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2020年11月01日
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義経記 ぎけいき

 

『日本の古典』 名著への招待

北原保雄氏 編

大修館書店 1986111

 一部加筆 山梨歴史文学館

 

 本朝の昔を尋ぬれば、田村(たむら)(とし)(ひと)将門(まさかど)純友(すみとも)(ほう)(しょう)頼光(らいこう)

漢の樊噲(はんかい)は、武勇……

 

 京都の五条大橋の橋詰に、花南岩で彫られた、ふくよかな顔の京人形風の、牛若と弁慶の像がある。

幼い牛若が太刀を奪おうとした弁慶をうち負かし、以後、弁慶は牛若の従者となり、陰に陽に牛若を助けたという、「京の五条の橋の上、大の男の弁慶が」と歌われた、義経と弁慶の出会いに取材した像である。

そこには、「小能く大を制す」という日本人好みの考えが盛られている。

 岩手県平泉の高館、衣川を見下ろす丘の上の義経堂には、江戸時代の作らしい義経の木像が安置されている。こちらは、鎧・甲に身をつつんだ、少々憂いを含んだ表情の像である。この高館は、あの弁慶が立往生を遂げ、義経が藤原案衡の勢に攻められて自害した地である。義経を愛惜し、同情し、生かし続けたいと思う作り手の、そして人々の、「判官(ほうがん)贔屓(びいき)」という、これまた日本人好みの考えが、この木像をここに安置させたのである。

 京の都で平治元年(1159)におこった平治の乱で父義朝を失った牛若が、賑難の末に成人し、兄頼朝の平氏討伐の挙兵に馳せ参じるが、平氏討伐が成るや否や、兄の不信を買い、奥州藤原氏に庇護を求め、遂に高館において悲壮な最期を遂げる。その義経を主人公として語る『義経記』は、「小能く大を制す」「判官贔屓」という、相反するようでいて一脈通じるところのある二つの考え方を骨格として、肉付けした物語といってよい。

 牛若と弁慶の出会いの件も、義経と弁慶の最期の件も、もちろん『義経記』に載るが(巻第三「弁慶義経に君臣の契約申す事」、巻第八「衣川合戦の事」「判官御自害の事」)、物語の前半は、「小能く大を制す」を主題にする語が多く(巻第一「牛若貴船詣の事」「伊勢三郎義経の臣下にはじめて成る事」など)、後半に、「判官贔屓」に関する話が多く載るのである(巻第四「義経都落の事」、巻第五「義経吉野山を落ち給ふ事」、巻第七「判官北国落の事」など)。

 その接点というべき件が、巻第四「義経平家の討手に上り給ふ事」である。「小能く大を制す」ことになった義経の平家討伐の件はほどんど語らず、頼朝との対面がかなわない悲しみを、

  

勧賞に行なはれむずるかとこそ思ひつるに、

向顔をだにも遂げられざらん上は、

日頃の忠も益なし。

 

と義経に語らせるだけで、以後の「判官贔屓」の語に移って行く物語の構成は、注目されてよかろう。

 まさに日本人好みの義経のお噺ではある。(犬井善寿氏著)






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最終更新日  2020年11月01日 06時07分36秒
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