カテゴリ:歴史 文化 古史料 著名人
大坪馬術 斎藤定易 古跡部類 墓所収覧 東京都
此墳墓を寺僧を初め、九郎といふは、更に其償る所を知なす、 抑斎藤定易は、大坪本流の馬術の師にて、 既に享保二年、大坪本流武馬必用を著して名あり、 其巻末に載する系傅に、 大坪式部大輔廣秀、 村上加賀守永幸、 斎藤備中守国忠、同安芸守忠玄、同辰遠、丹州住僧了慶坊、 斎藤求馬辰光、斎藤主税定易と記せり、 大組大坪廣秀とあるは慶秀の謨にあらざるか、 さて定易は斎藤の正統にて、帷を江戸に下し、門下に遊ぶの徒甚だ多し、 元来駄法の隆盛なりしは、謂れあることにて、 中祖と称する安芸守好玄は、 佐々木近江守義賢、細川左衛門佐康政、荒木志摩守元溝等高足たり、 就中元清出藍の名高く、其子十佐衛門元清は、克く箕裟を継ぎ、 徳川将軍秀忠公、其芸術を聞知し給ひ之を師とし、名聲益々揚る、 定易は則ち其流派の本家なれば、大坪本流と称せし也、 天和三年の冬、『武馬見聞集』を著したるも、 其後版本焼亡せしを以て訂正増補して、 享保二年、『武馬必用』五冊を著し、その後其門に入る者多く、 就中水戸の宰相宗幹之 を聞き給い、延て馭馬を命せり、 其他筑前の少将継高、定易を聘せられしも、老を以て辞し、 男五六郎定兼を仕へしめ、六百石を給はり、大組席に列す、 元来黒田家の班列たる、二千石以上、一萬石迄を中老と称し、 幕府大広間、諸侯の待遇の如く、 六百石以上、千九百九十九石迄を大組と称し、麗遇甚だ厚し、 五百石以下、百石迄を馬廻と称し、 以下を城代組と称し、扶持切米取なり、
以上は皆士と称す。 斎藤は駄馬の術に秀でしに依り、特に大組に加えられしなり、 是より霞が関なる、藩邸に住む、 男五六郎克く其業を継継ぎ、傍ら俳諧歌を善くし、 四方真顔の門に入り、愚連堂凹という、 (大坪本流傳統計図、斎藤家傅武馬必用、葉山信景覚書) 墓は下渋谷村、天台宗、恵日山賓泉寺に在り。
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最終更新日
2020年11月25日 18時19分51秒
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