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2020年11月02日
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歌に見る日本の美学 水について

 

『文芸春秋 デラックス』s495

  「万葉から啄木まで 日本名歌の旅」

  塚本邦雄氏(歌人 著)

一部加筆 白州ふるさと文庫

 

清く澄む水の心のむなしきに

さればとやどる月のかげかな

 

『秋篠月清集』には木火士金水五行を標題とした各一首ずつの歌がある。

水という言葉を用いあるいは水を歌った秀作絶唱はおびただしいが、「水」と題した作品は王朝諸歌集にもこれ以外は容易に見当らない。なおまた歌合や百首歌の題が細をうがったこの時代、たとえば六百番歌合の「恋」など、「初恋」から「寄商人恋」まで五十種類に分たれているが、「寄木恋」がない。

当然水はその性に従って自在に変貌し、ここでも海、川、雲、雨の相をもって現われ、さらに一方では沢、沼、潟、湖、滝、渚、汀、入江、沖などさまざまな姿となって万葉以来の歌を潤し浸し流しつづけてきた。

良経の歌はこの流転する「水」の本質を意識的に把握しようとした稀な一首であった。まさしく「しようとした」のであって、決して十分な把握とは言えまい。

少なくとも「月」を詠んで

 

寂しさや思ひよわると月見れば

心の底ぞ秋深くなる

 

と魂の深淵を垣間見させ、「扇」に寄せて

 

手にならす夏の扇と思へども

ただ秋風のすみかなりけり」

 

と荒寥たるわが身の果てを透視した鬼才にしては、特に下句は常凡てある。しかしながら

 

「水の心のむなしきに」

 

は点晴でありさすがと言えよう。

 

ゆく何の流れは絶えずしてしかも

もとの水にあらず。

よどみに浮ぶうたかたはかつ消え

かつ結びて久しく

とどまりたるためしなし 藤原良経 

 

という長明の詠嘆が文選の歎逝賦によったものであろうと論語子罕篇(しかんへん)を写したものであろうとここには万葉以来の水に対する通念が集約的に常識的に述べつくされている。

良経はそこで止まってはいなかった。否流水を人生の直喩(ちょくゆ)としてともに流されることを潔しとしなかった。水底に立人って虚無を視たのだ。月が映ったとて何になろう。無の上に無を重ねる、だけではない。

彼の想念は頁数となって歌が終ったところから流れだす。よそへ、あらぬ世へ、さらに深く救いがたい虚無のかなたに不可視の流動をはじめるのだ。

心の底の秋といい秋風のすみかといい、彼の凄まじい反世界観の反映にほかならず、五行中の水とは彼を支える最も重要な因子であった。五行以外に東西南北中の五方を、また青黄赤白黒の五色を詠んだ良経の並列均衡的な美学には、つねにバランスの崩壊に直面していた痛ましい精神の反射がまざまざと見られ、「水」こそはその均衡祈願の果ての(うめ)きではなかったろうか。

 

もののふの八十(やそ)(うじ)(がわ)の網代木に

     いさよふ彼の行く方知らずも

              柿本人麿

 

巻向の山辺とよみて行く水の

水泡のごとし世の人吾等は

                 柿本人麿

 

八釣川水底絶えず行く水の

()ぎてぞ恋ふるこの年頃を

              作者未詳

 

君恋ふと消えこそわたれ山河に

    渦巻く水の水泡ならねど

              平 兼盛

 

(かがり)()の影しるければうばたまの

夜河の底に水も燃えけり

              紀 貫之

 

水上のこころ流れてゆく水に

いとど夏越の神楽おもしろ

              壬生忠見

 

ひとりゐて涙ぐみける水の面に

    浮き添はるらむ影やいづれと

              紫式部

 

はかなしやさても幾夜かゆく水に

数かきわぶるをしのひとり寝

                藤原雅経

 

かつこほりかつはくだくる山川の

いはまにむせぶあかつきのこゑ

                藤原悛成

 

万葉の序詞の水は古今に入ってかえって現実的な照り戻りを鮮やかに見せる。貫之、忠見の景物としての水が題詠の陳腐さを払拭して見事に生きている。

篝火を映して紅に炎える水といい、神楽の響きを流して浮き立つ水といい、実感不在を手きびしく漫罵(まんば)されてきた古今および古今時代の歌人の感覚の冴えを見直すのにかっこうであろう。

ただその絵画的、音楽的に活写された水は、単なる序詞にさえひそんでいた「水の心」を喪っていた。やはりわが魂のうちなる水、人の世のことわりを超えて世界の外へ落ちる水を認識するには悛成、雅経その他新古今歌人の智慧を借りねばならず、さらには良経の不吉な人生を(にえ)とせざるを得なかったのだ。

 

(しお)(なわ)のはかなくあらばもろ共に

    いづべの方にほろびてゆかむ

            斎藤茂吉

 

最上川の流のうへに浮びゆけ

行方なきわれのこころの貧困

             同

 

 万葉巻十一の

 

潮満てば水沫(みなわ)に浮ぶ細砂にも

吾は生けるか恋ひは死なずて

 

を愛した茂吉の水は、序詞のはかない生は写してもついに水そのものの底、底無しの虚無、無気味な生に到ることはなかった。

 

秋のみづ素甕にあふれさいはひは

孤りのわれにきざすかなしも

            伴野哲久

 

他界より眺めてあらばしづかなる

的となるべきゆふぐれの水

            葛原妙子

 

水が流転するように歌も輪廻するものである。鏡がもともと水鑑であったように歌とは揺れ漂う水に写したみずからの心の声、千三百年の歌の歴史にのこる天才駿足の悲歌も頌歌(しょうか)もいずれはきらめく泡沫のたぐいではなかったろうか。

泡沫、けだしこれほど惨く、かつ不死身のものも他にあるまい。かつ、虚無に徹するほどに(つよ)い精神は稀である。そして水は永遠に詩歌の最初にして最後の主題であった。






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最終更新日  2020年11月02日 05時11分58秒
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