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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年12月16日
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白州町 馬場氏の居跡 「甲斐国志」名所旧跡の項 

 

 これは、白須家の旧蹟

 

○ 白須西方の広野に馬場美濃守信房の宅跡がある。

○ 郷社若宮八幡神社の南方で東西凡そ二丁余南北二丁。

○ 今は全部田畑となっているが四周に掘り跡があり、邸内に一條の濠を通した跡がある。

○ 邸園の跡とおぼしきあたりに梨の老木があってその地名を「梨の木」と呼んで居る。

○ 古色蒼然たる石祠の屋根石が「梨の木」の有ったと云う藪陰に在る。

○ その南方に一條の低地が在る、そこより高橋の清水と称する冷水が湧き出し自然の谷をなしている。その谷の南方一帯の地を大庭と云う。馬場の跡らしくも思える。

○ その南殿町部落より竹宇に通じる右直に沿いたる地に門が有ったと見え、今に礎石が存して有る。

○ この居跡の北方丘陵の上に姫塚と称する塚がある。里人は信房の墓と称すれども疑わしい。盖しその縁辺の人の墳墓ならん。この丘陵の地は自元寺の故地なると称し現に同寺の所有である。(この箇所も間違い)

 

白須の馬場城址 

 国志は、白須家の歴史を無視し展開されている。白須家は富士吉田に移住する際に土地などを自元寺に委譲したもので、それが後世に、馬場家のものと誤認されたもの。

 

馬場美濃守は常に武田進攻の先陣を勤めていたので、この地域に屋敷があったとは考えにくい。白須家の屋敷として方が史実に近い。馬場美濃守は地域の下教来石や台ケ原田中神社(徳川時代の馬場信成が知行した)などの所縁も後世のもの。

いずれにしても馬場美濃守(後裔を含む)と白須家とこの地域は深い関係が認められる。

 

馬場美濃守のこと『村乃あゆみ』

○ 名所旧跡の項  馬場氏の居跡(実際は白須氏の旧居跡)

 

 白須西方の広野に馬場美濃守信房(白須家)の宅跡がある。郷社若宮八幡神社の南方で東西凡そ二丁余南北二丁。今は全部田畑となっているが四周に掘り跡があり、猶邸内に一條の濠を通した跡がある。邸園の跡とおぼしき辺に梨の老木があってその地名を「梨の木」と呼んで居る。

古色蒼然たる石祠の屋根石が「梨の木」に有ったと云う伝承が在る。

その南方に一條の低地が在る、そこより高橋の清水と称する冷水が湧き出し自然の谷をなしている。その谷の南方一帯の地を大庭と云う。馬場の跡らしくも思える。

その南、殿町部落より竹宇に通じる右直に沿いたる地に門が有ったと見え、今に礎石が存して有る。

 

この居跡の北方丘陵の上に姫塚と称する塚がある。里人は信房の墓と称すれども疑わしい。盖しその縁辺の人の墳墓ならん。この丘陵の地は自元寺の故地なると称し、現に同寺の所有である。

【註】 

 姫塚のある土地は、旭講の社地の横にあり、自元寺の地所ではない。また白須家の墓所の一部は現在若宮神社に隣接する無縁墓地の国道側にあったが、国道開設の折に凡そ五十程の墓石を取り壊し埋めてしまったという。その折近くの人が余り立派であったので、持ち帰って庭に沿えたという。現在も数基見られる。

 またこのカーブの地点は事故も多く、国道開設の折に従事していた朝鮮の人が数人犠牲になったと話された人もいた。

 

「姫塚」は若宮八幡神社の左方に現在もあり、遺骨については織田信長の娘との説もあり、姫塚は現在の前沢(かっては門前と呼ばれた)の北原の地に墳墓があり、ここを「姫塚」と呼び墳墓を整備したが、その後この場所には作物が育たなかったと云う話もある。また北原の墳墓からは装飾品が出てきたが今は一部を残して不詳との事である。又若宮八幡神社の周辺は現在の国道が通る事となり、その時には多くの五輪の塔が地下に埋められたとも伝わるが、一部は好事家の手にあったが後禍を恐れて戻したとも伝わる。 

 

また白須地に隣接する台ケ原田中神社には次のような記事が見える。この社記はその後伝わらず、台ケ原の人でも知る人は少ない。

 

○ 「白州台ケ原田中神社 馬場八幡社記」

 

  美濃守信房ノ鎮守ナリ。

采地ノ節此社地ノ西ニ居住ス。

円中手裁ノ桜同松今朽。

信房長篠ノ役自殺ノ遺骸ハ其臣某が来リテ

居址或ハ此八幡祠ノ側ニ埋葬サシトソ申伝候。

社地…竪二十四間、横十間(二百四十坪)

 

馬場美濃守墓所のある白須自元寺

 

 これによると、自元寺の開基は、江戸の喜八郎である。

 

 自元之神儀弊壊新之贈寺且欲迎其壊於家而仰鎭護也。

柳營幕下小臣、居武州豊嶋郡大塚公五世胤

   *馬場喜八郎義長 旧名義教 拜自 

 

 馬場信房を祖とする馬場喜八郎は、それまで有った位牌を棄却して、新たに創ったのが現在自元寺にあるもので、馬場祖三郎家と自元寺の由緒は全く同じである。

 自元寺は、

 

           『馬場祖三郎家由緒書』

開基 馬場美濃守源公 法号 乾叟自元居士 

 

公七世外孫出家得法同牛込御龍山松原禅寺向陽院惟庸字古同敬書 

信州槙嶋城主甲国武田旧臣新羅后胤馬場美濃守源公諱信房、

始称敬禮師民部少輔、諱政光。

 

天正三年乙亥五月二十一日六十三歳、或作四。

役于参州拾長篠西北之向瀧川橋場自殺。

従者斎遺骨少帰州臺原(台ケ原)墓石朱地或云、

武川之白須村於自元寺以佛古又祭法号如前面矣聞 

自元之神儀弊壊新之贈寺且欲迎其壊於家而仰鎭護也。

柳營幕下小臣、居武州豊嶋郡大塚公五世胤

*馬場喜八郎義長(よしなが) 旧名義教 拜自 

 

【註】

神儀=(位牌(いはい)または墓石などの法名の下に書く位、大覚位などをいう) 

 

それまであった位牌を喜八郎が壊し、新たに作った位牌が現在伝わっている。

 

随って現在の位牌は、天正三年開基ではなく、後のものである。

 自元寺の開基を信房が天正三年に行うことなど出来ない。本人は長篠の戦いで自らの命を絶ち、首実験で信長の前に晒された。当時の戦況からは家臣原何某が持ち帰ることなど決してできない。これは後世、喜八郎の作であると考えるのが自然。

随って、自元寺は喜八郎が再開基した寺ということになる。

 

そこで喜八郎の系譜を見てみる。

 

【註】*馬場喜八郎義長 系譜

 

 房勝の子孫 

 

○家紋 三筋山路 揚羽蝶

(『清和源氏義光流武田支流巻一八四』)

 

❖ 源五郎某がとき、嗣なくして家たゆ。

庶流三郎兵衛信盈が呈譜に、

武田五郎信光が五男一条六部信長、

その二男四郎頼長はじめて馬場を称す。

その男小四郎長広、典二男権三郎(はじめ民部)広政、敬礼師を称す。

その男権太郎(はじめ民部)政次、

その男権太郎(はじめ民部)政久、

その男権太郎(はじめ民部)政長、

その男権大輔(はじめ民部)政房、

その男権大輔(はじめ民部)政忠、

その男権大輔(はじめ玄蕃また民部)房政

その男信房、これよりまた馬場を称すといふ。

 

いま按ずるに、家系詳しきごとしといへども、

『尊卑分脈』を考るに、頼長一条を称すれども馬場を称する事所見なく、

かつ寛永第一の馬場系図の支流吉之助通喬がさふぐるところの譜に、

信房が祖を云う者と異にして、未だ何れが是なることを詳にせず。

よりてしばらく題下にしるして、後勘に備ふ。

 

【註】 敬礼師(けいれいし)=教来石(けふらいし・きょうらいし)

 

❖ 氏勝

 

 美濃守 信盈が呈譜に、はじめ玄蕃民部権大輔政光、後美濃守信房につくる。

武田信玄をよび勝頼につかへ、天正三年五月二十一目長篠合戦のとき討死す。

「妻は小田切下野守某が女」。

   

【註】この家系が、天正四年、信房夫婦の高野山に位牌を納める。

 

 ➡ ❖ 信忠

 

玄蕃 民部少輔、信濃国深師(志)に於いて討死す。法名慈源。

⇒ 女子 青木与兵衛信安が妻。(現韮崎)

⇒ 女子 米倉佐大夫某が妻。(現武川)

⇒ 女子 曲淵仁左衛門某が妻。(現白州町花水)

⇒ 女子 丸子三右衛門某に嫁し、後初鹿野伝右衛門昌久(現甲州市)が妻となる。

  ⇒ 信義 民部 勘五郎

     東照宮(家康)に召されて御南下に列し、

甲斐国白須、教来石、台ケ原等のうちに於いて旧地を賜い、

天正十七年、地を加へられ、後御勘気をこうむる。

  ⇒ 女子 はじめ馬場惣一郎光久が妻となり、後小田切惣三郎某に嫁す。

⇒ 女子 今井刑部左衛門某に嫁し、

後小笠原大学某が妻となり、

また並木惣内正房に配す。

  ⇒ 某  次郎右衛門

  寛永系図、房勝が兄に之を載せて、其余の兄弟姉妹を載せず。

今、信盈が呈譜之に反す。

  信恵信義等と同一人たるや否を詳にせず。

よりて暫く前記して是を弁ず。

  

➡ ❖ 房勝 右馬助 信盈が呈譜に、左近源蔵につくる。

    北条氏直に属し、武蔵国岩槻城に住す。妻は春日下総守景定か女。

⇒ 女子 鳥居彦右衛門元忠が妾。

⇒ 女子 柴佐左衛門某が妻。

⇒ 昌松 又三郎 外祖父小田切下野守某が家を継。

⇒ 女子 真田隠岐守信昌が妻。

 

    ➡ ❖ 房家 彦八郎

  北条十郎氏房に属し、後、台徳院殿(徳川秀忠)にまみえたてまつる。

 

 某  馬場三郎兵衛信盈が祖。喜八郎。

    ➡ ❖ 房頼 源右衛門       

 

大猷院殿(徳川家光)に仕え奉り、小十人を勤め、

寛永十三年十二月二十三日御納戸番に転じ、

廩米二百俵をたまふ。十八年死す。

    

(中略)

 

 

馬場喜八郎の子孫

 

  清和源氏義光流 武田支流 巻一八四

 

家紋 割菱 花菱 笹竜胆

 

 喜八郎 馬場右馬前房勝が二男、母は春日下総守是定か女。

天正十九年召されて東照宮につかへ奉り、御小性となり、

武蔵国入間郡の内にをいて采地二百石を賜ふ(時に十六歳)。

其後大番にうつり、慶長五年信濃国上田陣のとき、

台徳院殿に従ひたてまつり、後大坂両度の役に供奉し、

元和三年十二月十二日死す。年四十二。法名宝与。

入間郡五味谷の松原に葬る。妻は土屋掃部某が女。

 

➡ 房清

➡ 信祥(のぶよし)  

   ➡義長 初、義教(よしのり)右馬助 右衛門 民部 喜八郎 

母は家次が女。

  元禄八年八月二十八日はじめて常憲院殿にまみえたてまつる(時に九歳)。

十六年十二月十九日遺跡を継、

宝永四年十二月十四目大番に列し、

享保十八年二月十八日番を辞す。

  寛保二年七月二十六日致仕し、

宝暦二年十二月十九日死す。

年六十八。法名宗雪。

 

 上記の義長が自元寺を再開基した、

 

自元之神儀弊壊新之贈寺且欲迎其壊於家而仰鎭護也。

  柳營幕下小臣

 居武州豊嶋郡大塚公五世胤馬場喜八郎義長

 旧名義教 拜自 

 

 

 

 (以下略)

 

馬場美濃守の末裔 馬場与三兵衛家系 朝気村(現甲府市朝気)

『甲斐国志』第百八巻士庶部第七浪人馬場彦左衛門ノ家記ニ云、

 

馬場美濃守ノ孫馬場民部ノ末男丑之介壬午(天正拾年)ノ乱ヲ避ケ、

其母ト倶ニ北山筋平瀬村ニ匿ル。

後本村(朝気)ニ移居シテ与三兵衛ト更ム。

其男四郎右衛門、其男善兵衛(元禄中ノ人)今ノ彦左衛門五世ノ祖ナリ。

善兵衛ノ子弟分流ノ者アリ皆小田切氏ヲ稱セリ

元禄十一年戊寅年ノ村記ニ依ル

苗字帯刀ノ浪人馬場惣左衛門ノ妻ハ江戸牛込馬場一斎ノ女トアリ、

善兵衛(六十歳)総左衛門(三十八歳)新五兵衛(三十三歳)三人兄弟ナリト云 

 
自元寺 二十六世大仙秀雄大和尚談  

 馬場信房の石塔は始め寺僧の墓と並んでいた。区画整理の都合で馬場祖三郎家に接して建てられた。
 馬場ほの氏の夫、祖三郎氏は養子で、白須から甲府市に移り開峡楼(かいこうろう)という料亭を営んで居られたが、今はその子孫が東京の武蔵野市に住んで居られる。

同家の白須の屋敷は広大で、当時の菅原村が買い取ったこの屋敷に大欅と大きな石祠とがあって、その前に五輪塔があった。馬場家から、大欅と五輪塔は動かさずに保存してほしいと申し込んであったが、祖三郎・ほの両氏が他界された後は、五輪塔は郷社八幡神社の裏に移された。しかし、祖三郎家が亡くなり、そこで祖三郎家の墓所横に、五輪の塔と板碑を設置して現在に至っている。このままでは馬場祖三郎家の五輪塔かわからなくなるので、当主に説いて、自元寺の現在位置に移した。

自元寺にとって馬場祖三郎(妻ほの)家は大事な大檀家である。


 筆註…
 この馬場祖三郎氏白州の土地は現在の白州町診療所などのある一帯で国道を挟んで存在していた。現在は土地の持ち主は分散している。又少し離れた場所に若宮八幡神社をはじめ北巨摩一円の神社の神主を務める石田備前の屋敷地もあった。国道が通る前は現在の白須上公民館の付近も石田備前の屋敷地であり、当時の石田備前の勢力は大きく、白州一帯や小淵沢の神社の神官であった。この白須地方は古くは「白須氏」の治める地域で、武田時代にこの地域を一時治めた馬場美濃守信房と縁を通じて以後、白須氏を名乗りながらも馬場氏の後裔として現在はその殆どが富士吉田地方に移住されている。現在白須氏は富士吉田方面に多数見える。

祖三郎氏は五輪の塔は信房が再興した若宮八幡神社に置くことにしたもので、そのほうが落ち着く。敢えて自元寺に移設したことで、歴史が混乱してしまった。

 

開峡楼主人 馬場祖三郎氏(甲府市)

 

甲州の誇りとする、奇骨の名画伯、三枝雲岱翁の第三女をその母とする馬場氏は北巨摩熱見村(現在北杜市高根町)の旧家細田家(現在も遺構の一部があり、自家の神社も現存する)に生れた人、山田斉嘉氏の三男で明治六年一月十八日生れ、三十八年六月に馬場山三郎氏の養子(娘、ほのさんと結婚)となり、大正三年七月家督を相続したもので、先代より料理業を継承して開峡楼と称し、以来内外の装備を一新し県下屈指の大料理店として押しも押されもせぬ第一流であることは人の普く知るところである。

大正六年甲府料理業組合の設立さるや推されてこれに取締役となり、大正十五年組合の改組成りて今日の組織となるや組合長に推されて組合強化の為に大にその力を発揮し、協調的の有力なる人材として業界に重きを為したことも人の知るところである、望仙閣や甲府市の三大料理店の名脈を甲府の内外に博したる家、然も各特色あり、開峡楼は揺るぎなき一流である。

近年開峡楼の本館に続いて横町の繁華街に沿って洋館の大ホールを作り、王突の設備も之を完うしたる上、洋食に於いては正に県下一の誇りを謳歌されている事も亦一般の知る所であって、観光都市としての甲府市の繁栄上から見るも大甲府市実現に伴う優秀なる存在として開峡楼こそ正に共名の如く大料理店である、而して氏は業界の秀峯として活躍される。

 

『馬場祖三郎家由緒書』

開基  馬場美濃守源公

法号 乾叟自元居士

 公七世外孫出家得法同牛込御龍山松原禅寺向陽院惟庸字古同敬書 

信州槙嶋城主甲国武田旧臣新羅(三郎義光)后胤馬場美濃守源公諱信房

始称敬禮師(けいれいし)民部少輔諱政光

 

天正三年乙亥五月二十一日六十三歳、或作四。

役于参州拾長篠西北之向瀧川橋場自殺。

従者斎遺骨少帰州臺原(台ケ原)墓石朱地

或云、武川之白須村於自元寺以佛古又祭法号如前面矣聞

自元之神儀弊壊新之贈寺且欲迎其壊於家而仰鎭護也。      

  柳營幕下小臣

 居武州豊嶋郡大塚公五世胤馬場喜八郎義長

 旧名義教 拜自 

 

***筆註***

これは甲府桜町「開峡櫻」の主人馬場祖三郎氏(当時)の古文書に見える。馬場祖三郎氏は『馬場彦左衛門家』の家系に繋がる。

 

又自元寺は天保十四年(1843)に現在地に移つる。(棟札)

 

◎ 『自元寺由緒書』末尾

 

 享保十二年(1727)江戸大塚住旗本馬場喜八郎殿ヨリ被来

享保十二年ノ冬御位牌修理補成リ越方金一歩書状等御差添、

向陽院古同ト申僧ノ状相添被越候、

此方ヨリ返事礼状仕候喜八郎殿知行四百石余

 

自元寺住職恵光代。

 

   馬場美濃守信房     号 乾叟自元居士 『自元寺過去帳』

   馬場民部少輔信忠  号 信翁乾忠居士 『自元寺過去帳』

   馬場民部少輔信義

 

『馬場美濃守信房公の子孫』史跡保存館発行

 

自元寺開基馬場美濃守信房始メ号教来石民部少輔到信玄公美濃守信房改被下

信虎・信玄・勝頼三代武田家爪之老臣云

享禄四年十八歳ノ初陣ヨリ数十余度ノ戦ニ高名ヲ露シ一生終ニ疵ヲ不蒙然而

天正三年乙亥年五月二十一日於三州長篠合戦引受け

家康・信長等大敵其日兼而遺言シテ思定メ討死にスト云

長篠ノ橋場ヨリ只一騎取テ返シ深沢谷ノ小高キ処ニ駆ケ揚リ

馬場美濃行年六十二歳首取リテ武門ノ眉目ニセヨト呼ハリケレバ

敵兵聞テ四五騎四方ヨリ鑓ヲ付信房太刀ニ手ヲ掛ケズ

仁王立ニ成テ討セシハ前代未聞ノ最期也  

 首ハ河合三十郎ト云者討取ル 

 

兼テ遺言ヲ承リシ家臣原四郎遺物遺骨を持来於甲州自元寺法事等相勤 

法名乾叟自元居士 墓所白須有也

 

享保十二年丙牛年江戸大塚住旗本大番馬場喜八郎殿ヨリ被来

享保十二ノ冬御位牌修補成リ越方金一歩書状等御差添

向陽院古同ト申僧ノ状相添被越候 

此方ヨリ返事礼状仕候喜八郎殿知行四百石余 

 

自元寺住職恵光代

 

 一、馬場美濃守信房 号 

   乾叟自元居士、馬場民部少輔信忠 又云フ初ニ信春於信州深志城討死

 一、号 信翁乾忠 此ノ二代御位牌立成過去帳記載有之候

 一、馬場民部少輔信義 初号 勘五郎 此代家康ヘ御奉公相勤候

  自元寺 馬場美濃守の位牌

   正面  

開基馬場美濃守源公法号乾叟自元居士

   右

柳営幕下小臣武州豊島郡大塚公五世胤馬場喜八郎義長

旧名義教拜白左公七世外孫出家得法同牛込

竜山松源禅寺向陽院惟庸字古同敬書

   裏面  

信州槙嶋城主甲国武田舊臣新羅后胤馬場美濃守源公諱信房

始稱敬禮師民部少輔諱正光天正三年乙亥五月廿一日六十三歳

或作四役于参州於長篠西北之間滝川橋場自殺従者齏遺骨少帰

州臺原墓石采地 或云武河之白須村於自元寺以佛古又祭法号

如前面矣聞自元寺之神儀弊壊新之贈寺旦欲迎其壊於家而仰鎮護也

 

自元寺馬場三代

一、信房法名自元乾叟自元居士

  天正三年乙亥年五月二十一日

於三州長篠討死生年六十三歳   

  家臣原四郎承遺言

 遺物遺骨等来於白須村自元寺法事相勤御墓名塔立来

一、馬場二代民部少輔信忠

 法名信翁乾忠居士 信房嫡子

 信忠或ハ信春と云

 天正拾年三月信州深志之城討死  

 自元寺過去牒ニ記墓所有之

一、馬場三代民部少輔信義

是ハ信忠の嫡子此の人始めて家康公に仕へ法名等相見不申  

右之通相違無御座候以上

   慶応四年戊辰七月  巨摩郡片颪清泰寺末

 筆註    

 三代馬場民部信義は『寛政重修諸家譜』によれば、馬場美濃守の子供で長男が二代信忠で、次男が信義(民部勘五郎)で「東照宮(家康)に召されて御麾下に列し、甲斐国白淵(洲)、教来石、台原等のうちにをいて旧地を賜い、天正十七年采地を加へられ、御勘気をかうぶる」とある。

 

又『寛政重修諸家譜』の馬場信久の項に、「信保(武田信虎に仕へ、甲斐国武川谷大賀原(大河原・台ケ原)根古屋(中山高台)の城に住す」

-長男馬場美濃守信房-次男善五兵衛信頼、(兄信房の家嫡となる)

-その子供が信久-その子供が信成で根小家に住み、武川の諸氏と共に徳川家康に仕え本領の地を給う(右衛門尉・民部)とあり、信義と信久は同一人物の可能性も有る。

「根小屋」の地は現在も白州台ケ原の尾白川の対岸高台にあり、縄文・中性の遺跡も発屈されている。馬場一族として後世包含されているが、馬場美濃守と馬場信保の家系の繋がりは不詳。 

 

甲斐甲府の馬場信寿可家系書に馬場美濃守の子に

   長男…信忠-信次(丑之助)

   末男…昌松(小田切又三郎)

又三郎は祖父の小田切下野守家を相続する。『馬場信寿家家系書』

 

 

○ 高野山位牌

甲州府中馬場美濃守大□ノ為ニ小田切又三郎建立之                        

参考 小田切又三郎について

 

天正三年乙亥五月廿一日死去                                             

信翁乾忠居士 霊位 信忠の法名                      

甲府古籠屋小路馬場美濃内方逆修ニ 

明窓理園大姉  寿位            

天正四年丙子十月十八日                                    

                          

信興…信房の孫、長篠で討死、法号 乾叟自元

天正四年丙子十月十八日 小田切又三郎建立之

 

小田切氏は馬場彦左衛門の家系にも見える。

『寛政重修諸家譜』によれば氏勝(信房)の妻は小田切下野守某が女で、

氏勝の子昌松は外祖小田切下野守某が家を継ぐとある。

「信翁乾忠居士」は信忠の法名

 






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最終更新日  2020年12月16日 05時22分12秒
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