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2020年11月10日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

信玄堤 しんげんつつみ

 

『山梨県郷土史研究入門』 足立満氏著

 

  山梨郷土史研究会 編

  山梨日日新聞社 平成4年発行

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

高山に囲まれた甲府盆地は、急流河川によって低地部は洪水の被害に悩まされてきた。

甲府盆地に本格的な治水対策を施したのは武田信玄であるという。

その治水事業は後世に信玄堤と呼び伝えられ、『甲斐国志』山川部の濁川、荒川、釜無川、御勅使川、赤岩の各項に記録されている。

現在のところ、これを総合的に研究したものはなく、もっぱら研究の視点は竜王信玄堤を中心とした釜無川に向けられている。それは『甲斐国志』が甲府盆地に最も大きな被害を与えた釜無川の治水について具体的な記述を残していることによる。特に竜王信玄堤を成立させる前提として、釜無川と御勅使川の洪水を河道を変更して赤岩に当てて水勢を殺ぐ構想が、いわゆる孫子の兵法を応用したという、水をもって水を制する巧みな工法であり、武田信玄の治水は戦国武将の代表的な治水工事として、また、すぐれた民政事業として評価されていた。

しかも、信玄の偉徳を賞する余りに、現在の釜無川の堤防をもって信玄構築とする誤解さえ生れた。こうした中で、竜王信玄堤が成立する前提として、武田氏が石和に拠を構えていた時笛吹川の治水に取り組み、差出機、万力林、近津堤の水防技術があったことを提言した上野晴朗『甲斐武田氏』が注目される。

 

竜王の信玄堤については二つの研究方向がある。

一つは、その成立の目的としたところを追求したもので、柴辻俊六(旧姓斎藤)「竜王河原宿成立の意義」(甲斐史学特集号)は、信玄堤は治水の面からのみ強調されているが、水利灌漑施設を具備した甲府盆地の開発を目的としたむので、武田時代から徳川時代に至るまでその事業は継続されてきたことを明らかにし、同著『戦国大名領の研究』(名著出版)「戦国期の水利潅漑と開発」「戦国期の築堤事業と河原宿の成立」のなかでこれを補完している。これは従来見遁されていた研究分野に視点をあてたものであった。

他は、従来の武田信玄の治水事蹟の研究を見直したもので、主として治水技術の分析を中心とする。

中村正賢著『武田信玄と治水』(又新社 昭四〇)は信玄の治水策を顕賞しつつ『甲斐国志』の記述を丹念に現地踏査によって記録している小冊子である。

信玄堤を治水技術の発展段階に位置づけようと試みたのは『近世科学思想上』(岩波書店 昭四七)に古島敏雄「地方書にあらわれた治水の地域性と技術の発展」が、近世中期以降に連続堤で川を締切って河川敷内に水を流す以前の治水技術として、「百姓伝記」の二重堤、「地方竹馬集」の洗堤を引用して、洪水を広い河川敷に流して水勢を弱めたり、一定量以上に増水した分を洗堤によって河川敷外に流す方法のあったことをあげ、竜王信玄堤から後退しながら笛吹川の合流点まで雁行する信玄堤の機能を位置づけた。この治水技術の変化を甲府盆地の開発の進展の中に求めたのが、安達満「釜無川治水の発展過程」(甲斐路三〇、三二号)で『国志』に散在する釜無川の記事を整合して証明し、近世初期の信玄堤の機能を位置づけ、連続堤によって河川敷を狭めていった過程を追っている。

また、技術の発展段階を視点において、同「初期信玄堤の形態について」(日本歴史三七五号)は「御本丸様書上」の分析を通して、信玄時代の信玄堤とその後の発展の様子を追求した。

武田氏研究会は「武田氏研究」第二号を治水特集号とし、御勅使川の将棋頭の発掘調査報告が注目を集めた。

宮沢公雄「将棋頭遺跡の調査と課題」、畑大介「竜岡将棋頭について」は、武田時代とする確証に欠けたが、信玄堤もようやく発掘調査段階に入り成果が期待される。

しかし、竜王以南の信玄堤はほとんど姿を消している。同特乗号で安達満「川除口伝書にみる甲州流治水工法」は、信玄堤は川幅を広くとった小堤で、その前に御林を育てて保護し、水制工は御林の前面に置いた具体的姿を紹介し、さらん御勅使川と釜無川合流点に施設された十六石は釜無川を赤岩に向ける目的があったとした。

また、清水小太郎「信玄公治水事業の構想」は『国志』の 記述を地理学的に現地に位置づけたもので、十六石の機能について安達論文と同一見解を得ている。

信玄堤は主として治水技術の研究が先行しそれに治水施策の目的とした開発の研究があるのみで、それらもまだ甲州流治水技術との関係など充分に究明されていない。

山梨郷土研究会、武田氏研究会共催の「武田氏シンポジュゥム」(武田氏研究第四号)において、笹本正治氏は戦国大名領国支配を点と線から面的把握に発展させた権力構造のなかに、信玄堤の成立も位置づけなければならないと指摘し、今後の課題が提示された。 〔安達 満〕






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最終更新日  2020年11月10日 05時00分28秒
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