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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年11月27日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

大井ヶ森にある番所(御関所跡)棒道(ぼうみち)

 

武田信玄の信濃経営上の軍用道路として(ぼう)(みち)とよばれるものがあった。

長坂町域内では日野原、渋沢、大八田、小荒間を経て信州に至るものを「上の棒道」といい、

 また大八田建岡神社前で北西に分かれ大井ケ森を経て笹尾、小淵沢に羞じたものを「中の棒道」といった。小荒間、大井ケ森にそれぞれ関所があった。

 

棒道(ぼうみち)『諏訪の交通史』

 

棒道は武田信玄が軍事用に造った道で、諏訪郡に三筋と南佐久郡に一節ある。

いずれも八が岳の麓をほとんどまっすぐに棒のように通ったのでこの名がある。

諏訪方面の棒道は、山梨県北巨摩郡逸見筋の若御子から大八田に至って、一つは白井沢・小荒問から、大井ヶ森から、それぞれ諏訪郡にはいり、八ヶ岳の裾野を通り、北佐久郡立科町芦田、あるいは小県郡長門町大門に通じた道で上・中・下の三筋の立がある。

 

上の棒道

 

上の棒道は小荒間から甲信国境にかかり、富士見町境地籍の(はな)鳥屋(どや)から本郷の乙事(おつこと)の東方約四キロの沢木場をへて、林の中約四キロで信玄が幕を張って休んだという幕石を右に見て、なお二キロで立場川(古名境川といって甲信の境の川)の渓谷に達する。

この川の北側の絶壁に岩窟がある。これを「信玄の隠れ岩」といっている。約一キロで(ささ)()(きょう)を右に見て二子の清水に達し、雀ガ森を左手にして、約六キロで鴫岩川と柳川との合流する辺を渡り、泉野の上槻木の上に出る。ここには関所を設けて関守を置いたというところで関守伝十の墓がある。なお北に行くと二キロ余で『泣岩』がある。棒道をつくる際邪魔になるので取り除こうとすると、泣き出されたのでそのままにしておいたといわれる。雨乞淵・篠八(水が欠乏したので信玄が雨乞いをしたら篠突くほど雨が降って来たところといわれている)をへて、湖東の笹原分教場前に出て、公会所の上から御立場といって信玄が立って休憩したと伝えるところに達する。

渋ノ湯川を渡ると、弓を木にかけたという弓懸木と呼ぶところがある。ここから約三キロで渋ノ湯から下る道と一緒になる。ここを我党場(がとうば)(むこ)(しろ)と呼んで信玄が陣を張ったところだと伝えている。

間もなく蓼科温泉のプール平に出る。小荒間からこの辺までほとんど等高線のまっすぐな道である。

滝の湯の少し上で、川を越し、モトギ平から大河原峠路をニキロで左方に曲り、寺木場(てらこんば)と蓼科山と八子が峯の間の凹所にのぼると峯に信玄の休石がある。

四キロ余りで番小屋に、なお二キロで赤沼平に出ると左の方大門峠の峯から来る「役の行者越」といっしょになる。また近くに()三塚(ぞうつか)といって石器時代の玉類の多く出る所や鈴の原を通り、約八キロで北佐久郡戸川に通じて中山道と合する。当時の道はさらに人家の無いところばかり通ったのである。

慶長十五年(三)高島藩主頼水から原田新川(原村中新田)に与えた定書に

「路次通り新町通るべく候、上道はきりふさぎ人通らざるように仕るべき事」

とあるのは、当時の棒道を通行したので、以後切り塞ぎ中新川を通るようにするという意味のことである。

上槻木の上、『駒寄(こまよせ)というところで上の棒道とわかれて、鳴岩川の北側段丘士を「芦ノ井出」までさかのぼり、川とわかれて唐沢の場の下万場道をよこぎり、渋ノ場の方面にオオゼツタ越えて桜見の坂を下り、硬清水に出て渋ノ湯川を渡り、我見場で棒道といっしょになるまでを「信玄の隠し道」といっている。後、大正十年(1513)七月北条氏直の大軍が徳川の軍を見下しながら笠になって進んだとあるのはこの道である。

 

中の棒道 

 

この道は甲斐の大井が森から諏訪に入り、菖窪・乙事・立沢・中新田・八ツ手・大久保・山田・御作田・南大塩・芹ガ沢・湯川・柏原をへて、大門峠の峯に至って二つにわかれ、一つは役の行者越えに、一つは小県郡大門に達する。峯から一キロばかり南、池の端に信玄の休息した御坐岩がある。

 

下の棒道 

 

この道は大井ガ森から境の先達・高森を乙事の下に出、落合の瀬沢新田をへて、白山下追分付近の中の棒道中新田の追分で中の棒道といっしょになる。

甲陽軍艦に

天文十一年六月十二目武田清信公葛窪より大門嶺下(湯川)に御馬を寄せられ、

二目迄御逗留、諸軍山野に屯営す。

とあり、また

同年十月七日甲府を出発、

諏訪の葛窪に滞在すること三日、

大門峠の麓湯川に二日、

十二日峠を越え、小県の大門に働き(攻めること)逗留三日、

十五目進みて長窪に至り、火を民家に放ち逗留一日、

退きて再び大門を越え本営を湯川に設け滞在七日、

この月二十五目を期し、佐久の海尻に向わんとせり、

(中略)

かくて晴信(信玄)湯川より南佐久海尻に至り云々。

とあるところの湯川は、現在桝形城のあるところで今日でも土塁が残っている。

程近い松原区には「信玄の茶の湯の清水」というのがあって、良質の水が湧いている。

 

佐久方面の棒道は甲斐から南佐久の南牧村で八ガ岳の裾野にかかり、山腹の道を大タルミ(大河原峠)に出て諏訪に達した道である。

南佐久郡佐久町栄町の高見沢庄一郎所蔵の武田信玄からあたえられた定言に、

 

(宛先朱印)

 甲府より諏訪への路次の事 

勧進いたし作るべきの間何方の山といえども木をきり 

橋かく可きのものなり、仍って件の如し

 天文二十一年十月六日

 

とあるは、

この棒道を作るに際しては精出して、

何れの所の木を切ってもよろしいから

橋に適した木を切って橋をかけよとの意味である。

 

信玄が湯川から海尻を越えた道はこの棒道である。






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最終更新日  2020年11月27日 02時57分22秒
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