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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年12月12日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

山梨県の歌碑 『歌碑を訪ねて』 宮坂万次氏著

 

   あさかげ叢書大第七十八篇

   平成10年刊 歌碑を訪ねて刊行委員会編

 

【 謝 】 日頃お世話になっている富士見図書館でふと眼にしたこの冊子、その努力に敬服しながら読んでいると、山梨の県の歌碑が書されていた。今紐解くと山梨県人さえ忘れようとしていた記憶が甦って来た。本当にありがい事と感謝申し上げたい。(山梨歴史文学館 一部加筆)

 

父の記憶 宮坂彰志 (宮坂氏三男)

 

父は、いつも原稿を書いたり短歌を示削していた。本製の「ちやぶ台」の前に座り、いろいろな本を広げながら、髪の乱れも気にせず一心に原稿に向かっていた。それが私の記憶している父の姿である。

 確か中学二年の頃だったように思う。学校で、にわかに仕込んだ桑原武夫の「第二芸術論」を私がふりかざして、父と激しい論争になった。どのような反論であったかは詳しく覚えていない。最後は「おまえは間違っている」と言ったきり、悲しい表情になり口をつぐんでしまった。あまり諍いを好む人ではなかった。

 私は、今でも自分の不明を恥じている。というのは、短歌をもって自己の生活や叙情を表現できること、また、表現することの素晴らしさ、豊かさを感じるようになったからである。

 さて、「歌碑をめぐりて」には、私にもいくつかの思い出がある。ひとつは、掲載されている歌碑には、小学生の頃、父や可愛がって頂いた短歌会の方々と訪れたものが数多くある。歌碑を見るため、薮などは気にせずに、どんどん掻き分けて行く父であった。拓本の取り方も教えてもらった。

 それから、私は、父の原稿に修正を加えていた一時期がある。父の文章は、いつもどんどん長くなって、ついには主語と述語の関係がわからなくなってしまうことが多かった。その長い文章を短くコンパクトにする作業をしていた。しかし、これも私が諏訪を離れることで終わった。

 とりとめもない思い出を書いてしまったが、今改めて、短歌一途に進んで来られた父の幸せを感じる。これも、短歌会の歌友の方々のおかげである。そして、この度は、多くの方々により「歌碑をめぐりて」を本に纏めて頂けるという。感謝の気持ちでいっぱいである。

 最後にこの出版に際し、多大なるご尽力を賜った宮阪定先生、小林正一先生をはじめ、刊行委員の皆様、あさかげ短歌会の皆様に、家族を代表して御礼申しあげます。 (一九九七年八月十五日 記)

 

あとがき

 

宮坂万次先生が永遠の眠りにつかれてより早くも四年の歳月が経とうとしている。

 先生は、短歌が人の心を豊かにし、潤いをあたえ、心の拠りどころとなり、生きゆく証として、短歌とともにある人生のしあわせを説かれた。

 一人でも多くの人が短歌に親しみ、短歌のよさを知り、その深い魅力にふれられることを希って、諏訪地域をはじめ県内各地の短歌グループの指導に日夜奔走され、今日のあさかげ発展の基礎を築かれた。

 先生のライフワークともいえる「歌碑をめぐりて」は昭和四十六年四月号より歌誌「あさかげ」に連載をはじめ、亡くなられた年の平成五年十二月号まで実に二五二回続けられた。

 一ページ三段組、字数一二二〇字に写真を添えての好散文は文化の香り高く、短歌作品がページを占めている歌語のなかにあって、砂漠を行く旅人がオアシスに出遇った時のような、やすらぎと潤いとを与え、一服の清涼剤として多くの愛読者とファンをもっていた。

 お読みいただくと分かるように、それは、単に歌碑の形状や歌の解説にとどまらず、歌人の生い立ちから歌歴をはじめ、その人物像、歌碑建立にいたった経緯、周辺の立地や自然の風光など、実に多角的に取材・調査されている。

 私は、例年のあさかげ全国大会をはじめとして、先生と旅行を共にしたことは数えきれない。

 先生は、旅に出られるときは、行先や、その周辺及び旅程コースに沿った地域を文献により調べ、その地の文化団体や観光協会等に問い合わせて、歌碑に関する情報や資料を取り寄せ、歌碑取材に要する時間を組み込んで旅行計画を立てられた。また、旅先の宿では皆が寝ているうちに起き、原稿用紙とカメラをもって歌碑の取材や作歌に出掛けられた。毎月、取材の為の旅行に出かける訳にもいかなかったので、出た時には出来るだけ多くの取材をしておき、原稿切れとならないようになされていた。

 このようにして、二十二年という長期連載をされたわけだが、その陰のご苦労はたいへんなものがあったことと思われる。(中略 刊行委員会代表 小林正一氏)

 

山崎方代歌碑 山梨県東八代郡中道町右左口

 

  ふるさとの右左口郷(むら)は

骨壷の底にゆられてわが帰る村

 

 中道町右左口は、甲斐の国と駿河を結ぶ古道の郷であった。三筋ある甲州と駿州への道の東の若彦路、西の河内路のまんなかの街道であったから中道と呼ばれ、現在、中道町の町名ともなっている。

 戦国時代の武田氏の戦の道、江戸時代には物資の輸送路として賑わい、昔は馬子たちが、海の無い山梨へ魚を運び、塩を運んだ道でもあり、右左口はその宿の一つであった。

 放浪の歌人と呼ばれた山崎方代は、大正三年(1914)十一月に右左口に生れ、若く両親を失い、ただ一人の姉を頼って上京し、少年時代から志していた歌の道を歩むことになった。

方代は昭和十六年(1941)に一兵卒として召集をうけ、南洋の各地を転戦して、右眼に銃弾をうけて失明して帰還したが、就く職のすべてに見離されて、妻帯もせず放浪の人生を歩むことになった。

 歌壇への登場は、昭和三十年に出版した私家版歌集『方代』が、会津八一の眼にとまり、窪田空穂に評価された。その後、吉野秀雄に見いだされて、方代短歌と呼ばれる極めて独特な歌風を築いた。

 方代は岡野桂一郎の「寒暑」に、後に玉城徹の「うた」に作品を発表して、故郷の右左口に、肉親に寄せる思いと、人の心の根源にふれる人間愛に溢れた多くの作品を遺した。

 方代は、昭和四十五年に、故郷の菩提寺の円楽寺に父母の墓を建てている。そして墓碑銘として、

 

父山崎龍吉母「けさの」の、ここに眠れ、

兄龍男をはじめ若く幼くて死んだ八人の兄弟姉妹、

ここにやすらぐ、

われ一人歌に志し故郷を出でし、いまだ漂泊せり、

壮健なれども漸くにして年歯かたむく。

われまたここに入る日も近からん。

心しきりにせかるるまま、

山崎家一族の墓をここに建つ。

 

『方代』とあり、孤高の歌人がふるさとへ回帰を詠み、郷愁諦観が沁々と表出されていて心を打つ。

 私たちが尋ねた目は、梅雨の最中の暑い日であり、尋ねあぐねて、町役場を訪ね、青年の好意により車で先導されて尋ね当てた地は、中道町のスポーツ広場・ちびっこ広場と呼ばれる桑畑の中の空地であり、夜間照明はあるが、赤錆びたブランコと鉄棒が、ヒメジオンの花が咲き乱れている広場の中にあった。

 歌碑はその広場の隅に赤松の茂る小さな山と相対して巨大な溶岩をどっしり据えたものであり、高さ、一米八十糎(センチメートル)、横三米一五糎、厚さ、二米三十糎の大きさであり、碑の右側上部には、高さ六十八糎、横一米一五糎の黒御影石をはめ込んだものであり、書家としても名の高い独特の書体の字が六行に彫られていて風格があり、そのななめ左には、方代の略歴が簡潔に

『山崎方代履歴、大正三年十一月、旧右左村右左口に生る。歌集に『右左口』『首』『こほろぎ』がある。  

『ふるさとの右左口郷は骨壷の底にゆられてわがかへる村 方代』

と、彫られており、裏にまわると、方代歌碑建立発起人、五味知之・田申達馬・富永助男・柿島秀男・富永明・小林清一・加藤鉄雄、昭和五十六年四月十九日と記されていた。

 

山崎方代歌碑 山梨県東山梨郡牧丘町加田邸

 

 しののめの下界に降りて来たる時

石の笑を耳にはさみぬ

 

異色の歌人の山崎方代の歌碑を見学したいと願った私たちを、歌仙「美知思波」同人である加田京子夫人が、塩山市の武田信玄の菩提寺の恵林寺の門前で迎えて下さったのは、梅雨の晴れ間の暑い日の午後であった。

 夫人の車に先導されて着いた医師の加山幸治家は、さくらんぼや桃など果樹の畑に囲まれた瀟洒な邸宅であり、本宅の裏には天体望遠鏡を据えたドームがあり、その階下は歌集歌書が整理されている書斎で、その書棚には方代の著書が集められていて私の眼を引いた。

晩年の方代は、親切なこの加田家を幾度となく訪問して歌を遣している。

 方代の歌碑の周囲には、四季桜や松楓など植えられ、碑の前の青芝には自然石が据えられ、沢山の花が咲き盛り風情を添えていて、見るからに品格のある碑であった。

 碑石は高さ丸十五糎(㎝)、横二米の自然石であり、中央部は高さ六十三糎、横六十九糎の黒御影石に、方代の風格のある文字が横に散らして彫られていた。

 

碑の裏面には

昭和五十五年七月六日、歌人山崎方代牧丘の地に至る、

加田幸治・京子夫妻の厚志により川浦温泉に二泊、

歌碑を建つ。

 

昭和五十五年八月五目坂本徳一と刻まれており、又碑の脇には、

 

一九一四 山梨県東八代郡右左口村(現・中道町)に生れる。

一九二九 
右左口尋常小学校卒業。

一九三四 
このころ山崎一輪のペンネームで山梨日日新聞、雑誌青い鳥に投稿はじめる。

一九四〇 
千葉高射砲隊に入隊、
翌年チモール島クーパンに派遣され爆弾の破片で右眼失明。

一九四六 
名古屋に帰還十二月まで東京牛込第二病院に入院眼の治療を受ける。

一九四七 
新宿紀ノ国屋書店で、フランスの詩人フランソワ・ヴィョン
鈴木信太郎訳の詩集に出合い、自己の短歌の方向を開眼。織田作之肋・尾形亀之助・高橋新吉・三好十郎の作品に耽溺する。

一九五五 
方代歌集を自費出版する。
・会津八一・古野秀雄・高見順・唐木順三・小田切秀雄・尾上柴舟・窪田空穂・阿部知二・滝沢修・三好十郎等三百余名の文化人より激励の手紙をもらう。

一九六一~八七年まで
吉野秀雄死去まで師事する。

一九六七  
吉野秀雄追悼歌集に角川書店から五十首選ばれる。

一九七四 
歌集「右左口」(短歌新聞社)を出版する。
角川愛読者賞受賞。

一九七八
山崎方代歌集展(於鎌倉松林堂ギャラリー)。

一九八〇 
「方代歌集」(筑摩書房)
歌集「こほろぎ」歌集「首」(短歌新聞)随筆集(鎌倉春秋社)

を出版すると案内板があった。

 

歌集「右左口」は、放浪の歌人とよばれた方代が、捨てたはずの故郷をそのときそのままの姿であたためている作品が多く、その中には『ふるさとの梅の根元にたまりたる落ち葉の下に帰ろうべしや』などの作品がある。

 また、方代の作品をあげると、

 

うれしくて泣けば泪がこぼれくる雪割草は白い花なり

 

秋が来て夕日が赤い来年もこんな夕日にあいたいものだ

 

母の名は山崎けさのと申します日の暮方の今日の思ひよ

 

などがある。

 

 

窪田空穂歌碑 山梨県東山梨郡勝沼町宮光園

  

峡川の笛吹川を越え来ればこの高はらは皆ぶとうなる里

  甲斐のくに南に傾くた可原にうるる葡萄の房の長き可那

  琥珀なし垂るるぶどうの房を志みこの園に入れば空のあらず毛

  ここにして七百年を愛で継が連かくあるぶ登うの珠のごとき実

  天皇の見めでましきと語りては志らひげ長き園あるし笑む

 

この五言を彫った巨大の歌碑は、勝沼町下岩崎にある大きな葡萄園の宮光園にあった。

 そもそも宮光園は、文久三年生れの宮崎光太郎が、若く志を殖産に立て、明治七年に勝沼の地にて葡萄酒の醸造事業を始めたことから、発展して今日を成したものであり、その姓と名をとって宮光園とよび、太葡萄園となったものであり、光太郎の後を継いだのが松本三良であり、空穂の詠んだ「ひげ長きあるじ」である。

 松本三良はもとは中学校の地理と歴史を教える教師であったが事業を継ぎ、一意品質の改良を加えて宮内省御用達になり、太田葡萄洒株式会社を設立した実業家となり、八十五歳で歿したが、空穂は「ひげ長きあるじ」と詠んでいる。又、三良は能書家であり文化人であったので文学を愛して、多くの人を招き、空穂の歌碑の外に沢山の文学碑や詞碑や句碑を葡釣棚の下につくって、観光客の来る一つの名所ともなっている。

 窪田空穂の歌碑は、昭和二十二年十月十五日に今上天皇が御巡幸の記念碑の近くにあって、自然石の幾つを葡萄棚の下に据え、又つつじの株を植え込んで、高さ一米五十糎、横二米十五糎の自然石をどっしりと置いたものであり、碑の中央を高さ八十八糎、横一米十八糎ほど磨いた中に、やや細く鮮明ではない空穂の歌が彫られていて読みとり難かった。

 空穂は、明治十年に長野県の松本市に生れ、昭和四十二年に満九十歳にて歿したが、生涯歌を詠み、『万葉集評釈』『新古今和歌集評釈』をはじめ、その他随筆・書評・小説など多くの著書を遺した歌人であり『窪田空穂全集』二十八巻かがある。

 碑の裏には、

 

昭和二十元年十月十目窪田空穂先生は七十八歳の高齢にもかかわらず、

差し出の磯の先生の歌碑除幕式を終えられて、

この宮光園に御来遊、

紫雲の如き葡萄を深く賞でられ作られたのがこの歌であります、

依って先生の御快諾を仰ぎ山梨高等学校文芸部

並びに樹海社(まひる野)山梨県支部の協賛を得て永遠に、

この地に歌碑として録することになりました。

昭和三十九年九月十日 

建立者 宮光園主・松本三良

 

と、彫られていた。

 空他の作品は、自然主義的な表現をとり、家・家族・郷土へ視点をひろげ、自己と他者の関係を深め空穂調と言われる歌風を確立した。

 空穂は常に庶民の心をもち、平明を旨としながら厳しく正しい態度の文学を打ち出しながら、苦渋の後人生を肯定し、又、生の哲学を肯定する世界を展開した歌人であった。

 

窪田空穂歌碑 山梨県韮崎市韮崎駅

 

  韮崎の土手の桔梗を折る人の

抱へあますもむらさきの花

 

JRの中央線韮崎駅は、甲府盆地の突端の駅であり、この駅から列車は、延々四十六粁の急勾配を駆け上り信州に至るのである。

 急勾配の処へ停心揚を造ることの出来なかった韮崎駅は、列車を一旦スイッチバックさせ発車させたものであった。

 空穂は、昭和十六年の夏、東京を立ち信州松本の故郷へ帰るとき、韮崎駅付近の窓外の風景を見て詠んだものである。

 当時私は蒸気機関車に乗務しており機関車の窓から線路の土手に咲く桔梗や女郎花に、どのくらい慰められたかわからなかった。当時の旅客列車の韮崎付近の速度は、時速二十五kmぐらいのものであり、野に咲く花の一つ一つが良く見え、速度の遅い機関車から手を伸ばして、あまい句いのニセアカシヤの花など摘んだこともあった。

 碑の歌は、歌集「茜雲」に載っている一首であり、土手の桔梗を摘んでいる少女を印象的にとらえて「抱えあますも」と表現して、当時の沿線の姿を語り、若い目の私の思い出を呼び覚ましてくれる歌である。

 韮崎駅も電化と近代車両の導入により、スイッチバックの必要もなくなり、レールは取り外されて、明るい駅舎が出来、駅前は公園化されている。

 空穂の歌碑は、その駅舎の小公園の中にあり、白樺と公孫樹の若木が印象的であった。

 碑は、昭和五十八年十一月三日、韮崎市の「ともかく歩こう会」と「船山短歌グループ」の力によって建立されたものである。

 碑石は酒折の白い山崎石であり、高さ一米二十二cm、横七十二cmの大きさであり、高さ五十cm、横一米五十cmの台石の上に立てられていた。

 平板の碑石は、表面が良く磨かれており、歌碑の文字は、丸ゴジックの活字体であり、空穂の落款は差出の磯にある空穂歌碑の自筆を撮影して刻んだ珍しい碑である。

 空穂は、明治三十八年二十九歳のとき、処女歌集『まひる野』を出版して、明星派浪漫主義から出発したが、自然主義文学が台頭してきた頃から、自然主義へと移行して、三十九歳のとき出した『濁れる川』は、自然主義短歌の典型を示す歌集として位置付けられたものである。

 空穂は、歌は実感である。実感とは、日常生活の上に得る人生的の感で、これが作歌の対象、取材である。実情とは、実感とともに起こるもので、人生的哀歓であると言い、生活の歌を詠みつづけて、空穂調を確立した。

 空穂は大正六年一月に妻を失い、その悲しみを

 

人呼ぶと妻の名呼べり幾度をかかる過ちするらむ我は

俄にも睦み合ふ子を憐みて見つつし居るや母あらぬ子を

妻恋ふる心にしみて夜深く門涌る人の下駄の音きこゆ

 

 など詠んでいる。

 空穂は満九十歳まで生きて歌を作り続ける一方、古典研究書のいくつを出版したが、また闘争、書評、小説などの著作があり、歌集も二十三冊出版した。

 

 

北原白秋歌碑 山梨県韮崎市 線韮崎駅

  

韮崎の白きペンキの駅標に

薄目のしみて光るさびしさ

 

 この歌碑は、昭和四十四年十一月一日に、韮崎の白鳳山岳会の手により、韮崎駅の上りホームに近い、中央線の高い土手下に建立された。

 当時私は機関車に乗務しており、韮崎駅に旅客列車を停車させると、すぐ機関車の近くにこの歌碑はあり、緊張し渇ききっていた私の心を何とほぐし、歌ごころを育てて呉れた歌碑であったことか。

 その後、中央線の電化にともない、韮崎駅は新築し、駅前に公園も出来てこの歌碑は移されたものである。

 この歌は、白秋が明治四十二年十一月二十日に、この韮崎駅のホームにて詠んだものである。

 明治四十二年といえば、白秋は二十五歳であり、この年臼秋は『色彩の強い印象派の油絵』にたとえられ、官能性豊かな異国情調に彩られた処女誌集『邪宗門』を刊行して、詩壇の脚光を浴びていた。

 歌碑の歌は、歌集『桐の花』に、冬という見出しで、十一月北国の旅にて三首と詞書があり、

 

韮崎の白きペンキの駅標に薄日のしみて光るさみしさ

柿の赤き実、旅の男が気まぐれに泣きて去にきと人に語るな

たはれめが青き眼鏡のうしろより朝の霙(みぞれ)を透かすまなざし

 

と載っている。この『桐の花』の作品は、明治四十二年から、明治末年までのものなので、この三首は『パンの会』の仲間だちと、長野県小県郡大屋を訪ねたときの旅と一致するような気がする。

 北原白秋は、明治十八年(1885)一月二十五日に福岡県柳川市に生れ、本名を隆吉と言った。

 白秋派近代詩・短歌・童謡・民謡・歌謡などに大きな業績を残して、昭和十七年(1942)十一月二日に死去した。

 白秋の処女歌集『桐の花』の歌風は古今集の言語伝統を踏まえながら、清新な情緒と鋭い官能を表現したものであった。

 その後、生命の燃焼をうたった『雲母集』近代閑寂風の『雀の卵』を刊行した白秋は、大正十三年(1924)、前田夕暮・土岐善麿・釈迢空らと、雑誌「日光」を創刊して、アララギ風の歌壇に新風を導入した。

 白秋が歌語「多磨」を創刊したのは、昭和十年(1935)であり、昭和における浪漫の象徴を目ざす運動を起したものである。

 歌集には『白南風」『橡』『黒檜』『牡丹の本』などある。

 臼秋は、あらゆるジャンルに活躍し、多面な詩歌活動をしたが、臼秋の詩精神の中には常に短歌を据えて考えていたといわれている。

 歌碑は、野呂川の白鳳石と呼ばれる名石である高さ六十三cm、横二米五十cmの、極めて形の良い自然石を台石に据えてあり、その上に横七十六cm、高さ一メートル二十六cm親の山崎石を建てたものであり、美しく磨かれた面には、当時奥さんの北原菊子未亡人をはじめ、遺族や門人たちの希望により、きわめて斬新的な活字を拡大して、彫刻したものであり、白秋の文字のみ自筆を彫った歌碑である。

 

宮沢賢治歌碑 山梨県南巨摩郡身延町久遠寺

  

塵点の劫をしすぎていましこの妙の

み法にあひまつりしを

 

昭和六十年十月に、目蓮聖人第七百遠忌が営まれた甲州身延山久遠寺は、『身延様』と呼ばれて全国より信者を集めている名刹である。

 久遠寺の大きな山門をくぐって、小さな石橋を渡ったすぐ右脇に、宮沢賢治の歌碑はあった。

 賢治の歌碑の脇には

生命の充実したものは美しい

 

と刻まれた、大西南堂という書家の詩碑が建ち高い杉の木立の下に梅雨の晴れ間の木漏れ日をうけていて、歌碑の前に立った私の心は法華経の世界に引き込まれていた。

 碑は高さ百四十cm、横は九十二cmの本を開いたかのようであり、又、屏風か衝立かのような珍しい形をしていた。

 両開きにした片側は、高さ横とも六十二cmの黒御影石が嵌め込まれておりそこに、賢治の自筆の文字が彫られて方形の台の上に築かれていた。

 更に歌碑のまえには本を開いた形の中に説明文が置かれ、それには、

 

この碑は法華経の行者宮沢賢治(一八九六 明治29~一九三三 昭和8)の死後、

あの「雨ニモマケズ……」の誌されてある手帳の鉛筆差しから発見されたものである。

われわれもまた法華経を信仰し、

一塵の灯とも点じたいねがひからこれを建立したものである。

 

佐藤寛、昭和三十六年十月、宮沢賢治研究会協賛者建立、

川崎市内藤石材店刻

と読むことができた。

 向って右側の四行は

 

じんでんのごうをしすぎていましこの

 

であり、左側の四行は

  

たへのみのりにあひまつりしを、賢治

 

と読むのでしょうか難解の歌である。

 この歌は信仰厚かった賢治の

 

長い長い歳月を経て……

五百塵点劫などと言われるように、

幾千億万年という限りない歳月を経て

ようやくにしていま、

この遭いがたいありかたい法華経に遭って、

その法悦に身も心も躍るばかりの感激である

 

と言うような歌意だと思われる。

 

 身延山と宮沢賢治とのかかわりは、目蓮上人を最初に身延に招請したのは、波水井領主の南部実長で、後にその末裔が遠野の領主となって移り住んだことから、身延と岩手県と深い関係が生れ、また奇しくも花巻市石神町に身照寺が再興建立されて、南部家の菩提寺となったことと、その身照寺に賢治は葬られた因縁から、歌碑が建立されたものである。

 

又、法華経の行者とも言われた賢治の信仰の極致が表現された作品として、賢治の二十七回忌に因んで身延山久遠寺に建てられた。

 

けんじは明治二十九年(1896)に、岩手県花巻市に生れ、盛岡高等農林学校在学中から、短歌や散文に文才をみせた。卒業後一時上京したが、間もなく帰郷して、稗貫農学校の教諭となった。この聞、大正十三年(1924)に詩集『春の修羅』、童話集『注文の多い料理店」を発表して、詩人・童話作家として、独白の世界を確立した。

 その後、万人共栄の理想をかかげ、農林指導や宗教・文芸活動を通じてこの実践をはかると共に、『風の又三郎』・『銀河鉄道の夜』・『雨ニモマケズ』など多くの作品を遺した。 

 

若山牧水歌碑 山梨県南巨摩郡早川町羽衣橋

  

山襞(ひだ)のしげき辻の山いづかたの

襞に啼くらむ筒鳥聞こゆ

 

日蓮宗の霊地の身延山久遠寺の奥の院として知られている七面山は、身延町の隣の早川町にあり、早川町赤沢はその登山口に当る。

 牧水は大正十三年(1924)六月十六日に富士身延鉄道で身延町に着き、久遠寺に詣でその夜は、身延山と七百山の中間に当る赤沢の宿に泊り、翌十七日朝早く宿を発ち、水鯉取りや筒鳥の声を聞きながら、露の中を七面山にと発ったのは三十九歳のときであった。

そのときの様子は、牧水の「身延七面山紀行」によって知ることができる。

 牧水は七面山に登って、常に懐に入れていた愛用のノートに十六首の歌を書きとめている。

 

雨を呼ぶ嵐うづまける若葉の出に狂ほしきかも水恋鳥の声は

筒鳥のほのけき声のたづきなく聞えてくるかも次にまた次に

とめがたき声なりながら聞えたる筒鳥の声は消すよしもなし

巻き立つや眼下はるけくこもりたる霧ひとところ乱れむとして

今しわが片手あげなばたちどころにとよみかも出でむこの霧の海は

霧の海とよみこもれる底にありて移りつつ郭公きこゆ

 

などの作品があり、歌碑の歌は、ノートにペンで記されていた昔日の作品である。

 

早川町は早くから文化協会かおり、当時観光課長であった郷土史家の深田正志らが、牧水の門人の大悟法利雄と語り合い「出前の……」歌を選び、この歌は牧水が詠んだあたりだと言うことで、七面出登山口の羽衣橋のすぐ近くに建設された。

 碑の裏面には、

昭和四十五年十一月十六日多くの人たちの協力を得て之を建る 

早川町観光協会早川町文化協会

 

と彫られていた。

 又、碑の右方の説明板には、

山襞のしげきこの山いづかたの襞に啼くらむ筒鳥間ゆ

 

 大正十三年(1924)六月十六日身延参りをした若山牧水は、赤沢の宿屋に泊り、翌日七面山に登って奥の院に泊った。この歌はその七面山での作で、筆蹟は当時の歌稿から得たものである。

……随行者大悟法利雄識……と書かれていた。

 碑は高さ七十五cm、横三mに玉石を二段に積み、コンクリートで塗り込み、更に角石を並べた台石の上に、厚さ十五cm、横一m五十cmの平板の石を据えて、あまり大きくなく形も平凡で素朴の、高さ一米五指、横一m五十cmの山崎石を載せたものではあったが、あたりの雰囲気と言い心の打たれる歌碑であり、碑面の文字もベン書きの原稿を拡大した一風変った趣を醸していた。

 碑の附近は、樹齢一五〇年に及ぶ杉や檜の樹が並び、イヌブナ・ブナ・シラビソの樹林が繁茂しており、七面山自然保存地区の表示がされていた。

 又、碑の近くには、法燈の幾基が建っており、『七面山開山 南無日朗菩薩』と染めた赤い旗が風に吹かれていた。

 牧水は明治十八年(1885)八月二十四日に、宮崎県に生まれ、早稲田大学を卒業して尾上柴舟の門に入り、雑誌「新声」に作品を発表したが、後に「創作」を発行し、旅を好み、酒を愛して多くの紀行文を遺している。

 

窪田空穂歌碑 山梨県山梨市差出礎塔の山

  

見かけに並ぶ弟川

ほそぼそと青山峡を流れくだる

 

山梨市小原の四つ角を西へ向い、笛吹川に懸るめがね橋を渡ると、『差出磯』と呼ばれる所に出る。そこは東山梨や東八代地方を一望することの出来る景勝の地であって、今でも訪れる人が多い。差出の磯の上は塔の山と言われて、笛吹川の清流や、根滝の社内に古跡・亀甲橋、万力林など眼下に見ることができる絶景の場所であり、窪田空穂の歌碑がある。

 碑は丸石の幾つをコンクリートで固めた高さ七十五cmの台を築き、その上に高さ三十八cm、横一mの台石を置き、高さ一m二十五cm、横六十cmの山崎石をのせ、その碑面には、空穂の直筆が刻まれていた。

 歌碑になった歌は、大正八年(1919)五月のはじめの頃であり、空穂の四十二歳のときであり、歌人として名声の高かった空穂は、信州高遠の文学青年たちの希望にこたえて、親友の前田晃と連れ立って東京を発ったが、途中甲斐の風物に触れようと、塩山駅で下車して前田晃の案内で向嶽寺や恵林寺を尋ね、さらに牧丘町を経て晃の生家のある八幡社に立ち寄ったが、その道すがら八幡の境を流れる二つの小流が、兄川・弟川であるという前田晃の説明を聞き、なぜか親しい川の名が歌心をそそり、即座に「兄川と弟川ならび……」と詠んだものであるが、歌碑になるときみづから「見かけに並ぶ弟川……」と改めたものであり、

若葉の頃青い山峡を流れてくだる白い兄川と弟川が、眼下に見えるような写生の効いた一首である。

 これは、山梨高等学校文芸部の手で建てられたものであり、高校の文芸部が建立した碑は珍しい。

 差出の磯は、奈良朝や平安時代から、幾多の歌人たちに親しまれた名所であった。

 

古今集巻第七の「放歌」の部、読人しらずに

 

しほの山さしでのいそにすむ千鳥

きみが御代をば八千代とぞ鳴く

 

があり、歌の調子がよいことから、古今集以後、この歌を押えた祝歌が作られるようになり、そのたびに 「塩の山差し出の磯」のと名が出たことから、都から遠い甲斐の国の笛吹川に歌枕が定着したものであろう。

 後鳥羽院作の

 

塩の出差し出の磯のしき波に

千歳を祈る友千鳥かな

 

冬の夜の有明の月も塩の山

差出の磯に千鳥なくなり

 

の作者の藤原家隆

 

志保の山差出の磯の秋の月

八千代すむべき影ぞ見えける

 

前大納言雅言卿、

 

沖つしほさしでの磯の浜千鳥

風寒からし夜半の友呼ぶ

 

権中納言長寸卿などあることから歌人空穂の叙情が生れたのであろう。

 前田晃の随筆集の「人生私語」の中で、晃が空穂と交す言葉があるが、その中で

 

豊かな水が、深い広いよどみをつくっていたんだそうだ。

それが遠く都から来た人たちなどに、

思いもかけない出の中で海近い磯にてあったような気持をおこさせた

 

といっているのはふるさとのお国白慢だろうか。

 琴の宮城道雄の「千鳥の曲」は、差出の磯の歌枕の千鳥からイメージを得て作曲した、名曲とも言われている。






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最終更新日  2020年12月12日 09時24分49秒
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