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2020年11月02日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

山梨の孝謙天皇伝説 奈良田七不思議伝説の変遷

 

 『甲斐路 かいじ』季刊no67

  昭和42年 山梨県郷土研究会

  長沢利明氏著

  一部加筆 山口素堂資料室

 

七不思議のうちに数えられた奈良田の旧跡の由来には、孝謙天皇伝説が深く影をおとしており、このひとまとまりの伝説群の成立には寺憎の知識が大きく関与しているものと思われる。

西山温泉を訪れる多くの湯治客の足を少しでも奈良田へ向けさせるためには、由緒ある歴史的風土をさし示すいくつかの名所旧跡、それらの持つあらたかな霊験、よく整備された拝観施設と案内サービス、そしてまたよく調べられた縁起書の存在、などが不可欠であり、これら諸条件はすべて外良寺の管轄指導下に満たされていた。

 

一九三八年版の『更訂孝謙天皇御遭居縁起鈔 並奈良田遊覧案内』(外良寺住職永田寛調編)によれば、

 

外良寺ニ至リ、

更訂孝謙天皇御遷居縁起鈔

ノ小冊子及安産護符、開運守、

中風まじないノ杖等ヲ購ヒ、

且ツ住職ニ七不思議ノ案内ヲ乞ヘリ。

住職快諾シテ案内の途ニツク。

(中略)

熱心ナル説明ヲ聴キツツ奈良皇神社ニ参拝ス。

(中略)

案内人クル住職ニ暇ヲ告ゲ

温泉ヘノ帰路ニ就キタルハ午后一時頃ナリ

 

などとあり、まさにこのあたりの事情をよく物語っている。

 明治の中頃、奈良田の外良寺にならって湯島の法雲寺住職であった望月日註が、「湯島の七不思議」を創案し、『湯島七不思議並八景観』『観世音御遭遷座縁起鈔』をあらわして「郷土開発に資せんとした」のも、まったく同じこころみであったといえる。

多くの外来者の集まる伝統的観光スポット(温泉地など)、があり、そのメリットを見のがさずに拝観客拡大に尽力する寺社が近在にあるという条伴下において、さまざまな霊跡やそれにまつわる整のった説話が生み出されていくものであり、聖職者の持つ豊かな知識を媒介することなしにそれらの洗練化はなしえないのである。

さて、その湯島の七不思議の具体的内容とは、

    河内谷の三業滝 

    上湯島の種なし柿

    上湯島七尾ケ滝 

    天狗森焉の羽嘴石 

    下湯島向三鳥沼地 

    下向の島尻風穴 

    下湯島物見石、

 

といったものであったが、本家の奈良田の七不思議とは、次に述べるような伝説群をさしている。

 

         塩ノ池 

塩ノ井・塩水(しょみず)ともいい、塩分を含んだ水を湧出する小さな池があった(現在は奈良田ダム湖底に水没)。塩分濃度は一%ほどであり、明治時代には製塩をおこなって販売したこともあったというが、村人たちはこの水で野菜や豆などを煮ていたという。池の大きさは六尺四方、水深二尺ほどといい、池のある台地を塩尻とよんだ。

『宝永二年奈良田村諸邑明細帳』には

当村之内塩嶋、比所塩水と申池御座候。

但五尺四方。

右之池水塩水ニ而御座候ニ付

村中之者塩ノ替りに用申候。

村より西方早川端

 

とあり、『裏見寒話』には「其塩の味甚だ宜し」とある。

孝謙天皇伝説との関達では、塩のないこの村の人々のために天皇が祈願したところ、ただの水たまりがたちまち塩の池に変わったといわれており、『甲陽随筆』の

  

当国塩なき国ゆへ帝歎かはしく思召、

天に御祈被遊候へは

忽塩の涌出る池水出来仕て塩水今以有之。

右村朝夕の肋に罷成候よし

 

『更訂孝謙天皇御遭居縁起鈔』の

 

天皇御還幸ノ際殊外不自由ノ所故

鎮守若宮八幡へ御祈念アラセ給ヘハ奇哉

一周間ナラスシテ御手洗池ヨリ塩涌出ス。

今猶ホ里人吸テ以テ醤塩ノ肋トス。

 

という記述の通りである。

 

         片葉の葦 

後述の檳榔子染池の周辺に生える葦は、すべて葉が一方向に向いており、片葉である(現在はダム湖底に水没)。『甲斐の落葉』には

 

片葉ノアシアリ。

風向一方ヨリ吹来ル故片方ノミナビク故

片葉ノ如ク見ユルノナリ

 

とある。

これも孝謙天皇伝説が関係していて、『更訂孝謙天皇御遷居縁起鈔』には

 

天皇片葉ノ葦ヲサシ給ヘハ今以テ片葉ノ葦生ス

 

とあるものの、『更訂孝謙天皇御遭居縁起鈔並奈良田遊覧案内』には

 

天皇御還幸ノ御後ヲ慕ヒテ

数万本ノ葦一様ニ片葉トナリテ

勅使ノ当地ニ入り来リシ方、

即チ今ノ中巨摩郡芦安村

御勅使川ノ方向ヲ指セリ

 

とされている。天皇が植えたのではなく、天皇の後をしたって葦が一方向になびいていたのであり、一説には葦の葉はすべて奈良王神社の方向へ向いているともいう。村人はこの葦を刈って畑の肥料にしたこともあったが、婦人の神としての奈良王神社の信仰とも関連して、この葦を産の守りに用いることもおこなわれていた。この葦の葉を産床の下にしいておくと産が軽いという。特に塩ノ池周辺の葦でないと利益が薄いという人もある。

西山温泉、の湯治客もこぞって片葉の葦を持ち帰って土産にし、産の守りとしたそうである。

 

         御符水 

どんな旱天にも水が涸れず、どんな雨でも水がにごらず、その水を飲むと諸病も平癒するという泉水がある。

俗に御符水とよばれ、奈良王神社の上手に湧出している。『山梨県市郡村誌』には

 

東南二町奈良王社ノ南ニアリ

方弐尺水深五寸水質清澄

土俗之レヲ王ノ御膳水ト云フ

 

とあり、孝謙天皇の遭居中に御膳水として、あるいは硯水として用いられたとか、天皇が祈願して村人に残されたものであるとかいわれている。

『奈良田遊覧のしをり』には

 

奈良王神社の脇に御硯井あり

透明にして水晶の卸く

月余りの旱魃たりとも涸れる事なく、

なく週日の豪雨たりとも溢るる事なし。

飲む者諸病に効ありと云ふ。

この井を掘る時稲荷明神の像出現す。

今泥井稲荷と勧請す

 

とある。湯治客らもよくこの水を瓶に汲んで持ち帰ったといい、腹痛時に飲めば治ったという。

 

         檳榔子染地 

鉄分に富む湧水があり、布の染色に用いられていた。ビンロジ池・染物池・溜池などともよばれ、村人の織ったタホ布を一晩ここに沈めておくと真黒に染まったという。

『裏見寒話』には

 

此村に檳榔子池と云あり

村中此水を布又糸を染るに

色濃くして美しく染る

 

『山梨県市郡村誌』には

 

西南六町早川西字塩嶋ニアリ

方四尺水深五寸池中へ糸布ヲ

投スレハ能ク膳褐色ニ変ス

 

とある。天皇伝説との関連では『西山村郷土史』にあるように

 

帝里人のために祈り給ふ

と茶褐色の染料水が湧出し

 

たとされるのが一般的で『外良寺略縁起』などにも同じことが記されているが、一説には孝謙天皇が自ら白妙の衣をこの泉水で染めたともいわれている。

 

         洗濯池 

早川沿いにある小さな池の水で衣類を洗うと汚れがよくおちる。それは低温の鉱泉水で苛性ソーダを含み、その地熱のために周辺には冬でも雪が積もらず、暖地性の植物である茶の木を植えていた。

『山梨県市郡村誌』には

 

西方壱町早川東涯ニアリ

方五尺深ハ寸其水清潔徴温ナリ

諸物ヲ洗濯スルニ能ク機垢ヲ除ク

 

『奈良田遊覧のしをり』には

 

微温湯にして濃垢の衣布も

之に浸して落ちざる事なく

又変色の憂

 

とある。天皇伝説との関連では『西山村郷土史』に

 

帝の侍人の常に衣を濯いだ池で

卸何に垢付きし物と雖も落ちざるはなく

衣の色の変ずることもなし

 

との記載がみられる。

 

 

         御手洗湯 

 

これもまた早川沿いに湧いた微温湯の温泉であるが(現在は旅館白根荘の湯となっている)、『奈良田の伝説』などでは先の洗濯池と同じものとしており、

「帝の行宮当時は自給自足の時代であった。帝の不浄物を洗った池である」

などとされている。『更訂孝謙天皇御遭居縁起鈔』には

 

天皇若宮御参詣の節洗ハセ給ヘハ

平水湯卜変ス

 

『西山村郷土史』にも

 

帝、若宮参詣の爾御幸洗ひ遊ばされしに

冷水忽ち湯となり巌冬と雖も

盛んに湯気を立てて温である

 

と記されている。

ここにいう若宮とは鎮守の若宮八幡社をさしている。

 

         七段 

奈良田七段ともいい、俗に「奈良田七段七不思議」などという。

早川の河原から奈良王神社の鎮座地まで土地が七段に分れている。

『更訂孝謙天皇御遭居縁起鈔』には

 

天皇御在居ノ地ヨリ早川マデ七段アリ。

是奈良ノ七段二擬スルト是ナリ

といい、『奈良田の伝説』では

 

帝がこの地に御人来になると

これは朕が都の奈良にまことによく似ている。

都は七条、この地は七段、

まことに奈良だと申された

 

と説明されている。

 

         二羽烏 

奈良田には鳥が二羽しかおらず、決してそれ以上は増えない。その理由を『奈良田の伝説』では

 

鳥が多くいて作物を荒らし

部落のもの達は大変困った。

そこで帝は鳥を集めて

作物を荒らさないことを約束させた。

しばらくして鳥を集めて調べてみると

帝の言い付け通り作物を食べなかった

ものは二羽しかいなかった。

帝はその二羽の鳥のみ残して

他をこの地から追放することにした。

これ以来いまも奈良田には鳥は二羽しかいない

 

と説明し、一般にもこの説がいわれている。孝謙天皇は、よび集めた鳥の腹の中まで全部調べて、作物を食べなかった二羽のみをこの地に残したという。

 

一八八一年に奈良田を訪れた英人登山家のW・ウエストンは、『極東の遊び揚』の中でこの伝説についてふれ、

 

めおと鳥。それより少しもふえもへりもしない。

王女(孝謙天皇のこと)が初めに訪れた時に、

一つがいの鳥を連れてきたが、

それからは数が変らない

 

と述べている。『奈良田遊覧のしをり』には

 

比の地に限り二羽鳥と云ふ。

天皇民を惜しみて二羽に封じ給ふ。

毎年子を育つるも成長するに及んで、

親鳥去るか子鳥行くか

只二羽のみ遊翔せり

其の雌雄の睦まじき事比なし

 

とある。

 

以土が奈良田の七不思議であり、そこにおさめられた伝説群のすべてに孝謙天皇伝説が付随していることがわかった。

なお、七不思議といいつつも、ここには八項の伝説をとりあげておいたが、それはさまざまな選択方法がみられることによる。今日では⑥の御手洗場を除いた残りの七項を七不思議とするのが普通であるとはいうものの、そのような形になるまでにはいろいろな変遷があったようである。

次に掲げる一覧表はその変遭過程を示したものであるが、各資料ごとに多様な七項の組みあわせがなされていることがわかる。

概して『甲斐国志』に至るまでの近世文献には①塩ノ池 ①檳榔子染池の二項以外はとりあげられておらず、もちろん七項目の伝説群をとらえるという考え方がなされていない。明確に七不思議ということが意識されるようになる初見は、奈良田伝承の戯詐的紀行文であるところの『道中記』(一八三八)と思われるが、そこには「法皇の御旧跡を伏拝み塩水や檳榔子池沼水洗濯池に村乃七鑑、偖ハ不思議の霊池哉」とあるのみで、くわしい内容はわからない。

一八五三年の『片葉のあし』には明確に七不思議が記載されているものの、⑥御手洗湯のかわりに「硯谷」をおさめていて、やや変則的である。

くだって一八九一年の『更訂孝謙天皇御遭居緑起鈔』には、③御符水をトップに置き、①塩ノ池④檳榔子染池へと続けるオーダーにしたがって⑦七段でしめくくるというパターンが定着しており、この面においても志村孝学によるたくみなアレンジを認めることができる。

七不思議の最後に⑦七段を持ってくる構成はまことに締めくくりがよく、七段を南都七条にたとえて「ここも奈良だ」とするところなどは心にくいが、おそらくは七項の伝説群を構成するための創作であろう。これ以降の時代における七不思議には、新たに⑧二羽鳥なども付加され、かわりに⑥御手洗湯が除かれていく傾向にあるが、W・ウエストンの『極東の遊び場』には⑥⑦が欠けて、最後の七項めを「奈良田の最後の全体的な不思議は、女帝がこの地に来られたということである」としており、孝謙天皇伝説そのものが七不思議の一項をなす形がとられているのである。

 

五 関連する天皇伝説および旧跡

 

 この地域に根づよく伝えられてきた孝謙天皇伝説は、この地にある大樹や巨岩などの天然地象にまつわるさまざまな由来伝承とも結びつき、雑多な伝承旧跡をも生み出してきた。

 

これらについても次にとりあげてみよう。

 

 まず、奈良田にあった旧西山小学校分校の教師らが戦前に編集した『奈良田の伝説』および『西山村郷土史』には多くの伝説が調査・収録されており、それらはほとんどそのまま一九五八年の西山村総合学術調査の報告にも用いられている。そこにはたとえば次の「人取り淵」という伝説なども含まれていて、一九五三年にこの話が採集されている。

 奈良田の居平より向側の塩島に至るに今は橋がかかっているが 孝謙帝行幸当時は、ほんの丸太が渡してあるほどだった。ある時 のこと洪水のためこの丸木橋が流れてしまった。帝は諸氏の困却のほどを察せられ水の治まるよう祈願せられた。効験もあらたかにさしもの濁流は治まり本が澄んだ中に櫛がみえた。住民はことの由を氏神八幡社にお伺いすると櫛の所有者が入水すれば橋がかかるとのお告げであった。村人はそこでその櫛の持ち主である少女を探して人柱に立てた。それがこの人取り淵である。

まことに悲しい話ではあるが、ここにもやはり天皇伝説が若干とりこまれた形がみられる。また、ここにある若宮八幡社である、が、『甲斐国志』などに山神社(山祗社)と記載されていたこの神社も孝謙天皇の祭祀にかかわるものだといわれている。

『外良寺略縁起』には「爰に天王乃仰に依て氏神を八幡大菩薩と祭者なり」といい、『更訂孝謙天皇御遭居縁起鈔』には霊夢にあらわれた応神天皇をまつって若宮八幡社としたとあって、「異人顕レテ吾ハ応神天皇ナリト告ケテ去ル。之レニ依テ天皇当地へ若宮八幡ヲ祭り氏神トナシ」と記されている。

若宮八幡すなわち応神天皇をまつる神社はこの地方では珍しく、そもそもなぜに山神社が若宮八幡に転化されたのかについても不明である、が、孝謙天皇伝説の文脈に添いつつ、このような解釈もなされてきたことは、それなりに興味深い。

なお、若宮八幡社は、民間では子供の病気あるいは失せ物に関する願かけの神として信仰されている。

 奈良田からドノコヤ峠を越えて芦安村へぬける交通路が、孝謙天皇の奈良田入りのルートであったとする伝承、あるいは都からの勅使の通った道であるとする伝承も広く聞かれ、「御勅使川」の地名由来伝説ともなっている。『甲陽随筆』にはこれについて

 

奈良の京より度々勅使往来の道筋は御勅使川と申、

芦倉人より出山沢の名也。

此山沢入より唐松峠などと云ふ大山を越へ奈良田へ出る也。

依之右みでい川、文宇には御勅使川と書候よし

 

と記していたが、一八三八年の『道中記』にも

 

山路遥に来る道の所ニ見下す小川をばハ「みでい川」とぞ申ける。

是ハ古へ従都御勅使通りし迪御勅使川と書とかや

 

という記述がみられた。

さらに、現在の奈良田部落からみて早川をはさんだ対岸にあたる塩島(しょのじま)の地は奈良田発生の地といわれ、天皇遷居以前にここに住んでいた住民らが最初に村を開いた所であったという。これについては次のような伝説が得られている。

 

この部落は、ずっと以前から住んでいた家の八軒と、孝謙天皇さんについて来た、お附の人達の住みついた後の家と二つの血続からなっている。前からの八軒はシマにあった。そこを塩島という。ところが塩島は白根山の山つづきで、山から魔物が出て来て子供をさらって行くことが度々だった。これが原因で八軒の家の人達はいまの居平に住居を移すことにしたのだ(深沢宗次氏談)。

 

このような伝承に関連して、個々の家々の系譜に関する諸伝承もさまざまに語られてきている。たとえば『峡中家歴鑑』などをみると、奈良田以外の二戸を含めた次の三戸の深沢姓の家々に関する家系伝説が、天皇伝説や篠党伝説とのかかわりのもとに記されているのである。

 

(奈良田・深沢順吉家) 

 

初世を篠党(虫夷)蝶と云う。孝謙天皇天平宝宇二年五月当地に御遷居の時供奉したる公家にして御滞在中の専務を司りたり。是より当地を大草の郷と称し民戸七軒ありしとなり。

二世を土佐鍛と称す。先代の職を継ぐ。

天平神護元年天皇御還幸の際外良薬伝法を伝え給い朕住める故を以って今より以後当村を山代郡奈良田村と称し汝子孫に至るまで永住し村主たるべしと(中略)廿五代孫左衛門尉に至る。天文弘治の間国主信玄より御米印を賜はり篠党を深沢に改め尚刀一腰を賜はり先規に従い子孫代々名主たることを許さる。

 

(五箇・深沢幸四郎家) 

 

本村千須和区地内宇深沢と称する地あり。道路に接属せる当家の初代弥市右衛門なる者此所に天皇  (註・孝謙天皇奈良田遷幸の時を云う)を奉迎したるを以て其の篤志を感賞せられ該地名に因みて深沢を其の姓に与えらる。

 

(穂積・深沢常右衛門家)

 

家伝によれば天平宝字二年孝謙 天皇甲斐湯島へ臨幸の折小室之郷字矢川の深沢氏宅に御一泊なし給ひしが固より僻口也の事なれば行在所には大なる餅搗臼を据え其の上仁戸板を載せ玉座となりたりと云う。

 

ここに引用した最初の深沢順吉家が奈良田の永代名主であった今日の深沢定富家(星号オオヤ)であって、その遠祖であるとされた篠党土佐が天皇より外良薬の製法をさずかった人物ということになる。後に当家当主は代々孫左衛門を名のることになるが、この孫左衛門と深沢姓の苗宇について次のような伝承も聞かれる。

 

孝謙女帝は下の病で悩ませられていた。ある夜のことであった。女帝の夢枕に神が現われ、甲斐の国の西山に名湯があり、下の病に効能があるとのお告げがあった。早速に女帝は使者を立てて試みたところが、まことに名湯だったので、ここに行幸されることになった。そこで篠党孫左衛門は一統を率いて、迎えに出て、芦安のクッ沢と御勅使(ミダイ)川の合流する大石のある所まで行くと、女帝の一行と出合った。その地をいまもデエ地(出合地の意)はというのはこれからである。やがて道は峠にかかり、慣れぬ女帝をお痛わしく思い、女帝に肩をお貨ししようとすると、女帝は名は何と申すかと問うた。孫左衛門は篠党某と申上げるに、篠党と申す者では負うて貰う訳にいかぬとの言葉であった。孫左衛門、それでは深沢とこれより姓を改めることに致しますとて、女帝を背負い峠を越えたとのこと。甲州の深沢姓はかかる謂われから、奈良田がもとである(奈良田・野木屋主人談)。

孝謙天皇の病が下の病であったということもよく聞かれることであるが、芦安村沓沢のデエ地の地名由来もここにはふれられている。天皇の奈良田入りにあたり、道案内をした篠党孫左衛門は、この時から深沢姓を名のったとされている。なお、芦安村の沓沢部落に住む深沢姓の家々も、もとは篠党姓であったといい、「天皇の送迎に御勅使川の渓谷を案内して深沢姓を呼ばれるようになった」とやはりいわれているが、沓沢はもともと奈良田の分村集落であった。

 孝謙天皇に関する旧跡伝説は奈良田を離れた湯島の地にもいくつか残されている。そもそも天皇の当地への遭居の目的が湯治療養にあったわけであるから、西山温泉にはそれに関する伝説が存在して当然である。この西山温泉は、天皇遷居に先立つ大宝年間に藤原真人の子である四郎長磨・寿磨兄弟によって発見された湯であるとされており、当地にある慶雲橋は開湯時の「慶雲二年(七〇五)三月」にちなむものといわれている。戦国時代には信玄・家康も来浴したともいわれるが、

信玄様湯治被遊候ニ付近所ニ御座候間意々御奉公仕り候得ハ

右ノ法皇様ノ御事御尋被遊成候故御来印披下置候云々」

 (奈良田・深沢定富家文書)などという文書も残されている。

 

『西山村郷土史』をみると、「天平宝字元丁酉年孝謙天皇御入浴御病平癒あらせ給ひし名残りを止めて湧出する湯名を法殿湯御座湯と称す」とあって、より明確な形で天皇と温泉との関係を述べている、が、いわゆる西山四湯の由来については次のように説明している。

 

帝は今の湯王大権現近く御仮泊ましまし、

御殿の御前なるをこそ御殿湯と呼び給ひけれ。

御日頃御愛浴し給ふを御座湯とは申さぬ。

また岩窟深く湧き出でて面白きは其の儘穴湯、

目を洗ふて爽かなるは目湯と呼び慣はし給ひぬ。

何れも帝の御名付親なる拝するだに畏し。

帝は霊湯ノ卓効ニ御感■ク御殿湯の前に湯王大権現の祠を祀り給ひ、

御親しく一刀三礼の薬師の像を奉安遊ばされ

一大乗妙経を御読誦せられたと伝へてゐる。

 

ここには御殿湯・御座湯・穴湯・目湯の古湯四湯の由来が述べられているが、天皇自らが祀ったという湯王大権現については『更訂孝謙天皇御遷居縁起鈔』にも

 

霊泉へ御入浴シ給ヘケレハ二句ヲコヘザルニ

経王説相ノ如ク病魔全癒スル事霊夢ノ如シ。

依テー刀三礼ノ薬師ノ像ヲ彫刻シ湯王大権現卜祭り

日々大乗妙経ヲ読誦シ御座スル事凡八年」

 

と記されている。この湯王大権現に、穴山梅雪が一五四六年銘の鰐口を奉納したことはよく知られている。

 

西山温泉以外の天皇旧跡あるいは伝説地ということになると、湯島の七不思議のひとつに数えられた「上湯島の種なし柿」などをあげることができ、「奈良法皇御入湯の砌都より御持参披遊候ひしが今に伝わるものとされている。

また、奈良田の七不思議のひとつである二羽鳥の伝承は湯島でも聞かれ、「湯島に限り二羽鳥というて法皇民を惜しみ玉うて二羽に封じ、子を育てて親鳥去るか子鳥が行くか毎年八月の節に入れば只一と番となる。其の雌雄の睦ましき状また一景なり。

歌に、

秋立つと思ふ心や三吉野に

今日を限りかあはれなるらん

 

などと、まったく奈良田と同じ内容で伝えられている。下湯島の鎮守である山王神社の大杉もまた、天皇の温泉来浴の際

に病の平癒を祈願して植えた御手植えの神木といい、

 

楽しさは君の忠義や枕神

値えて再び作る宝ぞ

 

などという歌もよまれている。この山王神社の境内の「駒引き岩」および孝ケ嶽についての伝承は次の通りである。

 岩の上に人の足跡馬蹄型に似た穴処が大小無数にある。これは孝謙天皇が奈良田ご入来の際乗ってきた馬と従者をここから帰した帰所で従所も馬も共に別れを借しんで嘆き悲しんだ。この嘆き足摺ったのが岩の上に跡として残ったものである。この付近に以前は大きな滝があった。山の崩潰によって埋没してし まったが孝謙天皇の皇子が滝壹に身を打たせて御母の病気平癒を祈念した所だった。滝は無くなっていたが切り立った岩山、がそれで「孝が嶽」と呼ぶようになった(奈良田分校湯泉英先教論談)。

 

望月目註の『湯島七不思議並八景観』にもこの孝ケ嶽についての解説がみられる。

 

別当山東に、孝ケ嶽という名山あり。此の山は湯島奈良田一目に見ゆる所にして天皇御入湯の砌、御供致したる鶴二羽此山に住み、日々御通知相勤めたる故に孝の鶴という。其の砌、此の山にて子を育てる故に孝の嶽という。今以って巣の形あり。日本にて孝の鶴、本鶴というは是よりいう」

 

というの、がそれであるが、ここにある別当山も天皇旧跡とされ、

 

古へ法皇御入湯の砌、此の山に御登り見るに、八方険阻の所にして富士白根に並ぶ三つの名山、都へ見えると思召して此山に別当を置き、御先皇御菩提を営む所にして八方切れたる名山なり

 

としている。別当山に至る別当沢の大滝もまた

 

別当沢の源に百七十丈余の滝あり。此の滝にて法皇別当を付け置き、百日の行を被遊たる。滝壹三十間四面底しれず、此の傍に擲燭ケ岩と云う御殿地あり別当城と云う。とされるのである。

 

このように、湯島の周辺にも思いのほか多くの天皇伝説が分布し、本凱地の奈良田にもひけをとらないが、当地の日蓮宗寺院である法雲寺の寺僧の大きな関与がやはり認められよう。法雲寺は奈良田の外良寺とも密接な関係にあり、奈良田にならって湯島の七不思議や湯島八景を創案したのはほかならぬ法雲寺の寺憎その人なのであった。

 

さて、参考までに奈良田・湯島周辺における孝謙天皇伝説地の分布を次図に掲げてみよう。この地図の範囲からはずれる地域にもまたいくつかの関連伝説地がみられ、芦安村側における沓沢部落やデエ地の伝承地、アルプスの鳳凰山、早川の下流域では五箇の旧深沢幸四郎家や穂積の旧深沢常右衛門家なども旧跡地としてあげておくことができよう。また、『甲陽随筆』などに記された飯富部落や天子ヶ岳にまつわる由来も、それぞれ関連伝説のひとつに数えられ、孝謙天皇伝説は早川町一帯のかなり広い範囲に分布することが知れるのである。

 

  六 まとめ

 山梨県の南西部地域に伝えられた孝謙天皇伝説に関する示承実態は以上のようなものであった。都からの貴人の配流・流離地としての伝説が発生しやすい山間僻遠の地があり、そのような土地に数々の天皇潜幸説や平家落人説があてはめられてきたとするならば、「秘境」奈良田はまさしくその条件を可不足なく満たした仙峡の地なのであった。しかるに、そこで生み出された貴人遷居説は、当初きわめて民俗的な創造力の文脈にしたがいつつ、あいまいでばく然とした貴人パーソナリティを主人公とし、それは「都における最高位の君」たる奈良王像に結実したものと思われる。

その主人公が道鏡や女帝に置きかえられもするのは、知識人の知的営為に発したあくなき追及と考証の産物にちがいないが、そこには思いのほか単調な地名逓想が介在したりもする。

とはいえ、そこでの考証の成果は史実と霊跡とに飾られた豊かな再構成によって洗練化・体系化のプロセスを経つつ、いくつかの縁起にまで成長・結実した後、今度はそこからまかれた種子が数多くの旧跡となって広い範囲に移植されていくのであり、媒介項としての重要な役割をそこで果した、温泉場と寺院の存在も忘れることはできない。素朴な貴人伝承が女帝の遷居伝説にまで発展・成長していく歴史的経過と、そこから生み出されていくさまざまな霊跡・旧跡にまつわる派生的な小伝説の分布実態とについて整理してみたのがここでの作業なのであったが、そこには実際の歴史と具体的事物の存在とによって構成される伝説の基本的成立要件のありようが端的に示されていたようにも思える。この伝説が諸役免除の根拠としても位置づけられ、その特権性と自らの由緒ある出自とを理念的に補強するために大きな意味を持ったことを含め、それが史実であろうとなかろうと、孝謙天皇伝説の存在なくして語れないこの地域の歴史的風土性というものが、あらためてここに深く認識されるのである。

 






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最終更新日  2020年11月02日 04時51分22秒
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 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
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