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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年11月02日
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カテゴリ:山口素堂資料室

甲斐歴史書籍中素堂との関係を著した書籍は?

 俳句に詠まれた甲斐  甲斐関連資料書籍より

宝暦二年(1752)甲府城勤番野田市左衛門成方著)
  裏見寒話 巻之四 
 故人近来鳴世

※ 調唯 壺嘗軒 鈴木氏

※ 十橋 天五會 藤田氏 右両人俳諧を以て名あり。
 附 録   

※ 猿橋にて 蔕(ほそ)落の柿の音きく深山哉  素堂    

※ 身延通本橋  通本て鳴や南無妙ほとゝきす  黒露

昭和八年刊行・甲斐叢諸刊行會
  甲斐叢記 巻之一  
 里 名   

※ 板垣の里にて 道ばたに繭ほす臭のあつさかな  許六
 巻之二

※ 小松といふ所にて

しほらしき名や小松ふく荻すゝき  芭蕉
※ 武川筋の信州諏訪口なり巨摩郡上教来石にあり
   庭つ鳥あけぬと告る山口の  河野茂門
   せきに別るゝみねのよこ雲       
 巻之四

※ せめて世をのがれし甲斐の身延山  元政
 御命講やあぶらのやうな酒五升   芭蕉
 巻之五

 つくづくとふじも小春も浮みけり  幾秋
※  船津の櫻浪あしにみゆ

雲霧の暫時百景つくしけり     芭蕉
※  甲斐山中にて

山がつのおとがひとづるむぐらかな 芭蕉
  ほぞ落の柿の音きく深山かな    素堂
  宿かせと刀投出す吹雪哉      蕪村
 巻之七

※  舟山にて

先のりをはやかすめけり朝の舟  幾秋
 甲斐叢記 巻之七
   白洲松原
 浦遠きしらすの末のひとつ松
      まだ影もなくすめる月哉  前大納言爲家卿  

※  甲斐のしらすと云所の松原のかけにしはしやすらひて

かりそめの行かひじときゝしかど
       いざやしらすのまつひともなし 宗良親王
    今しばししばしと日をやくらさまし
       なつをしらすの松の下陰 作者不知
 ※  松茸やしらぬ木の葉のへばり付  芭蕉

(これは甲斐での句ではない)
 夢 山

 わらび手の枕はづれて夢の山   馬光

 巻之八

※  勝沼驛

勝沼や馬子も葡萄を喰ながら    芭蕉
※  駒橋驛

行駒の麥になくさむやどりかな   芭蕉 

参考 甲斐叢記巻七教来石驛(けうらいじじゅく 現在は「きょうらいし」)

上下二村あり、村の西に教来石とて高さ七尺許堅三間横二間許の巨石あり、村名の起る所なりといへり。〔按にケウライシは清ラ石の轉訛ならん)石上に小祠あり日本武尊を祠る此石の西方に上屋敷・矢の下・裏門等の地名あり教来石民部少輔の宅址なりとぞ。支村山口といふ處に國界の關あり山口關といふ。

裏見寒話 宝暦四年(1754) 野田市左衛門成方著
   
漁 釣
※ 蓬澤昔は周圍一里余の湖水にて、村民耕作をなす事能はす、村中釣獵を以て生業とす、其頃は蓬澤鮒とて江戸迄聞えたる由。夏秋獵師の舟借りて出れば、湖水の眺望絶景なしを、桜井孫兵衛と云し宰官、明智博學にして、此湖水を排水し、濁川へ切落す。今は一村田畑にして農民此桜井氏を神と仰くよし。今は蓬澤湖水の跡、纔の池あり。鮒も居れとも、小魚にして釣る人もなし。

(私註)

素堂、没して三十八年にして記された『裏見寒話』には残念の事に素堂お記載事項はなく、桜井孫 兵衛の記述のみである。もし『甲斐国志』に記述されている素堂翁の事蹟が全て真実であるなら、『裏見寒話』にも、記載されていてしかるべきである。素堂翁の「山口霊神」の石祠が「あった」という「言い伝え」はあっても残念ながら、それを証明する歴史資料は見えない。もしあったとすれば、『甲斐国志』以後のことであると思われる。濁川改修工事は元禄九年(1700)のことで『裏見寒話』の記された時より五十四年前の事である。

酒折宮

参考素堂翁は元禄三年に酒折宮に依頼されて和漢聯句を奉納している。  

※ 板垣の庄酒折村に酒折 あり。日本武尊といふ、(神体には尊の燧袋を奉祀すと云)此社内に八幡あり、御朱印三石あれども、是は八幡の朱印也。縁日正月・九月二十五日。御宮の額は〈酒折宮〉鳥居の額は〈酒折〉とあり。(私【野田氏】云、酒依氏は酒折也、後唱誤にて酒依といふ)

甲府中酒屋
 丸屋・奈良屋・井筒屋・高原田・大津屋・池田屋・松葉屋・玉屋・佐渡屋・丸屋 ・吉田・富士井屋・竹野屋・成島・竹屋・大黒屋藤左衛門・竹原田・竹原田・伊澤屋・河内屋・河内屋・藤井屋・奥野・三星屋・三升屋・大升屋・正木屋・菊屋・井戸屋・萬屋・藤井屋・ (山口屋は無し)

天明二年・(1782) 萩原元克編輯。
  甲斐名勝志
  関連記載事項無し

嘉永元年(1848)大盛快庵著
  甲斐叢記 巻之三   

   庄塚の碑
※ 西高橋・蓬澤二村の界にあり此處一条の庄と油川庄の分界なるゆえに、標を立つ因て庄塚と稱ふ。濁河漸々に埋りて、下水の道塞り國玉村を始め數村稔穀實のならず。殆沼淵に等し中にも蓬澤・高橋の二村最甚しかりければ、元禄年中(私註元禄九年)櫻田公の縣令桜井政能孫兵衛功役を興め、二千余間の堤を築き濁河を浚い剩水を導き去りて民庶の患を救へり。
 屬吏山口勘兵衛(後素堂と號し俳諧を以て聞ゆ)其事奉りて力を盡せり、因て堤を山口堤(又素堂堤とも云)と稱ふ。諸村の民喜ひて生祠を塚上に建て、櫻井靈神・山口靈神と崇祀れり。正月十四日櫻井氏の忌日なりしかど爆竹の日なればとて、今は二月十四日をもて祀れり。後に斎藤正辰(六左衛門)地鎮の銘を作きて石に鐫り。祠の前に樹つ其文左の如し。 地鎮銘 斎藤正辰 (碑文は別記)
享保十七年(1732) 村上氏著

甲州噺 巻之中(素堂に関する記載なし)

※ 教来石村教化石之事

 

一、甲斐國は、往昔も水難多有之けるか、山梨郡東光寺村東光寺住僧大超和尚と申は、其頃善知識にて甲州の水難をなげかしく思召、諏訪明神へ祈祷をかけ川除の方便をなさん為、甲州より信州諏訪へ御出の時、又諏訪大明神は甲斐國東光寺の大超和尚か、善知識なる佛法を聞し召ん為、人と化して甲州へ来り給ふ。信甲の国境教来石村と申所にて出逢ひ、互に御名乗有之大超和尚は水難の防を尋たまい、諏訪大明神は佛法の奥義を御尋、御問答有之所とて、右教来石村往還の道端に教化石と申石御座候由申之。

   甲州古府中新府中聞書

※ 天正十年、家康公御旅館は古府中にて古尊躰寺。

※ 万治二年(1659)正月廿六日伊勢町壹丁目北側、五郎兵衛方より出火有之、町々を焼失大火也。是を丸蔵火事と申ける。

※ 京都角倉與一郎、慶長年間(1601~1614)に甲斐に来り、糊入紙市川村におゐて教る。又鰍澤より駿河國かん原迄、川船乗初め、是も角の倉與一郎、いかだを拵三本にのり、さほさし川道を見定め、鰍澤村へ教る。

※ 古府中より新府中へ引越の町人ども、

〔伊勢町 河内喜右衛門・森長兵衛・神保佐右衛門金國・次男佐左衛門其子三右衛門は秋元御家出る・能登國九郎左衛門・坂田與一左衛門〕〔此聟横近中習町 入戸野善兵衛〕

〔魚町壹丁目 海野源右衛門〕

〔八日町 千野孫之丞・しぶへ五左衛門・奥野四郎右衛門・坂田與市郎〕

〔魚町 中楯與兵衛〕

〔柳町 辻太郎右衛門〕

〔三日町 秋山喜三郎・深谷源四郎・野澤太郎右衛門〕

〔連雀町 奥野勘次郎〕新府始りの御家人の末數多也。

  天正寳永年聞書
※ 寛文元年より延寳六年(1661~1678)十八歳の間、将軍家光公の御四男左馬頭綱重卿の御領分、同九月廿八日御引渡の為二御上使一北条安房守御家老新見備中守、御先手はかりにて御入部はなし。左典廐甲府宰相公に任せられ、御城代には渡部六左衛門・外城は戸田半助・御城番は雨宮十兵衛・小長谷伴左衛門 町奉行は野田市左衛門・平岡岡右衛門也。云々

※ 寛文十三年(1673)飢饉人多く餓死す。
   野田七郎兵衛他、閉門被 付。
【筆者註】

この野田七郎兵衛は素堂の妻の父か親族の可能性が高い。素堂が元禄八年に他界した母の願いの身延詣でに甲斐に来た際に甲斐に府中に泊まる。この宿が妻の外舅野田氏であると、その折り著した『甲山記行』に記している。当時甲府の町奉行であった野田勘兵衛の家であったと思われる。野田七郎兵衛は先の様に寛文十三年に閉門となり、約職も解かれる。多大の借財を抱えて息子の勘兵衛も屋敷を売ってその返財に当てる。

素堂の訪れた時期と重なり、勘兵衛はその後佐渡町に移居する。素堂が勘兵衛の娘が何時何処で結ばれたかは定かではないが、『甲山記行』に素堂が自ら云う、甲斐は妻のふるさとなのである。「さすがになつかしくて」の言はかって素堂は甲斐 に来たことがある事を窺わせる。所謂素堂は甲斐に生まれ育ち二十歳頃江戸に出たのではなく、江戸に生まれた可能性の方が高く、素堂が甲斐を訪れた事を示す資料はこの『甲山記行』だけで 翌元禄九年の「濁川改浚工事」の折りに甲斐に来たとの確かな資料は未見である。

文化二年(1805)岸綽著
  甲水源委(素堂の記載なし)
武河筋教来石村

 

乃甲信官道。而有關曰山口 。有橋名界橋 。河之中流。爲甲信之界 。此地以接壤信州 。高寒與駒嶽八嶽諸峰 。不甚相遠 。村有上下邑 。而其邑田間。有一盤石 。曰教化石 。其旁一禪刹。名大覺山教慶寺 。其開山爲西蜀蘭渓道隆禪師 。相傳禪師趙宋淳祐六年。来我太宰府 。是歳爲寛元四年 。又入鎌倉 。此時平時頼。會建一伽藍 。因請禪師 以爲導師 。即今之巨福山建長寺。是也。禪師後羅衆徒之讒 遷於是邦 。營小室於斯盤石之側 。時々在石上 。喩法静坐焉。一日信之諏方神。慕禪師之法 。来盤石之下請教。師因問下神之嗜豬鹿何爲上。喝棒數次。神頓了悟。自抽 其齒牙 。以示意云。余過其寺 。乞現住大隣 。以観其牙大如大栂指 。盛以玉合龍 。此邑之名教来石 。亦起於茲云。

 濁河発源山梨郡北山筋諸谿 。傍引甲府中街渠 。逕板垣村堰閘 。始有濁河之名 。至西下条村。注笛吹河。河身二里餘。

  甲斐國三郡川筋帳

※ 濁川 水源藤川・高倉川其外府中落水流末中川筋落合村にて笛吹川え落合御普請所板垣村より落合長七十九丁余。
 天明五年(1785)までの記述あり。
 

甲斐歴代譜 
  寛永十三年甲府城代一年交代、江戸より旗本貳人つゝ交代、被仰付左の通。
  寛永十八年 稲葉権之助 五千石 山口勘兵衛  四千石
  寛永十九年(1642)國中飢饉、正月元日大雪五尺余降、尤前己年(十八年・1641)冬十月より大雪度々降、麥作植付兼其上蒔付候分も春迄雪中にてくさり、夏に至て麥高値にて、甲金壹朱に麥六・七升の賣買人數多死是を己午の飢死といふ也。(十九年は素堂翁が生誕年)
  寛永二十年(1643)水尾院第八ノ宮知恩院良純親王當郡内岩殿に御蟄居也。  

明暦元年(1655・素堂十四歳)八月十日、大風雨洪水國中家數多吹潰、諸木大分吹倒。
 

 萬治三年(1660・素堂十九歳)正月廿六日、甲府伊勢町後山田町(ようだまち)一丁目南側、江戸屋五郎兵衛と申酒屋より出火、翌廿七日朝迄焼失柳町にて焼止る。町數貳十町余家數三百廿四軒焼失せり。公儀より類焼の町々へ御金千両拝借仰付られる。云々

 ※ 寛文元年(1661・素堂二十歳)

九月より延宝六年(1678)迄十八年間(間)大将軍家光公御四男、徳川左馬頭綱重卿、御領國と成。町奉行野田市左衛門
 

       延宝六年(1678・素堂三十七歳)

甲府左馬頭綱重卿死去。七年甲府綱重卿嫡男中納言綱豊卿、御領國として甲府御城付高拾五萬三千石余、當國東は笛吹川を限り、西の方也。此外は江州・佐州・武州の内にて合て拾五萬三千石余也。綱吉公将軍宣下。
※ 天和元年(1681・素堂四十歳)

去年より國中飢饉。國中満水。
※ 元禄九年三月、中郡蓬澤溜井掘抜被仰付、五月成就也。  

筆者註これが素堂の関与した「濁川改浚工事」の記事である。

 山口勘兵衛について。寛政重修諸家譜より


 山口寛永系譜、

清和源氏の支流に入るといへども、今あらためて赤井家に附す。

ことは赤井兵庫頭忠都が譜にみえたり。今の呈譜に、

勘兵衛直之信濃國山口を領せしより家號とすといふ。
 

某 九郎三郎 勘兵衛 今の呈譜直之に作る。

赤井越前守時家が四男。信濃國山口を領す。
 直友

新五郎 勘兵衛 駿河守 従五位下 直堅九郎三郎 新五郎 勘兵衛
 直堅

九郎三郎 勘兵衛 寛永十八年三月甲府城番。
 正保四年深川舟改め番をつとむ。
 直房

五郎 九郎三郎 弥五左衛門 小普請。
 直之

太郎千代 勘兵衛 御小姓組 御徒の頭。
 直意

勝之助 玄蕃 御書院番 陸奥國・松前の巡見吏。
 直良

勝之助 勘兵衛 御徒の頭 大阪城の定番 小普請支配。
 直知

山口勘兵衛直堅が四男。三郎右衛門 御小姓組






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最終更新日  2020年11月02日 06時05分07秒
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