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2020年11月09日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

上杉禅秀の乱と甲斐の国

 

『山梨県郷土史研究入門』 佐藤八郎氏著

 

  山梨郷土史研究会 編

  山梨日日新聞社 平成4年発行

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

一 上杉禅秀の乱

 

上杉禅秀の乱とは、前関東管領上杉氏憲(禅秀)が、鎌倉公方足利持氏と現関東管領上杉憲基の体制を不満とし、応永二三~二四年にかけて惹き起こした反乱をいう。

これより先、持氏・憲基らと不和を生じて関東管領を辞任した氏憲は、持氏と不和の叔父足和漢隆を味方とし、氏憲の女婿干葉兼胤・岩根満純・那須資之、氏憲の岳父武田信満らを誘い、応永二三年(一四一六)一〇月二日、鎌倉の持氏、憲基を急襲した。二人は身を以て脱れ、持氏は駿河に、憲基は越後にそれぞれ退いた。

氏憲党は持氏らの虚に乗じて鎌倉を占領し、満隆は鎌倉公方、氏憲は関東管領と称し、一時政権を掌握した。

持氏が急を京都に報ずると、幕府は持氏援助の議を決し、こ一二月、一色詮光を大将とし、駿河の今川範政、越後の上杉房方をはじめ、東国の諸将に氏憲党の討伐を命じた。今川勢は箱根を越えて国府津を占領し、鎌倉に迫った。越・上勢も南下して武蔵から鎌倉を衝く態勢を示した。氏憲も二四年正月九日、武蔵世谷原で越・上勢を破ったが、時既に遅く、鎌倉は幕府軍の猛攻撃で陥落寸前となり、万事休した氏憲は翌一〇日、雪之下宝性院において一族郎等九九人と自刃して果てた。

鎌倉府を回復した持氏は、氏憲残党の巨頭武田信満を急襲し、破れた信満は二月六日木賊山に逃れて自刃した。

 

二、乱後の甲斐の国

 1 甲斐源氏巨頭の相克

 

一二世紀のはじめ、甲斐に入国した源義清と清光父子は逸見若神子に住み逸見氏を称した。清光は嫡男光長に逸見庄を譲って甲斐源氏総領逸見太郎と名のらせ、二男信義に武田庄を与えて武田太郎と名のらせた。

信義は器量光長を凌ぎ、光長は総領職を信義に譲った。信義の子孫は甲斐守護として甲州に君臨するが、一方(わずか)に逸見庄を領して鎌倉府に出仕する身分に零落したことを恨み、いつかは武田氏を絶やして甲斐を支配しようと、機会を窺っていたのが逸見中務丞有直であった。

禅秀の乱に、有直は全力を傾けて持氏に協力した。持氏が本意の上は有直に甲斐を与え、守護に補任する旨を兼約していたからである。

信満を倒した持氏は幕府に対し、逸見有直を甲斐守護に補任されたい旨、要請した。幕府は、武田氏の旧功を思い、持氏の要請に応じなかった。しかし有直は持氏の援助を楯に甲斐の施政を推進した。

 

 2 武田守護家

 

信満は氏憲の舅として、二男信長と共にこれに応じたが、万一を考えて嫡男信重と実弟穴山満春には参戦させなかった。

氏憲残党に対する持氏のきびしい追求に、信重・満春は高野山に逃れて出家した。父と共に参戦した信長も行方を(くら)、甲州は逸見党の独舞台となった。これを憂えた幕府は、応永二五年(一四一八)さきに高野山に隠れ出家した満春に還俗を命じ、武田陸奥守信元と名乗らせて甲斐守護に補し、信濃守護小笠原政康の保護のもとに入国させた。

信冗は入国したが逸見氏ら国人の反抗に苦しみ、守護代の設置を幕府に請うた結果、政康の一族跡部駿河守・上野介が捕任された。

一時姿を消した信長は、やがて豪傑加藤入道梵玄を従えて帰国、随所に逸見氏を破った。信長は智謀百出の名将で、応永二九~三三年(一四二~六)の間、持氏の討手を尻目に逸見氏を破り、滅亡寸前に追い込んだ。

三三年、持氏方の大軍が大月に来攻した時、信長は敗れ降って鎌倉府に出仕し、手厚い処遇を受けた。

 

 3 荒川の戦い

 

甲斐の守護武田信元の嗣伊豆千代は、信長の子で幼弱なため、首元亡き後は信長が跡部守護代と共に助けていた。しかし信長が鎌倉に出仕すると、跡部氏は離反した。当時峡北に輪宝一揆・日一揆の二武士団が対立し、前者は跡部氏、後者は武田氏と結んで拮抗した。

永享五年(一四三三)四月二九日、さきに鎌倉から帰国した信長を主とし、武川衆を中心に結束して塩川畔の「日ノ出ノ砦」に拠った日一揆は、敵のために荒川河原に誘い出されて敗れ、信長は伊豆千代と駿河に逃れた。

持氏は信長の追討を幕府に追ったが肯かれず、逆に幕府は信長に遠江蒲御厨千貫の地を扶助してその活動を助けた。

 

三 結び

この乱は、武田守護家未曾有の危機で、乱後、武田信重は高野山に遁れ、守護に補されたが、強勢な敵の妨害で国外流浪二一年、永享一〇年(一四三八)漸く帰国して守護の座についた。しかも守護代跡部氏の勢力はなお衰えず、二七年後の寛正六年(一四六五)に至り、信重の孫信昌が辛くも滅ぼしたのであった。 〔佐藤八郎〕






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最終更新日  2020年11月09日 20時18分01秒
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