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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年11月24日
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 「年越し蕎麦と元日蕎麦」


  時代考証辞典 稲垣史生氏著

 
 『歴史読本』 「忠臣蔵とはなにか」

   昭和63年 一月号

  

一部加筆 山梨歴史文学館

 

  蕎麦掻きから蕎麦切まで

 

 中山道の碓氷峠を越え、左手に浅間山の噴煙を見ながらしばらくゆくと追分にかかる。北陸道の分かれ目で、そちらへ足を向けると善光寺を経て戸隠山を見る。蕎麦どころである。

  

信州信濃の新蕎麦よりも

   わたしゃおまえさんのそばがよい

 

中山道の馬子唄だが、明らかに戸隠蕎麦ことを歌っている。

 筆者は隣県富山の出身だが、その故郷へもこの唄が入り込んでいた。雪深い夜、炉端でよく歌われたのが、「わたしゃあなたの傍がよい」の一節で、哀調を帯びて切々と胸に迫ったことが忘れられない。

 信州は山国で作物が少なく、蕎麦は何よりの御馳走なのである。その蕎麦よりも「お前の傍がよい」とは、いかにも情味に溢れている。味も単調なら、見た目も長いだけの蕎麦であるが、古くて身近な食物だけに一種の風趣を感じるであろう。特に関東人の淡泊な性格にマッチして、食べ方の作法のようなものさえ生まれた。

そもそも蕎麦は土地の肥瘠(ひせき)にかかわらず、一候七十五日にして熟するところから、飢饉年の救恤(きゅうじゅつ)食糧に早くから奨励、普及していた。

元正天皇の養老六年(七二二)七月十九日の(みことのり)に、

  

今夏雨なく苗稼登らず。宜しく天下の国司に令して、

百姓に勧課して、晩禾(ばんか)、蕎麦および大小麦を植え、

蔵置儲積してもって年荒に備えしむべし

 

とあるのが最初である。

当時は蕎麦の実の表面だけをむき、そのまま米や麦にまぜて炊いた「そば飯」の形で食べた。そこへ挽臼が考案されると、それを使って粉に挽いて食べた。といっても、粉では喉を通らないので熱湯でこね、餅状にしたうえ汁をつけて食べた。こねる状を「掻く」というからこれを「蕎麦かき」といった。

 鎌倉時代になると、この蕎麦かきにひと工夫が加えられた。すなわち、蕎麦粉を練って、餅状のやつを金網に乗せて焼いて食べた。まさに焼餅だが、そうはいわず、なぜか黒麦と称して舌鼓を打った。

 

時代は移って、南北朝の文和~応安年間(一三五一~七四)、大和国で蕎麦を年貢として納めた記録がある。このことで蕎麦は食糧としての地歩を高めたと知られる。今や補助食糧や非常時食糧ではなく、りっぱに租税の役割を果たし、万民の必需品たることを公認された。蕎麦万歳である。

 

信濃では月と仏とおらが蕎麦  一茶

 

蕎麦が蕎麦らしくなり、一般庶民のものとなったのは、なんといっても江戸時代である。

寛永年間(一六二四~四四)、南都東大寺へ来た朝鮮の客僧元珍が、蕎麦かきの欠点に気づき、形質ともに大改革を加えた。すなわち、蕎麦かきは乾くと割れやすく、細く切っても切れやすい。これでは箸でとらえにくいので、蕎麦粉に小麦粉をまぜることを教えたのである。

 

これなら粘着性がついて、いくら延べ棒で延し、長く切っても大丈夫、これをツルツルッと喉へ流しこむ。その軽快さが淡白な江戸人に受けて、わずか数年で副・主食ところを替えた。

 蕎麦はうどんとともに、古来ずっと家庭の食物だったが、江戸時代に庶民が寺社の巡礼をはじめると、手軽なところから外食用に当てられた。

随筆『塩尻』の一節に、

 

蕎麦切は甲州より始まる。

はじめ天目山へ参詣多かりしとき、

ところの民、

参詣の諸人に食を売りつけるに、

米麦少なかりしゆえ、蕎麦をねりて旅龍とせしが、

その後うどんを学びて今の蕎麦切となりし由

 

とある。

 

天目山は武田勝頼の亡びた地。諸人参詣の寺院は栖霊寺で、元の国から来朝した業海が住職であった。もとより持参の名器あり、「天目茶碗」である。

 

盆踊唄。

 

昔の人なら蕎麦粉をつけた

  今の人なら白粉つける

   シッサ、シッサー ホウホウ

  

蕎麦がつくった江戸風趣 

 

甲州路のこの蕎麦売りは、便利なためたちまち都会にひろがった。始め方法は担い売りで、主として夜の食物であった。当時は朝夕二食がふつうで、夜は形だけの「夜食」であった。蕎麦は軽食の観念が抜けず、いつか夜の街角で立喰いするものとされた。

関西は饂飩(うどん)好みなので「夜泣き饂飩」、江戸は蕎麦党だから「()(たか)蕎麦(そば)」といった。もちろん、夜ふけまで売り歩き、街娼の夜鷹が荒稼ぎのあとの栄養補給を蕎麦が受け持つからである。

 

「チリン、チーリン、チリン」

 

 この夜鷹蕎麦は屋台の屋根に、風鈴をつけていたので遠くからでも知れた。

 

「夜蕎麦の客ふるえた声の人ばかり」

 

夜寒が身に沁みる厳冬の屋台である。当時、屋台といっても蕎麦桶と食器を乗せただけの、最も簡単な担い屋台だった。行燈(あんどん)にはまだ蕎麦屋の標識がなく、風鈴でそれと知らせるしかなかった。主人は立って蕎麦を盛りつけ、客も立ったままそれをすすった。

 夜鷹蕎麦が一番出盛ったのは寛文(一六六一~七三)頃で、当時、頻繁に屋台店禁令が出ている。消防力の弱かった当時、屋台店から飛火して大火になるのを何より幕府は恐れたのである。

 立喰いは安直だがしみじみと味わえない。ちゃんとした店ができ、あれこれ凝るようになったのは享保末年からである。

 浅草馬道の正直仁左衛門が、はじめて一戸建の家に「蕎麦店」の看板を掲げた。

関西の影響から饂飩屋という者もいたが、仁左衛門以来、江戸では蕎麦屋に統一されていった。

 

 店はふつう間口半分が格子、半分が土間で、入口には「御膳そば」の暖簾が掛かっている。横長の軒行燈にも「生そば」の文字が入っているが、さらに目を引くのは「二八」の二字である。二八とは何だろうか。

屋台蕎麦の時代から、稀にその字は提灯や小行燈にも見られた。そのため蕎麦は、いつか「二八そば」といわれ、意味不明のままずっと使われて来た。蕎麦にいろんな名称ができ、食べ方や縁起話が生まれたのはこの頃からである。

 ふつう二八は蕎麦の値段で、十六文をもじっているのだといわれる。川柳にも、

 「敦盛のお年に蕎麦の値をきめる」

 とあるのがそれ。敦盛は一の谷の合戦で、十六歳の若さで熊谷直実に討ち取られた。だから「蕎麦切いっぱい十六文」というわけである。

 だが、わらじ一足五文、読売一枚七文のとき、蕎麦一杯が十六文とは高い気がする。いったいこれはいつ頃の値段か? 江戸が終わるまで二八蕎麦と言っているので、ずっと十六文は変わらないことになる。現に(せいろう)の盛りで一枚六、七文だったという記録があって敦盛もじりは無理である。

 ほかに二八は小麦粉と蕎麦の、混合比率をあらわすとの説がある。これなら物価の変動に関係がなく、二対八の意と素直に受け取れる。

 蕎麦に種物(たねもの)ができたのは、もちろんこの頃である。『守貞漫稿』に嘉永六年(一八五三)の貼出を掲げ、中味と値段を次のようにかかげている。

 あられ 

ばか貝の柱を蕎麦の上にかけたもの 二十四文

 天ぷら 

芝海老の油あげをおいたもの 三十二文

 花巻 

浅草海苔をあぶり、かけたもの 二十四文

 しっぽく 

焼鶏卵、蒲鉾、椎茸の類をかける 二十四文

 玉子とじ 

鶏卵の半熟かけ 三十二文

 鴨南蛮 

鴨の葱背負い 時価

 親子南蛮 

鴨肉の鶏卵とじ

  

鴨といえど雁代用。時価まったく今日と同じで、蕎麦界では「ちょん(まげ)時代」と一歩も進歩していないことが分かる。

 ただ、店を構えると、単調な中にも味競争を始め、サービスをよくし、器物で客を呼ぼうとした。文化・文政(一ハ○四~三〇)の蕎麦屋の絵に、もうハッピ・股引スタイルの出前持ちが描かれている。片手に提灯、片手は肩に乗せた蒸籠台を押える今日と同じ姿である。当時は

 

 「蕎麦がきで街の話を聞く炬燵(こたつ)

 

の情景も見られたのだ。

 

ところで、幕末近く、江戸で有名な蕎麦屋には、

下谷広小路の無極庵、

上野山下車坂辺の玉屋、

小石川伝通院の稲荷蕎麦、

本郷団子坂の薮蕎麦、

亀沢町の砂場、

浅草並木町の生田庵

 

などがある。最後の生田庵には二階があり、なかなかの店構えである。客も庶民ばかりでなく、両刀を帯した武士が入ろうとしている。蕎麦はもうりっぱに上流の食物になっていた。

 ところで、この店名表でも見られるが、蕎麦屋には現在でも「砂場」や「薮」の宇のある屋号が多い。ブンブン藪蚊でも出て来そうな、こんな不景気な名をなぜつけたのだろうか? 

蕎麦が砂場や薮のあるそんな荒れ地に育ったことの、名残りとも懐しさとも言うべきか。今も高層ビルや近代的ホテルの蕎麦屋さんも、なお藪蕎麦だ、砂場だ、といっているのは奇妙。

 屋号に庵をつけるのも、坊さんの作った蕎麦がやたらうまかったので拝借した文字だ。

寺は浅草道光庵、蕎麦作りの名人僧道光和尚、ちゃんと川柳にも唄われている。

 

 「道光庵人柄をいい買喰い」

 

瀬戸内寂聴さんが「寂庵」を建てたが、これは美しい尼僧の修行道場だから間違えてはなりませぬぞ!

 それはともあれ江戸中期以後、蕎麦にもいろいろな別名がつけられた。ちょっと付け加えておく必要があろう。

 いつの頃からか(けん)(どん)そば切」というが、この倹はカオヨシ、鈍はニブイだから美しくて安い女郎となる。吉原の河岸女郎に始まった。また、「大名蕎麦」は容器がりっぱなこと。「大名のようだ」と言ったのに始まる。

 折から「年越蕎麦」「元日蕎麦」の月となったが、古来、一日の始まりは前日の夕方と考えられていたので、大晦日の晩に食べる年越蕎麦は、そのまま新年の行事でもあった。その間の時は継続ナるものとし、永遠の繁栄を願う風習となったのである。

 

 「蕎麦祝う国ぶりもあり今朝の春」

  

汁をたっぷりの通人ぶり

 

蕎麦は江戸時代に入ってぐっと品格をあげた。食べ方は今と同様に「もり」と「かけ」があったが、かけは一名「馬方蕎麦」といって軽蔑し、風流人はもっぱらもりを食べた。馬方蕎麦は宿場・立場で、忙しいから立喰いするので汁をぶっかけてある。

 これに対してもりの方は、蒸鮨で蒸したまま、水滴を切ったまま持って出た形をとる。今日もそれは変わらぬが、汁を別の小器に入れて出す。通人は盛られた蕎麦を箸の先端でつまみあげ、わずかに汁をつけるだけで、つるつるツと喉へ流しこむのであった。汁を多くつけては蕎麦の味が分からない。ほんのチョビッとつけるのが、蕎麦通の神髄であった。

 

馬方蕎麦をジャブジャブと、汁とともにむさぼり喰うのは暮の骨頂であった。黙阿弥の

 『天依紛(くもいにまごう)上野(うえのの)初花(はつはな)』で、片岡庭次郎が入谷の寮の三千歳に会いに来る蕎麦屋の場にそのことが最高に効かせてある。

 「直侍」の直次郎はお尋ね者ゆえ、面体を手拭いで覆っているが、こんなところへも揉み治療に化けた「岡っ引き」が忍び寄る。雪の降る夜で肌寒く、「岡っ引き」が先にかけ蕎麦を注文する。

 後で入って来た直侍が、一本つけさせて時を移す。一篇の名場面とされているが、先代羽左衛門は裏方に、岡っ引きの喰うかけ蕎麦に汁をたっぷり入れろと言い、岡っ引き役者にはそれを野暮ったく噛んで食べるよう依頼したという。すなわち直侍の飲み口を、対照的にいかにも粋に見せるためである。歌舞伎役者のまこと繊細な神経ということもできる。

 

通人蕎麦の話では、奈良屋茂左衛門の「奈良茂」が、吉原で遊び仲間にただ二つの蕎麦を贈った。仲間が、何だ奈良茂ともいわれる金持が……と、幇間・末社にも(おご)ろうと特別に注文したが、吉原五町をはじめ付近一帯の蕎麦屋では口を揃えて、

 

「本日はもう売り切れで……」

 

と断ったという。買占めておいて、二つの蕎麦の稀少価値を誇ろうとしたのだ。なんと、風流優雅とはわざとらしく、他愛ないもの。新しい言葉では「ぶってるみたいきざな奴」ということになる。ある通人の今はの際の言葉にいう。

 

「あ~あ、かけ蕎麦にじやぶじやぶ汁をかけて喰ってみたいなあ」






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最終更新日  2020年11月24日 04時24分36秒
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