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2020年11月04日
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寺社縁起 岩木山 いわきさん

 成田 守氏著

『国文学』解釈と観賞 

  寺社縁起の世界 寺社縁起60

  至文堂 19823

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

青森県津軽地方の国神・祖霊の鎮ま石山として古来厚く信仰され、旧暦八月一日から十五日まで「山かげ」と称して精進潔斎のうえ登拝する風習がある。

津軽藩が成立し城を弘前に築いてから南麓の中津軽郡岩木町百沢の岩木山神社(旧岩木山百沢寺)が著名となったが、それ以前は西麓の弘前市十腰内にある厳鬼山神社(旧厳鬼山西芳寺観音院)が旧址であった。

この岩木山の神については多くの伝えがあるが、背任真澄は二つの異なる伝えを記している。『つがるのおく』(1795)によると、昔この山を「あそべの森」といい鬼が住んでいた。延暦十五年に坂上田村暦が退治しようとしたが果しえず、その後近江国篠原の花輪某(花野長忠の息花若とも)が討手に向い生ケ浦に着船し、往古の神の夢想によって万字と錫杖の旗指物で攻め鬼を退治できたという。この伝えは元禄十四年(1701)の『岩木山百沢寺光明院』や『天台宗請寺院縁起』、そして享保十六年(1731)に完成した津軽藩官撰の『津軽一統志』付巻にもほぼ同じ内容の伝えがあることを記している。

ただ『津軽一統志』では鬼神は退治したが

「鬼の娘四人有是を助置人間は言に及ばず畜類までも仇を為さずとの起請文をかゝせ約を堅ふさせ命を助け給ふ、今言ふ赤倉と言ふ洞に住居する由其後岩木判官正氏の姫君安寿の前と申奉る御人大飛来り給ひ則明神と現し及ひ北山に止り給ふ其しるし有て阿そへの森忽に大山となり諸々の山に勝れて最高し」

と記す。花輪某云々についてはかつて岩木山麓を鼻和郡とも称したということもあり、寺院の側からの伝えを津軽家が旗印を印字に馬印に錫杖印を使用することによったものかと思われ一般にはそれほど馴染みのある伝えではない。むしろ『津軽一統志』の安寿を祭神とする方がより知られている。そしていま一つの伝えとして、天明五年(1785)八月十五日真澄は『もとがはまかぜ』に岩木山登山のことを弘前で記しているが、その中に

「この御山聞らけしはじめは延暦の頃となん人の語ぬ。其むかし、岩城の司判官正氏のうしの子ふたところ持給ふを、安寿姫、津志王丸と聞えたる。其たまをこのみねに祭る。さる物語の有けるがゆへに、丹後国の人は、このいは木ね(岩木嶺)にのぼりうることかなはず。又此みねの見え渡る海つらに、その国のふねをれば、海ただ荒れに荒れて、さらに泊もとむること難しと、ふね長のいへり」

というものである。

岩木山の神霊は安寿と津志王とに由来する物語があり、それによって丹後の船が津軽の海に入ると荒れるのだという「丹後日和」については諸書にみえる。

『津軽一統志』首巻、天明八年(1788)に幕府の巡見使と津軽領内に入った古河古松軒の『東道雑記』、松前藩士の作というだけで作者も年代も不明の『津軽見聞記』などである。

これらはともに説経の『さんせう(山椒)太夫』を受けて記された『和漢三才図会』の岩城山権現の条に由来するものであったと思われる。

この『さんせう太夫』の伝えは江戸初期に津軽領内では普遍的なものであったらしく、寛永年間(162443)に津軽二代藩主信枚(のぶひろ)が岩木山三所権現(百沢寺)の山門に納めた五百羅炭俵の中に安寿と津志王座を入れたといわれており、その二俵は明治の神仏分離の際に弘前市の長陽寺に移管され現存している。

 

しかし、『さんせう太夫』の伝えとは極めて類似するのだがこれとはまた違った語りがイダコ(巫女)たちによって、岩木山の神語りとして口承されている。それは『お岩木様一代記』『岩木山一代記』として旧暦八月一日に岩木山神社の境内においてだけ語られるというもので、岩木山の神の垂述録題詠である。 

五所川原市桜田の笠井キョ巫女が語る『岩木山一代記』の概略は次のようなものである。

あんじゅの姫は加賀の国の者で父はまさあき、母をおさだといい、兄をずし王丸、姉はお藤といった。あんじゅはつしごに合わないどこかの庵住の子に違いないというので、あんじゅうの姫と名をつけられ砂浜に埋められた。母はそれを悲しみ盲目となって家を追われ、阿波の国の加藤左衛門に雀追いとして雇われる。あんじゅは七年後に板舟に乗せられ丹後の国に流れ着き、さんしょう太夫に雇われる。薪伐り・米揚き・七つ釜造り・目龍での水汲み・煮立釜渡しをさせられ苦労するが太夫の家を逃げる。喪失に追われて山寺(清水寺)に逃げのび、和尚に匿われたものの発見されそうになった時、和尚の機転の水鏡に救われる。そしてまた旅に出て阿波の国で盲目の母に対面、神仏の加護によって母は清眼となる。そしてまた父を捜しに旅に出るというものである。

 

『お岩木様一代記』(「文学」第八巻第十号・昭16、後に『日本庶民生活史料集成』第17巻に再録)は南津軽郡女鹿沢村下十川(現浪岡町)の桜庭すゑ巫女、『お岩木山一代記』(「民族学研究」第二号・国学院大学民族学研究会編・昭42)が五所川原市桜田の笠井キョ巫女、『岩木山一代記』(「芸能」第十八巻第六号・昭51)は北津軽郡板柳町三千石の木村ハギ巫女、『岩木山一代記』(「まれひと」増刊号孔版・大東文化大学民俗学研究会編・昭56)の笠井キョ巫女の三人四種の伝えがあるが、前述梗概とほぼ同じものである。

共に第一人称発想で、巫女の口を借りてあんじゅがその一代を物語るという形式をとっているものの、何故岩木山の神として垂述するにいたったかは語られていない。弓の弦をたたきながら淡々とした口調で語っていくが、それぞれの巫女が師匠からはこれ以上教えられなかったという。かつては長い段物であったのかもしれない。

本州最北端の港として繁栄した十三(とさ)湊は北津軽郡市浦村十三にあって、岩木川を通じて津軽平野の各地に舟が入れた。正中年間(132426)に安東氏が岩木川河口に福島誠を築いた頃から盛んとなり、その規模は雄大であったと『十三湊新城記』や『十三往来』は記す。この十三からの岩木山は南方に望まれ裾野を広げた円錐型状の姿で海上に浮いている。岩木山の神の祭祀は「丹後日和」にもみられるように庭上航路と不可分であるようである。海上安全の神であり豊饒をもたらす祖霊の鎮まる山としてその山麓に祀られたものであろうが、『岩木山一代記』という神語りは説経師との関係からも無視しえない面をもっているだけに、早急な解答がえられないのである。

   〔なりた・まもる 大東文化大学助教授〕






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最終更新日  2020年11月04日 21時59分09秒
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