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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年11月25日
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近松門左衛門 国民的大劇詩人

 

『江戸文人おもしろ史話』 鈴木幸三氏著

  一部加筆 山梨歴史文学館

 

◇ 山城(京都府)出身?。

◇ 生 承応二年(1653)~歿 享保九年(1724

 ◇ 歿年七二

 

代表的な文章(歌)がある。

  

この世のなごり。夜も名残り。死(しに)に行く身をたとふれば、

あだしが原の道の霜。一足づつに消えて行く。

夢の夢こそ哀れなれ。あれ数ふれば暁の。

七つの時が六つ鳴りて残る一つが今生の。

鐘の響の聞きをさめ。寂滅為楽とひびくなり

 

「門左衛門ノ妙コノナカニュアリ」と激賞したのは毒舌できこえた荻生徂徠。彼すらこの文章の妙には脱帽せざるを得なかった。近松の世話浄瑠璃『曾根崎心中』の一節である。

“死にに行く身を”の曲節は“中”で、義太夫節音程の基礎音、重く沈んだ音だ。

墓地″あだしが原の道の霜〃は″スヱテ″で、感情を籠める曲節。強く抑えるように語る。

このほか、音程は二十いくつかのクトキ・ハツミ・フシなど、しんみり・弾んだ早目・変化に富んだ節廻しなどがある。

それに、精巧を極めた人形は国宝的な美術品。その人形を自在に操り、人形で、人生における微妙な感情生活を、生きた役者以上に表現させる技術。この総合芸術に、当時の大坂市民が熱狂したのは当然だろう。

ちなみに浄瑠璃とは、三味線に合わせて語る一種の語り物。狭義では義太夫節だ。竹本義太夫が、諸音曲のよさを大成。近松と組んで人形浄瑠璃を完成したことからである。

語源は『浄瑠璃御前十二股草紙』(また、『浄瑠璃姫物語』という)の略語だ。足利末期には出来ていたらしい。一種のおとぎ草紙とみていい。文体は七五調のところもあるが、大体、散文。のち、この節で語るものをすべて浄瑠璃といったのである。

さらに、竹本が大坂道頓堀に操座を開設、人形作りの名人竹田出雲(別項)、人形使いの名人辰松八郎兵衛、古田三郎兵衛と組み、人形芝居を始めた。そこへ近松が加わった後のことである。名残は現在の文楽座。

近松の作品は、世話物(主に町人を主人公とした世態の描写)と、時代物(昔の史実を脚色した浄瑠璃や歌舞伎・小説)に大別される。

が、彼は舞台の上から怪力鬼神風のものを退

 

 

人形浄瑠璃を完成させた。しかも首尾一貫、人情の機微に触れたものを実現していった。

三十四の時、操座のため出世景情を書き、以来、時代物では国姓爺合戦、曾歌会稽山などを書いた。題材は『平家物語』・『源平盛衰記』などから得た。これらには、人間の社会を支配する“宿世の運命”が描かれている。

しかし、端的にいって、彼の時代物は因果応報主義だ。甚だしいのは史実も曲げ、主人公を救う。義朝が危ない時、鎮西八郎為朝があらわれ、義朝を救うといったのがいい例だ。

しかも、手練手管がある。忠臣孝子をさんざんに苦しめ、見物をして苛立たせる。が、あとで救ってほっとさせる。円熟時代の段取りはこうだ。

事件の動機・発端。次の活動の伏線。これが第一段。第二段から四段までは葛藤。うち二段はあとの大葛藤への誘因を扱うから忠臣孝子などが悪者の迫害を受け、落傀、義に殉じようとする悲壮な処を描く。

第三段はこれを受けるから葛藤の最高潮だ。山がある。事件は悲劇的に運ばれてゆく。懺悔・自害・身代りなどが使われる。事件解決が予期される。

そこで第四段。夢幻的・超現実的な場面を出し、解決の光を見せる。第五段は解決だ。

ちなみに、作劇上のことであるが、彼の時代物は、内容の異なった短い劇二つか三つをつないで五段にした物が多いといわれる。

世の辛酸をなめ、観察も豊かになった晩年は、世話物に力を注ぐ。当代愛欲の相を描いたのである。四十八の時書いた『長町女腹切』が皮切りで、二十数篇ある。これらには時代の相(生活)、つまり生々しい市井を描いた。彼の真価が遺憾なく示されている。

世話物の傑作は町の出来事だ。それが取材源。歴史的な時代の空気と違い、彼の生きた当時の人間が、義理人情に引きずられる弱い人間だ、と知って弱い人間を主人公に持ってきた。

世話物には歴史・時代物のような凄い悪も善もない。情愛がある。だが、そのままに動く事が許されない世間の義理と人情とがあった。そこに悲劇が起こるのだが、こういうところに鎮西八郎為朝を持ってきてもなんら解決しない。

 

(よい)庚申(こうしん)(お千代・半兵衛の心中)は実際にあった事件。事件が起きるとすぐ脚色して上演。これでも、半兵衛をして「三国回しや。私は仏になります」と、叫ばせ自殺させている。見物はこれでもほっとするのである。

天の綱島(小春・治兵衛)も、十月に起きた事件がネタだ。十二月初句には上演している。庶民の記憶にあるうち作品に書き、上演したのだから拍手喝采となるわけ。

文章は俗耳に入り易い。しかも精巧。古典的名文とも言える。

心中物が多い。何故か。庶民の自由讃美なのである。当時は自由恋愛や自由結婚は認められていない。この制度上の拘束をはねのけるためにはどうしたらいいか。世間にはさらに義理という鉄の壁があった。だが、人間本来の純情を全うするため、恋に勝利するためには、死をも恐れないことが必要だった。

喜んで死んでゆくことが要請されたのである。愛する男女が、真心を示しあうため、生爪をはぎ、指を切る、あるいは誓紙をとりかわすのを心中という。

ところが、この世では添えとげられない場合、心中死に発展した。せめて来世では一緒になろうという願望を籠めるのである。

そういう男女への同情が民衆の間には強かった。心中物の作品・上演がうける社会的素地がそこにあった。彼の作品は現実を越えた彼方に崇高な愛の世界の存在を強調した。それが受けたのである。作品にはそのような意図がある。

だから曾根崎心中、冥途の飛脚、心中天の綱島など、作中の人物には、温かい労わりの配慮がみられる。ただ、『女殺油地獄』のみは主役与兵衛を極悪人として描いている。だが、最終的には、その後悔ということをもって救いを与える。

近松の作品には、民衆の哀れさへの共感がいつも子守歌のようにきこえている。

形而上学的には、大乗的、儒教的、慈悲の心がいつもこころよい響きを与えてくれているのである。彼の作品の美的価値は、このあたりに遺憾なく示された。

作品中、女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)の概略を紹介しておく。

 

初段 (野崎観音)

 

難波北の新地、遊女小菊が、客(ろう九)に連れられ屋形船で野崎詣り。

本天満町油屋、豊島屋女房加古も三人の娘を連れ同地へ。

お吉は同業河内屋与兵衛とばったり遇う。

与兵衛は小菊とろう九をやりこめてやろうと待ち構える。

お吉は意見する。きかない。

やがて小菊とろう九の二人に与兵衛と二人の悪友がからむ。

取っ組み合いの喧嘩になる。

悪友はへたばり、与兵衛とろう九二人が上になり下になり。

淀川にころげ、投げた与兵衛の淀が、参詣にきた高槻家の小某某の馬にバサリ。

ろう九は逃げ、小菊も群衆にまぎれた。与兵衛は徒士順に押えられた。

が、徒士頭は与兵衛の伯父だった。ということから、

小栗は一瞬の機転で与兵衛の行為を黙認して去る。

お吉が帰ってきて淀にまみれた与兵衛とばったり遇う。

お吉はあきれ、茶屋を借りて泥を洗ってやる。与兵衛の裸を加古の娘示みる。そこへ加古の亭主。尋ねると、「母さまは茶屋

の奏で裸の与兵衛の帯をとき、鼻紙でぬぐうたり洗うたり……」と。亭主は誤解した。示、すぐ

に誤解はとける。

二段

(河内屋)与兵衛の義妹加かちの病いが重く、うわ言に私の婿取りはやめ与兵衛に家を継がせて、という。与兵衛は入り婿である継父徳兵衛を愚弄する。兄太兵衛は弟放逐を母に進言した。与兵衛はやがて追い出される。ただ、ここに実母加さわの慈悲心が光る。

 

三段目

 

(豊島屋)豊島屋の亭主が、掛け金を集め帰宅。再び出掛ける。

そこへ河内屋徳兵衛と女房が訪問。お吉に借金を申し込む。

与兵衛に渡すものであった。物陰で与兵衛がそれをきいた。

(そんな程度では足らん)

と与兵衛は、二人が帰るとお吉に迫り、金を貨せ、

を断られた腹いせに店先でお吉を殺す。店内は油と血で凄惨そのものである。

与兵衛は金を手に入れ、新地で遊び廻る。やがてお古の三十五日の法事。

与兵衛は何くわぬ顔で弔問に訪れるが、ここで捕らわれてしまう。やがて死罪。

 

享保六年七月十五日が竹本座での初日。筋は割に簡単である。

大坂天満町・河内証徳兵衛の次男与兵衛が、番頭あがりの継父徳兵衛の寛容さにつけ込み、増長し、放蕩のあげく実母の勘当を受け、借金返済に困って同業・豊島証お吉に無心。断られたため惨殺、お召し捕り、死罪というだけの話だ。が、放逸無噺な与兵衛がよく描かれている。近松の世話物中、屈指の傑作といわれるのはこのへんであろう。

 

近松門左衛門は徳川中期の大文豪である。姓は杉森、名は信盛。通称が平馬。近松門左衛門はのちの称。巣林子、平安堂、不移山人などの号があった。若い頃寺に入り京都で還俗。一茶室に仕えたという。

のち、坂田藤十郎などに、歌舞伎狂言、宇治加賀・井上播磨らには浄瑠璃正本を作った。時代・世話物を通じて名作が多く、文章は華麗、巧緻を極めた。

俳句の芭蕉、小説の西鶴と並んで元禄の三夫文豪といわれる。傑作は、前記の他、博多小女郎

浪枕、槍権三重帷平などであろう。

 

浮世草子〈筆間茶話〉

 

 「うきよ」とは、元禄期に限っていえば、

       世間、または人生、現実など 

       好色=異性などに強い欲望・関心をもち、いつも情事のチャンスを求めていること 

     は浮世話・浮世絵 

     は花街の浮世町、色狂いを表現する浮世狂いに該当する。

浮世本の名が書籍に見えた正徳頃までは好色本の最盛期だ。

浮世草子とは江戸期の小説の一種。厳密には文学とはいわない。

 

分類=

好色的事件を扱った好色本。

町人階級の経済生活を書いた町人物。

武士階級を書いた武家物。

金持ちの生活を書いた栄華物。

裁判上に現われる裁判物。

階級別・職業・性別など各種の人物を選んで特色を出した気質物。

古今の伝奇伝説を材料にした空想物語である伝奇物など。

 

沿革=

浮世草子は西鶴の一代男に始まる。室町期の物語、御伽草子を継いだ仮名草子は、近世初期から続いていた。が、これらは貴族や武家の世界を美化した夢物語だった。出てきたのが西鶴で、勃興の気運にあった町人階級の生活を描いて御伽、仮名画草子の伝統を破った。

それが一代男。西鶴の諸作、八文字証本が有名。以来、西鶴は、視野をひろげ、創作を続ける。西鶴流を真似るものが出、当時の文壇の主流となってゆく。模倣者は出現したが、西鶴を超える者は出ない。

西鶴歿後、宝永後期までは、西沢一風、北条団水、月号堂などによって維持されていた。彼らのほかにも有名無名の作家がおりそれらによる好色本の創作も多い。

次の時期が宝永末頃からと、江島屋基磒、八文牢屋自笑の活躍で浮世草子は、「八文字屋本」として広まってゆく。






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最終更新日  2020年11月25日 18時12分20秒
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