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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年11月02日
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カテゴリ:山口素堂資料室

 山口素堂は濁川改浚工事には関与していない

 

 この書は山口素堂の全貌を資料をもとに解明し、真の素堂像を人々に伝えることを目的にしている。

 文中に於いて過去の間違いを正す為に、誤記述のある書籍名及び著述者を記す場合もある。真実を追求する段階で必要であり、許されることと信じている。

 これまでも機会があるごとに山梨県内の歴史認識の曖昧さを訴えてきたが、浅学な一般人の歴史研究などと無視されてきた。 しかしそうしたことが、私の調査研究に拍車をかける大きな要因になった。歴史の誤差を修復するには時間がかかる。

 現在伝わる素堂像は真実のものと大きな開きがあり、人々に正しく伝わっていない。中でも素堂と濁川改浚工事との関連については『甲斐国志』の独壇場で土木の神に祭りあげられてしまった。『甲斐国志』は素堂が没して百余年経てから甲斐で編纂され幕府に提出された一級の書であると云う。編纂時に参考にした中央の資料も多くまた多くの時間を割いて取材し、村々へも資料の提出を要請し地方もこれに応じた。その範囲は山川や神社仏閣などや人物や古蹟に至るまで甲斐の歴史を網羅し、編纂者の労苦が忍ばれる。私は『甲斐国志』編纂者を批判し、全体の信憑性を疑う者ではない。但し「素道」(そどう)の項などの伝記の部分については、宮本武蔵を甲斐の生まれとするなど、信憑性を疑われる箇所もある。

 素堂は「濁川改浚工事は関与していない」これが私が長年の調査の結果導き出された結論である。

 本文では『甲斐国志』(以下』国志』)の記述に沿って真偽を確認してみる。素堂は調査した範囲内の資料では決して「素道」とは号していない。また『国志』での素堂の「公商」号は不詳であるが、「小晋」は資料に見える (『含英随記』) 

 素堂の号は信章から来雪そして素堂へと移行している。

素堂の本名は『国志』では市右衛門または官兵衛となっていて、市右衛門は甲府市中の魚町山口屋市右衛門の代々の家名であり、だからその山口屋の長男であった素堂も市右衛門を名乗ったと推察している。

 後述で詳細に述べるがこの山口屋と素堂の関係は史料には見えない。魚町山口屋は酒造業を営んでいたが、『国志』には山口屋の家業は示されてはいない。山口屋は人々が「山口殿」と羨む富豪家であったと『国志』以来諸書に記されているが、『国志』以前の書や当時の時代背景からは富豪家山口屋の存在を示す資料は無く、編纂者の記憶違いか創作の疑いもある。

 こうした記述は『国志』一書の記述であり、後の諸書は『国志』を鵜呑引用し、さらにその事蹟を拡大評価して著す傾向にあり、その結果素堂の多くの事蹟は消失して濁川改浚工事関与が事実の様に人々の記憶に積重なることになった。

 『国志』への歴史関係者の盲信や、自らの歴史観を固守など歴史への特別の思い込みは歪んだ歴史を生み、真実から遠ざかることになる。

 歴史は常に見直しが必要で、歴史家には自説を問い質す謙虚さが求められるもので、確実な資料の少ない場合は、確定せず後世へ託すべきであり、軽はずみな定説創りを急いではならない。また歴史関係者は自説と違い、過去の定説が覆る資料が現われた場合には素直に耳を傾ける度量の広さが求められる。 自己の研究を中心にして著さずに、引用書中心の歴史論の展開は間違いを訂正するどころか、間違った説を史実に近くすることにもなる。引用の繋ぎ会わせ・擬定説を真実のように記述するだけでは史実は解明できない。

また歴史関係書は一度間違いを史実のように書すと、真説が出ても滅多に訂正されることはなく、訂正の機会にも恵まれないものだ。国書や高名な歴史学者の説は、例え間違っていても訂正されることはなく追認され、引用されて定説になり、史実ようになるものである。

 山梨県の歴史の中で素堂と濁川改浚工事はそれの最たるものであると考えられる。

 今回は優良な資料を各種提出して、素堂の甲斐との関係の浅さや濁川改浚工事との関与がいかに薄いかを多くの人に認識していただきたい。また『国志』の素堂に関する記述で明らかに間違っている箇所も多い。これは項を変えて述べることとする。

 

素堂と甲斐府中濁川改浚工事

 素堂像を大きく歪めたのは元禄九年の濁川改浚工事への素堂の関与が、『国志』に劇的に記載されたことが起因である。

 この項はよく読んで見ると、時の代官触頭桜井孫兵衛政能の事蹟顕彰を「素道」の項を借りて記述している。こうした記述方法は他の人物の項などにはなく独特のものであり、講談調の語りを入れるなど「お涙頂戴」の構成になっている。

 素堂没後約百年経てから編纂された『国志』「素道」の項は素堂の事蹟、特に「濁川改浚工事」への関与を特書して、命を賭けて国を救った土木技術者として祭り挙げてしまった。後年になり事蹟顕彰の石碑が立ち土木書に引用され、山梨県内外の歴史書には素堂を義民の生神様としてしまった書もある。

 素堂は桜井孫兵衛より七歳年下であり、没年は素堂が享保元年、孫兵衛は享保十六年である。孫兵衛は甲府の代官を辞した後大阪に赴任している。

 孫兵衛の石祠と顕彰石碑は濁川のほとりにあり、地域の人々は今でも「桜井しゃん」として祀っている。この石碑は刻字もはっきりしていて正面には「桜井社」裏面には享保十八年建立、西高橋村・蓬澤村と刻字してある。これは桜井孫兵衛政能の姪斎藤六左衛門正辰(政能孫兵衛と兄政蕃は父定政の子で、政蕃の子政種、その子が政命で、斎藤六左衛門正高の家に婿に入り、斎藤正辰と名乗る…『寛政重修諸家譜』)が享保十八年(1733)甲斐に来た折に地元に建立させたものである。正辰は元文三年(1738)にも来甲して、その折には地鎮碑を建立している。碑文によれば桜井孫兵衛の生祠に関わる部分として、「政能死してから久しい。而して両村民はその恩を忘れることは能わず。乃ち政能を奉じて地の鎮めと為し、祠を建て毎歳これを祀る。ああ生きて人を益すれば、即ち死してからこれを祀るは古の典也」

 とあり、生祠では無い。前述のように孫兵衛の没年は享保十六年であり、石祠の建立は十八年である。この石祠は明らかに生祠ではないことが明白である。

 山梨県の歴史書や紹介書は長年この石祠を生祠として記している。また『国志』以来素堂の「山口霊神」も合祀されているとの記述も見られるが、その存在を証する書もなく不詳であり石祠は現存しない。傍らにある石碑は孫兵衛の兄の子供が斎藤家に婿に行った斎藤正辰(当時勘定奉行の一員)が甲斐を訪れた時(正治三年)に建立したものである。正辰は孫兵衛の兄政蕃の子であり、斎藤家に婿入りしている。この石碑の刻文を後の『国志』が拡大引用したものである。残念ながら石碑刻文の中には素堂に関与する記述は見えず、孫兵衛の威徳を顕彰しているだけである。なぜ素堂が孫兵衛の事蹟の中に組み入れられたかは、それを示す史料が無く不明である。

 

『甲斐国志』

 

元禄八年(1695)乙亥歳素堂年五十四、帰郷して父母の墓を拝す。

且つ桜井政能に謁す。前年甲戊政能擢されて御代官触頭の為め府中に在り。

政能、素堂を見て喜び、抑留して語り濁河の事に及ぶ。嘆息して云う。

「濁河は府中の汚流のあつまる所、頻年笛吹河背高になり、下の水道(みずみち)のふさがる故を以て、濁河の水山梨中郡に濡滞して行かず。云々 れども閣下(素堂)に一謁して、自ら事の由を陳べ、可否を決すべし望み、謂う足下に此に絆されて補助あらんことを」

「素堂答えて云う。人は是天地の役物なり。可を観て則ち進む。素より其分のみ。況んや復父母の国なり。友人桃青(芭蕉)も前に小石川水道の為に力を尽せし事ありき。僕あ謹みて承諾せり。公のおうせにこれ勉めて宜しくと」云々

 素堂は薙髪のまま双刀を挟み再び山口官兵衛を称す。

幾程なく政能許状を帯して江戸より還る。村民の歓び知りぬべし。官兵衛又計算に精しければ、是より早朝より夜遅くまで役夫をおさめて濁河を濬治(水底を深くすること)す。云々

 是に於て生祠を蓬澤村南庄塚と云う所に建て、桜井明神と称え山口霊神と併せ歳時の祭祀今に至るまで怠り無く聊か洪恩に報いんと云う。

 

『甲斐国歴代譜』

 元禄九年丙子三月、中郡蓬澤溜井掘抜仰付、五月成就也。

 

これが幕府の正式な書類である。河川工事は幕府直轄事業であり。国志のいうような工事形態は有り得ない。

 

『竹洞全集』幕府儒管人見竹洞著

 

元禄八年夏、素堂の母卒

素堂山子八旬老萱堂 至乙刻夏忽然遭喪

 素堂は元禄六年に林家に入門。七年の冬に妻と盟友芭蕉を亡くし、八年夏には母を亡くしている。

 

 『甲山記行』素堂著

  それの年の秋甲斐の山ぶみをおもひける。

そのゆえは予が母君がいまそかりけるころ身延詣の願ありつれど、

道のほどおぼつかなうて、ともなはざりしくやしさのまま、

その志をつがんため、また亡妻のふるさとなれば、

さすがになつかしくて葉月の十日あまりひとつ日かつしかの草庵を出、云々

   

十三日のたそがれに甲斐の府中につく。外舅野田氏をあるじとする。云々

   重九の前一日かつしかの庵に帰りて(九月八日)

        旅ごろも馬蹄のちりや菊かさね

 

素堂は元禄八年八月十一日に来甲し九月八日に江戸葛飾に帰っている。素堂が元禄九年に甲斐に居て、三月から五月まで孫兵衛の手代として濁川改浚工事を指揮した事を示す史料は見えない。また『甲山記行』には孫兵衛と会ったことや濁川改浚工事への関与を窺わせる記述は無く、『甲斐国歴代譜』は淡々と工事の開始と終了を告げている。(空白の日時はある)

 

素堂の府中の宿は外舅野田氏宅である。外舅野田氏とは素堂の妻の父親ではないだろうか。

 …『裏見寒話』

   元禄七年~十四年

        御代官触頭 桜井孫兵衛

          〃    野田市右衛門

        御入用奉行 野田官兵衛

 

 …『国志』素道の項

 

素堂は実家山口屋を訪れたのであろうか。当時も素堂没後も山口屋市右衛門は居た。素堂の弟が家督を継いだという山口家と府中魚町山口屋市右衛門家は同一なのだろうか。これも明確な資料が不足で言及できない。

  舎弟某に家産を譲り、市右衛門を襲称せしめ、

自らは名を官兵衛と改むる。

時に甲府殿の御代官桜井孫兵衛政能と云ふ者、

能く其の能を知り頻に招きて僚属となす。

居る事数年、致任して東叡山下に寓し、云々

 

素堂が江戸に出たとされるのは二十歳の頃とされているが、孫兵衛は素堂より八歳年下である。従ってこの時点で孫兵衛の僚属となることや、甲府代官になっていることも有り得ない。

 

『山梨県史』「資料編九」

   元禄八年  覚 金割付御奉行所より被遺候文

        小判十両 うを町 市右衛門

 

 『山梨県史』「資料編九」近世2 甲府町方

   享保二年(1715)

        御用留口上書

         御巡見様御泊之節御役人衆留書

          町役人詰所  魚町 市右衛門

 

 『甲府市史』「資料編  第二巻」近世1

   享保八年(1723)山梨郡府中分酒造米高帳

        魚町 山口屋市右衛門

         元禄十年(1697)造高四十三石五斗

         享保八年(1723)造高 十四石五斗

 当時山口屋は西一条町にも存在した.

        西一条町 山口屋権右衛門

         元禄十年(1697)造高四十二石二斗八升

         享保八年(1723)造高 十四石八斗

 

山口屋は酒造業とすれば決して大きいほうではない。伝えられる説では素堂家は素堂が幼少の頃現在の北巨摩郡白州町下教来石字山口を出て府中魚町に移り住み、忽ち財を成したと云う。 

しかし生地とされる下教来石字山口地区にはそれを示す資料や史実は見えず、『国志』以後の「戻り歴史」で、中央の書を見てそこに書されている事象を地域に当てはめる歴史それが「戻り歴史」である。

 『甲山記行』の「また亡妻のふるさとなれば、さすがになつかしくて」のふるさとを身延とする説もあるが、「甲斐の山ぶみをおもひける」を踏んで甲斐が亡妻のふるさととも解釈できる。むしろこの方が自然である。素堂の妻は元禄七年に没している。盟友芭蕉が大阪で十月十二日に没したとき素堂は妻の喪に服していた。

 

 「素堂、曾良宛て書簡」抜粋

  野子儀妻に離れ申し候而、当月は忌中に而引籠罷有候。

  桃青(芭蕉)大阪にて死去の事、定而御聞可被成候。

  云々

 

 これは素堂の妻の存在は河合曾良に宛てた書簡により明確である。素堂の母も人見竹洞の事を伝える『竹洞全集』により元禄八年夏に急逝したことがわかる。素堂の母の没年には元禄三年説があるが、元禄八年逝去が正しい。また府中山口屋市右衛門の母の墓石が甲府尊躰寺にあるが、これが素堂の母の墓石である可能性は極めて低く、側面の「市右衛門 老母」の刻字は不自然である。また尊躰寺にあったと『国志』が記す素堂の法名「眞誉桂完居士」も同様である。素堂の法名は現在も谷中の天王寺(当時は感應寺)の位牌堂に安置されていて、法名は、「廣山院秋厳素堂居士」である。         

 従って『国志』の「元禄八年乙亥歳素堂年五十四、帰郷して父母の墓を拝す」は史実ではなく創作話である。

 素堂の父の存在は資料が無く明確に出来ない。父は素堂が何歳まで生存していたかもわからないが、何れにしても素堂家の墓は江戸に在ったとするほうが自然である。先代の山口屋市右衛門の墓は尊躰寺の墓所内には見えず、山口屋及び「山口殿」代々の墓所は何処に存在したのであろうか。

 

 『甲斐国志』巻之四十三 「庄塚の碑」

 文化十一年(1814)刊行

   (前文略)

  

代官桜井孫兵衛政能は功を興して民の患を救う。

濁川を浚い剰水を導き去らしむ。

手代の山口官兵衛(後に素堂と号す)其の事を補助し、

頗る勉るを故を以て、二村の民は喜びて之を利とす。

終に生祠を塚上に建つ。

桜井霊神と称し正月十四日忌日なれども今は二月十四日にこれを祀る。

側らに山口霊神と称する石塔もあり。云々 

後の斎藤六左衛門なる者。地鎮の名を作り、以て石に勒して祠前に建つ。

 

とあるが、  

甲府勤番の野田氏が書いた『国志』以前の『裏見寒話』には、素堂の関与は示されてはいない。

 

 『裏見寒話』巻之三 宝暦二年(1752)

 

『国志』より六十年前の書(野田成方著)

 

昔は大なる湖水ありて、村民耕作は為さず、漁師のみ活計をなす。

其の頃は蓬澤鮒とて江戸まで聞こえよし。

夏秋漁師の舟を借りて出れば、その眺望絶景なりしを、

桜井孫兵衛と云し宰臣、明智高才にして、

此の湖水を排水し、濁川へ切落し、其の跡田畑となす。

農民業を安んす、一村挙げて比の桜井氏を神に祭りて、

今以て信仰す。蓬澤湖水の跡とて纔の池あり。

鮒も居れども小魚にして釣る人も無し。

 

『甲斐叢記』(『国志』を引用)

 嘉永元年(1848) 大森快庵著

 (前文略)

  元禄中桜田公の県令桜井政能孫兵衛功役を興め

二千四間余の堤を築き濁川を浚い剰水を導き去りて民庶の患を救へり。

  属吏山口官兵衛(後素堂と号し俳諧を以て聞ゆ)其事を奉りて力を尽せり。

因て堤を山口堤又素堂堤とも云と称ふ。

諸村の民喜ひて生祠を塚上に建て、桜井霊神、山口霊神と崇祀れり。云々

 

 こうした記述が素堂の生涯記録に大きな影響を及ぼすことになる。






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最終更新日  2020年11月02日 19時48分00秒
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