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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年11月17日
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カテゴリ:甲斐駒ケ岳資料室

甲斐駒と仙丈岳 辻村太郎氏著

 

『日本の名山 16 甲斐駒ケ岳』

   串田孫一氏 今井通子氏 今福竜太氏著

   博品社 19971115 

 

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

 今まで赤石山脈の高山に、私はあまり縁がなかった。しかし冬になると東京から望まれる、山脈の最高峰荒川東岳や聖岳などはともかく、一ばん近い白峰山脈の間ノ岳ぐらいには、最終の登山で行けるかという、あてどもない希望をいだいている。この山の頂上部にカールがあって、雪が積もると堆石の形が見えることは、勝沼辺から眺めて、ずっと前に気がついたが、昭和三十年の八月に、富士山頂から双眼鏡で観察すると、立派な水蝕谷さえできているのを知った。

同じ年の秋に本田義郎氏が、ちかごろ開通した夜叉神峠の自動車道を利用して、峠の上から新雪の間ノ岳を写し、みごとな引き伸ばし写真を贈られたが、それを見ると、北どなりの水蝕谷が、新雪を帯びて鮮やかに認められるのである。

最も近づきやすい甲斐駒ガ岳と仙丈岳の二つだけは、ともかく登ることができたが、多くの人は一度に歩いてしまう山々を、三十代の終りと四十代の初めに、六年をへだてて一つずつ登ったのだから、日本山岳会名誉会員である私の登山能力というものが、どんなに微弱なものかを証明したような形である。

 

しかし峰から峰に縦走し、幾日を峡谷の底を歩く、本格的なアルピニズムとは、別種の感興も絶無であるとはいい難いように思う。

大正十五年の七月、東京大学地理学科の学生であった花井重次氏と、助教授として研究旅行を共にした私は、天竜川の段丘を見て、天竜峡に近い樵梧楼に泊った翌日、韮綺から台が原に行って一泊、ここで案内人を頼み、駒万岳登山の準備をした。翌くる日の早朝宿の二階から仰ぐと、一点の雲もない空に、急な花崗岩の峰が朝の日を受けて聳え、絶頂の白い岩石や、黒っぽい緑のハイマツが近々と見える。

この辺から仰ぐと、山の形は幅が広くなって、南坊主と北坊主とよんでいる岩壁が左右にそばだち、肩をいからせたような、厳めしい姿を示すのである。

 

扇状地の斜面を爪さきあがりに登りつめると、急な断層崖の山腹が眼の前にそびえ、その麓にささやかな里宮の社が建っている。狭い境内に小さな池があって、山清水が流れこみ、澄んだ水の底には、横腹に斑点を見せた山魚の子が泳いでいる。それは実にすがすがしい風物であった。

尾白川の谷に沿う登山道を撰び、急な谷底に並ぶ瀑布を見物しようとするのである。甲斐駒の東側は飛騨山脈の白馬岳に対して、フオッサ・マグナにのぞむ断層崖の最も高い部分であるが、すぐ南方にある地蔵岳の側面とちがって、階段断層の構造は明らかでなく、滝の位置は節理面の粗密によって決定されたらしく思われる。

 

最初の滝は低いけれども水量が多く、円い滝壷から燦々と水煙があがる。しばらく登ると源流になった箇所があって、花崗岩を刻んだ急な溝をすべって落ちる水流が、くぼみになった所から跳ねかえって、抛物(ほうぶつ)(せん)を描きながら、一メートル余も高くあがるのである。水の柱が日の光を受けて、きらきらと輝くさまは美しい。大町桂月が噴水滝の名を与えたものである。最も上流部の白糸滝は、広い岩面をさらさらと流れ落ちる優美な爆布であった。

滝を見るために、谷壁の急斜面を登り下りする道は楽でなかったが、左手の山から流れてくる沢水を、瀬戸ひきのコップに汲んで、レモンを切り砂糖をまぜて、歯がこおるように冷たいのを飲みほすと、蘇生の思いがあった。

 

谷底から山稜まで一直線にのぼる、六百メートルの急坂は骨身にこたえるが、尾根の上までたどりついて一やすみすると、すぐ目の前にはシラベの若木があって、まっすぐに延びた枝に、紫色の毬果が燭台の形にならび、甘いような樹脂の香が、冷たい空気の中に漂う。

高等学校の三年になった時、立山を最後に登山をやめて、十五年も深山に入る機会がなかったが、いま日が沈みそうになった山腹の森は、そこここで鳴きかわす小鳥の声でにぎわう。チリリチリリとせわしく鳴くのは、鶯に似た形のメボソ、ピッチピッチと聞えるのはコガラであろか。こんなにしんみりした心もちで、山の夕方を味わったのは初めてである。

 

屏風小屋の一夜は静かであった。小屋番と私ども三人だけで、焚火の燃え落ちる音の外には、はるか下の方から谷川の響がつたわるのみである。窓のない板戸のすきから星の光が見える。疲れていても眼がさえて、四年前の関東地震、親しい人たちの運命などが思い出された。

小屋を出て少しのぼると、低いダケカンバの根をふむ山道となり、痩せ尾根の急な登りが八百メートルほどつづく。東の方に見わたす八ヶ岳の景色がみごとである。ぎざぎざした関析火山の裾野を見おろすと、朝顔の花を伏せたような形にひろがって、ゆるく傾くのも奇観である。

絶頂につく直前に、山かげから顔を出した仙丈岳の山容は、今まで知っていた飛騨山脈の高山と、まるで違った別の麗しさを感じさせるものであった。見た瞬間の印象には、不思議にも伊豆七島の火山と共通なものがあった。たぶんそれはみずみずしい緑の森林と、頂上部の黒っぽい岩との、色の配合から来た連想によるものであろう。

水成岩の高山を近々と見だのは初めてであるが、それは落ちついた形態、くすんだ色彩を具えていた。赤黒い岩壁をあらわす、小仙丈沢のカールが大きく口をあき、そのとなりには残雪の白点をみせる薮沢の小さいカールが並んで、大らかな嶺線を示す頂上部は、どっしりしたピラミッド形の火山のようであった。すり鉢がたの圏谷が、こんな錯覚を起こさせるのであろう。

絶頂について一等三角点の標石にちかく、散在する花圈岩の巨石に腰かける。低いハイマツの間には、

キバナシャクナゲの葉がひらびつき、花はうすい黄色で目立たない。

ここから真向いの仙丈岳は、千メートル以上も下の谷底から頂上まで一目に見え、こんなにも草木の色が美しい山は初めてのような気がする。岩がちな山頂には青黒いハイマツ、谷間にかけて崖錐と思われる斜面は、浅緑のダケカンバである。中腹の森は紺青色の針葉樹林であるが、その中に樺の大木が点々として、美しい緑色の小紋を織り出すのである。

高山の空の色をしみじみと見たことも、今までの旅ではあまりなかった。飛騨山脈の高峰はかすんでしまったが、眼の高さの青空はステインド・グラスのように透明な水色を帯び、濃い藍色の天頂に向って、奇麗なぼかしになっている。

そういう派手な空の下に、紫ばんだ色に染まって横たわる連山は、木曽山脈の高いホルストである。

天竜川の谷にわずかぽかり、白壁と思われるものが認められる。それを除けば人里らしい景色は何も目に入らず、四周は青山と白雲のみの世界である。

降路では七丈小屋に立ちよって、小屋番をしている猟師から(かも)(しか)狩の話を聞いた。猟犬に追い出させて捕るのであるが、せっかく仕込んだ時分になると、犬が大胆になって、獣を恐れずに飛びかかる。

「くらしし」は急な岩場を後だてに、頭をさげて待ちかまえ、短かい角にかけて放りなげる。こうして良い犬をいくつか失ったそうである。

小屋番は谷の向うにみえる森が、風にあたって動くのを見て、こんな日には必ず天気が変わるといったが、この予報はよくあたった。頂上にいた時は実に静穏であったが、花井氏が写した仙丈の写真を後に見ると、その上空には小さい英状雲が浮かんでいて、すでに上層には強い風が吹いていたことを知った。

二千メートルにちかい急な坂道は長かっかけれども、コメツガの林の中を行く景色はかなり好く、枝から垂れるサルオガセは黄をおびた白い地衣、日光では霧藻というそうであるが、雲霧の深い山らしい

植物である。下にはハクサンシャクナゲが花盛りである。ここのはみんな白花だから、仙骨を帯びた感じを与える。こんなにシャクナゲの多い山は今まで知らなかったが、数メートルの高さになった木も少なくない。折りとって大きな花束にしたのは、翌日東京まで持ちかえり、瓶にさして数日のあいだ眺めることができた。

山をおりて平地の林にかかったころ日は暮れて、闇の中で白い路のまん中に、うずくまるヨタカの姿をみとめた。この鳥は近よると音もなく舞いたって、少し先の道ばたにおり、そんなことを幾度かくりかえす振舞が、おかしくもあり無気味でもある。その晩は台ガ原に泊って、翌朝は雨の中を韮崎に向った。

 

甲斐駒の頂上から眺めて、その秀麗な山色に驚いた仙丈に登り、カールの内部を検べる機会は、昭和七年になってようやく得られた。その前年にフランスのオーヴェルニュを旅行し、モンドール火山の頂上で、カール底の羊群岩を見た経験が、隠然たる刺戟になって、この登山を思い立たせたのである。八月の初め木崎夏期大学の講義が終えた後に、辰野から伊那まで電車で、そこからバスで高遠の町に向う。

木曽屋を宿とした私は、同行の山妻をそこに残して、講習生の百瀬有郎君と仙丈岳に行くことになり、戸台の村から案内人を呼びよせた。

翌日は戟はやく黒河内まで車行、この村は三緑川の河岸段丘にのっている。支流黒川の谷にそって束に行く道は、仙丈岳につづく高い山蝉と森林を仰ぎ、行く手には甲斐駒の白い岩緑が聳える。日があたって草いきれがする山路は暑いが、小さな沢を通りすぎるたび毎に、冷りとした空気が動き、水に濡れた岩石には、暗緑石の蛇紋岩がまじる。

地質学生だった時に、白骨温泉まで行きながら、からだの調子が良くないので、槍ガ岳に登りそこなった私は、早期の登山者がなめた、谷川を渡る苦しみを知らない。黒川の谷ぞいも、湿布や早瀬がなく、河原の石をふむ道が大部分で、張合がないほど楽である。しかし砂利の上に仰臥して疲れをやすめ、谷を挟む広葉樹の緑の間から、狭い青空を仰ぐ心地よさは、尾根道ばかり通った、今までの登山で味わいえないものであった。

川を離れてやや急な斜面をのぼると、シラベの林が茂る平坦面に出る。これは堆積段丘の面であり、巨礫をあらわした坂道は、段丘崖に相当していた。ちかごろ式正英氏が踏査した結果によると、薮沢にそってずっと上まで、七十メートルの厚さをもつ段丘堆積物があるというから、氷期の気候段丘かと思った私の推測も、あまり誤りではなかったようである。

標高二千メートルにちかい段丘面から、谷をへだてて仙丈岳の麓の針葉樹林と、薮沢の大滝が望まれる。双眼鏡で眺めれば、湯水の跳ねる様も明らかに認められ、案内者に覗かせたら、まるで活動を見るようだと感嘆した。

富士川の支流野呂川の源になる北沢の底は、黒川の段丘面につづき、その間が駒ガ岳とを結ぶ、低い谷中分水になっている。おそらく薮沢が過っては野呂川の流域に注ぎ、堆積段丘ができた後に、黒川の上流によって、争奪の作用を受けたのであろう。

北沢の小屋は頑丈な二階造りであって、竹沢長衛の経営であるが、主人はちょうど山を下りていて会いそこなった。少しはなれた甲州人の水石巻古老の小屋を訪問し、辻本満丸氏を案内した、明治時代の話を聞くあの時分はハイマツの中を登ったものでしたと、言葉すくなに故人の思い出を語ったが、工業研究所の技師であり、油脂研究で学士院宣をもらったこの学者が写した、小仙丈沢カールの立派な写真を、私は今も大切に保存している。

硝子がはまった部屋は、石室に泊まった昔の登山を思うと贅沢なものであった。案内はまめまめしく働いて、味噌汁をつくり中に缶詰の鰹を入れた。味がいい干鱈も副食物になって、晩飯はすこぶる美味であった。谷川の氷が豊富だから、小屋の前には風呂桶がすえられ、シラベの大樹の下で湯に入り、枝越しに月を見ることもできた。仙丈岳の山の端には、白い夜の雲が動いて、月の先に照らされている。

まだあたりが暗い暁、すぐそばで駒鳥が一声鳴いた。時計をみると四時である。夜が明けると前のシラベの根がたに、茶色をした小さい鳥の姿をみたが、それはミソサザエであろう。山に登りはじめるころには高いダケカンバの白い幹に、朝日が明るく照って、涼しい山風が梢を吹きわたり、耳をさすように鋭い、この鳥の声がしきりに聞えた。

シラベとダケカンバの混合林を抜けて、山稜部に出ると、背のひくい樺の林がしばらくつづき、しなりやすい幹を踏んで登る道は歩きにくい。やがて低いハイマツが生えた頂上部に出る。すぐ前に小仙丈沢のカールを見おろす場所である。辻本氏の写真を見て、最初はモレーンの土手かと思った岡は、明らかに氷河の浸蝕で丸くなった、岩石山脚のリ-ゲルであった。その表面は風化作用で砕け、一部はハイマツの茂みにおおわれる、白峰北岳は野呂川の谷をへだてて近く聳え、双眼鏡で眺めると、頂上部に地層の縞が明らかに見え、絶頂に立つ登山者の影も認められた。

二等三角点の標石がある山頂は、大仙丈沢のカールと、薮沢カールの間にあるグラートであるが、硬砂岩の礫を敷きつめた、狭い石原になっている。さわやかな日がさして、風もない高山の頂きで弁当をつかい、リュツサックにつけて来た水筒の茶を飲む。大仙丈沢の谷から時々吹きあげる上昇気流が、高山草花のかすかな匂を運んでくる。

ここから見はるかす赤石山脈は、南北の方向に重なり合い、塩見岳のうしろに、赤石から聖岳までの山々が、濃淡のコバルト色になって、まるで藍の単色面をみるようである。神仙の山といったような、気魂に満ちた景色であるが、逆光の影響もあって、地形の観察には都合がよくない。間ノ岳から西につづく尾根の北側に、小さいカールを一つ見つけたのがただ一つの収穫であった。

薮沢のカール壁は崖錐におおわれ、その上を降りるのも困難ではない。その一部に残雪があって、雪どけの水で洗い流された。豆粒大の角稜状岩片が、急な扇状地のような形に堆積している。雪蝕作用の雛型を示すものである。岩錐をつくるものは、十センチメートル大な硬砂岩片であった。

カールの底には堆石堤があって、長さは三百メートル足らず、高さも十数メートルに過ぎないが、完全な半環状の土手になっている。この珍しい地形の性質は、かねて写真で推測したとおりであった。堆石は角ばった硬砂岩ばかりであるが、意外にも円味をおびた岩塊で、傷あとが見えるものを混えていた。重すぎて運ぶことができなかったのは残念である。

堆石堤にちかい山小屋によって休息、主人の話で憶えているのは、ここで病死した登山者のことだけである。三越の店員と聞いた青年の災厄は、心臓の衰弱が原因であったらしく、「ごしたい(草臥れて気持ち悪い)」といって臥たきりだったという、その方言が耳に残った。

小屋の近方には亀の甲の形をした、羊群岩があらわれていた。日本の高山でカールの地形が発見されてから三十年目に、カール底の水蝕岩面が初めて観察されたわけである。ルンドヘッカーの表面は風化してざらざらになっているが、草地になった部分で、土壌や砂煙を掘ってみると、岩石面には氷河で引き掻いた条痕が残っていた。

このカールは地形図で見ると、薮沢の源に形成されたのであるが、高遠の宿から双眼鏡で望むと、裏側にある筈のカールが、底に近い部分まで確かに見えるのである。後に地学雑誌に載った地図によると、やはり地形図が間違っていることが判明した。空中写真から正確に測図した結果によれば、カール底の平坦面は薮沢の谷頭から、左岸の山稜部にかけてその位置を占めていたのである。その部分には側堆石らしい地形も見られるし、薮沢に向って長く延びたカール底には、リーゲルの岡が高く聳えているのである。

 このカールの下には、最初に考えたよりも、はるかに大規模な氷河が流れていたらしく、水蝕谷の性

質を帯びたものと考えられる。大仙丈沢と小仙丈沢にも、かつては谷氷河が存在した形跡があり、赤石山脈としては最も北にあって、標高が三千メートルを越え、山頂の面積が相当に広い仙丈岳に、かなり大規模な氷河作用が働いたとしても、不思議ではない。

北沢の小屋は二晩とも実に静かな月夜であった。長年の望みであった仙丈岳の登山は、三日の間は霧もかからず、まことに幸運な山の旅であった。薮沢カールの底にルンドヘッカーの岩形が存在することをつきとめたのが、この短い旅行の獲物である。今までは槍穂高から立山にいたるまで、多くのカールに類似の現象が知られているけれども、これまではこの極めて当然な事実が、何となく見逃されていたのである。

 

高遠の宿では三緑川の鮎で御馳走責めの形であった。川魚では外に「かじか」の名をもつ小魚が美味であった。腹が白くて胸鰭が大きく、尾にちかく灰色の横しまがあるハゼの子である。小田原辺で「たきた」とよび魚類目録にはカマキリの名で出ている。コットゥス・カジカであろう。少年のころ投網を用いて、酒匂川で獲ったこの魚を、掘り抜き井戸の水槽に放ったことがある。つけ焼で佃煮のようにしたのを一折、土産として持ち帰った。

 

仙丈岳は信州方面で前岳とよんでいるが、御鉢岳の別名もあるそうである。この山名はもちろんカールの形状から来たものであろう。これに似た地名は飛騨山脈にもあって、黒部のごうろ岳には鍋岳の古名があったし、野口のごうろ岳にある大きいカールは「しのはち」と呼ばれたらしく、ことによると「かまくら」も同じ地形にもとづく名称であろう。白馬の杓子岳も、たぶんカール状の地形から産れた名であろうと思われる。






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最終更新日  2020年11月17日 06時16分40秒
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