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2020年11月02日
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カテゴリ:著名人紹介

良寛*その超俗なるもの

  

歌人 その生と死

  宮 柊二氏著

  

『文芸春秋 デラックス』s495

  「万葉から啄木まで 日本名歌の旅」

  一部加筆 白州ふるさと文庫

 

良寛は宝暦八年(一七五八年)、越後(新潟県)の出雲崎に生れた。

父・山本以南、母・秀子の長子であった。

山本家は屋号を橘屋といい、代々名主と神職とを兼ねる旧家である。

母の秀子は佐渡相川の山本氏の娘で、十七歳の時、橘屋の養女となり、やがて以南を新本家から婿として迎えた。

この母は美しく、聡明な人ではなかったかと想像される。

後年、良寛は母をしのんで、

  たらちねの母がかたみと朝夕に

佐渡の島べをうち見つるかも

 と歌っているが、

あるいは良寛の幼い日に若い母親すなわち秀子は、いつも佐渡ケ島を自分の故郷と言っては指さし教えたのかもしれない。そんな思い出がこの一首の奥にひそんでいるような気もする。

 

次のような言伝えもある。

 ある日、いつまでも帰って来ない栄蔵(良寛の幼名)を母がさがしに出ると、栄蔵は海辺でひとり涙を流していた。そして、呼ばれると、「自分はまだ鰈(かれい)になっていないか」と、母にたずねたと言う。それは、その日、父に叱られたとき、上目づかいに父の顔を見ていると「親をにらむと鰈になるぞ」と言われ、それを真に受けて悲しんでいたのだという。

 これは単なる言伝えにすぎないが、いかにも良寛にふさわしい話なので、多くの人がこの話を紹介している。いったい良寛には、人の言葉を全面的に信じてすこしも疑わなかったという逸話が多く残されている。これは、しかし、ただ無邪気とか馬鹿正直とかいうのとは違うようである。

 良寛は「こころ」の問題を、頭で割りきり知的にかたづける、ということをしないという特殊な性格を豊かに備えた人であったのだとわたしは思う。幼時からそうした傾向があったことを、さきの言伝えは示すものではなかろうか。

 ■人間の生活に深い関心

 父の以南は激情的な人であったらしい。出雲崎の名主の橘屋と、すぐとなりの尼瀬の名主の京屋とは当時はげしい争いをつづけていた。(これの経緯については、高木一夫氏の『沙門良寛』〈昭和四十八年、短歌新聞社〉で実に詳細に考証されている。良寛伝として押したい新著である。)

 この争いは長い歴史をもつものであったが、その中で以南にはずいぶんと極端な言動があったと言われる。良寛の出家の動機は、この両家の争い、というよりはそこに見られた、社会制また人間の反目嫉視、憤怒抗争の中から脱け出したかったかららしい。のちにこの父は京都で自殺を遂げるに至った。

 良宣はそういう激情的な面を、この父からまるで受けなかったはずはないが、それが表へは顕れないで、いかにも美しく大きな魂の完成の道を辿っていったのは、そこに母から受けた素質の力があったのではなかろうか。

 これはわたしひとりの想像にすぎないが、なんとなくそんなふうに思われる。

 

十八歳(一説によれば二十二歳)のとき、良寛は出家し、やがて備中(岡山県)玉高の円通寺の大忍国仙和尚のもとで行を修めた。

 心や魂の問題に強くひかれる性向をもった良寛 には、父の職をついで、前述したような醜い名主同士の紛争にまきこまれることが耐えがたかったに相違ない。その後二十年近い修行ののち、良寛は故郷に帰って来るのだが、その間に彼は母を失い、また父の桂川への投身にも出あわなければならなかった。

 良寛が越後の国に帰ったのは、寛政七年(一七九五年)、三十八歳のころかと言われる。その後、文化元年(一八○四年)、四十七歳で国上山五合庵に定住し、いくたびか事情のために他に移ったことはあるが、おおまかに言えば、五十九歳の文化十三年(一八一六年)まで良寛はこの庵で生活した。

 その年、老齢のため国上山をやや下った乙子神社の境内の草庵に移住した良寛は、そこで六十九歳までの十年間を送ったのである。

 五合庵に入って以後、良寛は諸方から万葉集を借りて読み、自分でも多くの歌をつくった。

 

  明るい中に無限の憂愁

 

あしひきの国上の山を越え来れば

山ほととぎすをちこちに鳴く

 

山中の孤独な生活によって養われた精神の充溢が、この歌には感じとられるであろう。明るい静寂の中に、遠く近く聞える杜鵑の声を、良寛は自分の全存在をもってしっかりと受けとめているようである。

  

草の庵に足さしのべてをやま田の

山田のかはづ聞くがたのしさ

 

これも孤独の中の歌だが、この方はいかにもやすらかにひとり居を楽しんでいるようである。

「たのしさ」というのが、言葉だけでなく、すべてを忘れ、心を解きはなって蛙の声に聞き惚れている気持ちを表現している。 

 

 しかし、良寛はけっして、単なる厭世家、世捨人ではなく、人一倍人間の生活に関心の深い詩人であった。ひとたび庵を出て来ると、彼の眼に人間の生活が、労慟がうつる。

  

さ苗とる山田の小田の乙女子が

うちあぐる唄の声のはるけさ

 

 「さおとめ」のはるかな唄声の中に、良寛が聞いたものは、はたして何であったのだろうか。この一首の明るさ、感覚のあざやかさは、まるで近代のもののようであるが、その奥から何かかぎりない悲哀と寂寥がひびいてくるようでもある。

 托鉢のため人里に下りて来ると、良寛は多くの人々を愛し、彼らと親しくまじわった。そして、人からのおくりものをよろこび感謝した。

  

ちむばそに酒に山葵にたまはるは

春は寂しくあらせじとなり

  

かきてたべつみさいてたべわりてたべさて

    その後は口も放たず

  

くれなゐの七つの宝を諸手もて

おし戴きぬ人のたまもの

 

一首目の「ちむばそ」は、ふつうには「ほんだわら」とよぶ海藻のことである。食用にするという。

「ちむばそに酒にわさびにといろいろの品を下さるのは、せめて新春の間はわたしを心さびしくいさせまいとのお気持なのだ」

という意である。

二、三首は人から「ざくろ」をもらった時の歌である。

 良寛はざくろが大の好物であった。「かきてたべ……」の、このひたむきな、全身全霊をもってのざくろの楽しみ方のなんとすばらしいことか。

そして、七つの柘榴がなんと赤々と宝玉のようにかがやいていることだろう。「七つの宝」というのは、良寛にとって単なる言葉の上だけの表現ではなかったのだ。

 もちろん、こうした品物をくれた人々への厚い感謝の響きをこれらの歌から聞きとることができよう。

 さらに、良寛の感謝が、そうした狭いところを越えて、もっと大きな、天地万物への感謝というところまで達していることも、じゅうぶん読みとることができるような気がする。

 良寛が酒を好んだことも知られている。

  

百島の木伝うて鳴くけふしもぞ

更にや飲まむ一杯の酒

 

楽しく明るい歌だが、その底に無限の憂愁がこめられている。

 良寛が子供を愛し、子供から愛されたことはあまりにも広く知られているから、ここにはくわしいことは省略しよう。

  

この宮の森の木下にこどもらと

遊ぶ春日は暮れずともよし

 

しかし、良寛の歌がいつもこのように明るく、おだやかで楽しいとはかぎらない。

 一方には、苦しく悲しく堪えがたい心を詠ったものもある。その心は、彼の漢詩のほうにむしろ多く見られるが、いまは漢詩を挙げて触れることは措く。

  

埋み火に足さしくべて臥せれども

今度の寒さ腹にとほりぬ

  

むらぎもの心さへにぞ失せにける

夜ひるいはず風の吹ければ

 

粗庵に孤り住む苦しみだが、こうした苦しみをうたう歌においても、良寛の心はいささかも萎縮してはいない。また乾いてもいない。彼は人間を底に湛えて、のびのびと歌いあげている。小さな感傷などにおばれた気配がつゆほども見られないのである。

 

  良寛*その超俗なるもの 若く美しい貞心尼との交流

歌人 その生と死

  宮 柊二氏著

  

『文芸春秋 デラックス』s495

  「万葉から啄木まで 日本名歌の旅」

  一部加筆 白州ふるさと文庫

 

 六十九歳になって、ひとり住みの不自由にたえられなくなり、島崎の木村家の邸内に移った良寛は、間もなく美しく若い真心尼を弟子とすることになった。

 良寛仮晩年の三年ほどの、この二人の交流によって良寛の一生はいっそう豊かな完成を示していると言ってよいのではないか。良寛、真心二人の間を「恋愛」と呼びたければ、そう呼ぶことは少しもさしつかえないが、それは世間がそう呼ぶものとはたいへん違ったものであったろう。

 二人がたがいの心の響きあいにのみ、もっぱら耳をかたむけ合っている様子はなんとも言えず感動的である。

 その唱和の、歌を、詞書を省略して、二、三掲げてみよう。

  

しろたへの衣手さむし秋の夜の

月なかぞらにすみわたるかも 良寛

  

むかひゐて千代も八千代も見てしがな

空ゆく月の言間はずとも    貞心

 

きて見れば人こそ見えねいほ守りて

匂ふはちすの花のだふとさ   貞心

 

み饗する物こそなかれ小がめなる

はちすの花を見つつしのばせ  良寛

  

うたやよまむ手まりやっかむ野にや出む

君がまにまになしてあそばむ  貞心 

 

うたやよまむ手まりやつかむ野にや出む心

    ひとつをさだめかねつも    良寛

 

 良寛は、裕福で、文化的な家に生れ育った。そしてそこから得たものを、きらびやかには示さない大知識人、大教養人でもあった。彼は和歌以外に、漢詩や書においても、群を抜いて深みのある、立派な作品を残している。

 しかし「歌よみの歌、書家の書」をきらった良寛は、けっして知識や教養によって魂の問題を忘れ去るような、専門知識人ではなかった。

 天保元年(一八三〇年)末、病重しとのしらせにかけつけた真心に、良寛は、

  

いついつと待ちにし人は来たりけり

今はあひ見て何か思はむ

 

との一首を詠んだが、翌年一月六日示寂する。七十四歳。

その逝くほんの少し前の、十二月二十五日に、病む良寛を弟の由之が見舞っていて、良寛の最期の歌などを写し残している。その中の短い長歌には、次のようなものもある。

  

この夜らの 

いつか明けなむ

  この夜らの 

明けはなれなば

  女来て 

尿を洗はむ

  こひまろび 

明かしかねけり

  長きこの夜を

 

夜が明けたら里の女たちが来て、糞尿によごれた体や衣を洗ってくれるだろう、朝が待ち遠しくてならない、というのである。

「こひまろび明かしかねけり」という病態で、痢病だったという。尊まれた人ながら、北国の、寒い中で、老いてひとり逝く。






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最終更新日  2020年11月02日 05時06分55秒
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