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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年12月10日
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カテゴリ:甲州街道

甲州街道と富士川水運


甲州街道と宿駅の成立


 
五街道の一つである甲州道中が江戸幕府によって開設された時期は明確でない。一般的には徳川家康が慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦で覇権を確立し、江戸を中心に各街道の機構整備に着手して以来。まず直轄化した甲斐国中地方との連絡を緊密にするため甲府までの整備が急がれ、やがて同一六年までには信州下諏訪で中山道に連結して成立したと考えられている。

 当初甲州海道と呼ばれ、ときに甲府海道とも書かれたことがあったが、海端を通らないとの理由で、享保元年(一七一六)に甲州道中と改められた(以下一緞的な呼称にしたがって甲州街道とする)。

 五街道が本来的に政治的目的をもち、公的な交通・運輸上の機能を果たすために設定されたことは、人馬の継ぎ立てと宿泊の施設を備えた宿駅の開設を必要とするが、宿駅の起立は一様でなく、その時期には遅速があった。

たとえば。甲府盆地東端に位置する勝沼宿(現、勝沼町)の成立は元和四年(一六一八)という。また同年甲府までの七ヵ宿が起立をみたというが、それは石和(現、石和町)・勝沼・上野原(現、上野原町)を含む七ヵ所と推定されている。

 その後に新設された宿駅は多い。甲府柳町宿の成立は寛永一三年(一六三六)一二月である。以前は柳町を含む土居内八町を母町と組下町で四組に組み合わせ、伝馬役を務めてきたが、この年から柳町が請け負うことになったのが同宿成立の契機であった。このように史料の上で宿駅の成立が明らかにされるのは

元和・寛永期(一六一五~四四)であるが、この時期あるいはその後の成立とされる宿駅も、それ以前において事実上宿的機能を果たしていたことを否定するものではない。

甲州街道は四五宿三四継ぎである。

 

しかし、甲斐国内では東端は江戸から一八里二七町余の上野原宿。西端は江戸から四四里二四町余の地に当たる教来石宿(現、白州町)の間、二五宿一九継であった。宿継の数が一致しないのは、人馬継ぎ立ての業務を一宿で負担できないため、二宿以上が日割りで継ぎ立てる、いわゆる合宿が多かったからである。宿高が小さかったことに起因するが、もう一つ宿間の距離が比較的短かったことも考えられよう。

 甲州は山国であるため、山間を縫う街道の道幅は狭い。郡内領の犬目宿(現、上野原町)から猿橋宿(現、大月市)の間、あるいは険岨な笹子峠を越えて鶴瀬宿.大和村)から勝沼宿にいたる道幅は所々わずか一間半(約二・七メートル)ばかりとなる。しかし、勝沼宿から甲府柳町宿へ向かう甲府盆地の平坦部では、ほぼ三間から四間の道幅が続く。当時は人馬の行き違いに必要な二間以上の道幅があればよかったのである。

 

茶壷が通る道

 

 山あいの甲州街道の通行を特色づけたものの一つに、特別の威儀をもって行われた茶壷道中があった。幕府が年間の飲用茶を茶の産地である山城国宇治に求めたための行事で、その初めは寛永九年(一六三二)であるという。

茶壷道中が宇治を発つのは毎年六月の初めごろである。中山道を経て、下諏訪宿から甲州街道にはいって東進する。甲府を過ぎ、笹子峠を越えると郡内領で途中、茶壷の一部は谷村(現、都留市)へ運ばれて、夏の土用中は勝山城に設けられた茶壷蔵に収めておくため、谷村藩に貯蔵をゆだねる。山城である勝山城は桂川沿いに富士山からの冷風を受けて、夏期に新茶の貯蔵をはかるのにかっこうな場所であった。そして一〇月上旬になると、茶壷受け取りの役人がふたたび谷村へおもむくのである。

一見したところ、茶壷道中は甲州街道を賑わす街道絵巻の一コマではある。はたして宿駅や周辺の民衆にとって、その実態はどうであったろう。

 茶壷道中が近づいてくると、宿駅はその準備のため急にあわただしくなる。甲府では通行が数日後に迫ると、きまって細部にわたる住民の心得や、さまざまな規制が町触として発せられるが、その一部に次のようなものがある。

 

茶壷道中町触

 

一、

御茶壷近日御通りなされ候に付、其町々木戸見苦しき所仕直し申さるべく候、

少しも御油断なく破損あるべく候

一、

道・橋掃除の儀、例年のごとく申し付けらるべく候、例の如く縄張りいたし、

小石にて淵を取り、白砂もり置き候様御中し置きあるべく候

 

 しかも、この道中に徴発される街道筋諸村の人馬の割り当てがあった。正保三年(一六四六)韮崎宿(現、韮崎市)から甲府までの間を韮崎宿周辺の村々に課せられた数は、人足六二一人と馬五〇疋で、これが村高に応じて割り当てられたのである。さらに宿駅では、道中に付き添う諸役人に対する進物その他接待の負担もあった。茶壷道中は、街道の風物詩どころか、沿道の民衆にとつては、まったく厄介物以外の何物でもなかったのである。

 

甲府城下の甲州街道

 

甲州街道を西進した場合、板垣村で甲府善光寺参道の先を鈎の手に曲がると、いよいよ甲府城下へはいる。まず城下東端の城屋町で、ここから和田乎町・下一条町・上一条町と直進する。ここで南へ折れて金手町となるが、街道は同町で西へ曲がる。町名は街路が曲尺の形をとることに由来するという。

 次は城下目抜きの八日町である。

「此町へ入ると、向ふに八日町見附見ゆ。

呉服屋・薬種屋・合羽屋などがあり、

府中第一のよき所也」(『裏見寒話」)

 

と、記されるように、大商店が多く、城下商業街の中心地であった。そして、一丁目と二丁目の角を「札ノ辻」といい、高札場があった。

 やがて、南北の町並をもち「府中の伝馬町」ともいわれた柳町宿で折れて南進するが、同町三丁目と四丁目を分ける道を西へ曲がるとすぐ二ノ堀である。街道はここで屈曲して、二ノ堀の南に沿って片羽町を西進する。北側が堀で、南側に家並をもつた片側のみの町であったことから、当初「片場」の字を当てたのが町名の起こりと伝える。そして西青沼町が城下の西端である。

 さて、柳町宿は江戸から三五里二五町余、甲府城下では最大の人口を擁し、各種の商人が多かった。二丁目に本陣と脇本陣が、三丁目に問屋場があった。旅人の往来で賑わう宿内には、江戸時代後期に三四軒の旅籠屋が営業しており、安永二年(一七七三)には一軒につき二人までの飯盛女を置くことが公認された。その後、風紀の乱れを理由に、飯盛女引き払いの命令が出されたが、宿駅の表敬と営業の困窮を訴える旅籠屋の願い出によって許されていた。

 

駿州・武州・信州へ通ずる諸往還

 

 甲州を東西に横断する甲州街道が幹線道路であるのに対して、これから分岐して駿州・武州・信州へ通ずる往還がいくつかあった。それらはすべて戦国期以前の道路を基として、近世の甲州と他国を結ぶ交通体系に組み込まれていったものである。

 まず、内陸の甲州に海の幸をもたらすのは南接する駿州からで、これには三筋の通があった。

 

鎌倉往還

 

一つは鎌倉往還である。甲州街道石和宿から分かれ、御坂峠を越えて富士北東を通り、籠坂峠を経て駿州駿東都須走村(現、静岡県小山町)へ出る道筋で、相州小田原宿(現、神奈川県小田原市)へ通じている。甲斐における最古の官道であり、鎌倉時代には政治的・軍事的要路となったが、江戸時代になると甲州と駿・豆・相三州との間の商業路としての役割をになった。とくに海産物が甲州へ運ばれる道で、次のように述べるものもある。

 魚類は総じて駿州沼津より三坂峠を越え、黒駒道運送。行程二十里。秋冬春は替らず、就中鯛多く、江戸よりは価至て下直也。其余は価不定。夏向は塩物多し。其内、塩まぐろ・煮貝・塩見・ふづは(ソフタカツテ)何れもれも駄荷にて来る。(「甲斐の手振」)

 

中道往還

 

 次に中道往還は、甲府城下南端から町続きの遠光寺村(現、甲府市)に発し、御坂坂・阿難坂を越えて精進・本栖両湖畔の間を抜け、富士酉麓を駿州根原村(現、静岡県富士宮市)へ出て、東海道吉原宿(現、静岡県富士市)へ達する道であった。甲駿の通路三通のうち中間に位置したことにその名があるという。鎌倉往還とともに、魚介類など海産物が馬の背で運ばれる輸送路であった。

 

これに対して、甲駿両国を富士川沿いに最短距離で結んだのが駿州往還で、河内絡また身延道とも呼ぶ。城下の西青沼町(現、甲府市)で甲州街道から分かれ、鰍沢(現、富士川町)を経て河内領にはいり、甲州南端の万沢宿(現、富沢町)から駿州宍原村(現、静岡県清水市)を通り、東海道興津宿(現、静岡県清水市)へいたる道筋であった。途中、河内領は富士川の両崖に沿って長く延びた河谷地帯で、人馬の通行に困難な崖道が多かった。

 

秩父往還・青梅往還

 

 一方、戦国期武田氏時代の軍用道路として、西関東への道に雁坂口と萩原口の二つがあったが、江戸時代になると、前者は笛吹川を遡って北上し、雁坂峠を越えて武州秩父郡へ通ずる秩父往還、後者は甲府から北東へ大菩薩嶺の険を湛え、奥多摩の渓谷を抜けて武州多摩部へ通ずる青梅往還となった。

 

佐久往還

 

もう一つは、これもまた武田氏時代に東信濃方面への軍用路であった平沢口が、この時代には佐久往還として、甲州街道韮崎宿と中山道岩村田宿(現、長野県佐久市)を結んだ。

韮崎宿からは南へ富士川三河岸の一つである鰍沢を経て駿州往還となっていたことから、佐久往還は交易の道として重要であった。

 

青梅往還 大菩薩峠越えの難路

 

 青梅往還は大菩薩峠越えの名もあったように、最大の難所が大菩薩峠であった。山中の上下は六里といい、その間は人家がない険路である。

 この山道は、直接には東方の都留郡小菅村(現、小菅村)・丹波山村(現、丹波山村)と西方の山梨郡上萩原村(現、塩山市)とを結んでいる。峠には妙見大菩薩が二社配られていて、一つは小菅村に、もう一つが上萩原村に属し

ていた。両村間の交易について甲斐国志は以下のように述べている。

 

萩原村ヨリ米穀ヲ小菅村ノ方へ送ルモノ此ノ峠マデ持チ来リ、

妙見社ノ前ニ置キテ帰ル。小菅ノ方ヨリ荷ヲ運ブ者、

峠ニ置キテ、彼ノ送ル所ノ荷物ヲ持チ帰ル。

此ノ間数日ヲ経ルト雖も盗ミ去ル者ナシ。

雪降リテ二月末ツカタ、漸ク往来スル比、

互ニ荷物ヲ送ルニ、去ル冬置キシ物紛失スルコトナク、

相易(か)ヘテ持チ帰ルナリ。

 

峠が両村の物資交換の場であったことで、大菩薩峠という難場が生み出した、いわゆる無人交易が行われていたのである。

 江戸時代末期の安政二年(一八五五)、甲州街道の石和~上野原間の二一宿が、丹波山村とそれに加担した上萩原村ほか二カ村を相手に起こした丹波山村新道故障の出入(紛争)があった。これは丹波山村が峠越えの難路を避けるために、新道を開く工事を始めたのに対し、これまで甲州街道継送りの江戸や武州八王子方面への甲信両国の商市物をはじめ、徒来の旅人・諸商人がこの新道を利用するようになるのではないかという危惧を甲州街道の宿が抱いたからであった。この出入に際し、丹波山村が出した返答書は、峠越えの実情を具体的に語ってくれる。

 大菩薩峠は高山険阻で、冬春は大雪が積もると人も牛馬も通行は途絶する。麦秋は時日を見合い、穀物その他の物資を買い入れて荷印をつけ、上萩原あたりより峠の項上まで付け送り、それから丹波山村まで牛で持ち下げるような場所であった。この時を荷渡しと呼び、牛馬主ともに互いに申し合わせて荷物を

付け込み、出入の日限をきめていたが、多くの荷物のため時々日を取り違えたりして、右の場所へ留荷となって、雨雪の被害を受けて濡れ傷みを生ずることがあった。とりわけ春先や冬向の時節には、高山の烈風で雪が降り重なって、牛馬や旅人などで死失するものがあり、また、風のために手足に雪やけで障害

を生じ、農業を営むことができない者が出て難渋するしまつ、というのであった。

 丹波山村は農業三分、山稼ぎ七分で渡世する山村である。白箸・炭・折敷・下駄その他の林産物を西は甲府まで、東は武州青梅方面へ送って売り、日常必要な米穀や塩・味噌その他の物資は、上萩原・甲府方面から買い入れて生活してきたというが、小菅村も同様であろう。

 このような小菅村・丹波山村と上萩原村方面との間の交易のありかたからみて、大菩薩峠越えの往還が商品輸送に果たした役割は小さかったのではなかろうか。

 

廻米と塩の富士川水運

 

 江戸から甲州を横断し中山道に結ばれる要路であった甲州街道と、甲府盆地南部から駿州に通ずる富士川水運は、近世甲州における主要な交通路をT字型に示している。

 笛吹川・釜無川など甲府盆地の諸河川を合して南流し、やがて駿河湾に注ぐ富士川に水運が開かれたのは、慶長一二年(一六〇七)徳川家康の命による角倉了以の開削以後である。こうして整備された川丈一八里という舟運の起点となったのは、鰍沢(現、鰍沢町)・青柳(現、増穂町)・黒沢(現、市川大門町)の三河岸で、終点は駿州の岩淵河岸(現、静岡県富士川町)であった。

 三大急流の一つに数えられる富士川は難所が多かった。岩石の多い急流に用いるため、舟は平底で抽先と船尾が高くなっていて、見た眼に薄いところから笹舟、あるいは高瀬舟と呼ばれた。

 三河岸から笛吹川は石和、釜無川は韮崎まで遡る舟を近番船といい、この舟で集められた荷は三河岸で積み移されて、ここから岩淵まで一気にこぎ下るのである。享保一七年(一七三二)の「甲州噺(はなし)」は次のように書いている。

 

鰍沢村より駿州岩淵と申す所迄、川長十八里の所を三時・四時程(約六-八時間)の間

に乗り候舟なり。此舟帰りには四日程にて引上げ候。右の通船、鰍沢・青柳・黒沢と申

す三ケ所の川岸に、舟数二百四五十般余これあり。

 

 富士川水運は元来、甲州の年貢米を江戸へ積み送る〝廻米にあった。三河岸には年貢米を置く「御米蔵」が設けられており、一艘に米三二俵を積んだ番船をもって岩淵河岸へ運送した。そして、岩淵から蒲原浜(現、静岡県蒲原町)まで陸付け輸送、蒲原浜から清水湊(現、静岡県清水市)へ小廻し、清水湊から江戸浅草蔵前へ大廻しとなるのである。とすれば、富士川水運が事実上完結する所は清水湊であったといえる。

 舟運は一般旅客に供されもしたが、下り荷として甲州産出の米穀類や生糸・煙草・木炭などのほか、信州の諏訪・松本方面から中馬で韮崎宿を経て鰍沢へ運ばれてきた諸商品が搬出されていった道であることに注目しなければならない。さらに重要なのは、甲州にとつて塩の搬入路であったことである。内陸国甲州の人びとの生活に欠くことのできない塩は、これまで甲駿を結ぶ三通などを経て運ばれてきたが、ここに水運が塩の道となったのである

 いわゆる上り荷の中心となった塩は、江戸時代初期には主に駿河湾一帯で生産されたものであったが、一七世紀後半以降、全国的な商品流通の進展にともなって、瀬戸内産の竹原塩・波止浜塩などに変わっていった。

 富士川を上る塩の量は、化政期(一八〇四~三〇)以後は年間、大俵(一二貫目俵)でおよそ一二万俵といわれた。これは曳舟で四日間ほどを要して三河岸に運ばれた。そこから、各地へ馬荷となる塩は、国中地方の需要をみたす共に、信州の諏訪・伊那・佐久方面へ供給されたのである。そのほか、上り荷は魚・瀬戸物・藍玉・干し鰯・畳表などがあった。

 

身延詣での賑い

 

甲府城下の西青沼町と、韮崎宿に発する駿州往還は、三河岸の一鰍沢で合し、そこからは富士川右岸を泉州へ通ずる往還であった。

そして、河内領の半ばほどに位置する日蓮宗経本山の身延山久遠寺(身延町)へ参詣する人びとの道筋でもあったことから、身延道の名があった。

 石和宿(現、石和町)の笛吹川河岸から身延山への下り舟を利用する者もあったが、甲府城下で宿泊し、平坦な鰍沢への道をとる者が多かった。そして、鰍沢から大野まで舟で下ることもあったが、水路によらず陸路をとると、

「大方、山添ひの道にて、富士川の西の岸なれば、

或は嶮しきがけ路をよぢ、或は河原の石間を伝ふ、

されば、足もとはいとむずかしきけれど、

山川のけしきはえもいはず面白し」

 

と記すのは、国学者黒川春村の「並山日記」で、彼はこの道を通って身延山へ詣でている。

 古くは寛文年間(一六六一~七三)、甲府盆地西部に徳島堰を開削する大土木工事の発端となったのは、江戸の商人徳島兵左衛門が深く信仰する身延山参詣の途次、その地の水に恵まれず芝間の多い状況を目撃したことによるといわれ、また元禄九年(一六九六)、俳人山口素堂が代官桜井政能に協力しての濁川治水工事に従事することになったのも、その前年、素堂が亡母の遺志を継いで身延山詣での帰途、甲府に滞在中での桜井との出合いによっている。

 身延参りが普及するのにしたがって、文人による参詣の紀行も数多くみられるようになり、十返舎一九の『身延山道中ノ記・金草鞋十二編』も書かれるわけである。

 文政一三年(一八三〇)三月、武田勝頼の二百五十回遠忌に当たるので、土浦藩士の吉田兼信(かねのぶ)が、藩主の祖で勝頼に殉じた土屋惣蔵や勝頼の墓に詣で、また武田氏由縁の社寺参詣のあと、甲府から身延道にはいっていく。そのときの紀行は、「甲駿道中之記」にくわしい。

 彼は身延の町へ着くが旅宿がないため、表で小間物や荒物を商っている商人宿に泊まることになる。風呂もないので隣家で貫い湯をし、食事は魚などなく、莱に油揚げ玉の味嗜汁で口にもはいらない。翌日、身延山に登ったが、先年七堂伽藍が塊亡して(文政七年・一二年両度の火災による)普請中であった。山を下って大野村から富士川の下り舟に乗る。舟の長さは四間余、幅四・五尺、天気が続いて水量が少ないため、ときどき舟底が岩横にあたって胸に響き気味が悪い。南部村(現、南部町)の河岸に舟を付けて休んでいると、ここの女どもが田楽や餅・団子などを持ってきて押し売りをする。買わないといろいろなことをいって罵るさまは興がある、と、当時有名だった南部河原の押し売りにまで筆がおよんでいるのである。

 年間を通して、身延通が賑わいを示すのは、毎年一〇月一三日、身延山で行われる大法会であった。いわゆる身延山会式である。四方から老幼男女の群参はおびただしかった。このときは、鰍沢と黒沢の番所を往来する参詣の女人が多いため、甲府の信立寺以下、日蓮宗五ケ寺の証文をもつて女人通行を認めたといい、また、会式中賑わう鰍沢の酒食店は、土地の者ばかりでは足りず、甲府や市川大門から男女料理人を集め、酒肴の類の仕入れも多かったという。光寺の今昔 『甲州叢話』 村松蘆洲氏著 昭和十一年
(一部加筆)
甲府駅から東上の電車に投じて、次の酒折駅に到る間、北の方を望めば、欝蒼たる板垣山の麓に、蘶然として半空にそびゆる大伽藍が見えるのが甲斐の善光寺である。全国中京都・奈良に於ける巨刹を除けば、信濃の善光寺とこの寺の如き宏大なるものは稀である。
〔武田信玄〕
寺記によれば、天文二十年(一五五一)の春、武田機山公が信濃の村上義清と争った時、火を敵陣に放った処が恰も風が烈しかったので、其余炎が図らずも善光寺に飛火したため、寺中の僧坊は一宇も残らず忽ち灰燼に膵した、急火の事故、諸彿尊像を持出す暇もなかつた。定めし焼滅したものと思ったが、不思議にも安泰であつた。之れが薦め戦後に御仮屋を造ってこれを移し奉った。
その時信玄公の申さるゝには、
「兵火の余炎が如来の伽藍を焼失した事はその罪は軽くない、若しこの後事に信州全部が我有に帰した時には、甲州に一寺を建てゝ如来な安置しその罪を償い奉らん」
と、且つ願う事には御威力を以て信州残らず、我有に辟する様にと祈願し、干戈が息むにあたって後、善光寺を甲斐に建立する企てをした。
 弘治元乙卯年(一五五五)の春、公はまた甲府を発して木曾に向われ、遂に軍を進めて七月二十六日、越後の上杉謙信と川中島に封陣した、此の時は火勢の為に先年の如き焼亡々憂って、一時同国佐久耶禰津村に本尊並に寺中の霊彿を移して置いた。そこで永禄元年の九月本尊ならびに諸彿を禰津村から甲府に動座して一と先ず上條の法城寺の彿殿に納め奉った。法城寺の旧記には永禄元年(一五五八)九月十五日酉の刻、信州善光寺を当寺の彿殿に奉安したとある。また信州善光寺の古縁起によると、
「甲州の武田晴信、信州川中島へ馳せ出る虚に、越後園長尾景虎、水内郡に出向き一戦に取り組み、二夜三日戦い、長尾景虎合戦切り負け、飯山の城に引退く、弘治元乙卯年(一五五五)七月三日、武田晴信、信州佐久郡禰津村に請しあり、後に永禄元年(一五五八)八月十四日、甲州に如来遷座せり」
とある、一説には正親町天皇が勅して善光寺如来を戦争のなき安国の地に奉安せよと、宜うたからだと云われてもいる。
 永禄年間機山公が善光寺を板垣の地に建立した事は、何の関係から此の地を定められたかといえば、世に称する如来の大檀那たる善光居士の墓所のある由縁の地として、大伽藍を造営したものである。
〔本多善光・善佐〕この項の資料は未見
伝うる処によれば、人皇三十五代皇極天皇の御宇、本多善光・善佐の二人は信濃と甲斐を領し、善佐は信濃を、善光は甲斐を夫々治めた。善佐は信濃の国に大伽藍を造営し、三国伝来の本彿を安置し、爾来其家は継続して居った。
 (甲斐)善光寺は善光逝去の後、自然と衰えて仕舞ったが、善光寺の前身である十念寺といふ寺は善光が建立したらしい。

〔江戸の作左衛門 甲斐国善光寺本尊〕
 江戸の番町に紅葉の番所といって、此所に高三千石を儲する本田作左衛門といふ旗本があった、此の家に三尊像の尊像が伝わり、裏書に此の尊像は「甲斐国善光寺の本尊」であると書いてあった。此家の組先の作左衛門が、或る合戦の時に一人の敵を組み伏せて、首を取らんとする途端に、敵の懐中から光明が射したので驚き見れば、一幅の尊像であった。それが不思議にも本田家に無くてはならぬ宝物であった。天保九戊年(一八三八)十月十四日当時江戸日本橋通三丁目に善光寺の江戸詰所があって、住職の順能奄諦善と講中の者とで、本田家へ推参して本尊を拝見したことが記録に残っているが、これは善光寺の前身である十念寺の本尊であつたものと想う。
金堂から西北に行くこと三町余の所に善光塚と言い、また四位殿塚ともいうて四、五坪の円形の塚の上に立てられた野石に善光の碑と刻されてある。周囲には、大きな二・三本の松の樹が繁っている。また十念路といふ地や、南善光、北善光等の土称のある事から考えて其由縁が想われる。
〔御堂建立〕
 永緑元年(一五五八)二月十六日巳の刻如来を板垣の仮屋に移し、同年の十月二日から御堂建立に取かった。山本勘介が普請奉行として萬事を指図し、次いでで跡部大炒助が作事奉行として工事を進め、永禄七年(一五六四)七月十六日上棟式を拳げた。永禄元年斧始めをして七ケ年を要した。当時の風説には甲信両国三ケ年の貢納を以って建立の費用に充てたといわれる程巨額の金を要したと云い、常時の信濃善光寺州七世の住職、本願鏡室上人を開基とし京都知恩院の末寺となった。本堂の高さは、七丈五尺、桁行廿八間、梁間十二間、廻りは欅の丸柱が百三十六本、内陣が二十八本、これは皆六尺の金塗柱で其下張りには法華経の経巻が用いられた、定尊沙門が四寓八千部の御経を一々書写されたもので、常時用材不足の為に更に切り出しの許状が武田家から下されてある。
  善光寺金堂材木不足の所於八幡の天神宮可剪之趣厳重之御下知候者也
   戊辰十月十日
      ㊞ 跡部大炊助奉之
      大本願御房
 竣工の際法事を司どったのは.遠州巌水寺の源瑜上人であった。上人の生国は出羽の図であって、四十歳の頃より五穀を断って木食をし、其折善光寺の大勧進々勤めていた。機山公が善光寺建立の節は、寺内に真言宗の小院があって不断院といった。東山梨郡八幡社寺上の坊末であった。源瑜の没後は上の坊が大勧進に補したので、建立常時の金堂の絵図、その他の古記録は八幡上の坊にあったと伝えている。金堂建立後、元亀三壬申年(一五七二)五月上旬より七月十六日まで供養を行い、大法会は国内大小となく一般の寺院に命じて其宗旨によって読経をさせ.内陣に於いては四十八日別時の念彿を執行した。第一座は長禅寺の高山和尚が勤め、僧侶一日の総数は二百人以上、その時の大導師は増上寺第十一世雲誉上人圓也大和尚であった。
〔織田信長・大泉坊・小山田信茂〕
 其後天正十壬午年(一五八二)三月、織田信長が当国に襲来し、其の先手は長子の信忠であったが、信忠が安土に帰陣したあと、信長は国内諸所を巡見した。これより先織田に内通して勝頼を新府から欺き出し、武田家をあの結果に陥らしめた逆臣小山田信茂の最後が機山公が建立した此寺であった事は是も因縁というべきであらう。信長が当時滞陣中小山田は御目見得の為罷出でた。信長は小山田が主君勝頼の為に陰謀を企てた事を憎み.御手廻り衆に命じて之を誅しようとした。小山田はこの事々聞き付けて夜中旅舎に逃け込み、ここから追はれて、また善光寺の金堂の縁の下に逃げ隠れしいた。寺内に大泉坊といふ強力の山伏が居ったが、小山田の隠れているのを見付け、縁の下より追出して西板垣に於いて討取った。信長は大泉坊を召寄せて、小山田を討取った功労により、善光寺の事は機山公の時の如く、地領等諸事相違ある可からずと申し渡され、大泉坊には黄金五枚と時服とを與え、また善光寺内にては諸軍狼籍致す可からず候段との触出があった。大泉坊は文珠院と称して越後の人である。当国に来って当山開基本願鏡室上人の恩顧を蒙っていた。その後本仏入洛の折も上人は大泉坊を召して、萬事注意し心を配り、永く当山に在って奉仕すべき様との言付もあり、寺内本願寺屋敷は残らず大泉坊に輿へ、大泉兄弟は多年学ぶ処の修験道をやめて、当寺の供僧に加えられ子孫も永く其職を継いだ。小山田信茂の墓は、東光寺の南から善光寺の山門南へ通ずる道路の傍にあるが、年々開墾されて今は葡萄畑となっている。小山田は武田家に叛を謀り、勝頼公を欺き、父子敗死の後は織田氏からは沢山の褒美に預る心底で謁見した虚、却つて不忠の臣として、哀む可き最後を遂げ、自分許りでなく一味の小山田八左衛門・小菅五郎兵衛等まで同じく誅せられたのは、当然の結果というべきである。年々武田神政の祭典に御供をする武者行列の中に、昨年からは小山田信茂の姿が見えなくなったが誰も不思議とはしなかった。
〔徳川家康〕
 その後天正十王午年(一五八二)八月、徳川家康入国の際、前者の例により二十五貰文を同寺に寄進された。
その朱印状は

甲斐国善光寺領松本内十二貫文、穴山内七貰五百文、国衙内五百文等事
右寺領不可有相違之條如件 天正十一年四月十九日名乗御朱印

此時鏡空上人は女儀であらるゝによって、時の老職大蔵堂明、秋山助秀を以って御造営のことや山林下付のことを願い出たところ、先規の通りに許しがあった。同年家康は本尊前に持扇並に紙一折を奉納した。
〔加藤遠江守光泰〕
天正十九年(一五九一)四月より豊臣秀頼に代って封を本国に受け、二十四萬石を受領した加藤遠江守光泰も、如来の尊崇も厚い人であった。主命蒙ってて甲府城を築いたが、まだ成らない中、朝鮮軍に従い、文禄二癸巳年(一五九四)八月二十九日、朝鮮国釜山浦に於いて、病の為に卒去し遺命によって其家臣達は遺骨を奉じて、この寺に埋葬した。墓は本堂の東北垣内に五輪の石塔があり、瑞垣の前には九基の石燈籠が立っている。塔の正面には空・風・火・水・地、と一石毎に刻し地宇の石に一曹渓院殿剛園勝公大居士、文禄二年癸巳八月二十九日とある。向って左側に
公為甲斐国守也、朝鮮之役将兵在釜山浦、以病卒、実文禄二年癸巳八月二十九日也.群臣奉枢帰甲斐国葬善光寺境内
右側に
元文四年(一七三九)巳未二月二十九日、
六代孫豫州大洲城主従五位下遠江守藤原朝臣泰候謹誌
とある。埋葬後に墓を建てたのであるが、それは長い間荊棘の中に没していたのを百四十五年後に、光泰の子孫である加藤大洲の城主加藤泰侯が詩碑を埋めて、其上に以上の墓所を改築したのである。
〔浅野弾正少弼長政〕
そのあとの当国主に封ぜられたのは浅野弾正少弼長政である、長政は文禄二甲午年(一五九四)正月より慶長五庚子年(一六〇〇)まで国内に居り甲府城を築いた人で、常に如来を尊信し、此寺の興隆に努められた。その事業の著るしいのは、金堂の内陣を修補して金の間となし、また其上仏壇の東の間が空虚で見苦るしいというので、東邦松里の放光寺住職に命じて、国内中を尋ね、大体の詮索をさせ、西山梨那千塚村の光增寺の本尊の阿弥陀坐像六尺余のものと、北宮地村の大佛堂の本尊の禰陀坐像六尺余のものと、武川郷武田地蔵堂の坐像四尺余のものとを、引移すことゝし、浅野氏の家臣梶河彌五作が奉行として、これを取扱った。梶河の書付に 
態々令啓上候、仍弾正様御意.武川武田宮地大御堂佛、北山筋干塚村の霊彿、恵林寺法光寺の口入の上、三ケ所へ本尊善光寺可有入彿の由の御意に候、以吉日為移可申候、其分可有御心得候、人足の事は其の筋にて可申付候 恐々謹言
   極月十三日                 梶河彌五郎
とある。明治三十九年(一九〇六)九月六日付を以て、国宝に指定された、阿禰陀如来及び両脇侍像三躯二組は、千塚村の光増寺と北宮地村の大彿堂から移したものである。​





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最終更新日  2020年12月10日 19時34分55秒
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