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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年12月06日
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カテゴリ:山口素堂資料室

 不思議な話 昭和47年、『甲州夏草道中』山口素堂に触れていない??

 

           天皇の前で田植え歌 第七日(台ケ原・教来石・国界橋)

『甲州夏草道中』上巻 昭和47年刊 山梨日日新聞社

   「第一回夏草道中」天皇巡幸路を行く

 

一部加筆 山梨歴史文学館

 

 十二日、夏草甲州道中最終の日、晴れたりや峡北の空は紺碧に、もう秋色が深い。午前九時、夜来の興奮を胸に、行在所(北原庫三郎氏方)碑前に集合、謹んで玉座・調度品等を拝観した。聖跡は玄関から玉座まで四間を指定されたこと、大帝の御馬車は明治十三年六月二十二日午後二時半ごろ御着き遊ばされ、また御風呂を召されたこと、家族は隠宅に移ったこと等、詳しい話を聞いて母堂久刀自、戸主庫三郎氏、夫人佐代子さん、長女民子さんなどの家人と共に、道中一行は碑前で記念のカメラに収まる。

宿舎割りを受けた家々では門先に貼紙して、伏見宮貞愛親王……台原音祥氏方、太政大臣三条実美公(第一号甲宿舎)北原慶造氏外二十余戸が一見明瞭である。

字、白須に入って、県下の巨木(白彼岸桜乙名天白桜)二本を右―柳原、殿町にみて、菅原小学校着、(現白州小学校)北巨摩教育会郷土部長浅川耕三氏から峡北の各種郷土研究の薀蓄(うんちく)を傾けての講演を聞き、完備した郷土室にしばし。学校を出て裏手の自元寺に武田の柱石馬場民部の墓所に詣で西へ急ぐ。

五万円の身売りを惜しまれている有名な白須の松原は程近い。

 

後醍醐天皇の皇子孫東将軍宗良親王の御歌

「かりそめのゆきかひぢとはききしかど、いざや白須のまつひともなし」

 

(仮初の行き甲斐路とは聞きしかど、いざや白須の待つ人も無し)

 

で、王道復古へ辛酸を重ねられたお痛わしさを聞く。さらに、明治神宮遥拝所碑前の芝生に、腰を下し、呼べば応えんばかりに立ち並ぶ駒・鳳凰三山など、山峡甲斐の景観一つ一つについて、大沢、柳元講師の説明を聞く。松原の中を、濁川橋(現神宮川)へ出て「槍持ちのかくれて通る日長かな」の句碑に、道中の昔をしのびつつ松原続きの鳳来村に入る。

 村長小林政長、助役中島兵庫之助、収入役渡辺喜久治各氏外、吏員、各区長、長駆出迎えられた校長丸

茂敏氏、教頭有賀宣一氏今村有志等に案内され、六地蔵を過ぎ、国道を左折、石尊神社の石門をくぐって鳥原の教来石民部の宅跡へ迂廻した。宅跡、丘上殿畑の桑畑からは先史民族時代の土器の出土が多数である(石器は少ない)。ここでの展望はいうべくもなく朗かだ。篠尾村「笹尾の烽火台「鐘つるし」岩に相対する釜無を隔てて南、最も高き山は「万燈火山」で昔の烽火台跡、今日一行を迎えるために午前八時から正午まで実際に狼煙をあげてお待ち申したのにと、小林村長は午後一時近く着いた一行を、残念そうに見る。万燈火に続く城山・城の沢・新城・陣場・矢の下(低い所)などの名に見て、民部はここの辺りに城を築いたものと伝えられる。また万燈火の麓、島原部落は桓武天皇十三年「甲斐の白鳥」を献じた故事にちなんだ地名でもあると云われる。振り返れば、七里岩を越えて八ヶ岳の大裾野、茅ケ岳、金峰の頂き、御坂連峰から富士まで微笑みかけるこの宅跡の幸よ、裏門跡を下りながら、村長は「夏草道中に刺激されて、当村でも、明治大帝聖跡は勿論、旧蹟保存方法を考究することになった」と喜ばしい話だ。

 

道は御駐跡の跡標を左に、午後一時二十分諏訪神社境内へ、道中一行が設けられた席に着くのを待って、丸茂校長の慰労の辞、村長の鳳来村名の説明(大武川と島原の大鳥(鳳)と上下教来石の来)があり、カラサン姿の女子青年団員の接待に昼食を済ませてから、わざわざ甲府からはせ参じた、相生町小松屋旅館の三井幸作老(七二)から大帝御巡幸の日の思い出を聞いた。同氏は当時十六歳で灰原義一郎(十四)海野義徳(十五)(両氏とも故人)の二人とともに御駐蹟の河西丸郎須氏方へ給仕役として召され、氷を銀皿に載せて、徳大寺侍従長の手許まで運んだ上、電信の仮設(当時針金便りといった)に驚いたこと、小林良吉宅(七七)、が御小休係り、故堀田多之吉、小池喜一郎がそれぞれ田植係、宿警戒の各頭取となったこと、三井老と小池政吉氏方の田(ともに田植えを二十日以上延ばして、ひたすら御巡幸を待おわび申した)二枚の田植えを国道から天覧せられたこと、さよう、早乙女は十四、五人が二組に分かれ、早乙女奉仕の中で、三井老の姉さん、円野村「草間やす」さん、良吉老の妻女「あさ」さんなどは、いいお婆さんになって現存していること。二枚の田では、この地方の田植え歌の馬八節を交互に歌い交わしたが、音頭をとった故人宮下直吉氏の、思い出しても美声であったことなど、聞き終わると、奨められて小林こ・三井老は、

  オオヤレナ、オー歌をば 

しゃんと、

中高にアアコレヤ

中高に 

大船の船をばゆらり、

コレヤゆらりと

 なまけてくれちよ早乙女衆、

この末に五斗五升蒔きの田がある

 

と、歌ったが、雅趣豊かなひな振りだった。

さらに小林村長が語る大覚禅師長諏訪明神の力比べの教来石の伝説に興じて一同出発、左に甲府の元標識から九里(三六キロ)この里程標柱を、右に端場の教来石公園にある芭蕉の句碑「閉さや岩にしみ入る蝉の声」を読み、加久保沢を渡って上教来石に入る。

御膳水(湧水)、教化石を訪ね、山口番所を過ぎて、晴れ渡った紺碧の空の下、白い国道を一気に甲信国境、国界橋へ向う。この辺り、右手に七里岩、釜無川を望み、左に釜無山を仰ぐ活達な展望で、風も信濃路からか、秋気ひとしかの味である。三時五十五分、ついに国界橋の鉄橋を踏む。渡れば長野県諏訪郡落合村下蔦本だ。

 一同橋上で勢揃い、しばし来し方を振かえり低徊し、甲州道中完成の歓喜といまさらの旅愁とに、旅な

らではの情感である。

それにしても橋上、野口社長発声の「夏草甲州道中」万歳の、いかに高く、晴ればれしかったことか。山口番所跡に戻る。役宅は現存しない。勤務した名取亀六氏(後若尾輝信と改名)の相続者、甥に当る本三郎氏の家や、二宮清造氏一家は北海道に去って、宮沢令宣氏が留守居役である。間道は南の山裾にあったという。

番所附近から南の諏訪明神の石段を上り、村、学校、男女青年団の心尽しの筵に腰を下して表湯に咽をうるおし、青年団の盆踊りに一同拍手。

教来石の名は、日本式尊が東征のとき、お休みになった石、その昔、経米石といったが、いつか転化しての教来石で「大川(大武川)を経て来し石村に、家庭も見ゆ、あわれ」が伝わっていると、文政年間幕府への報告の写しが現に下教来石の牛山基宣氏方に保存されている。

 四時半一行は神前に整列、礼拝して解散式だ。杉檜の大樹の下、境内は神さびて、一段と緊張を覚える。野口社長はこの行の意義をのべてから、会員の統制ある行動、沿道各町村有志、男女青年団の厚意と各講師の労を謝したが、小林村長、名取青年団長交々祝辞を述べ、講師代表村松志孝氏、会員代表輿石正久校長の謝辞、これに続き、野口社長、小林村長の発声で鳳来村と甲州道中との万歳を交換して、めでたく、名残り惜しくも六泊七日にわたる甲州道中二十五次二十七里(一〇八キロ)の膝栗毛(ひざくりげ)を終わった。






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最終更新日  2020年12月06日 05時54分14秒
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