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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年11月27日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

甲州街道の主な通行 僞勅使高松実村甲州街道を通る

 

相楽総三と前後して別に高松実村を擁して京都を出発した僞勅使があった。途々神官百姓などをあざむき二百余人の部下を得ていた。実村は馬上豊かに立烏帽子・直垂の服装をしており、供の者は陣羽織を着て槍を構え「官軍鎮撫隊」の旗を先頭に立て行列厳しく伊那路から杖突峠を越えて高島に入り、甲州街道を甲府に至りそこから引返して行った。

その首領は小沢雅楽之助一仙・期波弾正(本名岡谷繁実)などで沿道の諸藩は皆震え上った程であった。 

慶応四年正月二十五日まず真田信濃守を帰順させ、

二十六日内藤侯預りの下伊那郡清内路の関所を収め、

二十七日飯田泊り、同地の堀侯・座光寺の知久氏・小笠原などを帰順させた。

二十八日は滞陣、

二十九日座光寺氏の邸に宿し、二月一日までここに滞在し、諏訪・高遠・飯田を始め信濃の諸大名を降して、

二日には浪合の尹良親玉の廟(墓)に銀を寄進遥拝して四日には宮田に泊った。この日近藤利三郎も帰順し、

五日高遠に陣し

七日杖突峠から高島に入ってきた。

当時の様子は京王見町原之茶屋(地名)で本陣茶屋を営んでいた名取与兵衛の日記に書かれている。それには、

 京都より高松殿と申す御方得出につき私方を得体所にしてくだされるよし。

辰二月二日夜四ツ時(十時頃)頃御作事方棟梁普門寺村伊藤為郎殿並びに下役五十人組、

大和村勘兵斎殿両人五日夕方まで居り候、

外に左官頭角間町小松三五郎殿是は四目夜より五目朝まで泊り居り候

 上座敷八畳表替くだされ候

ゆりかわ畳表替、其他橡敷等古表にて仕立申し候

一、小便所新に作る

一、大便所樋是また新に作る

一、手拭掛新に作る

  一、人足弐人くだされ、庭家之廻り掃除致し候 是は三月三日也

 御見分として嶋崎御屋敷岡都与兵衛様御馬にて御出御見分これあり候

 二月五日也

 京都錦と相見え候御狩衣透立烏帽子

 

勅使御詠所としての諸用意、心の使いようが伺がわれる。つぎに二月八日高松勅使が御休みになり荒木まで行っているが、その時の様子をつぎのように記してある。

一、高松皇太后宮少進殿、草鞋にて御乗馬右二月八日八ツ時(二時頃)御伴、

御歌三十才計りに相見え申候 京方御同勢五十二人也 

各々様は陣羽織御着用なされ、長さ壱尺余りの鉄砲、手槍を持ち候、

立方御休与兵衛方

    諏訪様御警衛およそ七八十人、各々様槍鉄砲持ち候 御休与三郎方

    高遠様似警衛百人計               御詠小三郎方

    彦根様御警衛十五人

    小笠原様御警衛

    座光寺様御警衛

    知久様御警衛    此の四家禄御休七郎右衛門方

 

赤飯壱軒にて壱斗ずつふかし都合四斗、

 煮〆も相添え総人数へ差上申候

 

此の時御法御出役様は有賀市郎左衛門様也家来三入御連れなされ候、

御茶方弐入と外に壱入。

  七月夜上ノ諏訪問屋泊り

  八日金沢弁当

  八日夜荒木泊り

  九日夜韮崎泊り

  九日早朝飯田様御警士御通りなされ侯

 

右高松殿甲府にて掛合方が悪く、

贋せものと解かり御警士残らず離され

御人数三十四人と彦根と唱へ候人数十四人、

二月十七日に帰り御休みなされ侯、

金沢泊り、ここにて改め武者は残らず諏訪へ御預りなされ、

それより神宮寺泊り、塩尻泊りとなり諏訪御人数も御帰りなされ候。

 

このように詳細に記されており高松勅使の様子が伺がわれる。この時に似非勅使高松から甲斐国に与えた文書で次のようなものがある。

 高松殿御下向ニ付小沢雅楽助様御持参条目認差上中候当分之内他見御無川

   条   目 (意約)

 一、甲斐国は武田信玄のころのよい政治にかえし税金を安くする。

 一、税金は分納にし、小額で金納でもよい。

一、甲州金の二十四万両は順次作りかえて通用させてもよい。(質をおとし金額を増す)

一、金や(ます)(はかり)は今までどおり使ってもよい。

一、年貢は、今年半分納めてあとの半分はその百姓にくれてもよい。

一、村の名主には請役を免除し屋敷もくれる。

一、武士を兼ねている神主で、このたび勤皇につくした者には、

今までの禄高の倍にしてくだされ、

また一年おきに朝廷につかえ励んだ者には恩賞をくれる。

一、武田の武士は、勤皇につとめれば今までの場所、今までの給料と同じにくだされ、

朝廷につかえる武士と同じようにとり立ててくれる。

一、甲州中の人で勤皇の志ある者は上下の差別なく

一生けんめい勤め励んだ者に給料をくれ、場所もそこに置いてよい。

一、甲府城につとめていた者でも、今までのあやまちを改め、勤皇に励めば、

今の給料と土地をくださって、なお精を出せば恩賞をくれる。

 

右の十ケ条の甲州気風は今まで勤皇の心得があったから朝活にたっし、

ご満足におほめなされ、かくべつのお考をもって、

前の条項一つ一つご承知いただけるので、

さっそく官軍の規則に従って、いよいよ忠義をつくすように心得ること。

 

慶応四年正月

     皇太后言少進 藤印 朝臣

         実村(華押)

甲斐国中者江

 

 右の通りなので、甲府城の主だった者はよく見て、

まだ公けにしないように心得ておくこと。

 

このような文書を甲府城へ出したのであるが、内容も一方的でその場所だけで人気を得るためのものであることが伺われる。






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最終更新日  2020年11月27日 03時05分39秒
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