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2020年11月10日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

甲州の金山と甲州金

 

『山梨県郷土史研究入門』 野沢昌康氏著

 

  山梨郷土史研究会 編

  山梨日日新聞社 平成4年発行

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

 甲州の金山

甲州の金山に関する資料は甚だ少ない。古いところでは平安時代初期(大同三年・八〇八)、あるいは鎌倉時代末(日蓮大士巡錫の折)に黒川金山(塩山市)が採掘されていたとの伝説があるが、これを確実に裏づけるものはない。

しかし平安時代中期以降、陸奥の産金が激増して、砂金は日宋貿易第一の輸出品となっている程で、贈献・造仏・美術工芸などに盛んに使われ、多数の金売商人も出現しているので、甲州に於ても平安時代末には黒川金山(安田義定の領有)や御座石金山(韮崎市・武田信義の領有)などで砂金の採掘が行われていたことは、安田義定・武田信義の強盛ぶりからも想像できるであろう。

その後の状勢は不明だが、全国的には戦国時代(一六世紀中ごろ)から産金額が激増している。灰吹法という新しい製錬法が伝来したことと、戦国大名の熾烈な欲求があったからである。甲州では如何であったか。永く甲州金座の役人であった松木家の『甲州金座記録』によると、金山も甲州金も武田信虎の時に始まったように記されている。また同時代の武田親族衆の穴山信友が西河内領の保や黒桂で金を採掘していたことが、天文三年・同一二年に黒桂村の望月氏に与えた文書によって明らかである。

 

しかし甲州の金山の最盛期は次の武田信玄の時代であって、信玄ほど金の価値を重視し、これを有効に使った人は少なかろう。彼は他に分国内にも多くの金山を所有していた。次の勝頼の時代には産額は激減しているが、江戸時代に入って徳川家康は大久保長安を用いて、河内領などに新しい金脈開発を進めて産金額を盛りかえしている。すなわち甲州の金山の全盛期は信虎の時代から三代将軍家光のころまでであった。

その後は明治に至るまで時々、細々と採掘が行われていた。

 

信玄時代の金山と伝えられるものには、黒川金山・黒桂金山(早川町)・保金山(早川町)湯奥金山(下部町)・川尻金山(下部町)・御廃石金山・水上金山(韮崎市)などがある。江戸時代には早川町の前記二金山と雨畑村(早川町)の諸金山が柳沢氏の背景などもあって最も栄えていた。そのほかにも金山(増富)・栃代(下部町)・西奥山(大月市)・小金沢(大月市)・金山(秋山村)などの小金山があった。

 

 甲州金

 

甲州金(甲金)は「国桝・甲金・小切」と連作されるように、近世における甲州独特の貨幣であって、全国的通貨であった小判と並んで甲州三郡(山梨・八代・巨摩)にのみ使用を許されていた。その始源については明確にされてないが、前記『甲州金座記録』では松木珪琳が野中・志村・山下の諸氏と武田信虎に仕え、甲斐国中の金山を探り、金貨を鋳造していたことが見えている。

しかし甲州金の全盛期はやはり信玄の時代で、四金座(松木・野中・志村・山下)により各種の金貨が造られ、軍用金として活用された。

徳川家康は初め大久保長安の活躍によって全国的に金銀山を開発して未曾有の産金量を誇ったが、長安没後の甲州では松木氏のみが甲州金座奉行として長くその職にあった。

 

甲州金の鋳造額は極秘であるが、江戸中期の青木昆陽は年三千四百両から三千五百両と記し、松本家文書の中では元禄九年(一六九六)までは五〇万両余り吹き足し、その後は甲安金四十万両、甲重金一二万両、甲定金五万両としている。鋳造は金額と時期を定めて行ったも のではなく、下金(地金)のある時に造ったというのが実情で、幕末には世上にある甲金の額は減少し、安政のころには全く姿を消し、わずかに隠蔽される程度となってしまった。

幕府は甲金の廃止命令を三回(慶長六、寛永一三、元禄八)出しているが、いずれも甲州人の猛反対にあって実施できなかったが、甲斐国内の産金の減少によって自然に廃止となったわけである。

 

甲金には、古甲金、甲安(中)金、甲安今吹(ドブ金)、甲重金、甲定金などの別があった。

古甲金は元禄以前のもので品位は高いが分判の制はなく秤量貨幣で、甲安(申)金は柳沢古保の改悪、甲安今吹・甲重金はその子・柳沢古里の改鋳で、幕府のそれに倣ったものである。

甲定金は柳沢氏転封直後の享保一二~一七年に吹き足したものであるが、その価値は下落した。

甲州金の単位は両・分・朱(以上四遵法)・未申・糸目・小糸目・小糸目中(以上二進法)で、こまかい単位まであるのが特色であった。     〔野沢 昌康〕






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最終更新日  2020年11月10日 05時14分01秒
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