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2020年11月02日
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仁徳陵主は誰か 原島礼二氏著

 

 『歴史地理教育』

  3月臨時増刊号31986=№395

  歴史教育を問う日本史5050

 

一部加筆 山梨 山口素堂資料室

 

 大阪府堺市にある、仁徳天皇の墓と伝えられている大きな古墳は、その長さが四八六でII・トルもあり、日本でもっとも大きな前方後円墳である。この巨大な古墳はいつごろつくられたものなのだろう。

モれがわかれば、仁徳天皇の没年代と比べることによって、だれがこの墓の主であったのか、もある程度考えることができるだろう。

 その有力な手がかりとして最近注目をあびているのは、多くの古墳にかざられている円筒形の埴輪が、時代の変化につれて、その形や調整の方法などの面で変化をみせることだ。

たとえば、四世紀の近畿地方周辺の円筒埴輪は、(たが)と箍の間などにあけられた孔の形が三角形や四角形で、同じ世紀のものでも、少し時期が下ると円形やまれには半円形、かぎ形なども視られる。

ところが西暦四〇〇年前後のものになると、孔の形がだいたい円にまとまり、稀には半円形もみられるようになる。

 このように、どの古墳(ただし六世紀の中ご右までのものだが)にもある円筒埴輪に注目し、古墳がつくられた年代を考える方法は、これまでよく行われてきた方法、つまり応心神天皇と仁徳天皇が四世紀後半から五世紀の前半に在位していた実在の大王ときめたうえで、この二人の陵にあてられている日本の二大古墳がつくられた年代を四世紀末ごろ、および五世紀の三〇年代ごろとする方法よりも、はるかに事実に近いものを求められる。

というのは、この二人がほんとうにそのころの大王だったかどうかについては、これを否定する学説もあるから、この説が正しければ、いま紹介した古い方法は、初めから崩れてしまうのである。

 それだけではない。この二人が事実大王だったとしても、二人が葬られた古墳が、たしかに仁徳陵と心神陵だという証拠は、残念ながらなにもないのである。

 

『古事記』や『目本書紀』などに記される二人の天皇の陵の位置、およびだいたいの規模を参考にすると、かれらの陵と古代の貴族が考えていた古墳は、おそらく現在広神陵、仁徳陵にあてられている巨大古墳とみることができよう。

しかし、そのような古くからの記述の当否を、ほかのたしかな資料によって裏付けることはまだできていない、というわけだ。

 それに比べると、いま紹介した円筒埴輪の変遷をもとにした古墳の年代推定法は、古墳同士の新旧関係をつきとめるうえで、より有効である。ただ、それらの実際の年代をつきとめるためには、それだけでは不可能で、もっと確実な実年代のきめ方がほしい。

 その意味で重視されているのが、数年前に発見されて話題をまいた埼玉県行田市稲荷山古墳出土の辛亥年銘鉄剣の一一五文字である。この文字が伝える辛亥年は四七一年か五三一年にあたる、という二つの説が有力だが、さらに鉄則が副葬されていた古墳のその他の副葬品全体からみると、四七一年説のほうが有利である。

したがって、この古墳がつくられた年代も四七一年以後の五世紀末前後、とみる説が一般的となっている。そしてこの年代のきめ方は、遺跡の実年代をこまかくきめる最有力な武器、すなわち朝鮮半島の土器に由来する須恵器の形式変遷が示す年代とも矛盾しないのである。

 こうして、須恵器の形式変遷が示すこれまでの実年代のきめ方は、あらためて妥当なことが裏付けられた。そしてこの須恵器が近畿地方で生産されはじめた時期もまた、五世紀の第二~四半期(四二六~五〇年の間)にあたるという学説が、ますます多くの人々に支持されるようになったのである。

 

最近韓国では、須恵器のもとになる半島南部の土器の研究がすすみ、その方面からも、この説が支持されるようになりつつあるので、五世紀の第二~四半期に須恵器が生産されはじめたことは、どうやら動かなくなったといえる。

 ところが、この須恵器は従来の土師器の場合とちがって、トンネル式の登り窯で焼かれ、トンネルの上下の口をふさいで焼かれるため、酸素が供給されない、いわば蒸焼きの状態で焼成され、しばしば還元状態にともなう灰褐色を示した。

 この画期的な方法が、それから間もなく、古墳の円筒埴輪の焼成法にも活用されるようになった事実が、最近とくに注目を浴びるようになってきた。多くの考古学者がこの研究にとりくみ、現在天皇、皇后陵にあてられている巨大な古墳についても、須恵器と同じ方法で焼かれた埴輪の有無がある程度わかるようになっている。そのうえはさらに、巨大な古墳の各所にならべられた様々なタイプの埴輪のうち、墳丘がつくられた時期そのものを示すものをおさえるため、ぜひとも陵墓治定古墳への立ち入り調査が必要となる。

 その意味で、現在の研究水準は不十分なものだが、にもかかわらず、その成果は眼をみはるものがある。 前記の応神陵、仁徳陵治定の古墳の場合、現在判明する限りでは、いずれも須志賀の円筒埴輪が並べられているというのだ。

この点に眼をつけた考古学者は、日本最大の規模を示す二つの古墳が、五世紀の第二~四半期あるいはそれ以降につくられたことを明らかにしている。

 したがって、四世紀末ごろに没したといわれる応神天皇の墓としては、現在の広神陵治定の古墳がふさわしくないことは否定することができない。三〇年前後も、没年代と古墳のつくられた年代がずれるからである。

 それでは仁徳天皇と仁徳陵治定古墳との関係はどうだろうか。

 この古墳に使われた円筒埴輪は、前記の心神陵治定の古墳のそれより時代があたらしい特色、傾向を示すという。様々な特色からみると、この古墳は五世紀の中ごろあるいは後半につくられたとされている。ところが、仁徳天皇を倭の五王の一人「讃」にあてたとしても、その没年は四三〇年代あるいは四三〇年の直前となる。仁徳天皇の没年と古墳がつくられた年代とは、やはり二〇年あるいはそれ以上ずれるわけである。まして、倭王讃が仁徳の子履中天皇だとするならば、さらにそのずれが大きくなってしまう。

 このような事情からみると、仁徳天皇陵治定古墳は、どうも仁徳天皇の陵でない可能性がつよいといわざるをえない。

おそらくこの古墳は、倭の五王の一人、しかも五世紀中ごろかそれ以降の王の墓なのだろう。

 

その比定人物がだれにあたるかをきめるには、これからさらに研究が必要であり、将来その成果もえられる可能性があるといってよいと思う。(はらしま れいじ・埼玉大学)






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最終更新日  2020年11月02日 04時54分48秒
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