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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年10月28日
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カテゴリ:甲斐駒ケ岳資料室

甲斐駒ケ岳 秋の遠方 秋谷豊

 

『日本の名山 16 甲斐駒ケ岳』

  串田孫一氏・今井通子氏・今福竜太氏 編

  博品社 1997

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

遠くの町からぼくはやって来たのだ

原生林の落葉のさかりのなかヘ

一夏よく知っている七丈小屋の方へ

 

さむい小駅の仮睡の中から

ゆっくりとぼくは目をさまして

キスリングザックを肩に

濃い霧のなかへ出かけていった

陽が一日を閉じるように

一つの昼のなかでぼくは静かに

登攀を夢みるのだ

 

その午前 屏風岩のあたりで

見しらぬ一人の友と出遭う

彼は昨日仙丈岳をこえてきたと言う

――山の色は一面燃えているようです

それにしても彼のどっしりと重い微笑は

何という高山草に似ているだろう

 

ああ 十月の甲斐駒

霧に捲かれ

黒い岩の凹みからぼくは岩頭を狙うのだが

かつての夏の日

空をひき裂く電光が映し出した

ぼくの記憶の襞(ひだ)には

白く崩れ落らでいく山頂があり

 

褐色の雷鳥の冷いねむりがある

遠くの町からぼくはやって来たのだ

やがて新雪のおとずれる山稜へ

偃松と偃松が重なり合っている暗い方へ

 

甲斐駒ケ岳 単独行の夜 古井由吉氏著

 

『日本の名山 16 甲斐駒ケ岳』

  串田孫一氏・今井通子氏・今福竜太氏 編

  博品社 1997

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

 年に数回新宿・松本間を仕事で往復する男がそうして三年近く経った或る日のこと、韮崎過ぎの車窓から、こんな近くにこんな高い山が、まるで昨日地から突き上げたばかりのように立っているのに驚かされた。

それが十何年か前に自分も登ったことのある甲斐の駒ケ岳であることに気がつくまでに、多少の間があったという。

人の目と記憶ほど頼りにならないものはない。しかし甲斐駒自身にも、そんなように車窓から間近に眺められながら見すごされるところがある。あまりにも間近なのだ。あれはどの山ならば普通は前山の尾根の重なりの彼方から爽やかな峰をのぞかせて、車窓の目をはるかに吸い寄せるものであるのに、これは前山などがまず控えているべきところにいきなり全身を、根もとから天辺まであらわしてしまう。

人の目はそんな高度を自然には押し上げられない。新宿を発って信州の境の手前ではまだ高山を見上げる準備ができてもいない。だから、中腹から上が多少とも腐って紛れていると、山国の空というものは重苦しいものだな、などと思いながら、蜂のある気配にも目を凝らさず打ち棄てておく。

                                                  

ところが空の光が静まるとき、甲斐駒は遠近のばかしを受けつけない質感をもって、農家のちらほら見える山麓から三千メートル近くの頂まで一気に突き上げる。静的な眺望となっておさまりはしない。

山の生成が追ってくる。激しい生成がつかのま凝固して、唯一無二の形を取って、次の動きへ息を凝らしている。いや、動いているようにさえ見える。根元から突き上げる力を細くは尖らさずに、むしろ重たるく集めた蜂の丸い頭が、時間の大海を渡っていく。峰の右手の鋸状の尾根は波を押し分ける舳先、鮮やかに白い、蜂の花圈岩の崩れは、吹きかかる時間の飛沫……。

 今から二十年近く前の、十月なかばの或る夜、私はその甲斐駒の七合目の小屋の床にたった一人寝袋にくるまって転がっていた。こわばったような眠りがすこしでも浅くなると、風が谷から吹き上げ、小屋の裏手から人が喘ぎ走ってくるようなさざめきが近づき、トタン屋根を木の実がぱらぱらと叩いて通り過ぎる。そのたびに、私は頭をすこし起して足もとのほうを見る。窓から月の光がぼうっと床に流れている。そしてそこに人が膝を抱えてうつむきこんでいるような、そんな気配がどうにも払いのけられない。

 その前の晩、私は麗の駒岳神社に泊って、良くない話を聞かされてきた。そのまた前の晩、七丈小屋で私と同じような若い男が睡眠薬自殺を図り、薬が回りきらなかったのか、小屋の前の水垢まで這い出てきてそのまま昏睡していたのを、翌日になって通りかけた登山者が見つけて、その日で仕舞う五丈小屋へ知らせ、麗へ担ぎ下ろすの病院へ運びこむの、大騒ぎをしたという。

 一命は取り止めたというので私はたいして気にも病まなかった。そして朝まだ暗いうちに神社を出て、ひと汗かいたところで、三方の尾根が霧の中からひとすじずつ明けてくるのを眺め、単独行者というものはとかくそうなのだが、雲ひとつない空と樹林の香りに酔ったように歩いて、苦もなく七丈小屋まで着き、まだ昂ぶった気持がおさまらず、荷物を小屋に放りこんで、またすこし登るうちに、明朝来るつもりの頂上まで来てしまった。踏みしめて登った厚い霜柱が、頂上からあまりにも清澄な夕暮れの空と山を非現実のもののように見渡してきたその帰りには、足もとでさっきよりも冴えた冬の音を立てた。

巌の裂け目に天へ向けて突きたてられた無数の赤くボロボロに錆びた鉄の剣が、けうとかった。それか

ら小屋にもどってT人で夕飯をつくって喰い、後をかたづけてウイスキーを飲み、寝るばかりになって

喉の渇きを覚え、水場に出て、ゴムホースで引かれた水の、細さにもどかしくなってホースに口をつけたとき、そのときようやく思い出した。 

 単独行の山の夜は、死者や亡霊が恐いのではなく、むしろ生者が、つまりここではたった一人の生者である自身が恐いのだ。物の数にも入らぬちっぽけな存在が、とにかく自分は生きているという意識によって、巨大な自然の沈黙と、おのずと張り合ってしまうのだ。

 あの夜、私は七丈小屋の床の上で生殺しの眠りの中から、吹き渡る風を聞き、ときおり山鳴りのように湧き起る虚ろな轟きを聞きながら、麗にむかって剥き出しに立つ甲斐駒を、時の大海にじかにさらされた山頂と白くあがる飛沫をじっと思い浮べて、我が身の存在をしのいでいた。

 

甲斐駒ケ岳(二九六六米) 深田久弥

 

 『日本の名山 16 甲斐駒ケ岳』

  串田孫一氏・今井通子氏・今福竜太氏 編

  博品社 1997

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

 

東京から山の国甲斐を貫いて信州に行く中央線。

私たち山岳宗徒にとって最も親しみ深いこの線路は、一たん甲府盆地に馳せ下った後、今度は釜無川の谷を左手に見おろしながら、信州の方へ喘ぎながら上って行く。さっきまで遠かった南アルプスが、今やすぐ車窓の外に追ってくる。甲斐駒ヶ岳の金字塔が、怪異な岩峰摩利支天を片翼にして、私たちの眼をおどろかすのもその時である。汽車旅行でこれほど私たちに肉薄してくる山もないだろう。

釜無川を距て仰ぐその山は、河床から一気に二千数百米も突きあげているのである。

 日本アルプスで一番代表的なピラミッドは、と問われたら、私は真っ先にこの駒ヶ岳をあげよう。その金字塔の本領は、八ヶ岳や霧ヶ峰や北アルプスから望んだ時、いよいよ発揮される。南アルプスの巨

峰群が重畳している中に、この端正な三角錐はその仲間から少し離れて、はなはだ個性的な姿勢で立っている。まさしく毅然という形容に値する威と品をそなえた山容である。

 日本アルプスで一番奇麗な頂上は、と訊かれても、やはり私は甲斐駒をあげよう。眺望の豊かなことは

言うまでもないとして、花園岩の白砂を敷きつめた頂上の美しさを推したいのである。信州ではこの山を白崩山と呼んでいたが、その名の通り、遠くからは白砂の峰に見えるのである。私が最初にこの峰に立った時は、信州側の北沢小屋から仙水峠を経、駒津峰を越えて行った。六方石と称する大きな岩の傍を過ぎると、甲斐駒の広大な胸にとりつくが、一面に真白な砂礫で眼映ゆいくらいであった。九月下旬のことでその純白のカーペツトの上に、所どころ真紅に紅葉したクマコケモモが色彩をほどこしていて、さらに美しさを添えていた。ザクザクと白い砂を踏んで、頂上と摩利支天の鞍部へ通じる道を登って行くのだが、あまりにその白砂が奇麗なので、踏むのがもったいないくらいであった。南アルプス中で、花崗岩の砂疎で美しいのは、この甲斐駒とお隣りの鳳凰山だけである。

 頂上に花崗岩の玉垣をめぐらした祠のほかに、幾つも石碑の立っているのをみても、古くから信仰の篤かった山であることが察しられる。祭神は大己(おおなむ)(ちの)(みこと)で、昔は白衣の信者が登山道に続いたものだという。その表参道ともいうべきコースは、甲州側の台ケ原あるいは柳沢から登るもので、両登山口にはそれぞれ駒ケ岳神社がある。この二つの道は、山へ取りかかって間もなく一致するが、それから上、頂上までの道の途中に、鳥居や仏像や石碑が点綴されている。

 日本アルプスで一番つらい登りは、この甲斐駒ヶ岳の表参道かもしれない。何しろ六百米くらいの山麓から、三千米に近い頂上まで、殆んど登りずくめである。わが国の山で、その足許からてっぺんまで

二千四百米の高度差を持っているのは、富士山以外にはあるまい。

木曽駒ケ岳は、木曽からも伊那側からも、それに近い高度差を持っているが、登山道は緩く長くつけられている。甲斐駒ほど一途に頂上を目がけてはいない。

 甲斐駒の表参道は、途中の黒戸山あたりの弛みを除けば、あとは急坂の連続である。上へ行くにつれて傾斜は激しくなり、険しくなり、梯子や鉄の鎖や針金などが次々とあらわれる。山麓から一日で頂上へ達するのは普通不可能であって、五合目あるいは七合目の小屋で一泊しなければならない。

 わが国には駒ケ岳と名のつく山が多いが、その筆頭は甲斐駒であろう。西にある木曽駒ケ岳と区別するために、以前は東駒ケ岳と呼ばれたが、今は甲斐駒で通っている。山名の由来は、甲州に巨摩郡、

駒城村などの地名のあるところから推しても、かつて山麓地方に馬を産する牧場が多かったので、それ

に因んだものと思われる。

 甲斐駒ケ岳は名峰である。もし日本の十名山を選べと言われたとしても、私はこの山を落さないだろ

う。昔から言い伝えられ崇められてきたのも当然である。この山を讃えた古い漢詩を一つ最後にあげて

おこう。「駒ケ岳ヲ望ム」と題し、僧海量の作である。

 

甲峡ニ連綿トシテ丘壑(きゅうがく)重ナル

雲間独り秀ズ鉄驪(てつり)ノ峰

五月雪消モア絶頂ヲ窺ヘバ

青天ニ削出ス(へき)芙蓉(ふよう)

 

言うまでもなく鉄驪(てつり)ノ峰とは甲斐駒のことである。これは甲州側から映じたのだが、信州側からすれ

ば碧芙蓉でなく白芙蓉ということになろうか。

 

 

甲斐駒ケ岳‥タカネバラ 田中澄江

 

『日本の名山 16 甲斐駒ケ岳』

  串田孫一氏・今井通子氏・今福竜太氏 編

  博品社 1997

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

 仙丈、北岳の次はどうしても甲斐駒と思いこんでいたけれど、何回も、豪雨や雷雨で中止した。

 豪雨でも雷雨でも、あくる日は晴天になるのだからとも思うのだけれど、私は雷アレルギーが強い。

立山の薬師岳で、浅間高原で、火柱が前後左右に落ちて、死とすれすれの思いになったことがある。甲斐駒二九六六メートルの直下二〇〇メートルは岩ばかりと間いているので、その最後の一登りのところで雷に出あったらと思うさえ胸がちぢむ。

 その二〇〇メートルの登り下りの二時間近い間だけでも空か晴れていることを願って、一番らくなコースの仙水小屋一泊。早朝登山を実現したのは数年前の九月。峠から駒津蜂二七四〇メートルまでに四

時間を費やし、十二時までに頂上を極めて下りてくれば、雷雲は発生しないであろうと、岩尾根にタカネバラ、キバナノコマノツメ、ミヤマバイケイソウ、トウヤクリンドウ、クモイハタザオ、ダイモンジソウ、イワオトギリのほか数十種の花々を見いだし、甲斐駒には花が少ないと言われているけれど、このルートにはこんなにあると喜んで、のろのろと摩利支天の岩壁に辿り着いた。十時半であった。

花崗岩の砕けた砂地を頂上に向かってあと一歩という時、いきなり稲光り三度。雷鳴三度がおそい、雨も沛然と降って来て、私は一時間半ほど、岩かげで停滞。一切無言。全身硬直の状態となり、ようやく、午後一時に仙水小屋のアルバイトの明大生に手をひかれるという世にも情けない姿で、出雲系の神を祭る駒ケ岳神社の本殿の前に立てた。「国譲り」に敗れて、諏訪盆地に住みついたタケミナカタノミコトはこの山の姿を仰いで、わが祖先をこの頂きに祭れと言われたとか。

 帰路に甲斐駒と摩利支天をつつんだ大きな虹を見てうれしかった。ミソガワソウ、フジアザミ、ヤナギラン、ヤグルマソウ以下、またも数十種の花々を見つけてこれも嬉しかった。

 苦しい登り下りであったのに、以来中央線の窓から甲斐駒の、岩の殿堂ともいうべき偉容に出あうたび、また登りたくなり、あの花々に出あいたくなる。

 

白崩岳(駒ヶ岳)に登る記 高橋白山

 

(読み下し・注=山崎安治)

『日本の名山 16 甲斐駒ケ岳』

  串田孫一氏・今井通子氏・今福竜太氏 編

  博品社 1997

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

辛巳(かのとみ)の秋(明治十四年)、伊藤瀬平と白崩岳に登る。岳は上伊那郡の極東に在り。

其の険絶をもって、登る者はなはだ希なり。

よって行程を識り、後に遊ぶ者を啓せんと欲し、

九月五日、薄食に発し、非持、溝口の二村を経て、三峰川東岸に出づ。

二里二十四町にして黒河内村に至る。

路は両岐となり、右は鹿塩に通じ、左は白崩に達す。

小黒何の傍に一小村あり。坂に倚り、(のき)を架する者十八戸。名を黒河という。

また行くこと二十八町にして戸台に至る。途に二つの奇石を見る。

其の一つは高さ七、八間、長さ六十七間にして全岩が蛇紋、頂に白斑あり、形状は鷹に似たり。

よって雄鷹岩という。其の一つは川を隔て、林木の表に出る。

基は小さく、頂は大にして巨傘を張りたるが如し。故に傘石と称するあり。

戸台の戸は三、口は十二にして老有一株あり。

樹心は空洞にして苔、外皮を蝕み、揖拙は様柝す。

左に折れ、東の渓に入れば二家あり。藤戸袋という。瀬平曰く。

久保田兼松という者あり、余と同甲にして黒河内校に学ぶ。

往来四里ばかり、いまだかつて懈怠なし。

県令永山盛輝これを褒し物を賜ると云う。

日はすでに下春となり、よって久保田氏に宿す。六日起れば、大霧にして咫尺を弁ぜず。

屋を出づれば日はすでに高し。

行くこと五、六町にして白岩、螺岩ありて路の傍に対時す。

白岩は三石に至り、数百歩の間河水地に入る。

三石以上は清流隠見し、(ゆう)(りんはつらつ)溌剌たり。

(すなど)るものは、巨石を転ずればすなわち、水はたちどころに涸れ、捕獲甚だ多しという。

流れを遡ること一里三十町、雄勝、地蔵の二岳の間を過ぎれば白崩の麓に到る。

山は皆白沙、松は皆五葉にして、景色ははなはだ奇なり。

是に至れば河水二派を見、東に流れるは甲斐早川となり、西に流れるは即ち小黒河なり。

源窮は山を削る如く、危石頭を圧し、勢はまさに墜下(ついか)せんとす。

歩々砂崩れ、石を転し、いよいよ登ればいよいよ険しく、矮松地に着き蔓草の如し。

山腹に至れば寸木も生ぜず。ただ万石飛起して天を指さすを見るのみ。

いまだ頂上へ至らざる八、九町のところに平らなるところありて就憩す。

西北に鵝湖を望み、長々として星の如し。

東南に巨麻、白峰、鳳凰の諸岳、遥か駿連国界に連なる。

瀬平曰く。頂上は極めて高し、午を過ぎれば必ず曇れり

すなわち気を鼓して上る。

達すればすなわち雲すでに合し、迅風衣を払い、力を極めて健めれども、

脚を置きて安んずることをあたわず。

すなわち岳ノ神廟に謁して山を下る。

兜城の岳麓に至る。約五里十町。麗より以上の里数は詳らかならず。

袖時儀を按ずるに経過すること二時三十分也。  (原漢文)

 

甲州駒ケ岳(甲斐駒ヶ岳)

 

ヴイルヘルム・シュタイニッツアー (安藤勉訳)

 

『日本の名山 16 甲斐駒ケ岳』

  串田孫一氏・今井通子氏・今福竜太氏 編

  博品社 1997

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

 われわれは汽車でまず甲府に向かった。甲府までの距離はわずか百二十キロメートルであったが、列車がこの距離を進むのに夕方の六時三十分までかかった。それというのも、まず第一に、甲府は東京よリ三百メートル標高が高い。第二には、日本の鉄道はヨーロヴパのそれのような神経質な性急さにはむ

とんちやくで、おのれの軌道を慎重かつ威厳をもってひたすらたどるからだ。甲府までの汽車の旅は、

ものすごい数のトンネルで興ざめしたものの、それでも、とても魅力にあふれていた。甲府は、四方八

方が高峰に囲まれた大盆地で、西方には日本で最大最高の山脈がそびえ立っている。わたしは、まず手

はじめに、この山脈に登る心積もりである。

 この山脈は本来の日本アルプスには属してはいないが、またとない絶好の機会を授けてくれた。果てしない日本の山岳を少しでも多く体験できるし、山というものにまったく無縁なわがボーイが新しい世界に順応してゆく様子をこの目で確かめることができるからである。

この連峰は、無数の高峰を擁する広大な山脈で、代表的な山には白根山〔北岳・間ノ岳・農鳥岳の総称。単に北岳だけを指すこともある〕(三千百五十メートル)、甲州駒ケ岳(三、〇〇一メートル??)、鳳凰山(二、九一〇メートル)などがある。

 

目ざす山は駒ケ岳である。

出発地点は、甲府から鉄道で一時間のところにある日野春駅であった。夕方六時四十五分にやっとの思いで列車から降りたときは、すでに夜のとばりはおり、幸先よく満天の星が輝いていた。宿屋は幸いにして、とてもまともなところがすぐ見つかった。夕食をかき込むようにして食べ終わるが早いか、岩壁、岩棚、岩壁の割れ目などの夢を見るべく、やわらかい〈フトン〉(綿が入った厚い寝具、日本にはベッドはない)にもぐり込んだ。

 翌朝四時、部屋の障子を開け放つと、ちょうど束の空が白み始めるところで、雲ひとつない空か素敵

な一日を約束してくれていた。まるで今始まろうとしている山旅の前途を祝福してくれているかのようであった。慌ててボーイを起こすと、さらにボーイが宿の人びとを起こした。リュックザックに荷を詰め、朝食を済ませ、日野春を出発したときは、五時を少し回っていた。日野春では案内人は得られなかったが、開くところによると約七キロメートル先の台ケ原には居るとのことであった。われわれは、意気揚々と山々に向かって一歩一歩進んだ。行く手には釜無川の向こうに駒ケ岳がどっしりとした山容を見せ、振り返ると、はるか彼方に、まだ雪をいただいている富士山の頂が望まれた。空気は冷涼、新鮮で、路傍に咲いているエゾキスゲの硫黄色のうてなに、朝露がきらきらと光っていた。釜無川に架けられた仮橋を渡り、さらに田舎道を進み、六時三十分台ケ原に到着した。

 

 日本は慢性的な橋の欠乏症に悩んでいる。雨期明け直後に内陸部を旅行する場合、地図上に記された橋が跡型もないことを覚悟しておかねばならない。その原因は、ほとんどの橋が木造で、洪水の暴威にはとても太刀打ちできないからである。橋の多くは毎夏、恒例行事のように流され、より耐久性のある橋に再建しようにも先立つ資金がない。鉄やコンクリートは、たいてい、大規模な鉄道橋にしか用いられない。

 台ケ原到前後の最重要課題は、案内人の手配であった。何回かむだ足を踏みつつ尋ね歩いた結果、隣の白須村の小農家の主人が一円(二マルク)という破格の日当で駒ケ岳まで案内してくれる、ということが分かった。その人は、暑さや重荷をものともせず常に陽気かつ親切で、飛び切りの好漢であった。

 少しのんびりとしていたので、やっと腰を上げて白須の村をあとにしたのはすでに七時すぎであった。

稲田や明るい感じの森を歩いていると、太陽は早くも肌に痛かった。二十分ほどして、陽気な水音をたてている小川のほとりの小さな神社(甲斐駒ケ岳神社)に着いた。この小社は、聖なる山への登山がここで始まることを示している。日本には、神聖な香気に包まれた山が数多あり、毎年数限りない登山者が訪れる。駒ケ岳もまたそのひとつである。われわれは、溝のようになった険路を小一時間ほどあえぎ登った。幸いなことに、その間ずっと頭上を覆うように茂みが垂れ下がってくれていた。それを抜けると、今度は恐ろしいクマザサが現れた。

 この植物は、時には人間の背丈をはるかに上回る強じんな茎に大きな葉がつき、日本の山を登る際には恐怖の的になる。わたしは熱狂的とも言える植物マニアではあるが、このクマザサだけは、さすがのわたしも心底〈くたばれ〉と呪いたくなった。

そこにゆくとヨーロッパ・アルプスのハイマツなどは、日本のこの悪魔の植物に比べると、楽しみでさえある。洪水のようなクマザサのブッシュは、分け入ることはほとんど不可能で、絶望的な戦を挑まねばならない。両側から頭上に垂れ下がる丈高い茎のもと、うだるような暑さが荒れ狂い、足はすべすべしたクマザサの茎で絶え間なくつるつる滑ってしまう。少しでも山頂に向かって前進したければ、やみくもに両手を洪水の中に突っ込み一歩また一歩と体を引きずり上げるしか術がない。両手はたちまち、八学期目〔ドイツの大学は年二学期制〕を迎えたドイツの学生

の顔のように、蒼白になってしまう。幸いにも、この学期試験のような修羅場はそう長くは続かず、道は良くなり、傾斜もゆるやかになった。大規模な落石や土砂崩れのため道が谷底に突き落とされている個所がいくつかあり、何回か迂回しなくてはならなかった。

 正午頃、案内人が、食事にしよう、と指示を出した。与えられたこの権利に飛びついたのは言うまでもない。わたしは、故郷をほうふつとさせるようなモミの本陰にどっかりと座り込み、冷えた米飯にか

じりついた。

 ふつう、このような山旅の場合、昼食用に、毎朝炊きたての湯気の立つ米飯をベントウ(木製の小箱)に詰めておく。オレンジマーマレードや果実缶詰を添えた冷たい米飯のようなうまい昼食を、故郷のアル

プスでも食べたことがない。どんなパン、どんなサンドイッチより、千倍も食欲をそそるし消化にもよい。

 

 前方はるか彼方、釜無川の向こう側にそびえるのこぎり歯状の八ケ岳連峰(最高峰は二、九三二メート

ル)の眺めはすばらしかった。南を向くと、遠くに、富士山の形のよい山山巓がふたたび頭をもたげてい

た。一時間の休憩後、道はさらに傾斜を増し、シャクナゲの愛らしい桃色の花がここそこに散りばめられた小暗いモミの森の中に入った。午後二時、宿泊用の小屋と水場があるとされている狭い鞍部に達した。だが、悲しいかな、小屋は、まるで空中楼閣のように、ペチャンコになって地面に潰れていた。冬期の積雪のしわざであった。しかも、水場といっても、花肖岩の岩肌に穿たれた葉巻き箱大の窪みのことで、そこに滴り落ちるしずくが集められている。せめてもの救いは、その水が歯に沁みるほど冷たく、とても美味であったことだ。少し時間をかけてあちこち見て回った結果、鞍部直下に何かあることがわかった。近くに行ってみると、岩壁に幾つかの石仏が安置され、一種の祭壇がしつらえられていた。

 日本で、人煙まれな土地や高峰を訪れると、このような石仏や祠によくお目にかかる。この種の石仏や祠はたいていの場合、それほど芸術的につくられているわけではないが、古い日本の深い宗教的感性をどことなく感じさせる風情を見せている。新しい世代はこのような佇まいにいまでは余り関心を示さないが、地方の人びとは深い畏敬の念をいだいている。庶民階級の無数の巡礼者たちが、祈祷をあげるために毎年このような聖地を訪れる。

 まだまだ日が高かった。最初の計画では登頂を翌朝まで待つつもりであったが、急きょ、休憩もそそくさと繰り上げて出発することに決めた。ここまで来るとさすがに、高山の風情が漂っていた。太い鉄鎖の助けを借りてやっとの思いで岩壁を登り終えた。と思うと、またもやハシゴ、本の根、鉄鎖にしがみつかなければ突破できない険路が、深い森のなかに一頻り続いた。小一時間ほど登高を続けると、次に現れたのは、地面を這うような背の低いハイマツ帯であった。ハイマツに混じって、やはり背の低いシャクナゲ(植物名は三好・牧野編の植物図鑑による)がクリーム色の花を覗かせ、ハイマツの暗緑色と不思議な対照を見せていた。登るにつれて、これらの植物もだんだん数が少なくなってきた。巨大な花崗岩が岩礁のようにそそり立ち、深くえぐられた峡谷のすばらしい眺めが開けた。頂上が目前に迫ったところに、漢字が一面びっしりと刻まれた火花崗岩が空に向かってそびえ立っていた。聖なる経文である。風が一段と激しくかつ冷たくなった。

 五時三十分、われわれは二、四〇〇メートル以上の標高差を克服し、ついに頂上に立った。わたしはとるものもとりあえず、まず第一に、はるか北西の彼方、雄大な山並みを見せる日本アルプスに目を向けた。密雲が口本アルプス上空に広くわき上がり、どれがどの山なのかさっぱり分からなかった。周囲三六〇度、山々が大海のように広がっていた。なかでも、八ケ岳の山塊はひときわ目前に迫り、はるか眼下できらめく天竜川の向こう側には、信州の山岳地帯が広がっていた。南を見れば、どこに行っても必ず目を向けたくなる日本の象徴、富士山がピラミッド形の巨体を空高くすっくとのばしていた。目と鼻の先には、白根山と鳳凰山の頂が迫り、花崗岩の黄色の岩肌が、黒々とした森の縁から突き出ていた。わたしはその場に立ち尽くし、粛然として目を凝らし続けた。はるかな高みから未知の世界をはじめて目にするときの血潮の高鳴り。これを理解できるのは、アルピニストの魂だけだ。

そのうち、うっすらとした夕霧が天竜川の谷から上がり、太陽はしだいに深く、深く傾いていった。赤みを帯びた光が富士山の端巌とした頂を包みはじめ、下山を考えねばならない時刻になっていた。

 森林地帯にはすでに深い夕闇が支配していた。ハシゴ、木の根、鎖につかまりながら石仏のある宿営地点に戻ったのは、七時三十分であった。そこには活気がみなぎっていた。わたしたちがいない間に、八人の信仰登山者が登ってきていた。彼らは、燃えさかる焚火を囲んで車座になり、夕餉の支度に余念がなかった。料理の手を動かしながら、盛んに言葉を交し笑い声を立てていた。ひとり残らず、楽しげで何の不安もない表情をしていた。そのため、わたしまでも心から晴れやかな気分になり、しばらく見とれていた。ただ、残念でならなかったことは、そこで太らかに語られている機知に富んだ会話がまったく理解できなかったことである。彼らは夕食が終わると、今度はキセルを吸いはじめ、それがすむと、マントにも兼用できる持参のゴザの上に、長々と体を横たえた。次第次第に静寂が漂いはじめた。もうわたしも眠ることを考えねばならない時刻になった。わたしは、崩壊した小屋から板切れを盛って来て椅子代わりにし、雨外套に身を包みひざ小僧をかかえ、ある聖者の尊い石像(偉大なる弘法大師であろう)に寄りかかった。あまり快適な寝心地ではなかったが、いつのまにか眠り込んでいた。その日の行動はきつかったからである。

 冷たい突風で思わず飛び起きた。時計を見ると-まだ真夜中であった。神秘的な輝きをただよわせた月が、中空にかかり、樹々のこずえごしに野宮地に微光を投げかけていた。まどろんでいる巡礼者たちの焚火の残り火が、まだ弱々しく燃えていた。だが、彼らも起き出した。薪を加えられて、火は再び燃え上がり、にぎやかなおしゃべりが再開された。やがて朝食が始まった。彼らの朝食は、特大の握り飯で、黒褐色の外皮状のものが焚火にかざして暖められ、いかにも日本人の食欲をそそりそうな香りをただよわしていた。彼らはその後、順番にのどの渇きを癒すため例の水櫛へ足を向けた。

日本式の朝に欠かせないガラガラ、パッという音が森の中に音楽のように響いた。そのあと、巡礼者たちは出発の準備にとりかかった。

 出発前に彼らは、朝の祈りをささげるべく石像の前に整列した。この朝の祈祷の、どこまでも魅力的かつ不思議な光景は、決して忘れることができない。石像のおぼろげな輪郭が、月光に照らされた岩肌に投影されていた。祈り続ける巡礼者の姿が黒々と沈み、消えかけているたき火が、彼らの腰のある衣服に踊るような光を投げかけていた。老若ふたりの巡礼者が前に進み出て、祈りを司った。年長の巡礼者は暗い日差しになり、祈りの文句を硬いが朗々たる声で唱え始めた。同時に、まるで祈りを聞き入れることを神に強要でもするかのように、両の腕で鬼気迫る激しい身振りを始めた。いや、それは、呪いの言葉だったのだろうか? 年下の男は、明るい音色を奏でる小さな鈴を振って、ときおり祈りに割って入った。その間、他の巡礼者は声をひとつも発せず、じっと耳を澄ませている様子であった。

この感銘深い光景はおよそ十五分間続いた-そのあと、厳粛な雰囲気は一変して明るい笑い声に変わった。そして、ひとりまたひとりと森の闇の中に姿を消した。これらの人びとがまっ暗な森の中で木の根、ハシゴ、鉄鎖を乗り越えてどのように高みに辿り着いたのか、わたしにはいまもって不思議である。

 四時にやっと空か白み始め、われわれは朝食の準備に取りかかった。だが水場の穴は、巡礼の人びとが最後の一滴まで使い尽くしていた。かすかな雲が空を覆い始めたので、昨日のうちに頂上を踏んでおいてよかった、とつくづくと思った。

 五時を過ぎてすぐ、登って来たときよりも方向を南にずらして下降を開始した。登りよりは、だらだらと長い道ではあったが、その分だけ傾斜がゆるやかであった。九時に白頭に到着し、同行案内人の自宅の庭先で休憩を取った。その間に厚い雲が引き、太陽がぎらぎらと焼けつくように照りつけ出したので、「日野春まで自分の馬を使って下さい」という案内人の申し出に、渡りに船とばかりに飛びついた。木製鞍は固いし馬は純血種ではなかったものの、ますます息苦しくなる炎天のもと日野春までの七キロメートルの道を歩かずにすむことは幸運であった。日野春駅に帰着したのは正午頃であった。一時間後、わたしはボーイを伴って松本へ向かう汽車に乗り込んだ。汽車の旅は死ぬほど暑かった。同乗の日本人たちは涼しげな衣服を着て快適そうにしていたので、ニューギュアに行ったときのことが鮮明に思い出された。途中の駅という駅では、ごく一般的な飲み物、――たいていは緑茶――が大量に飲まれた。しかし、この汽車の旅もついに終点に達した。夕方の五時少し過ぎ、われわれは松本の駅に降り立った。

 

 

鋸岳縦走記 鵜殿正雄氏著

 

『日本の名山 16 甲斐駒ケ岳』

  串田孫一氏・今井通子氏・今福竜太氏 編

  博品社 1997

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

 一、戸台渓

 

 十月六日(大正二年 1913)晴、黒川出発午前六時三十分、二人は小田の間を通って川辺に出た、黒川の流れは瑠璃色の波を九てていつも西へ西へと向っている、樹々の繁り合う対岸の山は、燃えたつような桜楓、黄な衣を纒った樺桂が、緑色の間を点々と彩っている、

「観てゐれば折りたくなりぬ和歌楓」

という東山の詩もさこそと思いやられた、朝日をうけた鋸岳は、濃藍色のギザギザな姿を東空に浮べている、黒川の製材所を見、蛇紋岩のある断崖の下の、湿っぽい道を通り、尾勝の谷口に出た、谷奥にはびこっている岳樺の、黄葉の壮観、半ば雲に隠れていたが、胸がせいせいするような気がした。

 戸台の入口へは、黒川から一里余、戸台川と小黒川との出合の少し上で、現在二軒ある、一軒は昔時平家滅亡後、その家人が落人となって来て、この地に隠栖したという小松某の家で、その時分の遺物があるそうだ、途上ここで泊ることも出来る、いつか赤艶い錆色に変った錆岳は、私等の頭上を圧して、厳めしく突ったってきた。

 戸台の渓流につき、緩傾斜の砂利間をすぎ、右岸に渡り、前岳の基部にあたる山際の雑木林の下を潜って、栃島(宛字)に出た、ここには、山奥に奇らしい赤松の樹が数木あった。右手の方から洞ケ谷(宛

字)という谷が落ちてくる、この谷の入口は、十数丈の断崖で、吊懸谷のようになっていて、口元は狭

いが奥の方は広い。対岸も同じく断崖で、この間は極めて狭い、今より六十年前までは、この断崖が続

いておって、この上流一丁余の間は、小さき池であったそうである。

左川岸に移って少し登ると、獅子岩というがあり、その頭部には、サルオガセを吊った杜松(とどまつ)や、紅葉をかざしたニシキギが、根のまわりに苔を纒ってたっていた。わずかへだって、ウシロットビ沢が左方から、なお少々上流の右方からは濁沢(宛字)と涸沢(宛字)とが、順次続いて落ちてくる。三石と称するところで、丸木橋を渡って右岸に出ると、朱色に役行者と刻まれた小さき石碑が、傍らの大きな漂石上に建立せられていた。

これから数丁のところへ、左方からは、ネキゴ半沢と角兵衛ノ沢(宛字)とが、やや隔てて落ち、この二つの沢の中間にあたるところへ、右方からはウタジク沢(藤太郎の言、沢の字は私が勝手に付したもの)がくる、なお四五丁登ると、右方から水沢(宛字)左方からは熊ノ穴沢(宛字)が朝してくる。この辺から東、駒ケ岳の方へ真直ぐに延びている河原は、赤褐色を呈した花崗岩?が沢山に散乱して、赤く反映するためか、古来この付近一帯の河原を、赤河原と称している。黒川よりここまで約三里、二時五十五分間かかった。

 十五分間ばかり停休して後、熊ノ穴沢に入り、白檜、樅、栂、五葉松、落葉松、扁柏、花柏等の茂っている人跡絶えた、昼もなお暗い密林の内を掻き分けて登る、この密林の終り目が諸岩の押し出しで、傾斜がはなはだしく急になる、点々とある岳樺の梢や、ナナカマドの枝を動かしながら、この急坂を斜めに右に避け、登り易いところを求めて行く。ミソサザイや、五十雀の声が、樹々の梢を掠めてくる。

やがて、いと細き湿布のかかっている或る断崖に、偶然行き当った、水量は人の尿水くらいしかない、

永き旱天の後、このくらいであるから、あるいは不断あるかも知れぬ、がこの沢を上下するものの他は、

先ず使用されぬと云ってよい、ここに瀑布のあることは、今まで何人も知らなかったと、案内省は云っ

た。

 ここは、鋸岳の最南蜂(『山岳』六年三号で星氏の称せられた不動山ならん)に続いた尾根の西北面であろう、断崖の上端に樹つ柴の梢間、及びその上を東西に飛ぶ淡き雲間を透かして、青空が断続的に見える、動くものは蒼穹か雲かまた柴か……人心かとこの小さき瞳が、大なる自然力の一端に触れた、刹那、不覚こんな感が閃いた。滝水を掬い、行李を開いて飢渇を凌ぎ、この断崖を敬遠して左方のやや緩やかな山背を絡み、熊ノ穴沢の主碩に戻り、再び、露出した急坂を旱じ、零時二十分、甲信の国界を割る鞍部(二、

四八二米?)に憩い、西風に浴して汗を拭った。

東方甲州方面は、一帯に雑木が生い繁り露出地が至って少ないが、これに反して西信州方面は、半服以上おおむね禄地で、冗々な岩塊の斜垂、険しき岩壁が多い。赤河原の方からしきりに霧をあおって来る。

 

二、刃渡り

 

これから西北に方る一峰に向い、先年星氏の通られたと覚しき崩潰した赫岩の斜垂にかかった、折々崩岩がガラガラと音がして墜落したが、あるいは同氏の経路と違う所なのかもしれぬ、私はそれほど危険困難を感ぜず無造作に一小隆起を超え、二時五十分一峰(第二高点二、六五五米?)に登った。頂上は甚だ狭く岩片が無作法に積み重ねてあり、傍らには落葉松や岳樺の楼樹が天風に晒され、力なき枝椏を横たえている、濃緑な厚い小葉の上に、紅色の珊瑚をかざしたような苔桃の実は、少なからず私の心をそそり、口中を爽やかならしめた。あいにく霧が多く湧き起り、遠き近き眺望、全く見えの外になってしまった。

 第二高点から偃松の間を通って少しく降れば、一大裂罅(すき)が横たわりて無遠慮に虚空を咬もうとしている、震える足を踏み締めながら一端に立って見ると、十数丈もあろうかと思われる削壁で、容易に一行の通過を許さない、若し過って辷り落ちたならば、五体は粉塵となり、たちまち鬼籍の人となるであろう、かつて星氏の前進を阻められた所もまたここか。二人は信州側に少し下って探したが下れそうなところが更にない、次に偃松、岳樺、ナナカマド等の叢間を押し分け、甲州方面を探り、一丁ばかりでようやく、雑木に蔽われた薄暗い硲に下った、面削壁は、わずかに身を容れ得るほどに迫り、その虚隙からは、水が滴れていた、たまたま日が南から西へと傾き、まいて、霧がいっぱい罩(こめ)て来て、一層暗くなったので、恐ろしく陰影ないやな感じがした。この峭間(しょうま)を二人接行するのは、岩石墜落の恐れがあるから、案内省を先に駆らせ、私は蝙蝠のように側壁の一部にしがみつき、不定の間隔をとり、彼の声を合図に登って鞍部に出た。ここは丁度二個の薬研の各尖端を横に斜断し、への字(勿論凹部を空に向け四十五度の勾配に)形に続き合わせたような所で、両手は充分に張れないほど狭い、伊那町方面から望見すると、あたかも木匠の使う横鋸の歯間のような形態のところを天半に曝し、常に私共を威嚇しているかの如く見えるものはここである、とにかく、絶大なる斧鋸で彫刻したものは、私等の擬し得ない妙味がどこかに潜んでいる。信州側は硬砂岩の諸茶けた崩塊が中腹まで続いていた。

 国界を辿って最高峰に行くべく苦心したが、思うようにいかないので、少し信州側に下り、やや見込みのありそうな所を発見して、藤太郎を偵察にやった、が空しく引き還して来た。峭壁の基部を大迂回して行けば、勿論行けるかもしれぬ、しかし今日はもう晩い、今からすぐ、赤河原に下って一泊し、明日決行するにしても、この谷が容易に下れるや否や覚束ないので、前の鞍部に返って、今度は甲州側に下らずに、分水界を通って、第二高峰に戻る径を、南方岫壁の一部に見出した、ここは最初下りの際、その峭頭に臨み、急峻なのに驚いて避けた場所とは、わずかばかりしか隔たっていなかった。

かような捷径が知れてみれば、来路を赤河原に下るには、まだ早いから、もう一遍前進を企ててみようと思い、この度は二人協力して、小さい樺の樹の基部を手頼りとし、先ず藤太郎をして危げな一岩角を超えしめ、上方の偵察を命じたところ、しばらくたって、とにかく尾根の一部に登れると云って、喜んで返って来た、そこで樺の木(もしこの木が失せたなら、容易にここは越せまい)の株際に綱をかけ、荷物を引き揚げ、私も続いてここを登り、狭き山稜で最高峰の南方に連なっている、二つの同局なる隆起を登降し、午後三時四十分、ついに最高峰(二、六七四米?)を迎えた。

 絶頂は心臓形に尖って、はなはだ狭く御料局第三号と彫刻せられた花肖岩の標石が建てられてあり、傍らに崩岩の破片が、積み重ねられてあった。これによって見ると、本岳絶頂の先登者は、測量部の連中かもしれぬ。ここでもまた霧のために、どこもよく見えなかった。ただ、北方間近の小峰頭にある、破れた測櫓の一柱が、霧の漂う間から、かすかに透かされた、これが多分、陸地測量部で建てた、鋸岳主脈中唯一の測櫓であろうと思い、そこまで行くことに定め、午後四時、名刺を残して最高峰に別れをつげた。

 途中、二、五九一米?の一小峰を超え、三十分を経て、第四高峰(最南峰不動ノ頭を第三高峰と仮定して云う)についた。この峰は南北に細長い尾根をなして、約一丁ほどあり、南方国郡界のある地点が、

最高で、三角点は北端の一、二米低い所にある。測量をした時の切り間けが、まだ判然と残っている。

付近には測櫓の破片罐詰及び、ビール瓶の殼、穿きすてた草絃などが散乱していた。今まで最高峰へ行ったものは、極めて少なかったようだが、この峰までは甲信の猟師や寸柏採りなどが、年々沢山登るらしい。ここからは、尾根続きに北々西に延び、いったん低くなって再び頭を擡(もた)げた一峰(編笠山?二、五一五米)と、横岳峠(西方)、白岩岳(西北)等がちょっと見えた、編笠行はしばらく預りとし、五時に出発して横岳峠に向った。

 

 三、降路

 

峰近くの所には、偃松や樺等が所々にある、寸柏・苔桃も見た、間もなく白檀、樅、栂の林の中に没した、国界郡界を測量された際の切明け跡が、まだついていたので、間違うような心配もなく、四十分ほどたって横岳嶺(二、〇三〇米?)の頂に出た。

 この峠を南へ下ると、前に記した三角点のある峰から出て来るネキゴヤ沢に会する、どこまでもこの沢について下れば、戸合川に出られる、しかし日暮れたうえ、道の悪い所が比較的長いので、北沢峠の方に向っている殺生径(殺生するものの多く通う所)を通って角兵衛ノ沢により、これを降って赤河原に出た。この沢の内は短く水はなかった、が大石に当り、横たわった栃木に遮られ、途中で尻餅をつき、はなはだ困難な目にあった、河原に出て、提灯を振り照らし、午後九時半、漸く旅舎に戻った。

 

付記

◆ 小島氏は、『山岳』八年一号でこの山の危険な程度を「飛騨山脈の穂高岳から槍ケ岳への縦走を、小規模に短時間に切り 詰めた観がある」とせられた、大体そんな按配であるが、私の想像したよりは小なるものであった。しかし最高峰と次高 峰との間は、前述の通り、至って危険の個所が多いから、低小な山であるなどと侮って、不測の災いを蒙らざるよう、ここに一言する。

 

❖ 植物鉱物等の奇品はないが、数多き鋸岳中の代表的怪物、同好者の一度は、足跡を印すべき価値ある山だ。

❖ 本文に記した標高中?印を付せるものは、私が空意晴雨計にて、測定したるものを、陸地測量部にて発表せる標高に合わせて、更正したるもので、真高と大差なきものと思う。

❖ 別頁付図は、「参、調」のものを土台とし、通過の際見取ったことの、大要と、藤太郎より聞いたこととを記した。勿論 精査したわけでないから、間違った個所もあるかもしれぬ。

 

摩利支天 上田哲農氏著

 

『日本の名山 16 甲斐駒ケ岳』

  串田孫一氏・今井通子氏・今福竜太氏 編

  博品社 1997

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

戦争がだんだん烈しくなって、山へ行くのが不自由さを増し、それが加速度を加え始めたころ、山へ

行くたびに、こんどの山行がもう最後のものかなあといつも考えていたものだ。

 未練気に山に引きずられていたといってもよい。

 常に不安と焦燥の入りまじった山行だった。

 仲間の半数は召集で、メンバ-は半減し、自分だっていつどうなるかわかったものではなかった。

 僕等は、一山、まとまったところをやって、当分の間山行を中止しようという申し合せをした。

 なまじ二、三日の小山行をこそこそやっても、酒呑みがチョコに一、二杯ひっかけた如くにかえって後をひくので一夕大いに呑みべろべろに酔っぱらって当分の間断乎禁酒をしようとするあの気持と似ていた。

 残っていた仲間は集まった。

プリミチィーブなゲレンデを求めて、北に一つ、南に一つ。

 冬の錫杖生活。冬の甲斐駒摩利支天南稜。

 交通関係、気象条件等の考慮から攻撃目標は後者と決定。

甲斐の高原からうちながめると奇怪な入道頭をふりたてて大武川の渓谷めがけ逆落しにかかる南稜、その冬の姿を胸に浮かべながら計画は次第に具体化されていった。

 

A――大武川沿いに入山した方がバラエテを与え得る。しかし、これは不安な積雪状態による谷通しの

不便、林道の荒廃、ポーターを伴い得ず人数の減退によるサポート隊の不足を理由に否決。入山

は伊那を廻って北沢入りと決定。

B――B・Cとして北沢小屋使用、戸台との間に打ち合せの手紙が何度となく交換された。

C――前進キャンプを仙水峠か、南稜直下。仙水峠に置くときは登旱距離が長くなるという不便に対し、 

南稜の状態を常に観察し得るという利点を有すること。しかし、なんとしても北沢から近すぎる。

前進キャンプは南稜直下の森林帯、ウィンパ-三人型。

D――別に登旱中の隊員援助とその疲労を慮り、アドバンス・キャンプを六方石付近に設営。風当り強

   き故をもって冬季用、カマボコ型赤テント使用。サポート墜交替に宿営、駒、鋸等への小登山を

なす。

 

計画は次第に細かくなり実現を待つばかりになってきた。

夜毎の夢は六方石にたつポ-ラー天幕に飛んでいた。

南稜を登って、駒の頂きに立つ日をどのように待ち、いかに胸ふくらむ想いであったことか。

 ああ、それなのに、全く、それなのにだ。

 マーシャル、サイパンの敗戦は意外に早く、山どころか、計画は計画だけにとどまり、防空壕に寝起きする日のみ続くようになってしまった。

 だから、僕は今でも摩利支天南稜を想えば、強いて口説けばおちたに違いない昔の女を思うような変ないらだちと懐しさを覚えるのである。






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最終更新日  2020年10月28日 21時55分44秒
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