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2020年11月02日
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歌に見る日本の美学 風について

 

『文芸春秋 デラックス』s495

  「万葉から啄木まで 日本名歌の旅」

  外山滋比古氏著(作家)

一部加筆 白州ふるさと文庫

 

 むかし曲亭馬琴は京都へ来て、京の雨はまっすぐに降るといっておどろいた。

 京都人である私は遂に、関東へ行ってはじめて、雨が斜めに降るのを見ておどろいた、といえば少し誇張になるが、京都盆地の雨はそれほどしっとりしたものである。

というのも、野分(台風)を別にすれば、風らしい風がこの盆地には吹かないからである。だから雨もまっすぐに降る。戦争中、勤労奉仕で上州に行って、からっ風のすさまじさにこれはほんとうに驚いた。

 砂塵を舞いあげ荒れ狂う風のおそろしさは、そのむかし、平安の貴族たちも「観念」としてしかしらなかったにちがいない。

  風をいたみ岩うつ浪のおのれのみ

     砕けてものを思ふ頃かな

 

風が激しく吹きすさび浪が白い牙をむく光景に歌人たちが素朴に心うごかされたとは思えない。彼らは「文学」と化した光景に感勤し、そこに千々にくだける物思いをかさねあわせたのであろう。

 みやこでは、風はすぐれて「文学」なのであった。

 田舎ではそうではない。柳田国男によると日本全国には二十もの風の名声が分布しているという。アイの風とかヤマゼとかナライとか。むかしはもっと多かっただろう。都会で育った者には耳馴れぬ風の名である。

 私たちが知っているのは「東風(こち)ふかば」のコチとか、「イナセな若い衆」というときのイナセくらいのものである。そのイナセも、さわやかな夏の季節風というもとの意味はしだいに忘れられつつある。

 海岸、それも早くより航路の発達した日本海側に、よい風、悪い風のさまざまの風の名が多く分布しているのも不思議ではない。風向きによって舟が出たり入ったりする。

 生業も行き来もすべて「風まかせ」である。人は忍びよる風の気配に耳を澄ませる。

  

ヤマセ風 別れの風だよあきらめしゃんせ 

いつ又逢ふやら逢はぬやら 

(松前追分)

 

風は物を、人を、出逢いを、運不運を運び齎す。とりわけそれは出逢いであり別れである。という意味での風は、今日では「港出船のドラの音楽し……」といった歌謡曲の歌詞に、よりよくその面影をとどめている。

  天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ

をとめの姿しばしとどめむ

 

風の吹きまわしによって雲の通い路はひらいたり閉じたりする。月がひとつの「理想」だとすれば、理想のかたちは現実の雲によって、雲はままならぬ風のはたらきによって左右される。

  

秋風にたなびく雲の絶え間より

   洩れいづる月の影のさやけさ

 

風にはよい風も悪い風もある。また柳田国男によれば、二十ほどの風のうち三分の一は悪い風であるという。その悪い風を封じこめるために原始以来、人びとはどのような苦労を重ねてきたのだろうか。幸田露伴によると、かぜの「か」はすなわち「気」である。

 邪気にあたると風邪をひいてしまう。気は宇宙のなかにただよって不可思議な働きをする。

 この風を人間と見たてて封じこめようとする歌もまた、数知れず詠まれたことであろう。

  花散らす風のやどりは誰か知る

     我に教へよ行きて恨みむ(古今)

 

京都の今宮神社に安らい祭りがある。やすらい花や、と歌い踊る。桜の花よ、風雨にめげず長く枝にとどまれという祈念である。花のいのちの長短が、すなわち稲作の豊凶の占いであった。

  

吹く風をなきてうらみよ鶯は

   我やは花に于だにふれたる(古今)

 

風はうつろいをもたらす。

  

吹きまよふ野風をさむみ秋はぎの

     うつりもみしか人の心の(古今)

 

風の音に夜半めざめ、風の便りに人のありようを知る。

  

窓ちかき竹の葉すさぶ風の音に

   いとど短きうたたねの夢(新古今)

 

「聞く」とは「気・来」だと払は思っている。そこはかとない気がやってくる、風にのって。人の便りであり、物の気配である。意識はふと目覚める。さめた意識は外界の変化におどろく。移りかわったこの気配そのもの、これが風のもたらしたものであり、風の自己開示でもある。風といえばうつろいであり、とりわけ季節のうつろいである。

 そう観念するところに、美という名の安心がおとずれる。安心は、うつろいをうつろいとしてあきらめる無常感とうらはらになっている。

  

もみぢばを風にまかせてみるよりも

はかなきものは命なりけり (古今)

 

日本の風の美学は、結局無常態をうしろにただよわせた季節の推移のあきらめ、というところに落ちつく。

 すでに多く百人一首の歌を引用した。こころみに百人一首のうち、風をうたった歌はいくつあるか、数えてみた。私の計算では十二首である(すでに四首引用してあるので、のこるは八首である)。うち、「秋」を詠んだものが実に七首である。

 ということは、私たちの「風」の好みが、うつろい、季節の訪れ、とりわけ秋の訪れ、に定まってきたということである。たとえば、

  

み古野の山の秋風さ夜ふけて

ふるさと寒く衣うつなり

 

「山の秋風」はそのまま心のふるさとなのであろう。

 おわりに私のいちばん好きな一首。

  

白露に風の吹きしく秋の野は

つらぬき止めぬ王ぞ散りける

 

風のもたらす秋の気配は、景色の微妙な綾となって私たちの耳目を撃つ。

「風」というおそるべきモノノケは、こうして「風味」とか「風合い」とかの文化の指標となる。風はもう実在しない。風は文学となり、「風流」の伝統を形づくる。






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最終更新日  2020年11月02日 06時00分13秒
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