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2020年11月02日
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卑弥呼(ひみこ)はどんな女王だったか


  鈴木靖民氏著

  『歴史地理教育』

  3月臨時増刊号31986=№395

  歴史教育を問う日本史5050

 

一部加筆 山梨 山口素堂資料室

 

 『魏志』倭人伝によれば、

 

その国、もとまた男子を以て王と為し、

(とどま)ること七、八十年。

倭国乱れ、相攻伐すること年をふ。

乃ち共に一女子を立てて王と為し、

名づけて卑弥呼という

 

とあって、著名な邪馬台国の女王卑弥呼の出現とその背景を物語っている。

 

すなわち、西暦170~180年ころから倭国では争乱状況が起き、それを収拾するために倭国内の諸国の首長たちによって「共立」され、王位についたのがほかならぬ卑弥呼であった。

しかしながら倭人伝には、卑弥呼が死ぬと男王が立ったが、ふたたび国中が戦乱に陥り、そこでまた卑弥呼の宗女、つまりその同一系統の家族集団、もしくはそれを中核とする地域集団のなかから出た台与が即位して事態はようやく鎮静したという。

 従来、三世紀初めころ倭国は卑弥呼の邪馬台国が成立して、安定した状況にあったとするのが一般的な理解である。しかし239(景初三)年卑弥呼の使いが魏に遣わされ、銅鏡や五尺刀を授けられ、何よりも「親魏倭王」なる称号を与えられたのは、上述の卑弥呼の死後の混乱を想起するなら、邪馬台国を主とする倭国の一時的安定の状態を示唆するものというべきであろう。

 こうした倭国の様子をうかがわせる史料は、同じ倭人伝の対魏外交にみえる生口の記事である。

それによると、239年男生口4人、女生口6人、243(正始四)年生口(人数不詳)、二目三年以降(卑弥呼の死後、台与のとき)男女生口30人が、それぞれ魏の朝廷への朝貢物として献じられている。生口とはいわゆる捕虜であるが、それは基本的には戦争の結果捕虜となった非戦闘員、すなわち一般住民をさし、あるいはその他、集落内部の「犯法」などによる特殊事情で生口となったものも含まれようが、そうした人たちが外交上の媒介物として供出されたのである。ともかく、生口身分の主な生成要因は、倭国の慢性的な争乱、いいかえれば戦争の恒常化のなかで理解される。

 さらに考古学では、弥生中期から後期におよぶ時代、すなわち2世紀の後半以降3世紀に、瀬戸内東部や近畿南西部を中心とし、なお東西に拡がって分布する高地性集落、および石製武器の発達が倭国の争乱とかかおりあるものとみなされている。

実際、北九州・瀬戸内・近畿の各地において、恒常的な戦闘状態があったことは、石鏃・牙鏃・鋼鉄・石剣などがささった人骨の出土例から推測されている。 

 卑弥呼登場の直接的契機となった争乱の原因は、倭内部の社会の成熟とともに、184年、黄巾の乱の勃発によって、倭の首長たちが前代より密接な政治的つながりを有した後漢が末期的症状を呈し、楽浪郡による朝鮮半島支配も終焉することにある。おそらく楽浪郡などの中国郡県の力を後ろ楯とすることによって、自己の支配者の地位を確保してきた倭国の首長たちは、当然ながらその基盤を喪わざるをえず、ひいては倭国全体が長期的な混迷へと陥ることは必定であった。

 この倭国の様々な争乱を機に、いわば軍事と外交のイニシアティブを掌握したのが諸国の首長たちであり、その諸国の離合集散の一つの結果したところが倭人伝にみえる対馬国以下の倭国の支配構造であり、また首長=王たちの存在形態である。なかんずく邪馬台国の王にして倭国の王中の王でもある卑弥呼の存在こそもっとも留意されるのである。

 邪馬台国はおよそ30近い国々を統属していたという。この邪馬台国を中心とする倭国の国々は、二ないし三の諸小国許のプロックからなっていた。一つは対馬・一支・末盧(まつら)・伊都などのプロック、二つは奴・不弥・()()などのプロック、三つ目は邪馬台国とその「旁国」というプロックである。それぞれの国には元来首長の称号を意味すると思われるヒコ、シマコなどという原始的官をもって呼ばれる人々が各地の住民を支配し、それがおよそ三つのプロックにまとめられており、さらにそれらの間には邪馬台国を頂点とするブロックが他を支配・隷属関係におくという支配の基本形態があったと想定される。倭人伝に知られる倭国内部の諸国はいわば邪馬台国を主とする累層的・重層的な支配構造を、各地首長を介在にしつつ、政治の基礎に有していたのである(卑弥呼の名もヒメコまたはヒメミコの意の称号であろう)。

 倭国の国々のうちで、政治的社会として他よりも先行していたことが、邪馬台国が他の末廬(まつら)伊都(いと)()などの国に優越して卑弥呼のような倭国全体の王を出すことになった大きな要因であろう。

 さらに卑弥呼は「鬼道を事とし能く衆を惑わす」と伝える。この「鬼道」を霊魂と交感する機能を発揮する行為とみて、北アジア、北ヨーロッパのウラル・ケルタイ系の人々の間に分布するシャーマニズムと同じであり、その霊媒的職能を行う卑弥呼はシャーマンつまり巫女であるというのが通説である。

しかしこのシャーマニズム説はその具体的内容や性格がほとんど明らかでない。そこで、近年提出されるのは、鬼道が2世紀後半、後漢ころから中国で流行っていた土俗的な信仰である道教、そのなかでも五斗米道の一種であるとの説や太平道とする説である。あるいはシャーマニズムと道教を折衷した見解もある。

 これに対して私見では、『魏志』高句麗・韓両伝などにみえる「鬼神」を祭るという信仰が主として農業神を祀る各地首長の司る公的な行為と解されることからの類推、およびそうした祭祀・信仰の生成や顕在化が、三世紀ころの弥生期の農耕生産を基盤とする社会の形成・持続との本質的なつながりを考慮すれば、「鬼遣」と農耕祭祀とは関連をもつものであるとみなされる。そしてその祭を司る卑弥呼など倭各地の支配者たる首長の行為は、シャーマン的宗教形態のなかにあるものと推測される。

 文化人類学、民俗学の成果によっていえば、卑弥呼は農耕にかかわる地域集団の祭祀のときに、神もしくは霊魂(穀霊)と交感する能力(予言、卜占、祈禱、招魂など)を発揮した首長にして巫女であった可能性が濃い。さらにこの農耕の神たる上位の霊魂に接近するためには、地域集団の祖霊をも信仰したことが合せ考えられる。

 この卑弥呼は人間・社会を代表して霊魂に働きかける祭司であるが、それは霊魂と交流するシャーマンの性格も兼ね備えているのであり、かの女は本来世襲的継承に依りつき得る祭司的地位=プリースト・キングであった。こうした卑弥呼のありようは当時の邪馬台国ないし倭国の王権の歴史的段階を示唆する以外の何ものでもない。(すずき やすたみ・国学院大学)

 






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最終更新日  2020年11月02日 04時53分53秒
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