カテゴリ:山梨の歴史資料室
山梨 奈良田 孝謙天皇伝説
『甲斐路 かいじ』季刊no67 昭和42年 山梨県郷土研究会 長沢利明氏著 一部加筆 山口素堂資料室
都から僻遠な地に天皇が遷居したという伝説は、各地でしばしば耳にするところであるが、たとえば西日本の所々に安徳天皇潜幸伝説が伝えられており、壇の浦の合戦で海中に入水したはずの幼帝がひそかに落ちのびた先とされる地があって、鳥取県岡益・徳島県祖谷渓・鹿児島県硫黄島などにそのような伝承が残されている。 長崎県対馬には安徳天皇の「陵墓」さえあり、天皇を救出したとされる漂泊漁民集落では、その功によって対馬八海での独占的操業権を認救出可された旨の伝承を伝えてきたのである。 さらに、岐阜県の宇多天皇、愛知県の文武天皇、千葉県の弘文天皇、鹿児島県の天智天皇、その他各地の安閑天皇や用明天皇に関する伝承や遺跡の存在も広く知られている。
このような天皇還居伝説は山梨県内にもあり、それはいうまでもなく、南巨摩郡下の早川入り奥地に伝えられてきた孝謙天皇伝説をさしている。 この伝説は、いわゆる「奈良田の七不思議」とともに広く一般に知られてきたのであったが、現地の早川町内にはこれらにかかわるさまざまな旧跡も多く残され、伝承形態もまことに多様である。ここでは新たな資料などもくわえて若干それらを整理してみたい。
一 伝説の発生 孝謙天皇伝説のメッカは、早川最奥の集落である奈良田であり、ここが孝謙天皇の遷居地とされてきた。山中共古の『甲斐の落葉』は、その伝説のあらましについて次のように記している。
土人ノ伝説ニ天平宝字二年 孝謙女皇法基尼山代郡奈良田へ御還居相成り 凡六ケ年御在居ノ後チ都へ御帰リアリシト。 其後延暦三年此地へ堂宇ヲ建テ奈良法皇ヲ祀り奉ルト。 勿論信スルニ足ラヌ説
であるとし、共古は懐疑的な立場からこの伝説をとりあげている。 今も奈良田にある奈良王神社はこの孝謙天皇を祀ったものであるが、一八八三年刊の『山梨県市郡村誌』にはこの神社について、
小社ヲ建ツ。奈良王ヲ祀ル。 公卿犬夫ノ居所並ニ姫宮ナドト 称フル地名今猶存セリ。 伝へ云フ昔時孝謙天皇此所ニ 御遭坐アリテ之ヲ祀ル
と記し、さらに
奈良王ノ御製ト称スル和歌一首 弘治二年丙辰二月十月付。 孝謙天皇奈良田還居ノ由緒ニ依り 山林畑民戸等諸役免許トアル 信玄ノ印章等ヲ蔵ム。 然リト雖モ何レノ時ナルカ 今得テ考フヘキナシ
ともあって、奈良田が諸役免除の村とされてきたのは天皇遷居地であったためとする解釈がとりあげられている。 奈良田における孝謙天皇還居伝説の、きわめておおざっぱな内容は以上のようなものであったが、この伝説の発生は、実はそう古い時代のことではない。それはせいぜい一世世紀末頃のことで、それ以上にさかのぼらないことが明らかとはいうものの、それに類する都人の流離説、がそれ以前からこの地に伝えられていたこともたしかである。 したがって、そのような原形的伝説が孝謙天皇伝説に、いつしか成長していったものと考えることができる。そこで、その成長過程をみていくことにしよう。
まず一七五二年の『裏見寒話』であるが、
奈良田村の諸役免許、 昔後奈良院崩御の時 御霊柩を甲州鳳凰山に収む。 其荷ひ奉りし人々の子孫国に残りて 百姓と成、夫故今以て諸役免許の由
とある。後奈良天皇の遺骸を鳳凰山に葬ったという史実はもちろん正史にはないが、その霊柩を担いだ八瀬童子のような集団が当地にそのまま定着し、諸役を免除されたというのである。後奈良天皇の名がここに登場するのはいかにも唐突であるが、奈良田の地名から連想されたものであったろう。後の李謙天皇説においても、天皇が
朕比処ニ在レバ此ノ地又都ノ奈良ニ異ラズ
と言ったので奈良田となったといい、ここでも同様な地名連想がなされている。
次に出てくるのが僧道鏡の配流説である。
よく知られる『甲斐名勝誌』(一七八六年)の鳳凰山に関する記述中にそれがとりあげられている。
絶頂の岩の上に貴金にて 鋳たる三寸許りの衣冠の像あり 鳳凰権現と云。 是奈良の法皇の御影なりとぞ。 むかしより動すれば盗賊ありて 此像を取去らんとすれば 重きこと磐のごとし。 故に盗去ことを不得猶岩の上に有とぞ。 主人云むかし奈良の法皇 当国に流され玉ひて 此山に登り都をしたひ玉ふなり。 法皇の嶽といふ。 西河内領奈良田と云所に 法皇の住玉ひし跡とて礎今に存せり。 是弓削道鏡ならんとぞ。 予按ずるに続日本紀に道鏡は 下野国に流され薬師寺の別当 となりて終るよし見へければ 道鏡にあらざるべし。 然れども何れの法皇 と云事を志らず。 惜しむらくは今其の伝を失ふ。
筆者の萩原元克はこの道鏡説を否定する立場をとっているが、同様の見解は荻生徂徠の『峡中紀行』や『甲斐国志』古蹟部にもひきつがれている。 また、清水浜臣の『甲斐日記』(一八〇四~一八一八年)にもこれらを引いた同様な記述があって、次の通りである。
鳳凰山はいたたきの岩のうへに 黄金もて鋳たる三寸はかりの 衣冠したるかたちの像ありて 鳳凰権現と崇め奈良法皇のみかた也といふ。 里人のいひつたへしは むかし奈良法皇此國にさすらひ給ひて 此やまに登り都をしたひ給ひしより 法皇か嶽とはいふ也。 西河内領奈良田と云ところに 法皇のすませ給ひし行宮のいしすゑあり。 此法皇と申すは弓削道鏡ならんといへり。
とはいうものの清水浜臣は、先の『甲斐名勝誌』の見解を支持して道鏡説を否定しているのであるが、それに続いて
今此國に限りて用ゆる升は 三升を一升とし三合を一合と 定めたるか其升には必ず かかる焼印をおすこと也。 こは武田家の定めにはあらで いとふりたることのよし聞つたふ。 さらはこの焼印もかの法皇の御定め の名残にはあらぬにやといふ人も有けり
という俗説もとりあげていて興味深い。
ここにいう甲州桝の焼印とは、甲府工町桝座で用いられていた「帝」印および「汪」印の鉄判(かなばん)をさすものであったろう。 ところで、これらの道鏡説が生み出された背景には、鳳凰岳と法皇との素朴な連想がやはり存在したものであろうか。 その語呂あわせに奈良の都と奈良田との地名連想がさらに付加されたとするならば、「奈良王」というきわめて漠然とした高貴人のイメージがそこに作り出されていくことは不自然ではない。 『甲斐国志』には「奈良王ノ旧跡」という言いまわしが用いられ、
昔時某帝此ノ所ニ遷幸アリ 是ヲ奈良王ト称ス。 其ノ皇居タル故ヲ以テ 十里四方万世無税ノ村ナリト云々。 東方ノ方ニ高サニ町許り登リテ 平ナル所方三十歩アリ。 即チ皇居ノ址卜云フ。 其ノ中ニ牛神祠一座ヲ置キ 奈良王ヲ祀ル
とあるものの、その奈良王たるものがいかなる人物かは明らかにしていない。 そこでは道鏡説・孝謙天皇説をしりぞげながら、後鳥羽上皇・崇徳院説をほのめかしつつ、結局は正体 不明の「某帝」であるとされているのである。 大森快庵の『甲斐叢記』(一八四八~一八五三)もまた同様で、
里人相伝へて昔時某の帝此所に遷幸あり。 是を奈良王と称す。 皇居たる故に十里四方万世無税の村なりと云ふ
と記しているのである。 何者かは知れないが、当地への都人の流離・配流が漠然と意識され、極めて実体の不明確なその高貴人のイメージをさして「奈良王」と称したことはいかにも民間伝承的で、言い様によっては誠にふさわしく言いあてたもので適切な衷現であったとも思える。 ひとたびそのイメージが具象化の過程を経たとたんに、それは史実による考証の対象とされ、時には陳腐な妄説呼ばわりをされねばならぬ運命を免れない。 伝説の原型は、おそらくは、より民俗的な伝承の創造性の水準に位置づけられた、そのようなイメージを淵源としていたにちがいない。 奈良田最古の村明細帳である『宝永二年奈良田村諸邑明細帳』(一七〇五)には 「王様御屋敷壱ケ所、但しほこら無し。是ハ先年より奈良ノ帝皇様御屋鋪治し申伝来」 という後世の付加項がみられ、ここでもやはり還暦した貴人を「王様」とか「奈良ノ帝皇」とかの言い方で記しているのであり、その項を武田氏・徳川氏の墨付に関する記載と並記させて、諸役免除の特権の根拠とし、そのように位置付けようとする村方の意図が読みとれるのである。
この記載は一八〇六年の『村明細帳』にも踏襲され、さらに補足されて
王様御屋敷壱ケ所、 本村ヨリ辰已之方当り弐丁 但三拾間四方内ニほこら有之。 是ハ先年ヨリ帝皇様御屋敷跡卜申し候。 村よリ道法弐丁 外ニ公家衆御星敷茂御座候
となり、これは『甲斐国志』の記載にまでひきつがれていくのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年11月02日 04時47分27秒
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