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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年12月08日
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永峰秀樹(北杜市明野町出身)と洋学一家

 

  『山梨県 郷土史にかがやく人々』集合編2

   青少年のための山梨県民会議編

   一部加筆 山梨歴史文学館

 

【著者紹介】

「一永峰秀樹と洋学{家}

  執筆者

   保坂忠信略歴

 明治四十四年十一月二十九日生、

甲府中学校昭和四年卒業、

文部省教員検定英語昭和八年合格。

主として旧制身延、甲府中学、甲府一高に英語を教え、

日川高校教頭、身延、韮崎高校校長、四十七年三月退職。

この間、

山梨軍政部教育顧問、

NHK(甲府)高校通信英語教育講座放送、

山梨英語教育研究会長など。

現在山梨学院大学教授、日本美学史学会会員、

学生社その他から英語訳注書など。 

SherwoodAndersonShort Stories研究』 

『イビーをめぐる人々(明治十年代の美学の考証)』

(文部省科学研究費による)など。

 

【概略】      

❖ 一八四八―~一九二七(嘉永一・六・一~昭和二・一・三)

❖ 山梨県明野村浅尾新田の蘭力医小野通仙の末子(三人の兄も蘭方医)として生まれた。

❖ ()典館(てんかん)に学び、十九才の一八六六(慶応二年)京都に遊学、高知・長崎に航し、江戸に出て士族永峰氏の名族上の後嗣となり、武士の身分を得て幕末の騒乱に幕臣として活躍、その節を全うし、明治維新と共に静岡に下り、徳川家設立の沼津兵学校に入り、英語を学んだが、その陸軍主義教育を不満とし、一八七一(明治四年)築地の官立の海軍兵学寮に出仕申し付けられ、却って数学教師として迎えられ、ここで英米人教師につき英学に専念、本格的英語教授として江田島時代を通じて明治三十五年退官まで三十年間、わが国草創期の海軍士官養成に努めた。

 

❖ 彼は日本発行の最初の英和辞典、いわゆる「開成所辞書」(本名「英和対訳袖珍辞書」B6判、三万五千語、今日の英和中辞典級)を徹底的に活用した一人である。

❖ 長兄小野泉からと徴典館で学んだ漢文速読法の下地があったため、彼の英語読書力は抜群で、島国日

本人の眼を西欧の文化に開かせようと、豊富な英語を駆使して、彼独自の文体をつくりつつ、明治十年代迄の開化期の西欧文化移入の第一線に立った。

 

❖ 退官後は書斉人として人生の探究に専念する一方、西欧文化の受容のあり方などにつき明治日本人を啓蒙し、今日の平和主義、民主主義の世界の姿を明示した。東京市赤坂区台町六十一番地の自宅で穏にこの世を去った。

 小野家がオランダ医学の医家として父通仙翁を中心として三人兄弟、泉、実、民也の勉学ぶりは洋学一家としで花園のようであった。

 

(一)秀樹の横顔

 

 ……明治初期青年英学者 教師・人生の師……

 

❖ 永峰秀樹という名前は、県民になじみがうすいように思われる。この小伝は彼の横顔から始めることにしたい。

 秀樹は第一に、英学者であった。英学とは漢学・蘭学にならって明治の文明開化と共に生まれた言葉で英文学とか英米文学とか英語学などという今日の学問の母胎となったもので、英米の原書を読解、研究し当時の英国、米国の文化を取り入れることであった。

明治維新と共に徳川三百年の封建制度がこわれ、政治の仕方や仕組が一変すると共に生活様式まで一変した。わが国は政治、社会制度、科学、宗教などあらゆる方面にわたって数世紀にわたる立ち遅れを取り返さねばならなかった。この取り返しの第一線に立ったのが若い「英学者」であったといってよい。

 ご存知の福汎諭吉や中村正直は、米国や英国まででかげ、十九世紀英米の新しい科学、自由主義と個人主義、資本主義と勤勉による立身出世主義とを、つまりヴィクトリア朝文化というものを紹介した先がけで、「文明開化」の先頭を(きょ)()をかかげて走ったのである。

 

❖ それに続く英学者の一人が永峰秀樹である。秀樹の訳述は木版木による「訳述」又は「抄訳」が主体で、歴史、経済社会、政治、宗教、風俗など欧米文化一般、物理、化学、農学、家政などの日常科学にまで及び、啓蒙家として迅速果敢な仕事によって明治初期文化功労者の一人としての位置を確立した

併し彼の最も重要な仕事はギゾーの「欧羅巴文明史」(二十六才から二十九才にかけて、明治七年~十年に十四冊に分け翻訳)やミルの「代議政体」(明治十一年、四巻)の翻訳から分るように、ヨーロッパ文化を生み出した諸国民の歴史、物の考え方を追求してヨーロッパの心を日本に紹介しようとしたことである。「欧羅巴文明史」は一八二八(文政十一年)フランスの歴史家ギゾーがソルボンス大学の学生のために、「ローマ帝国滅亡からフランス革命に至るョーロッパ文明史」を歴史研究の方法まで加えて行なった連続講義で、かなり高度の読物である。秀樹はニューヨーク市大学のヘンリ-教授の英訳本(明治六年版)から再訳したのであるが、近代化が始まったばかりの当時の日本には、「社会」とか「個人」とかいう言葉さえ見当らず、永峰訳も明治九年の第七巻までは、「社会」の代りに「交際の道」「交際の判決」「世間」などを使い、時には「国家」と飛躍してしまっている。「国」と「村」があっても「社会」の観念、が生まれていない時代であったから、やむをえない。

また、キリスト教の「教会」を永峰は「聖会」と訳し[ヤソコウヂウ]つまり、イエスの講中(神まいりの仲間)と左にルビをつけて説明しておいたが、当時南部町にあった蒙軒学舎の生徒達には十分理解できず、塾主の近藤喜則は中村正直の同入社で英語を教えていたカナダ人宣教師イビ-を招くことになった(明治十年)。これが山梨県へのキリスト教新教(メソディスト派)布教のもとになったのである。思いもかけない永峰からの贈物となった。「代議政体」のような訳語も日本語として定着したすばらしい贈物といえよう。

 

❖ 秀樹の名はアラビアンナイツの最初の訳者(明治七年)として翻訳史に残っているが、これは広大な想像力を駆使した魔法使の物語を通して、せまい島国根性を打ち砕くために西洋の人情風俗を知らせようとして書いたものだと、永峰はいっているが、彼の訳業としてはむしろ息ぬきであり、幼年時代から彼が江戸時代の絵双紙などが好きであった影響からかもしれない。

 

❖ 書名「開港驚奇」暴夜物語」(三冊)で「あらびやものがた里(り)」と右側にルビがついている。頭の説明文である「角書」(つのがき)という「開巻驚奇」は明治十年代流行となったものであるが、永峰が始めたものといわれる。

「物理問答」(明治八年、四冊)のように前年アメリカで出版されたカッケンボス著のハイスク-ル教科書から抄訳した専門的学識と什事のはやさにも驚嘆する。この本は「何ヲカ物理学ト云フヤ」と欄外に問を書き「物理学トハ凡ソ天地間ニ存在スル万物ノ運動ニ因テ現スル諸変化ヲ論スルノ学科ナリ」と答えるという風にして「天文学」「太陽系」まで取扱うまとまった四冊からなる物理書で、科学史研究家(武田楠雄著『維新と科学』岩波新書)にも高く評価されている。

 

❖ 文筆には自信を示し、歴史書に最も興味を抱いたと自らいう秀樹は同時に科学者裸足の専門的理解力をもっていた。文理万能、農業、家政にわたり、人尿、人糞分析とか、夫の心得、料理の経済まで多方面である。併し、この専門的科学知識はどうして得たのであろうか。ここで彼の長兄小野泉に登場してもらわねばならないが、後の「修業遍歴」(一一二ページ)にゆずる。

 

❖ 第二に彼は学校の教師、人生の師であった。江田島の海軍兵学校の前身、東京築地の海軍兵学寮時代から三十一年間(明治四―三十五年)英語は勿論、幾何学、地文(ちもん)学、すなわち自然地理学、国際法、経済学を教え、山本権兵衛、斉藤実、岡田啓介らの当時の大将を始め、目本海軍の大立物はほとんど秀樹の薫陶を受けたのである。

彼は江田島の自宅を日曜日には開放して、士官の卵達の憩いと談論の場所に提供していた程、彼らを愛したのである。七十九才でなくなった時、前記大将以下将官百四名が参列して、哀悼の意を表したこともそれを裏書きしている。

 

❖ 明治三十五年七月に海軍教授の職を去って自由人として書斎の生活が始まる、が、それは公務にさえぎられて出来なかった。人間性の研究であった。彼が影響をうけたのはフレノロジー「脳の生理学をもととして立てたる哲学の一科学なり」で十九世紀に欧米に広く行なわれた一種の心理学。彼は「性相学」と訳している)で人間の性、すなわち心は千差万別でその機能は四十もあるのに、ある人々は自分のもつ機能を中心に考え、是によって万人を教えたり治めたりするので間違いがおこる。だから議会や国際会議を必要とする民主主義、彼の言葉では、「平民宗」によらねばならないとした。

 

❖ スコットランド人コーム著「性相学原論」を訳したのは七十才の時で、机に向うこと毎日平均十二、三時間、二年間続けたといわれる。大型洋装九六五ページにぎっしりの印刷でその勉強ぶりは驚くばかりである。

 

❖ 退官後二年の明治三十七年、日露戦争の前年に出版した「人と日本人」洋装、(二〇七頁)では

 

「道徳上流に廃れ産業未だ振はず、宗教は無能なり、世界に対して譲(ゆず)らざるものは、唯一武事あるのみ……」

 

と、

国際的視野から愛国の真心を厳しく述べ、自愛は人間の持前で天命であると率直に認め、ネルソンを例として人間の情の霊妙さを説き、社会団結の中心として女性尊重を説き、ドイツ帝国軍人の精神教育のごときは情の結合なく武力中心の国のもので、日本には不適当であると、軽薄な外因の制度移入を指摘している。世界一家の美、東西文明は世界文明となる必然性を予測するなど、第二次大戦後の日本及び世界の姿をはっきりと示した。書斎人として、人生の師であり、和魂洋才の憂国の土であった。

 

◎ 長峰秀樹主要著訳書

○ 明治 七年(187426

   フォ-ケル(ウオーカー)著「富国論」三巻

       明治 七年(187426

   「支那事情」

○ 明治 七年(187426才~十年(187729

   「欧羅巴文明史」十四巻

○ 明治 八年(187527

   「開港驚奇」暴夜物語(「あらびやものがた里(り)」)

○ 明治 九年(187628

   米国ハスケル氏著「経済小学/家政要旨」抄訳

○ 明治十一年(187830

  「智氏家訓」二巻 大本三冊抄訳

○ 明治十二年(187931

  「農学初歩」上、中、下 三巻 纂訳

○ 明治十三年(188032

  「官民議場必掲」

○ 明治十四年(188133

  「華英字典訓訳」

  上海発行の英語と支那語の辞書に秀樹が訓訳をつけた)

○ 明治三七年(190456

  「人と日本」

○ 大正 七年(191870

「性相学原論」一冊 コーム氏著 松軒翁訳

○ 昭和 三年(192879

  「思でのまま」(没後一年で発行 私家版)

 

 秀樹の生家と系図

 

  ……「薬王寺あと」を中心として……

 

 秀樹は自叙伝、「思出のまま」を残した。半紙三帖(零十枚)ほどに自分で綴ったものである。

 

「読書も倦めり、眼も曇れり、陰雨麻の如し。時に浮びくる心の写真を残し置かんと、此草紙を作れり」

 

文語体の美しいリズムで淡々と生涯をのべ始める。

 

「先ず初めに余、が幼時より記さん。余は嘉永元(一八四八)年六月朔日に甲斐の国巨摩郡浅尾新田といふ辺土に生れたり。父は小野通仙と号す。余は其四男なり。長兄は小仙、二男が春肋、三男は琢輔(助)といふ。家は土地の旧家にして、数代前より医を業とし、村内にては、否、近村に尊重せられ居たり。父は医業ながら旧法を捨て蘭法を修し、長兄は江戸の戸塚玄海翁の塾に入り、蘭方医として立てり。」

 

彼の生家跡は、北巨摩郡明野村浅尾新田の「薬王寺あと」にある。

韮崎駅から明野線。バスで三十分、榎の大樹の立つバス停「朝神小学校」から右手に入った桑畑で、背景には茅ケ岳が近々と聳え、甲斐の高峯を一望に収めている。屋敦あとの唯一の名残は古井戸である。

 一体「浅尾新田」というのは、徳川寛永年間十七世紀の前半に近村の有志が自力で茅ケ岳西麓の浅尾原の不毛の原野を開き、九年もかかって開さくした浅尾堰(せき)(長さ三・一七km)に沿って出来た新開地である。五十七屋敷が整然と区画され「薬王寺あと」は「三拾八番/屋敷三反二猷歩の内/壱反六畝歩薬王寺/壱反六猷分 玄貞」とこの近くの一名主、長百姓を勤めた宮原家(現主清民氏は十二代目)に伝わる「村中世代」(嘉永七(一八五四)年)という開拓民各戸の土地面積と代々の戸主の名前を記した冊子に明記されている。

(註 その他「村中世代覚」(宝暦四)(一七五四)年、薬王寺「明細書」(慶応四(一八六八)年)なども参照し彼の生家跡と私は確定することが出来た。)

 

❖ さて、薬王寺と秀樹の生れた蘭方医小野家との関係をお話ししよう。

 

小野家の先祖は田原勝太藤原秀郷(ひでさと)〔俵藤太ともいい、十世紀に奥平、天慶(ぎょう)の乱に平打門の首をとり有名〕の子孫で下総国(千葉県)小野寺に住む徳川武士小野角助という者で、武士をやめ修験者となり甲斐国中条(韮崎市中田町)に住み、浅尾新田開拓のとき祈禱によって大岩を破り浅尾堰の水を通した。以来医薬兼業の真言修験者として薬王寺の院主となった。玄貞の時、薬王寺から分家してその敷地内で漢方医を開き、秀樹らの父通仙はその四代目で蘭法に転じた。秀樹はこの系図を見て田原勝大秀郷の子孫であることを誇りとし、この幕末乱世に武士となり活躍しようと思っていた。

 

(三)修業遍歴

  ① 漢学修業(浅尾新田・徽典館)

 

秀樹が生まれた時、父「通仙」四十四才、母「とわ」三十三才、長兄小仙(後の小野泉)十八才、次兄春助(後の小野実)九才、三兄琢輔六才、彼は四男で末子であった。

 秀樹は幼年時代を回想し、皆は寺小屋に入ったが私は長兄に頭をどやされながら一、二、三の数字から三字経、孝経と学んだといっている。秀樹は五才、教える小仙は二十三才でパリパリの蘭学者、蘭方医であった。ここで秀樹が「実弟秀樹」と後年手紙に認めるほど尊敬私淑した青年時代の小仙についてのべよう。

【小仙】

小仙は一八三〇(天保元)年二月二十九日生れで、既に十七才のとき江戸の蘭学の大家戸塚静海の下で蘭書を学び、嘉永二(一八四九)年六月より嘉永五年三月まで二年四ケ月京都の蘭方医で蘭学大家広瀬元恭の時習堂でオランダ原書を通して医学、理学(物理化学)、地学を学んで帰郷したばかりであった。

時習堂は福沢論吉、大村益次郎らの指導者を生んだ大阪の緒方沢庵の適塾と並び称され医学の外、兵制、砲術をも教え、沢庵と元恭は研究を交換しあっていたほどの仲である。

 

❖(一)章で秀樹が科学の学力をどこで得たかについて泉の名前をあげたが、ここでその話をとりあげよう。彼の師元恭には漢文で訳した『理学提要』(十八巻)がある。これは既に嘉永七(一八五四)年から蘭方医学界のベストセラーとなり、諸藩はドイツ人イスフォルディングの著書から蘭訳した、つまり「外科内科研究生用自然科学便覧。ドイツ語よりイーペン。一八二六(文政九)年アムステルダムで出版)」の虎の巻として『理学提要』を競って用いた程である。

その内容は物理、化学生物、鉱物まで含み科学全般の基礎知識を与える便利なものであった。泉もこの原書を十分に理解していたので後に秀樹の科学書の翻訳の際この兄から多くの教示を得たに違いない。長い鎖国の間西欧文化のパイプ役をつとめてくれたオランダ語の一つの例をここにあげることが出来だのは幸いである。

 

❖ 話を元に戻そう。秀樹の幼時期教育は最もよい教師に恵まれたといってよい。

彼は小学時代に当る七才から十三才まで、既に甲府にでていた父通仙のもとから徽典館(今記念碑の建つ中央公園(中央一丁目)にある「徽典館」の前身で公園の北一一丁のところにあった。江戸の昌平黌の分校というべきもの。で漢学を学ぶ。その学習法が面白い。四書(大学、中庸、論語、孟子)を返り点、仮名付きでなく白文で読まされた。

 

始めは苦しかったが、次の五経に入ると辞書をひいて自習が出来るようになり、日本外史、史記、左伝、温史と「疾風迅雷の如く」よみまくり助手の先生達以上に内容を理解するようになった。なぜこんなに早く読めたかというと、彼の家は医者で色々の本があった。草双紙、太閤記、八犬伝、猿蟹合戦などの日本物から支那の「武士軍談」、「三国史」など支那の読物を手当り次第夢中になって読みその知識があったことと内容をつかまえることになれていたためであると、彼は自伝で書き、読書は易しいものから難しいものにすすむよう強く奨めている。

彼の蘭学の先生、中村敬輔(正直)は当時二十六才気鋭の学者であったが、この速読法の実行者であり、福沢諭吉もそうであった。

 幕府は一八四三(天保一四)年以来、湯島学開所の教授の中から学頭として二名を交代で甲府に送ったが、この中には幕末の外交、海軍に活躍した人も多く、岩瀬修理(忠震)は安政条約の全権、矢田堀敬蔵は海軍総督、永井岩之丞は外国奉行、田辺太一は海軍伝習所に入り明治維新に清国公使、中村敬輔は幕府、が始めてイギリスに派遣する若い学者たちの隊長となったが、甲府にきた時には既にオランダ語、英語の読める洋学者であったのである。

甲府の士でパリの万国博へ幕府随員としてでかけ、後に静同学開所教授となった杉浦譲(温斉)は秀樹が入学の年二十一才で教授手伝であった。このように微典館は漢学の教授だけでなく開国の準備に向う若い学者達の気鋭の姿が目立った。

 十一才の時には親戚筋の五味太郎右衛門、が市川の広瀬保庵に従って日米条約批准交換の一行に加えられる。「攘夷論」が突発し、幕府の威光は衰へ民心恟々(きょうきょう)」の時代で、歴史書を愛読する秀樹は前章でも書いたように、田原藤太藤原秀郷の子孫であると知り「先祖に継ぐべき時」が来たと思った。その上、父からは二十才よりは独立せよと言い渡されていたことが絶えず順にあった。蘭方医に三人の兄を仕立てねばならぬ田舎医師にとって、これはやむを得ぬことと思われる。通仙は、その代り秀樹に完全の自由を与え、一切干渉しなかったのである。自分の信ずるところを通した彼の独立不鵜(き)の精神はここにつちかわれた。そして武人となろうと決心して十六の時より剣道に専念し、十九の春には「一人の敵には敗れじという自信を」もつに至るのである。

 

 ② 英学修業(京都・高知・長崎・神戸・沼津・東京)

 

❖ 独立の二十才までには後一年とあせっているところへ、徽典館時代の学頭で恩師であった内藤七太郎(氷川)が京都にうろつく浪士達を見巡って取り締る役人達のために作った武場の文の方の主任に命じられたので願って随行することができた。新撰組の者にも出合った、が大した連中ではないと回想している。 

看護した友人のチブスがうつり広瀬元恭にみて貰って九死に一生を得た。その翌年甲府で恩師であった外国奉行平山図書頭が京都に来たことを知りその旅館にたずね、大阪から高知へ軍艦回天丸にのせてもらう。土佐の武士の英人殺害に関した事で、後藤象次郎らにも会う。更に長崎に行き二ケ月滞在する間に、平山先生のおかげで若い通辞について英語の勉強をし、単語百ほど覚えたが余り熟は入れなかったようである。併し平山を訪れたサー・アーネスト・サトウという眼光鋭い若いイギリス外交官が永峰の印象に残った。サトウは優れた東洋学者となった人であるが、やがてその文化の伝達者となる太英帝国の姿を彼の姿を通してかいま見たような気がしたのである。

 

❖ 江戸に帰って平山図書頭の「箱番」という役を申しつけられた。平山先生の太刀を入れた箱をもって江戸城の奥まで入り老中など大官に接したが、江戸幕府の形式主義に接し、「まことにつまらぬ役」なりと、慨嘆している。また内藤氷川について京都に下った時も「御朱印」をもった幕府任命のこの儒者の前に大名の家来連、が「土下座」させられるという権威主義にも「腐れ行く幕府」を感じたのである。

 

❖ 併しとに角、徳川の武士となり機会があれば立身出世して洋行の機会をつかみたいと思い、永峰という武士の家の名前だけの相読者となり、小野から永峰姓になった。

先ず「銃を荷う兵隊」となり江戸城でフランス式の調練を学んでいる中、座応四年に幕府は朝敵となり、彼も兄琢輔も戦争にまきこまれたが、秀樹は徳川慶喜が官軍に刃向わない意志を表明したので、慶喜公に従い静岡に移住した。彼は恩義に感じ徳川への操を立てたのである。

沼津に移り、琉球表一枚の小屋に妻と共に他の一家と同居しながら、徳川家が開いた沼津兵学校に通った。この学校は洋学を中心にした程度の高い学校で、山梨関係では、イビーの通訳をし後に甲府教会の第四代牧師となった浅川広湖(ひろみ)、結城無二三(新選組)、明治五年県任命の最初の英語教師吉村幹ら、が学び、優秀な明治の学者、軍人を輩出した有名な学校で明治四年に閉校している。

 

❖ 入学の翌年、つまり明治一一年二十一才のとき、「資業生」(月手当四円)の試験に首席で合格、「専念洋学(英学)に傾注」することとなった。二十才独立の夢、が果せることになったのである。「開成所版の英和辞典」(四冊)を買って引き『智環啓蒙』(英人のレッグ著で香港出版の英漢対訳本)と照し合わせて友人と研究し、英語が自力で読めるようになった。地理、物理の簡単なものからパーレー本名は(グッドリッチ)の「万国史という当時アメリカのハイスクール教科書として広く用いられているものを読んで、世界事情、かよく分り、幕府が倒れたのも、江戸城引き渡しなども歴史的に当然の運命であったことが分り、世界の事情がはっきりすると、海軍立国でいかねば日本は欧米人の奴隷になることは必然であると考え、陸軍主義の沼津兵学校をやめ東京築地の官立の海軍兵学寮に入り、海軍士官になろうと決心した。静岡居住の勝海舟の厄介になったのはこの時である。

 

❖ 併し兵学寮では却って「幾何学」の教師に望まれた、彼が古本で「ユークリッド」という洋書をもっていたからである。数学教師はどうやら勤め、やがて英人大尉の助手兼通訳として英語を専門に勉強し、又英米入宅にも下宿したりして通訳としても頗る優秀であった。

ある時この士官が生徒に向いノートは高位の客にごらん戴くものであるから、きれいに書くようにといったのをきき、生徒は国家に命を捧げているものであるから、ノートを見せるのは職務でないと反論し、そのため助手をやめさせられ航海士官となり、本人は本志を達したと喜んだが、間もなく近眼であると分って、文官に復帰し、英学その他を教えることになった。そして第一章で記したようにそのかたわら翻訳の仕事を始め、英米文化移入の第一線に立つ英学者として獅子奮迅の働きをするのである。ウオーカー(ヲォーケル)の 『富国論』の「消耗ノ部」の翻訳がなかったので全訳(明治七年)したのが手始めで、二十一年八月兵学寮が江田島に移り海事兵学校となるまでの十四年間続け、その時をもって翻訳を一旦中止し、兵学校の教授の仕事に専心したのである。       ’

 

❖ なるほど彼は英学者として丸善でエンサイクロベディア・ブリタニカ(大英百科辞典)の改版が出たときに、愛用者、専門家の代表として彼の意見はパンフレットに乞われる程の著名人であったが、漢学を重視して日本文化を支える知的の背骨のように考えていた。例えば長兄泉の長男行蔵が英学に進むことについても、「漢学の素養が不十分のようですが、卸何でしょうか」と兄に手紙を書いている。英学に入る前に漢文の文章を通しての言語学的訓練を重く見ていたのである。死後、長峰家は東大図書館に秀樹の漢書二千余冊を寄付している。

 

(四)家門勤学(洋学一家)

 

❖ 秀樹の家庭環境は家門勤学につきる。

嘉永三年(1850)正月二十三日付け手紙末尾で通仙は春甫すなわち泉に

「残寒退きかね候。折角厳しく勤学専一に存じ候」

と励ましている。

❖ 父通仙〔一八〇四~一八八八(文化元―明治二一)を中心として、兄弟四人が少年期に漢学、青年期には蘭学と英学にそれぞれいそしんでいる。

通仙が三人の兄達に蘭学を学ばせるためには多額の金銭を必要とした。秀樹は二十一才までには独立せよと父から宣告される、それを実現しようとして、あらゆる機会を狙う、幕末期の日本は内戦に包まれ、彼が忠節を尽した徳川家は三百年の歴史を閉じ崩壊し、新しい日本が欧米文化を吸収しつつ、誕生する。武士から英学者に転じる永峰秀樹-彼が甲府の微典館の数々の恩師の恩恵にあずかって英学者への道を拓いていったことは既に述べた通りである。

 

❖ 後年、彼がフレノロジーを研究し、これを「性相学」と訳したのはフレノロジーが法華経の十如是(にょぜ)の原理と一致するのに驚いたからである。顔や形はある性、すなわち心から出るもので、ある事柄が成就するのは如是因、如是縁、すなわち是の如き囚、是の如き果、つまり、因縁によるという原理はフレノロジーと全く同じであることに驚嘆した。

 彼が英学者となり得たのは、この徽典館とその関係者によって用意された「囚」によるものであるといってよい。

併し最も重要な因は祖先の血、父の愛と家庭環境、そして長兄泉の影響であるということが出来よう「因」は神の摂理であり、この語を彼は愛した。

 

❖ 長男の泉が京都の広瀬元恭の時習堂留学中、通仙からの長文達筆の手紙が八通、甲州文庫の中に収まっている。年代の記載はないが嘉永三年のものと思われる。

 

❖ 通仙(三枝雲岱)は近くの蔵原村(高根町藤原)の修験者三枝家の養子となり、当代著名な南米画家であった。末弟の三枝雲岱の家で画会を催し息子たちへの学資源としていたこと、が次の手紙から分る。

「コートは漸く八十両集り候のみに候。諸雑費五十両かかり、三十両ばかり益になり候えども、一体借財多き故企て院政、皆それへ差向け残金は四・五両ぐらいに思われ候」

とか

「金一両二分つかわし申候。先ず是にて夏服などの用意致す可き也。その中又々工夫贈るべく候也。月俸(月謝)の事はメース方へ直に申し入るべくその積りに心得にてよろし」

など父親の優しい親心、金策の苦心も溢れ、

「太一(第一)申し候は十三才の時より今廿一才まで学事入用の金多分に候上年々の物入りなお多くも早老人に及び候えば追々奔走も懶惰相成候えばコートの集りなども減少候故、長く他邦の学間数し兼ね候間、たとい少々は学事不足とも先ず先ず今年限り帰国致し候よう今より心掛け専一に存じ候。今年冬中か来春早々ぜひとも帰国待ち居り候。親族一統切々度度右願申し候間、先ず先ず両代(両親)無事の中に良策をめぐらし置き度く候」

 

帰国を待ちわびる老医師の姿が痛々しく感じられる。又一方では

「前々申し来り渓蘭書写本そのままにつかわし申し候。そのメースにもよろしく」

と貴重な写本をそのまま返す熱心な蘭方医の無念さと多忙さがさわやかに表現されている。

「下旬は相違なく月俸(月謝)の計、代送申し候間、

痘針ならびに病(痘)は急使にて送りくれ候よう願入り候」

と月謝と種痘代を送ることを述べているが、蘭方の勉強と痘種を入手することに夢中の様子が各手紙に見える。学資金調達のための画会には泉も一役かった

草堂の画、先だってたしかに落手。雲岱よりもよろしく伝音これ有り候。

種痘奇書いよいよ上本、一書人手。面白きことに候」

「西洋医門扨缺、ナントヨミ候ヤ……」

と脇書きしてある。

❖ 門扨缺(モーニッケ)はオランダの医者、嘉永元(一八四八)年六月、長崎に牛痘種をもたらし、同五年まで在日して種痘を普及した。「奇書」というのは広瀬元恭著「新訂種(牛)痘種奇法」嘉永二(一八四九)年一月発行のものであろう。

 

❖ 甲州における牛痘種法は嘉永三年冬に始まるといい、通仙の手紙もこの間の消息を伝えている。この老医師がメースとかコートという蘭語を用いているが、メースはメーステルの略、先生のこと、コートはお金で、共に当時蘭学者の間に流行った言葉である。

秀樹は江田島の兵学校教授に転任した折の思い出の中で記している、

「其内に父通仙翁は八十五才にして歿され、母上も逝くなり」 

(通仙は甲府の太田町の次男実の「通僊堂」で病歿)。

この淡々たる短いことばに両親への敬愛が溢れるほどではないか。

 長兄泉については、通仙と秀樹を中心にして何かと書いてきたが、彼に対する父の愛と期待は、手紙の随所に溢れている。

 

❖ 通仙は、京都時習堂へ三年間の研学に旅立つ泉に次の詩を贈り励ました。

   病骨春来全是治再尋  病骨春来全く是れ治す。再び

   師友赴天涯吾家百歳  師友を尋ね天涯に赳く。吾家

   施仁術〔空〕為烟霞  百歳仁術を施す。空しく煙

   無過時        霞の為に時を過す無かれ

   己西春送児潁

 己西は嘉永二(一八四九)年、潁は泉の改名前の名前であった。

 

❖ 小野泉

一八三〇~一八八四(天保元・六・七―明治一七・九・二四)

父通仙を助け安政元(一八五四)年種痘館を隣村の穂足村(須玉町)に建て種痘を施す。

明治元年には山梨県病院(県立中央病院の設立を主唱し、五年にはその医員、後八年には県の歴史地史編集主任となり、衛生課兼務を勤めた。

「山梨県地史略」(明治九年)、

「甲斐地史略「(明治十年)、

「甲斐国志」校訂編集。

三回学舎(明治十二~十七年)甲府市に開き、和漢英、修身を教え、秀樹の「智氏家訓」を教科書として用いた。

女子教育奨励のため週刊「乙女新聞」発行。いつも著述に耽った(村松学佑稿本「儒医列伝」による)。 

故露氷見先生は、泉の地詐書編集について、「学力は『理学提要』から得た力であると思う」(昭和四十四年、「小野泉『山梨県地誌略』とその周辺」「甲斐路」)と見事に指摘しておられる。

 

❖二兄、春輔

 

❖ 【一八三九~一九四七【天保一〇~大正三年・三月】

 

『甲州医師伝』(若尾文庫)によると「広瀬元恭の門に安政三年(1860)七月入塾。初名秀実。後、実と改め号は蘭畝(御崎町福寿院に蘭方医高橋元済の墓誌を記す)在塾六年、明治五年(1872)県立睦合(南部町)病院、日野春(長坂町)分院長、医学士六歳が後嗣、子孫甲府市内に医業を継ぐ。

 

❖ 三兄の琢輔

 

❖ 〔一八四一~一九○二〔天保一三~明治三五〕 

杉田玄端(幕府外国方願訳御用頭取、美学にも通ず)の門人、初名秀民、号は西征。県病院に勤め韮崎で開業。秀樹と共に幕軍に従い奮戦した。

 

❖ 秀樹の生家小野家の祖先

 

修験で初代不動院秀栄のように「秀」の字を冠し(写真)、通仙の名は秀秋、長兄が秀穎、次兄秀実、三兄秀民であり、後夫々改名したが、秀樹のみ秀を残し改名しなかったことは興味深い。これは「田原藤大秀郷の後裔」である武人の誇りと父通仙翁への敬恭の念が強烈に秘められていたためではなかろうか。又、通仙の号が九岳、四人兄弟は長兄から失々北荘、東荘、西荘、南荘と号したのも兄弟の文人趣味がうまく合っていて洋室一家の雰囲気が花園のように感じられる。

 修験の祖先の影響で、もう一つ見逃すことの出来ないと思われるものがある。それは彼の心の奥に流れている仏家的仁恕、医家的仁術の心である。彼の文明論、社会田宗論も「人の性」論(『人と日本人』参照)から出発する。市井の人となって自愛と精神の自由を彼は高唱したが、青年期以後教師生活の多忙のために心理の暗闇の中で屈折していた、この心奥の流れが書斎人となってから噴出し始めたように思われる。

「余は性(心の活動)の闡明(せんめい)には少時より思をこらしたこともあれども、他に眼前の学事が忙しきまま、専心ここに向うことなかりき」。

 

甲州の山岳地域の修験であった祖先への先祖返りが彼に訪れたと私には思われる。(完)

 

❖ 小野家(永峰秀樹)系図

 

 山梨県北巨摩郡明野村浅尾新田 

宮原清民氏所蔵「村中世代」〔嘉永七(一八五四)〕による。

 

初代  玄貞(三代目盛呂院氏二分〔家〕

二代  伯安

三代  丹下(玄良二成〔ル〕

  四代  通仙(丹下ノ子)

  五代  小仙(通仙ノ子)

  小仙  〔の〕子小野行蔵

 

薬王寺「明細書」慶応四(一八六八)年では、三代目は和合院(盛呂院は五代目)で、「村中世代」とは食い違いが少しある。 

 

 

玄貞(三代玄貞) 

➡ 通仙 

(妻、韮崎市岩下斉兵衛姉) 

 

➡泉(小仙・小僊・秀潁・俊輔・春甫

 北荘・牧荘) 

       ➡実(春助・秀実・至穀・東荘・蘭甫・蘭畝)

❖【註】 

明治末期の東京朝日の名主筆池辺三山は、秀樹の長女きんの夫。

三山は熊本の出、西郷軍の豪将池辺吉十郎の長男、

 フランスに留学し、ジャーナリズムを学び、

朝日の反骨精神を育て、

また、二葉亭四迷・夏目漱石を朝日にまねき、

その小説で朝日の名声を高めた。

 






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最終更新日  2020年12月08日 06時41分52秒
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