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2020年11月02日
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歌に見る日本の美学 鳥について

 

『文芸春秋 デラックス』s495

  「万葉から啄木まで 日本名歌の旅」

  外山滋比古氏著(作家)

一部加筆 白州ふるさと文庫

 

野鳥を求めて公園や森を散策するというのがイギリス人にとって優雅なたしなみのひとつであった。

 鳥の姿は見えなくても木の間から洩れる鳴き声で、どの鳥かピタリと当てる。何十種類もの鳥をこうして聴き分けられないと一人前ではないらしい。これがバード・ウォッチングといわれるものだ。

 バード・ウォッチングの楽しさを書いた文章もすくなくないが、そういうものを読んでいて、われわれはこれほど鳥に関心をもっているだろうかと、ふと反省することがある。

 わが国にも野鳥の会があり、熱心な人もすくなくないが、一般の日本人はどちらかというと自然の中の鳥をさほど細かく注意することをしない。美しいとは思っても、心をこめて観察することは稀である。

 むしろ、はじめから先人の情緒で包んでしまっている。

 野鳥の興味よりも、おもしろい鳥なら飼ってみようとする。自然の中へ入っていくのではなく、自然を人間の生活の中へ引入れようとするのかもしれない。

 

古いところではどうなっているかと思って万葉集をのぞいてみた。すこし読んでいくといろいろな鳥が飛んでいる。

うぐいす、ひばり、ちどり、かもめ、みやこどり、つばめ、からす、わし、たか、などが見える。

 

『万葉集名物考』(著者未詳)には五十一種の鳥が収載されている。

 しかし、こういう数字よりも、

   

若の浦に潮満ち来れば潟をなみ

   葦辺をさして鶴鳴き渡る 山都赤人

 

のように、鳥が一首の歌の首部を占めていることのほうが注目すべきであろう。たんなる添えものや点景ではない。

春日に雲雀あがり情悲しも独りしおもへば 大伴家持

 

 になると、よほど内面化して、心象と外界との交響へ耳が向けられている。それでもなお、鳥は生きて飛んでいる感じははっきりしている。

 

ところが古今和歌集へ移ると様子は一変する。万葉集に多くの鳥という意味の百千鳥ということばが用いられているが、実際に百千鳥が飛び交っている。

 それに引きかえ、古今集ではさっぱり鳥が飛ばない。百千鳥ということばは残っているものの、実際にあらわれるのは十指で数えられるくらいになってしまう。そして特定の鳥が繰返し詠われる。

 夏歌は全部で三十四首だが、そのうち、ほととぎすを詠んだものが実に二十八首、八割である。詩情と題材に統制が加わっていることが明瞭である。

ほととぎすを歌にするというより、夏の歌にはこの鳥によるほかはないと感じられていたことを暗示する。

 春の歌ではこれほどではないが、やはり、うぐいすの独り舞台で、あとは、呼子鳥、かりなどが一、二出てくるにすぎない。

 つまり、古今果てはもう百千鳥は飛ばなくなっているということである。

わずかに、ほととぎす、うぐいす、かり、ちどり、みやこどりなど限られた名前の鳥が重い詩的連想をひきずりながら姿を見せている。

 歌人たちは自然の中の鳥には目をふさぎ、心象としての鳥に関心を向けた。 そういう主観主情主義を写実の立場から裁断することはやさしい。けれども、いかなる文学的伝統の中でか自然は長く自然のままであり続けることができないことも忘れてはなるまい。

 自然の昇華、イメージ化か進み、あるいは人間心理に組込まれ組織化された自然だと言ってもよい。ことにわが国のような島国言語的純度の高い社今では、この自然の人間化も急速かつ徹底したものになる。歌語や季語はこのアイランド・フォームの文芸がつくりあげた結晶のようなものである。

 古今集が季節や主題で歌を分類しているのも、考えてみれば自然の組織化のあらわれだと言えないこともない。

 歌人が心理化された自然という眼鏡をかけると、歌に詠みうるのはごく限られたものにならざるを得ない。しかも、鳥なら鳥を凝視するのではなく、それにまつわる連想のほうが主になる。

有名な、

  

名にしおはばいざこと問はむみやことり

わが思ふ人は有りやなしやと 在原業平

 

にしても、いねばことばの遊びのおもしろさである。みやこどりは下の句の主情を引出す序だと思ってもよいくらいである。さらにはっきり脇役に押しやられると、

  

はつかりのはつかにこゑをききしより

なかぞらにのみ物を思ふ哉  凡河内躬恒

 

のように、はつかりがはつかに(わずかに)の枕詞になってしまっている。

 

こういう例もはなはだ多い。象徴的なのは烏の運命である。

万葉集ではりっぱに詠われているのに、古今生になると、歌語として失脚したらしく、あけがらすを例外として、姿を消した。烏の文学的復活は芭蕉まで待たなくてはならなかったのである。

 わが国の詩歌における鳥の扱い方は、自然の中でとらえる万葉集の流れと、イメージ化して心の目で見る古今集の流れとに大きく二分できる。そして、どちらかと言えば、後者の傾向が支配的であるように思われる。俳句がいくらか万葉的な考え方をはっきりさせているのが注目される。

 鳥に限らず、われわれの言語文化の歴史は、自然を心象化し実体から遊離させようとするつよい作用をもってきた。

 自然は詠い上げられる情緒であって、観察されるべき外界ではなかったのである。

 日本人は自然を愛するといわれるけれども、本当の自然には意外と縁遠く、ひたすら心の中につくりあげたイメージを愛し続けてきたのではあるまいか。どうも、そんな気がするのである。

 






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最終更新日  2020年11月02日 05時59分20秒
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