び、ビール瓶の殼、穿きすてた草絃などが散乱していた。今まで最高峰へ行ったものは、極めて少なかったようだが、この峰までは甲信の猟師や寸柏採りなどが、年々沢山登るらしい。ここからは、尾根続きに北々西に延び、いったん低くなって再び頭を擡(もた)げた一峰(編笠山?二、五一五米)と、横岳峠(西方)、白岩岳(西北)等がちょっと見えた、編笠行はしばらく預りとし、五時に出発して横岳峠に向った。

 

 三、降路

 

峰近くの所には、偃松や樺等が所々にある、寸柏・苔桃も見た、間もなく白檀、樅、栂の林の中に没した、国界郡界を測量された際の切明け跡が、まだついていたので、間違うような心配もなく、四十分ほどたって横岳嶺(二、〇三〇米?)の頂に出た。

 この峠を南へ下ると、前に記した三角点のある峰から出て来るネキゴヤ沢に会する、どこまでもこの沢について下れば、戸合川に出られる、しかし日暮れたうえ、道の悪い所が比較的長いので、北沢峠の方に向っている殺生径(殺生するものの多く通う所)を通って角兵衛ノ沢により、これを降って赤河原に出た。この沢の内は短く水はなかった、が大石に当り、横たわった栃木に遮られ、途中で尻餅をつき、はなはだ困難な目にあった、河原に出て、提灯を振り照らし、午後九時半、漸く旅舎に戻った。

 

付記

◆ 小島氏は、『山岳』八年一号でこの山の危険な程度を「飛騨山脈の穂高岳から槍ケ岳への縦走を、小規模に短時間に切り 詰めた観がある」とせられた、大体そんな按配であるが、私の想像したよりは小なるものであった。しかし最高峰と次高 峰との間は、前述の通り、至って危険の個所が多いから、低小な山であるなどと侮って、不測の災いを蒙らざるよう、ここに一言する。

 

❖ 植物鉱物等の奇品はないが、数多き鋸岳中の代表的怪物、同好者の一度は、足跡を印すべき価値ある山だ。

❖ 本文に記した標高中?印を付せるものは、私が空意晴雨計にて、測定したるものを、陸地測量部にて発表せる標高に合わせて、更正したるもので、真高と大差なきものと思う。

❖ 別頁付図は、「参、調」のものを土台とし、通過の際見取ったことの、大要と、藤太郎より聞いたこととを記した。勿論 精査したわけでないから、間違った個所もあるかもしれぬ。

 






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最終更新日  2020年10月28日 21時49分48秒
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