2293685 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2020年12月04日
XML
カテゴリ:著名人紹介

樋口一葉 ひぐちいちよう 清水茂夫氏著

 

『郷土史にかがやく人々』集合編

  昭和49年刊「青少年のための県民会議」

  一部加筆 山梨歴史文学館

 

執筆者 清水茂夫略歴

 

❖大正二年(1913)一二月一三日、中巨摩郡白根町百々に生まれた。

韮崎中学校。山梨県師範学校、東京高等師範学校を経て、

東京文理科大学国語国文学科を卒業。

神奈川師範学校助教授、山梨師範学校教授を経て、

山梨大学教育学部教授。

目下附属小・中学校長併任。

近世文学・国語科教育を専攻。

特に山口素堂など近世俳諧文学の研究及び

国立国語研究所地方研究員として日本方言地図作成に参加。

山梨県文化財調査委員。復式学校国語教科書調査委員(文部省)

 

樋口一葉 略歴

 

❖ 明治五年(1872)三月二五日、(現東京千代田区)内幸町一丁目一番屋敷で生まれた。

❖ 父則義、母たき。

❖ 明治十一年(1878)一二月二三日、青梅小学校高等科第四級を一番で卒業。

❖ 一五年(1882)八月二〇日、中島歌子の萩の舎に入門。

❖ 一八年(1885)七月十二日、父則義没す。

❖同九月、本郷菊坂町七〇番地へ転居。

❖ 二〇年(1887)四月一五日、半井排水に師事して小説に心を向け、

❖ 二一年(1888)三月「闇桜」「武蔵野」第一編を発表。

❖一〇月[経づくえ](甲陽新聞)を連載。

❖一一月二〇日、「うもれ木」(都の花)を発表。

❖ 二二年(1889)二月十九日、「晩月夜」(都の花)を発表。

❖七月二十五日、下谷竜泉寺町に転居し、雑貨、菓子、おもちゃを商う。

❖ 二三年(1890)五月一日、丸山福山町へ転居。

❖十二月三〇日、「大つごもり」(文学界)を発表。

❖ 二四年(1891)一月から「たけくらべ」(文学界)を連載。

❖五月五日「ゆく雲」(太陽)、

❖九月二〇日「にごりえ」(文芸倶楽部)。

❖ 二十五年(1892)一月四日、「わかれ道」(国民之友)などを書いたが、

❖八月初句病気絶望となり、十一月三日死去 二十五歳。

❖同二四日、本願寺樋口家墓地に葬った。

 

 幼年時代

 

❖ 樋口一葉は、明治五年(一八七二)三月二十五日に、今の東京都千代田区内幸町二丁目に生まれた。 

父は則義、母は「たき」と言い、本名は「なつ」である。

 父は、はじめ大吉と呼んだ。天保元年(一八三〇)の生まれで、少年のころから村の慈雲寺の白巌和尚のもとに通って、学間や書道を学んだ。大吉が慈雲寺に往復する間に、古屋安兵衛の長女である「あやめ」と知り合った。心から愛し合うようになった二人は結婚を誓ったが、親たちから許されなかった。封建時代においては、親たちの許可なくしては、結婚することは全く絶望的であった。農業より学問が好きであったこともあって、家を弟の喜作に継がせることにした大吉は、身ごもっていた「あやめ」を連れて江戸へと駆け落ちをした。

 

❖ 安政四年(一八五七)四月十三日江戸へ着くと、さっそく蕃書調所の所宅に真下専之丞を尋ねた。専之丞は、もと中萩原(山梨県)の農民で、早く志を立て江戸に出、幕臣以下氏の家禄を買い、大吉が江戸に出て問もなく、蕃書調所組頭となった。同所は、洋書の翻訳や教授をする所で、いわば当時の外来文化の研究所であった。

 大はあこがれの的である専之丞を頼った。専之丞は程なく蕃所謂所の小使に世話してくれた。「あやめ」も長女「ふじ」を産み落とすとすぐ里子に出し、旗本稲葉大膳の娘(こう)の乳母となった。(この時、たきと改名した。)こうして夫婦共かせぎで、貯蓄を心がけたのは、専之丞に真似て、士族の株を買おうという野心に燃えていたからである。

慶応三年(一八六七)七月十三日、専之丞の肝いりで、八丁堀の同心浅井竹蔵の同心株を買った。大吉夫妻の喜びはどんなであったろう。

❖ 江戸へ出て十年、立身出世の目的を達した大吉は、為之肋と改名し、郷里の人々に誇ることのできる地位に感慨無量の思いであった。

❖ ところが、その後数か月で将軍徳川慶喜は大政を奉還し、幕府は瓦解したが、一葉の両親は幕府直参の武士になったという誇りを強く持ち続け、明治になると士族の子としての体面を保つように一葉たちを教育した。

❖ 一葉には姉「ふじ」、長兄「泉太郎」、次兄「虎之助」、妹「くに」の兄妹がある。

読売新聞が発行されたのは、明治七年十一月であるが、樋口家ではこれをとって読んだ。兄たちが声を出して読むと、まだ二歳の一葉がこれを真似た。それが非常に大人びていたので周囲の者たちが驚いたという。

 明治九年(1876)四月四日に、樋口家は本郷六丁目に移ったが、土蔵や平屋のある広い屋敷であった。一葉はその土蔵の中で窓から射し込む薄明りを頼りに、本を読みふけった。そのため少女時代に、もう、ひどい近視になっていた。大変な読書力で、あの長編の「八大伝」などを三日で読み終えたという。親たちが早くから期待をかけたのも無理もない。

 

❖ 明治十六年(1883)十二歳の一葉は、私立清海学校の小学高等科第四級を一番で卒業した。それ以上進学しなかったのは母「たか」が、女にそれ以上の学問は必要がない、それよりは裁縫や家事などの女仕事を覚えさせ、生け花などの稽古をさせるのがよいという世間一般の考えを強く持っていたからである。しかし父は針仕事が不得手で、女の仕事に精を出すよりは、読書に時間か費す一葉の文学好きを認めていて、和歌の稽古をするよう取り計らってくれた。元来父の則義は詩歌に関心を持っていたのに、立身出世のために力を尽くして、好む道を歩むことが出来なかった。せめて文学好きの一葉に好む道を歩ませることによって、自分の叫たし附なかいた夢を果たさせたいと考えていたらしい。まず知人の和田重雄に和歌を指導してもらった。そのころ一葉の作った和歌四十七首が残っているが、「春風所を分かたず」という題で、

  をちこちに梅の花咲く様見れば、いずこも同じ春風やふく

 

と歌っている。一葉は十三歳であった。

 

◇ 少女時代

 

❖ 一葉が「萩の舎」という歌の塾を開いていた中島歌子に弟子入りしたのは、明治十九年八月二十日で、

数え年十五歳の時のことである。

 中島歌子は、加藤千浪の弟子で、税所(さいしょ)敦子・鶴久子と並ぶ有名な女流歌人であった。同門の伊東(すけ)(のぶ)が、御歌所(おんうた)寄人(よりうど)だったから、その関係で名流夫人が入門していた。

一葉が萩の舎に入ったころは、その全盛期で、門下生は千余人と言われ、皇族・華族・高官の夫人・令嬢が集まっていた。そのころの樋口家は、中流程度の暮らしはしていたが、萩の舎では最も下であった。

❖ 一葉が、非常な意気ごみで和歌の稽古を始めたことは、次の会までに作ってくる和歌を、普通は二題なのに、四題出してもらって作っていることからもわかる。毎週土曜日の稽古と月並み歌会には、必ず出席して、宿題の歌の添削を受けたり、その場で出題されて詠んだ歌の批評を聞いたりした。負けん気の強い娘であり、素質もすぐれていたので、やがて田辺庶子・伊東夏子と並んで、萩の舎の三才女と言われるようになった。

❖ 十六歳の時の日記である「身のふる衣まきのいち」には、年初の歌会で、「月前の柳」と題してよんだ歌が、最高点になった喜び、がしるされている。

 

❖ ここで一葉が萩の舎に入門した後の樋口家をふり返ってみよう。

一葉に泉太郎・虎之助というふたりの兄があったことは既に述べた。父則義は、長男の泉太郎に大きな期待をかけていたらしいが、体が弱く、呼吸器の病があった。頭脳は明敏で、十八年には明治法律学校(現在の明治大学)に入学したが、樋口家の家運の傾きかけたのを感じたらしく、二十年一月には無断で大阪に下り、職業に就こうとした。これが肉体をいっそう弱める原因となり、帰京後六月大蔵省出納局配賦課の雇となったが、九月気管支カタルとなり、十二月二十七日に二十四歳で没した。

一葉は日記に

「……物へまかりたるに、そこにてはなはだしく血を吐したり。家に帰るに、いまだやまず。静かに養生をなすと間いて、いといとうち驚きぬ。」

としるしている。病名は肺結核であった。

 虎之助は学問、が不得意であったばかりでなく、性格も奔放で、両親の気にいらなかった。一時不良の仲間に加わり、両親をてこずらせたので、則義は明治十四年には分家させ、陶工成瀬(せい)()の内弟子に入れてしまった。

 そんなわけで、一葉は戸主泉太郎の跡を継いで、十七歳で樋口家の戸主となった。泉太郎の死は五十九歳の老を迎えた則義には、大きなショックであった。

 

❖ うら若い娘が相続人なので、自分が働けるうちに財産を蓄積しなくてはと考え続けた。たまたま同郷人によって荷車請負組合が設立されようとしていたので、その事務総代となり、設立費用を負担した。

二十一年六月には東京府の認可を受け、神田錦町一丁目に事務所も設けられ、出勤の都合上則義は神田表神保町に転居までした。ところが、この事務所が年末までには閉鎖され、責任者の田辺又兵衛らは行方不明になり、探しても見つけることができなかった。出資金が戻らないばかりでなく、会社の実質的責任をも負わねばならなくなって、樋口家は窮乏に陥った。

❖ 事業の失敗を苦にした則義は、老も加わって、翌明治二十二年から重い病にかかった。死期の迫ったのを感じた則義は、よく出入りしていた渋谷三郎を一葉の婿に迎えたいと思い、病床で懇願した。三郎郎は。一葉より五歳の年上で東京専門学校(現在の早稲田大学)に通って法律を専攻していた。死に臨んで切々と訴える則義のあわれな親心にうたれた三郎は、「一葉と一緒になりましょう」と答えたが、本心からではなかった。この約束はついに実現しなかった。若い一葉は自尊心を傷けられただけでなく、人の心の頼りなさを実感として受けとめた。

 九月、父の四十九日を過ごして、一葉親子は、次兄虎之助のもとに同居した。母と兄の折り合いは悪く、母が病床につくなど、生活苦がもとでごたごたが絶えなかった。一葉は小さくなって暮らしている母や妹を見るにつけても、心をやきもきさせた。

 

❖ このような一葉の生活を知った中島歌子は、苦労した人だけあって、たいへん同情した。一葉をどこか女学校の先生にでも問話してやって、その収入で親子三人が暮らせるようにと考えた。そしてとりあえず、一葉を内弟子として荻の舎に引きとった。

荻の舎の一葉はたいへん幸福そうであった。中荻原の母方の祖母に出した一葉の手紙の中にも、

「私身分は、寄宿生にもこれなく、奉公人にてもこれなく娘同様」

と、書いているほどである。

ところが妹邦子が一葉のことを書いた「かきあつめ」には、

「中島にゐたることは、五か月になりけれど、このうち稽古もでぎず、勝手のことのみして、ただただ下女のごとし。」

と、述べられている。邦子は姉の口から聞いて書いたのだろうが、一葉の歌集には、荻の舎に寄宿していたころの歌が多くあるところから、稽古もできず、勝手のことのみしていたというのは言い過ぎだと思われる。生活に困って人の家に置いてもらうことは、気苦労も多く、また台所の手伝いぐらいするのも当然であろう。しかし一葉は家にいても学問好きで家の掃除や台所の仕事などあまりしなかったので、荻の舎の台所の手伝いを、特に苦痛に感じていたのかも知れない。

 

❖ 渋谷三郎に裏切られたと意識している一葉は、とかく人の心の裏ばかり見ようとしているようである。歌子が女学校の教師にしてくれると言ったのも嘘で、自分を態のよい女中としていつまでも置く気だろう。こう考えて五か月で荻の舎を去った。

 

❖ ところで、一葉は和歌についてどんな態度を持っていたであろうか。

 中島歌子の和歌は、古今和歌集を理想としていた。特に題詠といって、与えられた題に添って、古歌の読みぶりを巧みにまねて詠ずることをねらいとしていた。従って歌は観念的になり、類型的になって、新鮮さがなかった、生活に何の不自由もない上流の子女の場合には、それなりに生活の飾りとして価値はあったが、一葉が現実生活の苦しみに触れるにつれて、実感のない空虚な観念をもてあそんでいる歌に対しては、だんだん関心が持てなくなったようである。

 また歌会にしても、社交化しており、門人たちが美しい衣装を着飾って世間話に打ち興じている時、一葉のような低い身分の者は、別間にいて、取り次ぎや給仕などの小用をたさねばならなかった。生活が苦しくなるにつれて、一葉には身の恥を晒しているように感じられてならなかった。

 なお歌子の生活態度に対する不信もあったようである。女学校の教師に世話するという約束をなかなか果してくれないという不信感もその一つであるが、そればかりでなく、歌子と伊東祐介やその他の男性とのうわさが誇張されて耳にはいったことも一葉の不信を強めた。

 

❖ こんなわけで、一葉は、歌を学びながら、その限界を感じ興味を失っていった。といって、その歌に反逆して新しい歌を追求することも、かといって全く歌を捨て去ることもできなかった。何となしに引きずられて、萩の舎に繋がって、旧派の歌を詠じていたのであった。

 

・ 暮秋の虫 くれかかる秋の末野に末てみれば ややよはり行く虫の声哉(二年作)

・ 庭上の虫 露はらふ萩の葉風に打ちまじり むしの音す也庭の浅ぢふ(二十三年)

 

◇ 菊坂時代

 

明治二十三年(1890)九月末、一葉は、本郷(今の文京区)菊坂町七十番地に借家を見つけ、母と妹と三人で暮すことになった。生活費は針仕事や洗たく物などをして得るより外はなかった。荻の舎に土曜日ごとに稽古に行って手伝うと共に、弟子たちにも頼んで仕事を出してもらった。

 

 一葉は近眼だったので針仕事は下手だった。そればかりでなく仕事をするとすぐ肩がこった。全力を尽くせば、一日にゆかた三枚ぐらいは縫えたであろうが、実際は一日平均ひとえ一枚を縫うことすら不可能だった。当時の仕立て賃は、あわせ一枚十五銭から二十銭、綿入れは二十銭から三十銭だったから、邦子と協力して働いても、収入は五・八円ぐらいだったろう。当時普通の生活費は、一人大体三円ぐらいだったから、毎月三円ぐらいの赤字になったと思われる。それをうずめるために、借金し、父義則が残した骨董などを売ったりするより外はなかった。

 

❖ 生活がだんだん苦しくなっていくうちに、明治二十四年を迎えた二十歳となった一葉は、どうしたら少しでも楽な暮らしができるだろうかと、打開の道を求め続けた。自分の力で可能な道は何だろう思案にくれる一葉の頭にひらめいたのは小説を書くことだった。

 萩の舎の先輩に田辺竜子(花圃)がいた。竜子は東京高等女学校在学中であった、が、「当世書生気質」(坪内逍遥著)を読んで刺激され、「藪の鶯」という小説を書いた。坪内逍遥に手を入れてもらって、金港堂から出版されたのが明治二十一年六月で、竜子二十歳の時のことであった。竜子は原稿料三十三円二十銭を得て、兄の法事の費用に使い、花やかな引き物などを配った。しかも、その後「八重桜」「をだまき物語」などを発表して、新進の女流作家として評判されていた。

 

❖ 一葉は竜子の花やかな存在に憧れと羨ましさを感ずると共に、自分にもあれくらいのことはできるはずだ、と生れながらの勝気と才能とが、一葉を奮起させた。

 こうして一葉が書いた最初の習作が、「かれ尾花一もと」で、明治二十四年一月であった。これには、今は零落した元宮人の娘が、死んだ乳母の娘つやにかしづかれてわびしく暮す姿が書かれている。女主人は二十歳ばかり、小柄で瘠せている姿が痛ましいまでに美しい。世の中に交わり、人の心を知るにつけて、世をいとう心は強まるが、捨てるほどの決心もつかないまま、涙ながらの日を過ごしている。つやは主人、がいたわしいあまりに、観音様にお参りの時には「何とか姫君を四位ほどの人の御妻にしてください。それ以外には何もお願い申し上げません。」と祈る、という筋である。姫君には一葉、つやには邦子が投影しているようである。文体は枕詞・懸詞・縁語などを豊かに使ってあって、一葉が身につけた平安朝文学の教養が濃く現われている。

 小説を書いても、それを出版社に売り、それで食べていくことは、容易なことではない。針仕事や洗濯ものなどと違って、できあがったら必ず金になると決まっていないからである。まずよい師を選んで、その指導を受け、師の推薦で出版するというのが、最も近道であった。一葉は邦子の裁縫の友だちである野々宮菊子らの計らいで、半井桃水に師事することになった。

 

❖ 桃水は対馬の厳原(いづはら)町に生まれ、朝鮮で結婚した妻に死なれ三十二歳の独身で、弟や妹のめんどうを見ながら、東京朝日新聞に、絵入大衆小説を連載している通俗小説の作家であった。「春香伝」「小町奴」「業平竹」などあって通俗作家としては名を知られていた。明治二十四年四月十五日、一葉ははじめて桃水に会った印象を日記に次のように記している。

 

  君はとしのころ三十年にやおはすらん。……色いと色く面おだやかに少し笑み給へるさま、まこ 

と三歳の童子もなつくべくこそ覚ゆれ、丈は世の人にすぐれて高く、肉豊かに肥え給へば、まこ

とに見上ぐるやうになん。おもむろに当時の小説のさまなど物語り聞かし結ひて、

「君が小説を書かんといふ事わけ、野々宮君よりよく聞きおよびはべりぬ。さこそは苦しくもお

はすらめど、しばしのほどにこそ忍び給ひぬ。われ師と言はれん能はあらねど談合の相手には、

いつにてもなりなん。遠慮なく来給へ。」

といとねんごろに聞え給ふことの、限りなくうれしきにも、まづ涙こぼれぬ。

 

この感激に満ちた日記文を読むと、一葉の心のはずみがありありと伝わってくる。ひとたび零落すると、だれも寄り付かなくなる逆境にあって、ひがみ根性が強くなっていただけに、桃水のことばが深く心にしみたのだろう。

 六月十六日、桃水から手紙が来て、明日か明後日たずねて来てもらいたいと書かれてあった。既に二回目の小説も届けてあったので、多分小説の掲載のことだろうと思った。

日記には

「例の小説のことなるべしと思ふにも、胸つぶつぶと鳴る心地す。なんとなく心にかかりて、夜一  

夜いもいねず。」

と、書かれている。自分の才能が認めてもらえるかどうか、女流作家として世に出られるかどうか、すべては明日桃水との対面で明白になるのだと思うと、不安と期待とのために一葉の胸はつぶつぶとなったのである。

 こうして桃水に会った六月十七日の夕べから十月まで、日記の文面から察すると、一葉は桃水をたずねていない。十七日の日記にも落胆のさまが次のように記されている。

 

 秋の夕暮ならねど、思うことある身には、みる物聞くものはらわたを断たぬはなく、ともすれば、

 身をさへあらぬさまにもなさまほしけれど、親はらからなどの上を思ひぬれば、わが身ひとつに

てはあらざりけりと思ひもかへしつべし(若葉かげ)

 

❖ 桃水は、一葉の小説について、新聞小説として古典的すぎて世間受けがしない、もっと程度をさげておもしろく書かなければならない、と言ったに違いない。この時一葉は自分の小説にかけていた。小説を書くために、針仕事も止めて、上野図書館へ文学書を読みに通っていた。すぐ金がはいって、母や妹を自分の力で食べさせることができると思っていた。その期待が一挙に崩れ去ったのである。身体の弱い自分には、小説を書く以外に生活の方法はないと考えていた。そして焦燥にかられながら小説が新聞に載るのを待ち続けていたのに、夢ははかなくも消えた。その悲しみが日記の文章となったのだろう。

 

❖ 一葉は再び賃仕事に心を向けた。妹が駒下駄の夫に使う藤表の内職をしていたのを手伝った。そうしながら自分の小説についてじっくりと反省するのだった。もっと文学書を読んで広い教養を身につけたり、基礎的知識を豊かにしたりしなければならないと思った。それで暇を作っては、上野の図書館へも通った。

 九月末には妹の邦子が、桃水の悪いうわさを聞いてきた。品行の悪いこと、借金の多いことなど聞かされて、一葉の胸はしめつけられる思いだった。母のたき子や妹の邦子は、既に桃水を最初ほど信用しなくなっていたが、一葉の心は桃水を先生とも兄とも思って慕っていた。愛人のような気待ちもひそんでいた。不幸な生活の中に苦悩している一葉にとっては、頼りになるのは桃水だけだった。また桃水以外にだれをも必要とは感じていなかった。

雑記帳には「半井様」として次のような歌が書きつけてある。

  

なげきわびしなむくすりもかひなくば 雪のやまにや跡とけなまし

  とりかえすものにもがなや小ぐるまの 行きめぐりてもあはんとぞおもふ

 

恐らく一葉の心の秘密を歌ったのであろう。明白に桃水に対する思慕の情が表わされている。

 十月三十日に、一葉は久しぶりで桃水に会った。野々宮菊子から桃水が、自分の家に下宿している鶴田たみ子に、子供を生ませたといううわさを聞かされていた一葉は、桃水がうわさを否定し、そのデマであることをこまごまと語っても耳を傾けなかった。たみ子に子供を生ませたのは弟の浩であること、自分はこんな粗野な男ではあるが君に対していささかも害心をもっていないこと、今まで自分のもとへ足のとだえたのは、そんな風聞から母君などが危険がってよこさなかったのではないか、などと桃水はしみじみと語った。一葉は桃水に原稿の斡旋をしてもらう目的で近づき、次第に感情的に接近していったことは、日記によってよくわかる。もしふたりが結婚できない条件をあげるとすれば、共に戸主であること、年齢に十二歳の開きがあることなどだが、これらも根本的な条件ではないであろう。母や妹、萩の舎の人々が反対していることも影響しているだろうが、二人が結婚できなかった理由として一葉の恋変説が封建的であったことも指摘しておかなければならない。

姉のふじが自由恋愛から結婚したことの不幸をよく知っていたからであろうが、一葉には男女の道……封建的な……を踏み違えまいとする考えが強かった。それに加えて桃水に妻子があるという意識が、一葉の心を桃水との結婚から遠く離してしまったと思われる。一葉がもう一歩積極的に桃水とたみ子とのうわさの真相を問い正すことをしたならば、あるいは一葉の心に悲しい諦めが沈殿することはなかったかも知れない。

 

❖ 明けて二十五年二月四日、雪を犯しておとずれた一葉は、桃水から門弟たちの発表機関として同人雑誌を創刊することを知らされ、十五日までに短編を書くことをすすめられた。一・二回は原稿料も無い決心でいてほしい、売れ行きによっては、真っ先に一葉に支払う、とも言われた。

 この二月四日から十五日までは、一葉、が最も張り切った時である。中島歌子をたすね、後事を託したいと心細げに泣かれるほどの親しさを示されながらも、稽古を休んで小説の締め切りに間に合わせるように勉め、十三日は昼夜書き続け、明け方ちょっと眠り、十四日の夕方完成した。

これが一葉の処女作「闇桜」で、今古堂から出された小説俳誌「武蔵野」に載った。

これは少年少女の悲恋小説で、空想の所産である、が、その中に一葉の心に巣食う実感がまぎれ込んでいる。この時一葉女史というペンネームをはじめて用いた。達磨大師が乗って海を渡ったという芦の一葉

にちなんだ号で、足(銭がない)という洒落であった。

 続いて改造新聞に「別れ霜」、「武蔵野」の二号・三号にそれぞれ(たま)(だすき)」・「五月雨」が載って、順調な作家としての出発をした。

ところが桃水との関係があやしいといううわさから、萩の舎の人々に咎められ、歌子から戒告されるはめになった。桃水が一葉を尾崎紅葉に紹介しようというのも謝絶して、一葉は桃水と一応絶交した。絶交の理由はうわさをまいた桃水にあって、自分は何らやましいところ、がないのだと、日記に書いているけれども、女性の防衛本能がとっさに現われたものであろう。

 絶交のため一葉は一時寄りどころを失って、虚脱状態になったらしい、桃水と別れてから改めて桃水を愛している自分の本心をつきとめることになり、人間としての不幸さを自覚するようになった。表面的にはきっぱりと断念したのだが、心の底で燃えつづける思慕の情を消すことは容易でなかった。その心情を日記に書きつけているうちに、一葉はいつか日記の中の自分を悲恋物語の主人公に仕立てあげていた。やがて桃水の関係を空想的に発展させて、「雪の日」(明治二十六年)などの作品を作るようになるのであった。

 

❖ 桃水との絶交後、甲府の野尻理作からの依頼で、「甲陽新報」に十月十八日から二十五日にわたって、「経つくえ」を連載した。春日野しか子というペンネームである(これは「経づくゑ」と改めて「文芸倶楽部」に明治二八年六月再掲載されている。)

山梨をおとずれることがなかった一葉が、故郷の人々と最も直接に接触を持った作品として、永久に記憶されねばならないであろう。

つづいて、萩の舎の姉弟子である田辺竜子の骨折りで、「うもれ木」を「都の花」に掲載した。「都の花」は当時の一流の文芸雑誌で、これによって一葉の名は広く知られるようになった。「うもれ木」は、兄虎之助をヒントにして世にいれられない名人気質の陶工人紅絹三と妹お蝶が、かつての弟弟子である篠原辰

雄に裏切られるという悲運を描いた心ので、露伴の小説に似通っている。女性には珍しい気骨ある作家であると認めた星野天知・平田禿(とく)(ぼく)・戸川秋骨など「文学界」の同人たちは、一葉に近づき、また一葉は彼らから近代文学について豊かに啓発された。彼らが雑誌「文学界」を創刊するに当たっては、投稿を依頼するきっかけともなった。また「うもれ木」が好評であったので、つづいて「都の花」に「晩月夜」をも載せることができた。

 

❖ 当時、樋口家の生活は極度に詰っていた。「うもれ木」で、原稿料十一円七十五銭を受け取り、「晩月夜」で十一円四十銭が入ったが、その喜びも長くは続かず、小説家として家計を支えることの困難さを、一葉は切実に感じ続けた。

二十六年三月末ごろの日記には

「わが家貧困日ましにせまりて今は何方より金かり出すべき道もなし。」

とか、

「母君ただせまりて我が著作の速かならんことぞの給ふ。」

など、その嘆きを記している。何か困ることかあると、母は一葉を「活智がない。」とののしり、妹は優柔不断だと責めた。そういう苦境に立つと、一葉はいつも桃水のことを切なくも思い出すのである。その桃水とても既に結婚して妻子ある身だと思うと、失恋の思が心に充満してくるのである。

一葉は神経衰弱となり、どうしても原稿を書くことができなくなった。

 

◇ 竜泉寺町時代から福山町時代へ

 

 明治二十六年(1893)七月二十日、一葉は竜泉寺町に転居した。近所に大音寺という浄土宗の寺があったので、通称を大音寺前と呼んだ。八月六日店開きをし、荒物類や菓子・おもちゃなどを売った。当初はなかなかの繁盛で

「このごろの売商毎々時は六十銭にあまり、少なしとても四十銭を下ることはまれなり、されど大

方は五厘・六厘の客なるから一日に百人の客をせざることはなし。身の忙しさ、かくてしるべし。」

などと日記に記されている。このとき一葉は二十二歳・邦子は二十歳だった。女世帯だったし、一葉も邦子も子供好きだったから、店先には、いつも子供が群がっていた。一葉は遠く神田の多町の問屋へ買い出しに行き、仕入れ物を入れた大きな風呂敷包みを背負って帰った。

 

❖ 商いを始めると、どんな人でも客であるから、好悪を越えて対することになるので、自然と人間がねれてきて、人間を観察する目も、豊富になり、また正確になった。特に商売を通して接する人々は、隣近所巧貧しい暮らしの人々や、一銭・二銭の利益を争う問屋の商人たちである。山の手育ちの一葉などとは生活も教養も異質である。日々の食を得ることのすさまじさが、今さらのごとく実感された。一葉は竜泉町での生活を塵の中と感ずれば感ずるほど、昔のことが懐かしく思われた。元来商売人でない一家が商売に徹し切ることは容易でない。

 開店して一カ月ばかりたった十月二日には、再び図書館に通い出している。日が重なるにつれて文学を断念した心の空しさが拡大してきたのである。十月二十五日平田禿木の訪問を受けては、

「七月以来はじめて文海の客にあふ。いとうれし。」

と、喜ばずにはいられなかった。禿木に「文学界」への寄稿を約束したが、店の雑用で捗らず、

「商用いとせはしくわづらはしさたえ難し。」

とも嘆いている。こんな有様だから、開業するときの借金の利子に見合ほどの利益をあげることができず、仕入れ金平生活費の遣り繰りに苦心しなければならなくなり、またも窮乏生活が始まった。

 

❖ 母のたきが故郷山梨に借金のために赴いて空しく帰って来たのもこのころである。

明けて二十七年になると、向こう側に同業者ができて次第に商売は暇になった。

 文学の道をなげ捨てて、商売にと一時的な噴火のよう気負い立った一葉ではあったが、またも文学に帰るべきか、この塵の中に踏みとどまるべきか、迷路に突き当たった。しかし家賃は滞り、赤字が増大する現実は、一葉に断ち切り難い文学への道をよりひたすら歩ませる結果となった。この昭代に「琴の音」「花ごもり」の二編を「文学界」に発表しているが、それは在米の延長線上にある作品であり、詠嘆やロマンティシズム、が色こいものである。

これに対して日記の文章は、美辞的な粉飾が捨てられて簡潔な引きしまった文体となっていて、現実を見通す力が深まり、物を客観視することのできる態度が確立している。遊飛寺町の生活においては、これまでのような詠嘆や憧れだけを持っていては、その生活が成り立たなかったことによるものであろう。

 

❖ 明治二十七年(1895)五月、一葉は店を閉じて、本郷丸山福山町に転居した。ふたたび小説に立ち向かうと共に、萩の舎の助教をも勤めることになったのである。

家は田圃を埋めた新開地で、酪酒屋、が並んでおり、享楽を求める男性の遊び相手となる女たちが住んでいた。一葉はこんな生き方をしなければならない女性の存在することに、言いようのない怒りを感じた。この前後から一葉は「国家の大本」を考えていた。

 

 わがこころざしは、国家の大本にあり。わがかばねは野外にすてられて、やせ犬のゑじきになら  

んを期す。われつとむるといへども、賞をまたず、労するといへども、むくひを望まねば、前後

せばまらじ、左右ひろかるべし。

 

と、日記に記しているが、憂国の女性として、私利私欲を離れ、額面した社会を建て直そうと言うのであって、竜泉寺の生活を通して生まれ、福山町の生活に触れて強化された考えのようである。福山町に転居した後最初に公にした「暗夜」は「国家の大本」を確立しようという趣旨をもり込んだもので、政治家と政商の不正な結託を批判している。

しかしながら自らの生活の貧困、それにうち勝つために励まねばならない制作、一葉はあれこれと矛盾し食い違う考えや行動をくり返している。生活の苦悩と共に人生の方向を見失おうとした精神の混迷の時代として、一葉にとっては、二十七年は危機であったと言ってよい。

具体的に言えば天啓顕真術師(占い師)久佐賀(くさか)義孝との交渉はその現われである。久佐賀は、貴女を愛する小生はあなたの生活の苦しみを傍観できないから、目的を達するまで生活を保証しましょう、保証するからには、「貴女の身体は小生にお任せくださるつもりなるや否や。」と、非礼極まる手紙を一葉に寄せている。このような妾になれという露骨な申し出を怒りながらも、相手を怒らせないように取りさばいて、何とか久佐賀から金を引き出そうと一葉は考えていた。いわば女が体を張った危験な交際であった。そこにはあらゆる問題をねばり強く主体的に解決して行こうという一葉の姿勢がうかがえる。

 

❖ こうして苦悩と困迷の果ての十二月に、「文学界」に「大つごもり」が発表された。

 白金台町の山村という屋敷に奉公している下女のお峰、が、高利の借金に追われる病気の伯父のため、二円の前借を頼んだが聞かれず、思わず引き出しから二円を盗んで、使に来た伯父の子に渡してしまう。石之助という主人の息子、……それは先妻の子であるが、……家庭が面白くなくて寄りつかない。たまたま大晦日に帰って来て、父に金をねだり、五十円もらって家を出た後で、大晦日の勘定が始まる。言いつけられてお峰がかけ硯を出したところ、引き出しの金は全くなく、「引き出しの分も拝借致し侯 石之助」と書いた書き付けが残っていた。石之助か家の金を持ち出すついでにお峰の犯罪をかぶってくれたという筋で、石之助がお峰の犯罪を知ってか知らないでかははっきり書かれていない。

 石之助のモデルは兄虎之助、お蜂の盗みには萩の舎で一葉が盗みの疑いを受けたことが反映しているらしい、伯父安兵衛の家や山村の屋敷の描写など、自らの目で見たさまを写し出したものであろう。貧苦のために、久佐賀や浪六に集ろうとした作者が、お峰の行為を非難する代わりに救いの形で筋をまとめる。そこに当時の一葉の生活感情が端的に表現されていて、一葉作品史上の一つの出発点となっている。

 

❖ つづいて明治二十八年(1895)には「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」

二十九年には「わかれ道」「われから」など諸傑作を書いたが、それらはみな、一葉が過去の苦しい経験を通して借り物でない自己の生き方をつかんだことによるのである。

 

 

若尾逸平

 

若尾逸平略歴

 

  

若尾逸平

 若尾逸平は中巨摩郡在家塚村に父林右衛門、母きのの次男として文致三年十二月六日生まれた。十二

歳のときに寺子屋に上がり、十八歳のとき剣客で身を立てる決心をして江戸に上ったがまもなく村に帰

って二十二識のころから葉煙草の行商をする。弘化四年二十七識で小笠原の若松屋に婿入をした、が七年目に離縁して再び行商

を続けた。三十六識のとき五十両を資本にして甲武闘を品物をかついで往復して、天秤棒一本で三年後には八百両の利益を得

た。安政四年に細田利兵衛の娘はっと結婚、山田町に店を構え弟幾這と力を合わせ商人としての腕をみがいた。

 横浜開港とともに貿易の一角にくいこんで生糸、水晶等を甲州から運び外国商人に売りこみ、利益を得た。一方若尾器械と

よばれる製糸器械を考え出し、製糸工場をもつくった。維新の混乱では、変動のはげしい相場を利用して着々富を増大し、明

治四年には山梨県の蚕種製這入大総代に任命され、翌五年には生糸改会社の副社長になって山梨の蚕糸業の支配権を強化し

た。その後赴任した藤村県令の相談役的立ち場になる。十年に現在の山梨中央銀行の前身第十国立銀行が設立されるが、この

とき逸平は最高の出資者であり、山梨第一の富豪となった。二十一年に横浜正金銀行の取締役に、二十二年に甲府市の初代市

長、二十三年には帝国議会の貴族院多額納税議員に選ばれた。二十五年に東京馬車鉄道を買収、二十六年に若尾貯蓄銀行を創

立。大正二年九月七日九十西成の高齢で逝去した。

154

|-・・’

155






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020年12月04日 06時18分38秒
コメント(0) | コメントを書く


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X