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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年11月17日
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カテゴリ:甲斐駒ケ岳資料室




甲斐駒 大岩山の環走 松涛明氏著

 

『日本の名山 16 甲斐駒ケ岳』

   串田孫一氏 今井通子氏 今福竜太氏著

   博品社 19971115 

 

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

昭和十五年二月七日 晴

 

 伊那入舟-(バス)-飯島(七・三五)-戸台、竹沢長衛宅〇・四五)

 

 黒川入口の飯島でバスを下り、雪の河原をアイゼン輪かんの足ごしらえで歩く。トラックの(わだち)が堅く踏みしめた溝があるが、昨夜降ったらしい新雪が六、七寸積っていて歩きにくい。しかし心配していた空は案に相違して素晴らしく晴れ上がったので、暢気(呑気)に休み休み行く。右岸の高みに、黒河内からくる路がウネウネとからんでいる。懐かしい路だ。一昨冬最終バスをとらえるために夕闇の中を夢中で走った。そして結局乗りそこねてしまった時のほろ苦い思いが胸に浮かぶ。あの時は二度とこんなところへ来るもんかと思ったが……。

 

今は、その節、長衛の家で聞いた木材搬出鉄道の工事でもやっているのか、ところどころに人夫が多勢、鶴嘴(つるはし)をふるっている。私が赤い帽子を冠っているせいか、はるかに冷やかしの声を送ってくるのは苦笑ものだ。長い河原に飽きのきた頃、戸台の分教場に着いた。

戸台は山里らしい気分のただよう良いところだ。かなだの山には炭焼く煙がゆるゆると立ち上り、こなたの雑木林には猟銃の音がのどかに響く。冬枯れのしたかやとの路を戸台で一番高いといわれる長衛の家までゆっくり登って、その庭先に荷を下ろす。

ところが案内を乞うとあいにく長衛も息子も不在、小屋へ行ってくれるものは誰もいないので、炉端に上り込んで帰りを待つことになった。しかし、じつのところ自分自身それほど先を急ぎたくもなかった。今日一日この静かな伊那の山里の空気にじっくりひたっても見たかったのである。

幸い彼らは午過ぎても帰らず、私の願いは聞き入れられたのであった。夜は気温物凄く下り明日は天気と喜んで寝る。

 

二月八日 晴

長衛宅(九・〇〇)―売店(九・四五~一〇・〇〇)-八丁坂下(一二・一五~・四五)

-坂上(一三・三五~一四・〇〇)―北沢峠(一六・一〇)―北沢小屋(一六・五〇)

 

小屋へは前来たとき同様、息子の重幸が行ってくれることになった。

戸合川に下ると、例のトラックの轍痕がある。昨日午後また新たに通ったので今日は歩きよい。一里ほど上の戸合売店まで楽に歩くことができた。この売店は傍にある伐採小屋のためのもので、なかなか物資豊富である。重幸は下へ行くより品が揃っていると笑っていた。ここからラッセルが始まるので、輪かんにアイゼンを重幸はスキ-を履いた。しかし雪は思ったほど滑らず、それに彼が先に踏んで行ってくれるので楽だ。青空に突几とそばだつ鋸を仰ぎながら二人語らいつつ気軽に歩いて、八丁坂下まで難なく行く。

 

ところが八丁坂下で昼食をとるうちに空は次第に曇り、どこから来るのか雪粒がチラリホラリと舞うようになって重苦しい気分になった。坂を登り切るとラッセルはにわかに深くなり、スキ-の重幸がうらやましい。彼が軽快に進むあとを、私は丹念に穴をあけて行くのだ。峠付近はますます深く、両足とも股まで落ち込んで、二進(にっち)三進(さっち)も行かなくなった。前来九時は天気よく雪も浅く、北岳等眺めて楽しんだ。この峠も、今日は鼠色の空の下、雪の中を四つん這いになって歩く始末だ。小屋までのわずかな距離を重幸より三〇分も余計にかかってしまった。

 

元来この山行は北岳越えを目指したものであったが、峠付近の状態から推してとうてい不可能であり、それに財政上の都合でぜひとも甲州へ抜けねばならぬので、予定を変更、駒から大岩山へ廻ることにした。夜は意外に星空になった。

 

二月九日 晴

 

北沢小屋(八・〇〇)-ガレに取り付く(一一・○○)-駒津峰(一三・二〇)

-六方石の鞍部(一三・五〇~一四・一五)-駒頂上(一五・二五)

-六合目露営地(一七・二〇)

 

早く起きたにもかかわらず、何やかやと支度に手間取って、出発はすっかり遅れ、小屋を出た時は小仙丈がモルゲンロートに映える頃であった。

戸台へ帰る重幸に別れを告げて仙水峠に向う。北沢の沢筋は埋まり切っておらず、かといって夏路通しは潜り過ぎるので閉口する。右、左と、膝くらいまでのところを選んでラッセルをつづけ、駒津峰へ直接上る沢の出合から森林帯に入って、夏路通し辿ったが、とにかくえらい時間を費やしてしまい、峠やや手前の凹地に着いた時、日は既に高く上っていた。身体の調子が悪くて動作が不活発だったせいもあるが。

凹地から左のガレに入って多少ともラッセルを避けるべくつとめる。深い雪からガレに入ると、別天地のように足が軽くなり、ひと息入れることができた。しかし間もなく尾根に出て再び苦しいラッセル――

今度は傾斜が加わるのでますます辛い。木の間越しに陽がカンカン照りつけて背中はグッショリ汗をかき、不愉快な冷気が身に伝う。息が切れる。苦しい登高、が背後にほのかなハイフェンを上げて輝いている北岳が現われるようになると、だいぶ気もまぎれてきた。「彼方へ向いていたら今頃はどこの辺をうろついているだろう」やはり行かなくて良かったという安堵と、一応当るべきだったという悔恨とをこもごも感じて、ときどき振り返って眺めていった。

 

駒津峰へ出ると風は強くなるが、ラッセルは楽になって助かる。痩尾根を六方石に下って昼食。ビスケット、蒲鉾(かまぼこ)など噛っては雪をしゃぶった。しかし寒気に長休みを許さず、ちと食い足りぬと思うところで腰を上げた。ここから尾根は累々たる巨岩におおわれているので、輪かんを外してアイゼンだけになり、巨岩に面白そうなルートを求めて、久しぶりの岩を楽しみながら登る。

 

駒ケ岳頂上付近は雪が風に飛ばされて砂が出ており、夏と同様の状態。息を切らせて頂上へ駆け上るとにわかに八ヶ岳、北アルプスが姿を現わした。七丈の方から来る尾根はたいして辛そうでなし、ちょっと誘惑を感じたが、せっかく苦心して背負ってきた食料等のことを考えると、下る気にはなれなかった。

頂上の仏像の傍に腰を下ろして眺望を楽しんだのち、六合への下りにかかる。これからはいよいよ未知の境、引きしまった気持になる。悪場が二、三現われ、慎重に通過した。一カ所変なところへいって、まったく違う方向へ下ってしまい、主稜に戻るトラバースに苦心したが、他は難なく乗り切れて這松帯に入った。落ち込むのを気にしながらしばらく下れば六合の石室が目に入る。左に見逃して鳥居を潜って森林帯に入った。陽はようやく沈みかかり、仙丈が夕焼けに赤く映えている。

夜が追ってきた。赤河原へ下る道の分岐点でビバークとする。いよいよ冬始めてビバーク。心細い、追いつめられたような感じだ。装備は一式揃っているのだが。しかしアイゼンを外し大木の根方を踏み固めてツェルトをかぶると案外気は落ちついた。さっそくコツフェルで雪を溶かし、雑煮を作りながら暖まる。水蒸気で内壁が濡れることを除けばなかなか快適なものだ。ただでき上った味噌雑煮はとうてい咽喉を通る代物でなく、ようやくひと切れ食っただけであった。

夜、蝋燭で暖まりながら居眠りして、ツェルトをこがし大きな穴を明けてしまった。大いに寒かったが降るような星空が眺められ、それに慰められて寝る。

 

 二月十日 晴

 

露営地(六・四〇)-烏帽子岳(九・一〇~一〇・〇〇)

-大岩山横手(一三・四〇~一四・三〇)-トラバースを終る(一五・四五)

-千駄刈露宮地(一七・三〇)

 

朝の寒さに凍った昨夜の味噌雑煮を溶かし、味噌を加えてみたがやはり咽喉を通らず、ビスケット五、六個を食っただけで出発する。

三頭の肩まではじつに難行であった。雪は腿まで落ち込むうえに小ピークが際限なく現われる。雪と取り組むようにして一つ乗り越すと、はや次に一層大きな奴が控えている。それをようやく乗り越すとまた次に……。

朝の寡食(かしょく)がたたって身体全体に力がない。左側は戸合川に激しく落ち込んで、ときどきふらりと覗いては胆を冷やす。それでも今日中に少しでも先へという気持から、懸命になって苦闘をつづけた。

三頭の肩からは指導権の示すままに北面のトラバースに移ったが、これがまたたいしたものだった。急斜面のトラバ-スであるため、いったん斜め下に下っては次にトンネルを掘るように登り返し、ジグザグを切って行かねばならない。こんなことなら尾根通しで行けばよかったと後悔しながら、泣きの涙でトラバースで烏帽子のコルヘ出た時は、思わず体を投げ出してしまった。

 

ところが烏帽子の頂きに立って、またまた、たまげたのである。なんとまあ大岩山の遠いことか。私には一日かかっても行けそうになく見えた。それに地図にない無数の小ピークが連なっているのを見るとジ-ンと空腹を突き上げるものがあった。

顧みれば中の川乗越が間近に見えている。私は激しくためらった。まず大きな不安と、食欲とが「後へ」と命じ、それに対抗して男の意地と経済上の必要が「前へ」と叫んでいた。一時間ほど考えあぐねた末、尾白川本谷と北沢との間の尾根を下るべく踏みだした。

しかし運命は不思議なものである。一歩踏み出したとたんに大岩山への闘志が勃然として湧き起こったのである。「行けるだけ行って北沢を下ろう」そんな気持で私はどんどん大岩山への尾根を駆け下った。案ずるより産むが易いというのはこのことだろうか。一日かかっても辿り着けぬと思った大岩山の南のコルまで、わずか三時間半で行けてしまったのである。ラッセルは予想外に浅く、膝ぐらいまでであったし、数多のピークは二、三の悪場はあったが次々に難なく乗り越えられた。なんといっても下りが多いだけに楽だったのである。コルに出た時は真実心の底から嬉しく、一人で歓声を上げて喜んだ。

だがまだまだ安心はできなかった。見上げる大岩山の岩壁は素晴らしく屹立しているのである。

「夏路はどこを通っているのだろう」私はかねて書物で読んで、大岩山の頂上直下は大きくからむと知っていたが、見たところいっこう路らしいものが見えない。「ままよ」と腹を定め、ゆっくりキジを打ってのち、おもむろに立ち上って壁のまっただ中に取り付いた。物の見事に追い返された。今度は輪かんを外して取り付いたこまた追い返された。さんざん苦心した末、一緩の光明を右下の谷に見出した。ところが、これが夏路だったのである。指導標の板を見付け九時はまったく救われたような感じだった。跡らしいものを辿って深いラッセルをかこちながら枝谷を一本越すと、はや跡形が明らかになり、喘登ひとしきりののちには、大岩山東側のコルヘ出て、再び歓声を上げて喜んだ。枝谷を渡る時、熊の足跡と覚しきものを見たので内心戦々説々としていたが。

 

最大の難場を通過してしまったとはいうものの、まだまだ行平は長い。追われるように再び歩き出す。

尾根にかすかな切明けがある。大きな頭を一つ越して下りにかかると切明けはにわかに広くなり非常な心安さを感じた。しかし同時に気の緩みを生じて、空腹と疲労がぐっときた。昼食としては大岩山までの間でビスケットを五、六個、キャラメル若干を摂ったのみであったから、何度も何度ものめって顔を突っ込んだ。

夕闇が次第に迫り、やがて千駄刈の笹原に出た時は陽はとっぷり暮れた。針葉樹の根方に笹を敷いて

ツェルトをかぶる、淋しいコ僕であった。今夜は曇って星もなく、大岩山の横手を通る時見た熊の足跡

のことなど思うと、寂しくて堪らなかった。食料はもはやビスケット数個と生の白菜ばかり、それに一

層悪い事には、夜半にマッチがなくなって蝋燭もともせぬことであった。

 

 二月十一日 晴後曇

露営地(七・一五)-日向山(一一・一五)伐採小屋(一三・〇〇~一五・〇〇)

-竹宇(ちくう 一五・三〇)-長坂駅(一八・〇五)

 

寒い一夜を明かした。今朝はもはや何も食うものはない。「しかし今日は里に出られるのだ」その喜びが心を明るくして、昨日烏帽子の頂きに立ったほどの重苦しい気分はなかった。昨夜は曇って心細く思わせた空も、朝を迎えるとともにからりと腫れ上がり、尾白川を隔ててそばだつ駒が素晴らしく立派だ。

坊主山の壁も素敵である。この辺は笹に履われた広い尾根で、跡形はぜんぜんないので尾根の最中央部を選んで下る。笹に足を取られながら鞍掛山とのコル尾根上のピーク(山の一番高くなっている場所。 山頂のこと。))まで下ると、「千駄刈」の指導標を見出したが、相変らず跡らしいものは見当らぬので鞍掛山の登りは尾根筋を行く。笹は姿を消し、ようやく郡界線とも覚しきかすかな切明けに出た。

下りにかかるといよいよ本格的な跡に出て、(後で知ったことだが、鞍掛山頂上は千駄刈の指道標のあったコルから北面を捲くのであった)それに兎の足跡が刻明に印されているので楽に下れた。日向山が木の間隠れに見えて、あの裏には人里がと思うと足も軽い。ところが、いよいよ日向山とのコルヘ下りかかるところで跡が分からなくなってしまった。右へ行って見たり、左へ行って見たり、戻って見たりしたがどうしても分らない。ついに意を決してれとおぼしき尾根を下る。一時跡が現われたが再び踏み迷ってしまった。しかし、やがて密林がやや疎らになっていっている間から、左隣に大きな尾根が見えすぐ下にはコルがある。主稜の一つ南の尾根を下っていることに気づき、左の谷を渡って主稜に出、間もなくコルに着く。つづく小さなピークは雪のない路を辿って左の腹を捲き、しばらく痩せた岩尾根を下ると、ついに日向山のコルヘ出た。もう里も近いのだ。日向山は明るい山である。花崗岩の風化した砂の斜面で、明るい太陽が燦々と輝いている。北面には真白な岩稜が数木薙ぎ落ちている。しばらく息をついて登りかかる。砂を踏みしめ、踏みしめ一〇〇メ-トルほどでガレを越えた。

 

【註 ガレ】

 岩壁や沢が崩壊して大小さまざまな岩や石がゴロゴロ散乱している斜面。 ザレ場と呼ぶ場合もあるが、基本的に「ザレ」より石が大きく傾斜角が30度以上の急なものを「ガレ場」と言う。

 

ガレが終ると再び疎林に入る。やや行くと、一時とだえていた雪が再び現われ笹が顔を出している。

雪のある時の奥高尾のような感じ、尾根のやや南側を捲いて東のコルに出ると摺鉢形の道となり、下りよくなってきた。下るにしたがって雪も少なくなり、かなたには中山が、その周囲には村里が目に入った。同時に激しい気の緩みが出た。そして路の上に転がっている雑木の枝に足を引っかけて幾度も転倒した。どのくらい行った頃か、とつぜん人声が聞こえた。炭焼入で嬉しかった。さっそく気休めのために里まで何時間と聞く。しかし相手は頓珍漢(とんちんかん)な返事ばかりしている。聞こえないのかな? さらに下るとまた炭焼さんに会う。また、だんまり? やがて雪が消えて初冬の世界に戻った。アイゼン輪かんを外しジグザグの路を一時間も下ると、「出た」、伐採小屋だ。乾物がしてある。人がいる、と思うとにわかに力が抜けてぐったりとしてしまった。戸口で水を飲んで中に入ると、案の定、五、六入の男女がいた。飯の饗応にあずかった。その飯を私はただ夢中で食った。






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最終更新日  2020年11月17日 10時54分09秒
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