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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年11月27日
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カテゴリ:甲斐駒ケ岳資料室

日本南アルプス 野呂川の奥(1) 

一、柳 澤

 

  平賀文男氏著『日本南アルプス』 博文館 昭和4年刊

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

七月十九日。晴。朝香宮殿下が、南アルプスの北部縦走の為御入峡の日であった。

 朝の六時、私は日野春の駅に下車した。予め打合せてあった、駒城登山案内者組合の牛田案内人に迎へられて柳澤に向う。

 西には駒、浅夜、鳳凰の大峭壁(しょうへき)をめぐらし、北には裳裾うるわしい八ヶ岳を控え、束には金峰山の鋭峰が峙ちそして南方遥かに富士の墨客を望む。……中央線の車窓に倚る旅人は、甲府平野からこの地に入る者も、富士見高原を越えて来る人も、その誰しもが恐らくはこの重疊する稀有な山岳美の崇厳さに、どんなに驚異か覚え、山の美しさに魅惑されることであろう。

 是の日野春の高台程、接近して取巻く大山岳が、いづれも峻嶮を極め端麗を競い、その雄渾な大観を恣にする事の出来る箇所は、先ず全国を尋ねても他にはあまり無いであろうと思われる。高臺の東は塩川の支流鳩川の浸谷に限られ、西は有名な韮崎糸魚川地溝地溝線ホッサマグナ)の構成する底部釜無の流域が約一五〇mの懸崖をなして南へ韮崎町窟観音まで、七里ケ岩の灰褐色の絶壁を屏風の如く立て連ねている。

 駅を出て此の懸崖を右に避け、松林の道をジクザックに降る。天気がよくて非常に熱い。駒や鳳凰の頂には雲が絡み付いている。釜無河を渡舟で越え、信州往還を横切り大武川に添って柳澤まで来た。小池商店(現存)で登山必要品の補充を行い、もう一人小池と云う人夫を加える。それに日本山岳会の又木氏と北澤まで同行する事となった。総員七名、それに二頭の犬も加えて、午相九時に柳澤を出登する。路々山の話、殿下の御噂などがでる。

大武川を渡り、大坊、横手(現白州町)までの砂地を辿る。暑い、暑い。村家から離れて緑土の畑の中を十町も行けば、前宮、駒岳神社の院内へ出た。台ケ原山口の尾白川畔に在る前宮と同様、拝殿、神殿、神楽殿などが建ち.白衣の行者達が来賽し紹えない神域である。

 

二、黒戸山(くろとやま)

 

 小憩の後、山道にかった。伐り残された赤松林或は雑木林の間を、暫くは広い道で、漸時傾斜の度を加えて細い道となる。その道は濶葉樹が繁っているので烈日に直射されることは可成りにまぬがれた。正午ごろ道が横切って流れる中尾沢の水源で昼食をとった。また細いジクザクの道を登る。

 ナラ、ホウノキ、クリ、カシハ、シナノキ、ヤマモミヂ、イタヤカヘデ、コブシ、イヌザクラ、シラカンバなどの繁茂した青葉にかくれて残りの紅ドウダンの花が咲いている。鶯が頻りに唄っている所もあった。

 道は尾根に出て、台ケ原登山道と合し、午後一時、笹ノ平へ着いた。深い笹の緩斜面で、泉がある。休息。尾白の谷を間に、鋸岳から東に引かれた山稜、右から日向山(一六六〇m)鞍掛山(二〇四七m)烏帽子岳(二五九三m)そして鋸の峰頭さえ、皆瞭然(りょうぜん)(いち)(じん)(うち)に入る。笹ノ平から急斜面をなして、道は、五葉松、(つが)モミ、サワラ、コメツガ、シラビなどの針葉密林を通じるようになった。シラヒゲソウ、ザゼンタチバナ、イワカガミを踏み、水蘇に覆われた石の下にヒカリゴケなどを窺く。一際急壁になっている所を攀じ登れば其處は前屏風の頭(一八七三m)だった。小さな祠や、刀利天狗、或は何々霊神と刻まれた石碑が沢山建っていた。それから黒戸山(二二五四m)の北側、黒木立の密林中をへすって屏風岩の鞍部へ下る突端に出た。

現れた駒ケ岳の山容が大きく行手を塞いでいる。金字塔形に白崩れの麗しくも亦豪壮を極めた山である。

 左は大武川の深い谷をへだて、朝夜ガ峰の清らかな木立深い山肌と、(かい)()な地蔵が岳山塊の尖頂を輝やかせ、右は南坊主の恐ろしい大岩壁を尾白の谷に引落して、背後を大岩、烏帽子、鋸の峻峭が黒々と立て巡らしている。谿にはまだ残雪が多かった。

 此所の最低鞍部と中段に二軒、立派な宿泊所が在って登山者を迎えてくれる。

 四時。木梯子や鉄の鎖に助けられて屏風岩の断崖を登る。山稜は急に険阻を極め、一上一下、鉄線或は鎖などが不動岩の登り、片手廻しの難所などに設けられてあった。

 役の行者、得力不動に依って早くから聞かれて比較的信仰の厚い山だけに到る所霊神を祀る石碑が無数に立っている。

 五時半、七丈小屋着。山稜の狭い一端ではあるが素的に住い所だ。小屋の主人は台ケ原の古屋七兵衛と云う七十餘歳の元気な老人で、廿五日には殿下が小屋へ御泊になると謂って喜んで居る。

     

 水は近くに湧水が七丈ノ瀧となって落ちる。人夫達は總掛りで炊事の仕度に忙しい。私は飽くまで眺望を楽しんだ。八ヶ岳の裾野や、奥秩父連峰の重但、茫漠たる甲府盆地、南方に山神の祠殿の標に峙つ地蔵岳、夕景になるにつれて是等の安固は一層はっきりと浮き出してきた。

 何時頃だったろうか。夜中ふと起きて小屋を出た。急に冷えた空気に当たる。外界は明るい。空は、拭ったように晴れている。見れば一八〇〇m辺りが濛々たる白い雲の海が。この雲海を真っ黒抜きん出た金峰連山や鳳凰山塊が、遠近に離れ小島をなし、眼下の黒戸山頂や、宮の頭(一二六七m)黒滑(くろなめ)ノ頭(二一六〇m)は恰も岩礁をなしている。そして旧暦廿五日の折れそうな弦月が中天に懸っていた。

 

  三、摩利支天峰 まりしてんほう

 

 二十日。晴。午伺五時起床。天候眺望全て遺憾がない。六時半、仕度を済まして出発する。小屋の裏から急斜な小道が登っていた。(しゃく)(なげ)、サウシカンバ、ミヤマハンノキ、ナナカマド、偃松などが逆茂木のように生えている。枝にすがり這うようにする處もある。此所を登ると、今度は刈り取ったような草の斜面へ出た。短少な偃松がべったりと地を這い、花崗岩礫の小広い地表を、黄花石楠花、アオノツガザクラ、ガンコウラン、コクモゝ・ラシマツツジ、シナノキンバイ、ハクサンイチゲ、チョウノスケソウ、ヒメイワカガミ・ミネズワウ、イワベンケイ、タカネヒカゲノカズラ、コメスゝキ、イワツメグサ、チングルマ   

などの高山植物が飾っている。

 一時間にして,花崗岩を丸く刻んで造った立派な鳥居の所へ出た。眺望潤達。ほっと一息、休みを入れた。先きはまた岩骨の山稜が続く,偃松,サウシカンバ、ミヤマハンノキ,白い花をつけた、ミヤマナナカマドなどにまとわれて。

 見あげれば、烏帽子石、御来光場の尖岩が尚を高く天に注し、地獄谷の物凄い断崖絶壁は眼前に薄黒い巨口を明けている。頂上まで普通に登れば一時間であるが、摩利支天峰を迂廻する考えで、石室の野営地から徑を左に切れ、地獄谷の中腹へ入って行った。石英砂を踏んで少しの下りとなる。眼につく花は黒百合、車百合、ビランジ、イワイテウ、ハクサンコザクラ、イハワウギ、オヤマノエンドウ、ミヤマキンバイ、ミヤマシホガマ、夕カネナデシコ、トウヤクリンドウ、それからバイケイサウ、イワタデ、ムカゴトラノオ、タカネスズノノヒエなどの草本類でミヤマキンバイの黄金花と、ハクサンイチゲの白銀花は殊に恐ろしい地獄谷のそこ、ここ、やさしくも亦あでやかに山の神霊に捧げられてあった。

 板状節理面をなす大斧壁は、やゝオーバァハングに伐り立って、歯もたゝない様な滑らかな花崗岩は三千尺に近い高度を以て大武川の大峡谷へ落ちている。その中途を一條の隙間が通じ、辛うじて人を通らせる。素晴らしい壮観と、峻嶮さに身心は極度に緊張するのを覚ええる。

 白い岩壁の中間に少量の水が傅って落ち、阿留摩那天狗と記した石碑があった。それから急な登りで岩をよぢる。サウシカンバ、偃松、ミヤマハンノキ、ナナカマドの山稜へ出てそこを越す。また小規模の岩谷があって横切った。八時半、摩利支天峰のザッテルヘ着く。左は白く崩れて輝くその圓頂である。石碑,鉄製の剱などが建てゝある有名な摩利支天の絶壁は、なお前人未踏の駒ク岳南山稜となって仙水谷に覗かれた。

 

  四、駒ケ岳

 

 摩利支天峰から駒の山頂へかけては、面白いピークを浪打たせて、飽までも山體の豪宕不覇を誇ってあるかの様である。荒々しい白崩れの山肌、堅致な石英粒の岩角を、ヨツバシネガマ、コマクサ、ビランジ、アヲノガリヤスなどの特異な植物が、遠慮がちに震えていた。

 十時、ついに駒岳頂上へ着いた。石垣を積み、玉垣をめぐらし、中に木祠や銅の神像を祀り、石碑が沢山建てゝある。植物も生えぬ花崗岩砂礫の小広い絶頂に一等三角標石(二九六六m)が在った。遠近の地勢が怨く一眸の下に集まっている。北から束に,八ヶ岳火山群と奥秩父の峰ゝ、南方に近く、古生層の朝夜峰と、花崗岩の鳳凰山が低くうずくまり、灰黒邑の峻嶺の白峰・塩見、東岳が残雪なお白く。西南に仙丈岳は灰白色に淡褐萌黄を彩り奇怪なカールを魅せて美しく大きく控えている。その右肩に遠く紺碧に連るは木曽駒ケ岳連峰、更に遠くその背景を限るは殊に残雪多き北アルプスの偉観である。四辺八方伺等眼を遮蔽するものはない。暫くして谿へは雲が湧いてきた。十一時、頂上を後に仙水峠に向って降る。六方石のあたり、大きな石塊が累々と積み築かれてその上を伝わるのでかなり足揚は悪かった。右手に鋸岳と、戸臺川の上流赤河原を覗き、左手に摩利支天を眺めながらひた下りに降る。而かも駒缶の豪壮骨格稜々たる山体に鴛かされる。偃松の生えた細い山稜を経て駒津岳(二七四〇m)から尾根を左に岐れた、小さなシラビ、コノツガ、ハリモミなどの雑る偃松の間を、仙水峠に出て見れば、その鞍部の凹地は大小岩石が累々と積まれて、草木もなく涸れて池には水もなかった。雨上りででもなくては不断に水はありそうにない。チヅゴケ、ハナゴケ、アカサピゴケ、クロサビゴケ、サンゴジュゴケ、エイランタイ、ムシゴケ、タカネゴケ、キゴケ、ハヒマツゴケ、シモフリゴケ、ヨロヒゴケ、トサカゴケ、ナギナタゴケ、イバラゴケなどに覆われている。その生成がいずれも極地の植物なるが故に。此の仙水峠は本那氷河期の過去を語る遺存寒地帯の一つだと興味深い学説さえ主張されている。

 大武川谷から野呂川谷へ、昔は杣や猟夫が盛んに越えたらしい形跡はあるが、今は殆んど廃れてしまった。

 是の石河原を過ぎて、針葉樹下の夏草を踏み分け、三十で北澤水源の水に遇った。七丈の小屋以来の渇を癒し、二度目の昼食をとる。今はその少し先今に、県設の立派な登山小舎(二間四尺の三間、総丸木作り)が建てられてあるのだが、その常時は渓に沿って約一時間も下り、北澤峠への分岐点も後にした右側、一九〇〇m辺りに在った、合掌屋根の小さな猟師小舎に野営同様の一夜を送らねばならなかった。冷たい清い水は豊かに流れ、燃料は枯木が河原にごろごろしている。よい露営地だ。一同をカメラに収めた後、野呂川を探って北岳に登る又木氏とは再会を約して別れ、君はなお人夫を連れて先へ進んだ。

 午後四時、陽はまだ高い。私の人夫二人に岩魚獲りに行った。一人残って河原を歩く。山荒れで見苦しい程漂木が散乱してころがっている。此のあたりの林相は、唐松、五葉松、白檀、米栂、唐檜、岳樺などに尽されているらしい。濃い藍黒色に粧われた山腹に灰白色の枯木立の混じるのはいかにも深山らしい味を示している。但し余り人里遠く離れたような感じも起らないほど、あたりは明るい。半時間程して二人は帰って来た。美事な八寸ばかりの岩魚を三匹持っている。いずれも手獲りにしたのだそうである。早々焼いて夕餉の膳にのぼせる。蓋し山中またと得がたい佳肴であった。

 

  五、仙丈岳

 二十一日。晴。午前五時起床。天候は続いてよい。朝餉を炊いて食べ、昼食を炊いて持ち、大きな仙丈岳の山腹を仰いで、七時五分、北澤の野管地を立った。少しく戻って、踏跡を北洋峠へつなぐ山稜に取付く。四十分で山稜へ出た。今度は西南に向って此の山稜の伐明けを登る。白檜、米栂などを下生えとして、フゼンタチバナ、イワカガミ、ウサギシダ、シロバナヘビイチゴ、ミヤマアキカラマツ、コイテフラン、ヒメシヤジン、などを踏み、サウシカンバ、ミヤマハンノキ、偃松、などを見る様になって、仙丈岳はいよいよ豊富な高山植物に、恵まれているその木体を現して来た。

 十時十五分,小仙丈(二八四〇m)へ着く。右は平衛門谷を挾んで、大きな山背、馬ノ背(二七一六m)が偃松をまとって長く北へ走り、左は小仙丈澤に面したカールが柔和な輪廓か描いて黄緑の彩色美しく眺められた。振り返る駒、浅夜、鳳凰の後姿も亦実に捨て難い風情である。絹絶嶺まで荒削りの岩稜を幾つか越える。そして十一時四十分、三〇三三m二等三角標の上に立った。石祠と前岳三柱大神と刻まれた石碑や小さな石の名刺入れが在った。溢れる程登山者の名刺が入っている。頂上より俯瞰(ふかん)すれば、戸臺川の赤河原へ傾いているカールが小石原の大きな山懐をなして、底部に登山小舎の板屋根が見えていた。

 戸臺口の登山道は赤河原からヤブ洋を経て此のカ-ルの中へ登る。三段の石堤の内、小舎の下第二石堤の下方に水が湧いている。その南面は大仙丈澤のカールで、実に本邦高山積物の大部分を抱有している天然の賓庫である。

正午、山頂を辞して、前仙丈(二九二〇m)を左に捲いてゆく。山頂の岩間に、イワツノグサ、イワベンケイ、シコタンソウ、チシマギキョウ、コスギラン、ハクサンチドリ、タネウスユキサウ、イワスゲ、ガンコウラン、クロマメノキ、ツガザクラ、コケモモ、ミネズソウなどを見、浙時、偃松、ミヤマハンノキ、サウシカンバの混ざる草叢に入れば、ハクサンイチゲ、シナノキンバイ、ウラジロキンバイ、ウルツプサウ、ウサギキク、ヨツバシネガマ、ミヤマヒカゲノカツラ、キバナシヤクナゲ、コメススキ、ヒメイツカガミ、ヒメイソショウブ、クモマナズナ、センジョウナズナ、オヤマノエンドウ、ミヤマダイコンサウ、ミヤフヒカゲノカツラ、タカネシダ、タカネマンテマ、タカネスズノヒエ、イワウメ、アラバヘウタンポク、キバナノコマノツメ、オノヘスゲ、ミヤマオダマキ,ミヤマダイコンサウ、ミヤマカウリンカ、ミヤマ、ミミナグサ、ニョウボウチドリ、ダンナイフウロ、マヒヅルサウ、キンロバイ、ギンロバイ、オンタデ、トウヤクリンドウ、クロユリ、クルマユリなど応接に暇なく咲き揃い、その大群落は星より繁く網よりも密に、とりどりの色彩を映発して、廣大な山腹を飾っている。

 是等の草木類は仙丈岳に於いて既に八間されたもの約六百種に近く、特産種として、スルガヘウタンボク、アヲバヘウタンポク、タカネマンテマ、センジョウチドリ、センジョウナズナ等やタカネアラヤギサウ、タカネヤナギ,タカネガニツリ、タカネナルコスグ.オノエスゲ、クロボスゲ、トガクシデンタ、タカネシダ、アオチヤセンシダなどの稀品も亦、植物学者に依って挙げられている。

     

午後二時、なお仙丈を下った山稜に出る事が出来た。

「大きな山だ!」私は振順って仙丈倍の美しく、そして偉大な山饌を今更ら乍らしけしげと見入った。三度目の昼食を取る。行く手を見れば山稜は針葉樹に覆われて蒼黒く蜿蜒(えんえん)と白峰の間ノ岳へと続いている。その最も低い鞍部が今宵の野管地である。

 

 六、荒倉岳

 

三峰川面の薙あかりからまた針葉樹の屋根となって(こみち)は伐明けをどしどし辿るのであった。奥仙丈澤水源のほとりの野辺地も越え、小隆起をなす荒兪岳の二五一七m三等三角点に立った。三時。西に深くもない三昧川上流の路を隔てへ仙丈岳山稜の奥地蔵(二四六〇m)九山(二二二四m)小瀬戸(二二九三m)東風巻(二一八五m)の針葉樹に覆われた亜蒼黒い障壁を眺め、東は白峰の怪偉を仰ぐ。あたりには、松、石楠、コゼンタチバナ、ミヤマキンバイ、ヒメイワカガミ、ヤツガタクシノブ、ミヤマダイコンソウ、タカネヒゴタイ、イトキンスゲなどを見受けることができた。

 此庶から横川岳へは二つの隆起があり、山稜もやゝ廣く、その間に弘法池と云ふ小さな活水池があった。

 

 七、横川岳

 

午後五時半、横川岳(二四六〇m)着。針葉樹に囲まれ、低級、白花石楠花などを伐り明けた変化のない突起である。山稜は二分し、東西に向って降らねばならぬ。そして今は踏跡が左方野呂川の水源、雨股の登山小舎へ下っているのを見出すであろう。小舎まで一時間。翌日右俣を遡り、三国峠へ四時間半もかゝればよい。又、左俣を北岳へ直接登る事も出来る。而しその時は雲に捲かれて大横川へ下り相になったり、(二三一五m)の三角点が判明せずして暫く間誤付いた。そしてその鞍部から右俣方面へ十五分も降ると、湧水があった。針葉樹林の狭い斜面だったが、今宵の宿と定め、天幕の小舎を急造する。米栂の枝を伐って床とし、その上に糸立を欲いて軟らかい(しとね)作る。午後七時。暗くならぬ中にと前々集めた夕餉の仕度に忙殺される。

 眼の前に、灰白色の尨大な間ノ岳を控えた深山の片ほとり。その處に先ずゆるやかな炊煙は昇る。間もなく四辺は物凄い間に閉ざされて、空には星が淋しくまたゝく。

 

 八、三国岳

 

二十二日。晴。野呂川の登端、右俣渓の水音に暁の夢は破られた。午後四時半起床。天候は引続いて申分なし。一夜の組立式仮別墅を撒壊した私達は、七時二十分、喜び勇んで此處を出立した。約廿分で元の山稜へ出る。そして白峰への登りが続いた。二五七一m辺りから白檜、唐檜は矮少となり、サウシカンバ、タカネナナカマド、ミヤマハンノキが多く繁り、ついに似絵叢の中か掻き分ける。高度は約二八〇〇m、もう草花が吹き乱れている。硬砂岩の山背となった。右俣にのぞむカール、山懐の大きく、群生する高山草の美しさ。詳細に検すれば既に知られている南の山の植物のその大部分の名将を重複して挙げねばなるまい。

 ふと下を見れば、大横川に落込む斜面の世間ばかり離れた偃桧の中に灰黒色の大きなものが動いている。

「何だいあれは、人かい」と私は人夫を顧みた。

「やあ()()(かもしか)だ()()ん」と一人が怒鳴る。

「犬は何所へ行った、旱くけしかけろ」と叫ぶ。併し彼等が連れてる犬を呼ぶ間も討く。一頭の羚羊は一躍偃松の茂みへ姿を没してしまった。

 「野郎やあい、何處へ行ったあ……」重さんは谿に向って吃驚するような大声で怒鳴る。

 今までも駒岳や仙丈岳で谿に向って此の「野郎やあい」か連発した。それは偃松の中や崖の上に臥ているカモシカが、大聲に驚いて向うでもシャアシャアと飛び出すからだそうだ。「出さへすりやァわしの犬がやっつけちまうよ」と彼は自慢していた。但し此の時はもう何の反響もなかった。カモシカを断念して十一時三国峠(二九九九m)に着く。その處は間ノ岳西山稜の一角、仙丈倍と塩見岳へ山背を振り分けて、甲駿信の三國の境に位し、富士川に注ぐ野呂川、大井川の上流東俣、天龍川の支誇大横川の分水界となっている。

 三十分休憩、昼食を済ます。それからなお岩稜を登り詰めて、正午間ノ岳頂上へ着いた。

 

 九、間ノ岳

 

三一八九mの三等三角標石が在る。小石磧の荒凌たる廣い山頂だ。北方には北岳が淡蒼黒く鋭い奇嶺を聳やかし、南方には(あか)(ちゃ)けた農島岳の巨を控えている。南に岩角を踏んで降る。荒川の斜面に残雪が白い。野呂川の渓谷を隔て、鳳凰三山の大屏風を左に観ながら、左寄りに尾根を登る。植物の少い広い山背だ。舟窪状の凹地などもあり、少量の雪も二三箇所に残っている。農鳥岳との鞍部、北寄りの恰も摺鉢のような地形の個所は、残雪があって偃松の薪に不自由なく、小人数の宿営には最も適している。午後一時、此所へ人夫一人を残して暮営と炊事の用意を託し、一人を連れて農島岳へ向った。この先の最低鞍部はよく登山者の野営する地点で、今は県設の石室が、廿人位は収容するようになっている。






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最終更新日  2020年11月27日 20時23分05秒
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