カテゴリ:白州町・武川町 歴史文学史蹟資料室
宗良(むねよし・むねなが)親王御年譜 前編 親王御年譜 前編 山梨県歴史文学館編集 文永 九年 1272 (『南北朝史百話』) * 「治天の君」(政務を司る上皇又は天皇)であった後嵯峨法王が崩御し家督権をめぐって後深草上皇と亀山天王が兄弟同士で争う事態となる。裁定を委ねられた幕府は法王の寵愛する亀山天皇を「治天の君」に定めた。亀山天王は世仁親王(ときひと・後宇多天皇)に譲位後も院政を執った。これに対して後深草派は、次の皇太子に後深草上皇の子煕仁(ひろひと)親王(伏見天皇)をつける。 * 亀山系(大覚寺統)と後深草系(持明院統)が交互に皇位につく両統迭立 (りょうとうていりつ)がはじまる。 * 僧藍渓道隆(どうりゅう)が讒言により甲斐に流され、甲府板垣に東光寺、韮崎に永岳寺を開創する。その後許され 鎌倉に戻ったが再び東光寺に流される。 文永十一年 1274 * 日蓮、甲斐身延に行き久遠寺を建立する。 * 元寇の役 文永十二年 1275 * 夢窓礎石 伊勢に生まれて、幼児期は甲斐の平塩山で天台宗を学び十八歳の時に南都に出る。夢窓礎石は各地を遊学し、甲斐に入り 牧荘の二階堂氏が建立した浄居寺に開山を依頼されたが一山一寧を推し、自らは二世となる。 弘安六年 1282 * 日蓮、池上にて没す。 正応三年 1290 * 甲斐源氏浅原為頼、禁中に乱入して天皇の殺害をはかり、果たさず自殺。 元徳二年 1330 *二階堂貞藤の保護と庶民の信仰を得て、笛吹川上流の恵林寺を開山する。礎石はその後甲府古長禅寺・山梨市清白寺・中道町安国寺・甲府法泉寺を開山する。 応長元年 1311 ◎ 宗良親王、誕生 後醍醐天皇と大納言二条為世の娘為子との間に誕生。 * 北条師時没。北条貞時没。 □甲斐国、虎関師練、富士山に登る。 正和元年 1312 2才 * 京極為兼『玉葉和歌集』を選出。 * 甲斐国、此年一条時信、一条忠頼夫人の尼寺を時宗に改め一蓮寺とし、弟宗信を開山とする。 正和二年 1313 3才 * 善光寺炎上。伏見上皇出家。 * 甲斐国、夢窓疎石、現中巨摩郡甲西町鮎澤に古長禅寺を建立する。 正和三年 1314 4 * 賀茂川東大寺など焼失。 正和四年 1315 5 *幕府、路地狼籍を検断沙汰に移す。また諸国の悪党を起請文で名指しさせる。 *鎌倉大火。 正和五年 1316 6 * 幕府、探題欠員中の鎮西警固を、少弐・大友氏に委ねる。 文保元年 1317 7 ●伏見法皇没。 * 後醍醐天皇 治天の君となる。三十一歳。 * 持明院統の花園天皇から大覚寺統の尊治(たかはる)親王へ譲位。(文保の話談) ◇ 花園天皇:大覚寺統の後伏見上皇の弟。尊治親王(後醍醐天皇):後二条天皇の弟。 正中の変 ○後醍醐倒幕挙兵は土岐氏の一族、頼員(よりかず)が六波羅(幕府機関)に自主、後醍醐の計画が露見、土岐頼兼・多治見国長は討たれ資朝・俊基は捕えられる。後醍醐は弁明し追求無し。 文保二年 1318 8 ○ 邦良親王が皇太子になる。 元応元年 1319 9 * 幕府、三河など六国を六波羅管轄からはずす。 元応二年 1320 10 * 幕府、三河など六国を六波羅管轄に戻す。 元亨元年 1321 11 ○ 後宇多法皇は院政を停止し後醍醐天皇の新政とする。 元亨二年 1322 12 ○ 後醍醐天皇、書課役を徴収する。 元亨三年 1323 13 ○ 後醍醐天皇、大内記日野俊基を蔵人とする。 正中元年 1324 14 * 幕府協調派、後宇多が崩御する。 正中二年 1325 15 ◎ 宗良親王、二月、妙法院問跡を継ぎ尊澄と名乗って親王宣下を受ける。 嘉暦元年 1326 16 * 北条高時、弟泰家・金沢貞顕の執権就任に怒り出家する。 嘉暦二年 1327 17 ○ 後醍醐天皇の子、尊雲法親王(護良親王)、天台座主となる。(大塔宮) 嘉暦 三年 1328 18 ○ 後醍醐天皇、故忍性に菩薩号を贈る。 元徳 元年 1329 19 * 金沢貞顕、北条高時を「田楽のほか他事なし」と評する。 元徳二年 1330 20 ◎ 宗良親王、兄の尊雲護良親王のあとを受けて天台座主となる。 ○ 後醍醐天皇、倒幕計画が再び洩れた。日野俊基・小野僧正文観・法勝寺円観を捕える。 ○ 後醍醐天皇、八月一行は笠置山寺に籠もり要害と僧兵を頼みに挙兵に踏み切る。 大津の唐崎付近で六波羅軍と激戦し、六波羅軍を撃墜する。足助重範・楠木正成挙兵しさらに備後国吉備津宮 桜山四郎入道が挙兵する。幕府は北条一門や足利高氏が二十万余の大軍を派遣する。足立高景と二階堂道蘊(どううん)が上洛して、九月二十八日には楠木正成の赤坂城を幕府軍が攻撃し陥落、桜山は自決する。 ○ 後醍醐天皇に代わって持明院統の量仁親王を即位、光厳天皇となった。 元弘 元年 元徳 三年 1331 21歳。 ◎ 宗良親王、北条討伐の指揮をとる。後醍醐、を持って笠置山に入る。 『古今集』を書写。 * 幕府大愚大軍を上洛させる。楠木正成河内赤坂に挙兵、幕府の奉願により、 ○ 量仁親王即 位(光厳天皇)笠置落ち、後醍醐捕えられる。(『光厳院文書』) ◎ 元弘元年十月□日、妙法院宮(宗良親王)預長井因旛左近太夫将監。 ◎ (増鏡』村時雨の巻) 元弘元年神無月の比、日吉社に歌あまた詠みて奉し中に 中務卿宗良親王 いかにせんたのむ日吉のかみな月てらさぬ影の袖のしくれを ◆ 甲斐国、幕府上洛軍を編成出発させる。甲斐守護武田三郎(石和三郎政義か)、一族国内御家人を統率して上洛する。 ◆ この頃武田信武、月舟周勲と協力甲府市和田町の法泉寺を建立し夢窓疎石を開山する。 元弘二年 正慶元年 1332 22 * 幕府、後醍醐を隠岐島、尊良親王を土佐、尊澄法親王(宗良親王)を讃岐に流す。 ○ 三月、後醍醐天皇が隠岐に流される。 ◎ 宗良親王や尊雲(護良(もりよし)親王も配流される。 六月、護良親王各地の武士に令旨(親王が発っする命令書)を発っして倒幕の挙兵を呼びかけ、呼応した楠木正成も赤坂城を奪回する。 ※ (『新葉集』・別離) 元和二年三月、とをきかたにおもむかん事も、ただけふあすばかりになり侍しに、雨さへふりくらして、いとヾ心ぼそさもたぐひなく覚侍しかば うきほとはさのみ涙のあらはこそ我袖ぬらせよそのむら雨 ※ (『光厳院宸記』) 元和二年三月八日、今日中書王妙法院宮両人首途云々、武士警固如例、尊澄み法親王(宗良親王)僧侶少々相口云々。 ※ (『元弘日記』) 今年三月九日、妙法院尊澄法親王遷坐讃岐国。 ※ (『増鏡』くめのさら山の巻) 先帝(後醍醐)は壱岐国へうつしたてまつるべしと、やよひのはじめの七日、宮古をいでさせ給、又の日やがて、妙法院の座主尊澄法親王も讃岐国へあはします。先帝は十二日に加古川の宿と云ふ所におはします程に、妙法院讃岐へわたらせ給とて、同じ道すこし違ひたれど、此川の東の口といふ所まで参り給へるよし奏でさせ給へば、いとあはれにあひみまほしうおぼさるれど、御をくりのつわ物どもゆるし聞えねば、宮むなしく返らせ斗給、御心のうちたへがたくみだれまさるべし。さる事なれど、かばかりの事だに御心にまかせずなりぬる世の中、いへばにつらくうらめしからぬ人なし ※ (『増鏡』別離) うち出といふ所にとヾまり侍しに、尊良親王よこべのところにとヾまりけるよしをきくに、なにとなくかたはらなるかべをみれば、ともなりける為明卿が筆にて いとせめてうき人やりの道ながらおなしやとりときくそうれしき とあるを見て、又みるべき事ハしらねど書そへ侍し ※ (『新葉集』) 末まてもおなしやとりの道ならはわれいきうしと思はましや 讃岐国松山といふ所にゆきつき、月日を送侍しに、入道大納言為世もとより 松山は心つくしにありとても名をのみきゝてみぬかなしき と申おくりて侍し返事に おもひやる心つくしもかひなきに人まつ山とよしやきかれし ◆ 甲斐国、地震により富士山頂崩れる。 ○ 後醍醐天皇の側近日野俊基、捕えられて鎌倉に護送される途中富士を見る。『太平記』 (『新甲斐国志』) ◆甲斐、二階堂出羽入道貞藤(甲斐牧の庄の地頭)鎌倉幕府大将軍となり六波羅探題に向かう。武将の中には武田伊豆三郎(甲斐守護代の石和政義)・小笠原彦五郎(信濃守護小笠原貞宗)。安芸国武田信武も千早城攻め に加わる。 元弘三年 正慶二年 1333 23 ○ 後醍醐が隠岐を脱出する。伯耆の名和長年を頼る。 ☆ 足利高(尊)氏の幕府裏切りにより、六波羅探題は陥落する。 ◎ 宗良親王、再び天台座主となる。 ○ 護良親王は、将軍宮を自称する。 ○ 後醍醐笠置遷幸以後の叙任を無効とし、光厳天皇と正慶の年号を廃止する。 ☆ 新田義貞、鎌倉を落とす。 建武の新政が始まる。 ○ 後醍醐帰郷する。護良親王を征夷大将軍に任ずる。 ☆ 北畠親房、義良親王を伴い陸奥へ行く。足利直義、成良親王を伴い鎌倉へ行く。 ☆ 足利高氏は旧探題配下の職員や御家人を吸収して護良親王の軍勢を圧倒する。 (『新甲斐国志』) ◆ 甲斐国の北朝方、南朝方 北朝方、宗家武田氏・大井氏・逸見氏・一条氏(一条郷)・青木氏(武川)・岩崎氏(勝沼) 石禾武田氏(石禾郷)・秋山氏(秋山郷)・於曽氏(塩山)・浅利氏(豊富村) 南朝方、南部氏(南部郷) (『太平記』) ◆ 甲斐武将、武田伊豆三郎・小笠原彦五郎・二階堂出羽入道・南部次郎。甲斐信濃の源氏七千余騎。(正月か) (『山梨の歴史』) ◆登総持寺開山紹瑾(じょうきん)の高足明峰素哲の系統雪山玄泉が領主大井春秋に招か れて増穂町小林に南 明寺を創立する。 建武元年 1334 24 (『南北朝史百話』) ○ 後醍醐天皇は護良親王の行動を警戒して親王の権限に制限を加える。 十月、護良親王、捕えられ翌月鎌倉に流される。 護良親王、高時の遺子時行に殺される。足利尊氏、天皇の召還に従わず、第を幕府の旧址につくる。 足利軍、箱根竹の下で新田義貞を破る。 顕家、陸奥を発し、西上の足利軍を追撃する。 七月、北条高時の遺児時行が信濃で挙兵、鎌倉に迫る。迎え撃った鎌倉の尊氏の弟足利直義(ただよし)軍を破って鎌倉を占領する。 八月、足利尊氏は直義救援の為に後醍醐天皇に自ら征夷大将軍と諸国追捕使の任命を要請するが不許可、尊氏は天皇の許可なく関東へ下向、北条時行軍を破って鎌倉を奪回する。 ○ 後醍醐は一門の斯波家長を奥州総大将として派遣、陸奥国司の北畠顕家にする。 ☆ 新田義貞と足利尊氏が竹ノ下合戦、佐々木道誉・大友貞載が裏切り、義貞軍は敗走。 (『山梨県の歴史』) ◆ 甲斐国、後醍醐天皇、甲斐倉見山の地を南部政長に知行させる。 建武 二年 1335 25歳 (『南北朝史百話』) ○後醍醐、一月十日比叡山に逃れ、翌日尊氏が入京、後醍醐は奥州軍と共同して尊氏を攻撃する。尊氏は丹波篠村-摂津兵庫-播磨室津に逃れるも再起の為の準備をする。 (『山梨県の歴史』) ◆ 甲斐国、武田信武、兵を挙げて足利尊氏に応じ十二月二十六日、日態谷蓮覚を安芸矢野城に攻めてこれを抜く。 (『郷土史辞典・山梨』) 延元元年 建武 三年 1336 26 ○ 後醍醐天皇方、菊池武敏・阿蘇惟直は尊氏方の少弐頼尚(よりひさ)の拠点太宰府を攻め惟直の頼尚の父貞経(さだつね)を自害させる。武敏は多々良浜で南下した尊氏軍と対峙する。戦力的に不利であったが尊氏軍の大勝利に終わる。 ☆ 足利尊氏は九州・中国・四国を支配下におきながら兵庫に向かう。後醍醐天皇は新田軍と楠木軍で迎え撃つが多勢に無勢で破れる。楠木正成と弟正季(まさすえ)は刺し違える。 ○ 後醍醐天皇、比叡山に行幸する。足利軍が入京する。六月に入り後醍醐軍の戦力は衰微する。後醍醐軍は僧兵と新田軍のみとなる。 ○ 建武の復活 六月、足利尊氏が光厳上皇を奉じて入京し、八月光厳上皇が 治天の君となり、院政を開始する。弟豊(ゆたひと)仁親王が光明天皇となる。年号も『建武』が復活する。 ☆ 室町幕府の成立 ○ 十月、 後醍醐、尊氏の講和を独断で応じ、比叡山を下りる。裏切られた新田一族は必死に抗議するが、後醍醐は恒良親王に皇位を譲り、義貞に奉じさせる。義貞は恒良を戴いて十月に北陸の越前へと去った。 ○ 南朝の誕生 十二月二十一日、 後醍醐は花山院を脱出し大和吉野山に籠もる。北畠親房(ちかふさ)のすすめによるという。皇位継承の証し神器は偽器で真の神器は自分が保持しているとして、再び足利討伐を宣言する。南朝の誕生となる。 ◎ 宗良親王、一品に叙せられる。◎宗良親王、北畠親房とともに伊勢に赴く。 (『李花集』) 延元二年(元年の誤り)五月、花山院内裏にて侍りし比、都のさはぎもなのめならざりしかば、皇居を東坂本に移つさるべきよしさだめられしに、御かたがたに参りていとまなど申とて、宣政門院の御前にてこしかた行すえの事など申侍しに、時鳥しきりになきて、五月雨のそらもいとゞかきくれたる心ちして、まちいでし事つねに思ひ出られ侍しに、つゐにそれをそれをかぎりにて、年もおほくへだゝりぬるに、又郭公のなきけるを聞くにも、そのふる聲のしのばしく侍しかば 時鳥いつのさ月のいつの日かみやこにきゝしかりきなりけん さらぬだに春ハ先思ひやるゝ吉野の奥、此頃は皇居にて、さまざまをしはかられさせ給しかば さかはまつ行てこそ見め我宿とたのむよしのゝ花の下陰 ◎宗良親王、義良・北畠親房とともに伊勢大湊から東国に向かう。台風にあい義良は伊勢に戻り、宗良親王は遠江に、親房は常陸に着く。南朝懐良親王を征西将軍に任じ九州に派遣。 (『日本歴史展望』5巻) 大暴風にみまわれた船団は散り散りになり、北畠親房の船は常陸国東条浦、義良親王の船は尾張篠島、宗良親王は遠江国白羽湊に漂着した。宗良親王は同船していた北条時行らとともに在地の今川心省らを破り、井伊高顕らの迎えによって井伊谷の奥山城に入る。親王来たるの報弐に遠江・信濃・駿河・伊豆などの南党に心を寄せる豪族たちは競って挙兵する。 (『山梨県の歴史』) ◆ 甲斐国、一月十三日武田信武兵を率いて上京する。 ◆ 五月五日初鴈五郎(南朝)兵をおこし足利方を討とうとして勝沼大善寺焼かれる。 延元元年 建武 四年 1337 27 (『南北朝史百話』) ☆ 一月、尊氏は高師泰に軍をつけて越前に派遣し、主語斯波高経とともに金ケ崎城を攻撃 ☆ 三月、金ケ崎城は落城、新田義貞は義助とともに脱出し杣山城したが義貞の嫡子義顕は戦死、 ○ 後醍醐の尊良親王も戦死、恒良親王は捕えられ、京都で毒殺された。 ◎ 尊澄法親王(宗良親王)遷俗して宗良と改名する。 ◎ 宗良親王、遠江の豪族井伊氏を頼って遠江井伊城に入る。(『李花集』) ☆ 八月、足利尊氏 征夷大将軍となる。 ◎ 延元二年夏比、伊勢国一瀬といふ山の奥に住侍しに、 郭公をきゝて深山をはひとりないてそほとゝぎすわれもみやこの人はまつらん 延元 三年 暦応元年 1338 28 ◎ 宗良親王、北畠顕家軍の上洛に合流して一月に美濃青野原で足利方を破り、二月、高師と奈良般若坂、ついで川内天王寺で激戦を繰り返す。新田義貞・北畠顕家没。 ◆ 甲斐国、正月二十八日足利尊氏、勳功の賞として甲斐国飯田郷内の武田源七の跡地を、内藤泰廉の後継者に与える。(泰廉…安芸国武田信武の家臣) (『李花集』) 延元三年比、遠江国井伊城に住侍しに、浜名の橋の霞わたりて、橋本の松原港の浪かけて、はるばるとみ渡さるゝあした夕のけしきゝ白く覚侍しかば 夕くれはみのともそことしらすけし入海かけてかすむまつはら はるばるとあさみつしほのみなと舟こき出るかたはなをかすみつゝ しばしすみ侍し所に櫻を栽て、程なく立出 侍しかば、その木にかきてむすみつけ侍し、 ゆくすえに誰かうへし人とはゝそのなはかりや花にのこらむ 延元三年、春比にや、顕家卿などいざなひて、あづまよりはるばるのぼりて、いまは都へといそぎ侍しに、奈良天王寺にいくさやぶれにしかば、思ひのほかに吉野行宮に参りて、月日を送しに、やよひのころ為定卿のもとより風のたよりに かへるさをはやいしなかん名にしほふ山の櫻ほ心とむとも 返し ふるさとは戀しくとてもみよしのゝ花のさかりをいかゝみすてん (『李花集』) 延元三年の秋の比にや、伊勢より舟にのりて遠江へ心ざし侍しに、天竜なだとかやにて、浪風なべてならずあらく成て、二三日まで沖に漂い侍りしに、友なる船どもゝみな爰かしこに沈み侍しに、かろうじてしろわの湊といふ所に浪にうちあげられて、われにもあらず舟さしよせ侍しに、夜もすがら波にしほれていとたへがたかりしかば いかてほすものともしらすとまやかたかたしくそてのよるのうらなみ 延元三年の春にや、遠江よりはるばるのぼりて都へと心ざし侍しも、御かたのいくさやぶれしかば、吉野行宮にまいりてしばらく侍しかども、猶あづまのかたにさたすべき事ありて、まかり下べきよしおほせられしかば、その秋の比かへりて、井伊城にてよみける なれにけり二たひ来てもたひころもおなしあつまのみねのあらしに (『元弘日記』裏書) ○ 今年後七月二十五日、義良親王、並入道一品以下、顕信卿等、率東軍下向勢州、 八月十七日解纜、 九月十一日於伊豆崎遇大風、數船漂没、親王・顕信卿等船帰勢州、尊澄法親王・尊良親王第一宮着御遠江国井伊城。 (『南北朝史百話』) 三月、越前経ケ峯で南朝軍と幕府軍と交戦する。 延元 四年 暦応二年 1339 29 ◎宗良親王、三度上洛を企てるもかなわず。 (『李花集』) 八月十六日に先帝かくれさせ給ひぬるよしほのかにきこえしかども、さらになをまことにもおぼえ侍らで日数を送し侍しに、いつかたよりの風のをとづれもおなじ悲のこゑにのみきこえしかば、一かたに思ひさだめ侍るにつけても、いとゞ夢のこゝちして、さらでだにさびしかりし山の奥のすまゐどもゝ、いかがとおぼつかなければ、長月のすえつかた、空もれいよりはかきくもりて、われらが中の時雨もひまなかりける比、涙の色も紅もおなじ千しほにやなど思ひやられしかば、秋のもみぢとちりぢりにならぬやふに、申さたあるべきよしなど、別当隆資のもとへ申つかはす次に、井伊城にありし紅葉をはつゝみぐして 思ふにもなを色あさきもみちかなそなたの山はいかゝしくるゝ 返し 四条贈左大臣 此の秋のなみたをそへて時雨にし山はいかなるもみちとかしる 遠江国に侍し比、三河国より足助重春しきりにさそひ侍しを、なを思ひさだめぬよし申つかはして ひとすちにおもひさためむ八はしのくもてに身をもなけくころかな (『瑠璃山大福寺年録残編裏書』) 暦応二年、 七月廿二日、為井責越後殿下太平ニ向給、尾張殿濱名手向給、コモヘノ城 廿六日追落畢、 同十月三十日千頭峯城落畢 ● 後醍醐上皇崩御 ● 八月、後醍醐、吉野の行宮で崩じる。皇太子の義良親王が、南朝後村上天皇となった。 尊氏、夢窓国師のすすめにより後醍醐慰霊の為に天竜寺を創建する。 興国元年(南朝) 暦応三年 1340 30 ◎ 宗良親王、八月高師泰の為に井伊谷城を攻め落とされて、足助氏に寄り給う。後に駿河に赴き狩野介貞長に依り、御子興良親王も来り給いて貞長の宅に匿る。 ◎ 宗良親王、駿河国に至りて富士山を見て和歌を詠む。 (『日本歴史展望』5巻) 正月、北党の仁木義長軍の猛攻に奥山城は陥落する。逃れる親王は駿河の安部城に拠ったが、ここも危なく越 中に移動やがて信濃国伊那郡の大河原に入る。(興国五年のこと) (『李花集』) 駿河国貞長が許に興良親王あるよしを聞きて、しはしたちより侍しに、富士に煙もやとのあさけに立ならふ心として、まことにめつらしけなきようなれと、都の人はいかに見はやしなましと、まつ思ひいてられるは、山の姿なとゑにかきて、為定卿の許へつかはすとて みせはやなかたらはさらに言の葉の及はぬ富士の高根成鳬(けり) 返し 思ひやるかたさへそなき言のはの及はぬ富士と聞につけても (『桜雲記』) 宗良、駿河国に赴く。国人狩野介貞長及入江神原等、属して暫く爰に留まる。又信州に赴んと志す。然るに同国貞長か館に興良親王居すと聞て、是を訪ふる。于時富士山の景気妙なるを都人願望あらんと、山のかたちを書せ、二条為定か方へ送るとて詠む。 (前首) ◎ 宗良親王、駿河国井伊谷の南朝方は北朝の遠江国守護今川範国の攻撃に陥落する。 (『李花集』) 興国元年うかりし八月のそらにめぐりきぬれば、十五夜會し侍し次によみ侍ける 思ひつるこその八月の秋の月またくもれとてぬるゝ袖かな (『李花集』) いみじうおそろしき山中にまどひて、夜もすがらつかれ侍けるにや、松風にもさはらずうちまどろみしに、むかしの御面影夢にみえなければ、驚て思ひつゞけ侍し ひとり行旅のそらにもたらちねのとをきまもりをなをたのむかな 雲ゐはるかに成ぬる方をかへり見て いちせめて心にゆかぬ旅なれと日数は跡を隔てつるかな 長月のすえつかた、うつの山路を越え侍しに、名にしおふ秋の山路、まことにおもしろふ侍しかば うつの山秋ゆくひとの袖なからしくれてそむるつたのしたみち きゝしよりなほ露ふかしうつの山くれなゐくゝるつたの下みち (『鶴岡社務記録』) 暦應三年、八月廿四日、井伊城没落。 (『信濃郷土史』) ◎ 宗良親王、十月駿河より信濃に赴き大河原の香坂高宗の家に着御。 先之、高宗大河原を選定し先ず自ら茲に移りて親王を奉じたる。 而来大河原は関東・北陸及び東海道に於ける南朝の震源地となり根拠地となりしなり。 志士に大河原に児島高徳氏・脇屋義治氏・脇屋義助氏・新田義隆氏あり。 佐久諸族に滋野氏・海野氏。天竜河東に知久敦貞氏。中沢方面に木曾義親氏。高東方面諸族・遠山方面諸族あ り。 (『信濃郷土史』) ◎ 宗良親王、甲斐白須の辺にて戦ひて利非ず。 興国二年 暦応四年 1341 31 ◎ ?七月征夷大将軍宗良親王信濃に入る。香坂高宗四郎美作守佐久より伊那郡大河原に移り館を築く。当時大河原は南朝余党の巣窟たり。 (『李花集』) 興国二年、越後国寺泊といふ所にしばしやすみ侍しに、帰雁を聞て ふるさとゝ聞しこしちの空をたになをうらとをく帰る雁かな (『鶴岡社務記録』) 興国二年、六月七日、越後城悉打落之由、以飛脚上杉戸部令申了。 興国二年、六月、北朝方、新田一族を信濃志具山に敗る。 興国三年 康久元年 1342 32 (『李花集』) 興国三年、 越中国名子といふ浦に忍て住み侍し比、都へ行人のありし便宜に、やよひの比にや、為定卿のもとへ申つかはし侍し いたつらに行てはかへるかりはあれとみやこの人のことつてはなし 今はまたとひくる人もなこのうらしほたれてすむあまちしらなん 返し ねになけはそれとはきかて行雁にことつてなしとなに思ふらん あゆのかせはふきかへせこのあまのしほたれころもうらみのこさて 越中国なこの浦に忍て侍しに、羈中百首よみとて、月を みやこにておなしそらとも詠むらんわれは行えもなみの上の月 かくてなほ年をかさねし冬比よみ侍し なにゆえに雪見るへくもあらぬ身のこしちの冬をみとせへぬらん 興国四年 延元二年 1343 33 ◎ 宗良親王、冬まで越中の名子に在住か。 興国五年 延元三年 1344 34 ◎信濃大河原に落ち着く。延元三年の北条時行が朝敵免除の綸旨を受けて以来、中先代の乱の首謀者である諏訪神党(すわじんとう)宗良親王の頼もしい支持者であった。 (『李花集』) 興国五年、信濃大川原と申山の奥に籠居侍しに、たゞかりそめ成山ざとのかきほわたりみならはぬ心地し侍しに、やふやふわかぬ春のひかりまちいづる鶯の百囀も、むかし思ひ出られしかば、 かりのやとかこふはかりのくれ竹をありしそのとや鶯のなく 春ことにあひやとりせしうくひすも竹のそのふに我忍ぶらん 信濃大川原と申侍ける深山の中に、心うつくしう庵一二ばかりして侍ける、谷あひの空もいくほどならぬに、月をみてよみ侍し いつかたも山もはちかきしはの戸の月みるそらやすくなかるらん 信濃大川原といふ深山に籠て、年月をのみ送侍しに、さらにいつとまつべき期もなければ、香坂高宗などが朝夕の霜雪を拂ふ忠節も、そのあとかたなからん事さへ、かたはらいたく思ひつづけられて、 いはて思ふ谷の心もくるしき身をもむもれ木とすくす成けり (以下略) 興国六年 貞和元年 1345 35 ◎ 宗良親王の興国年間の動き 興国元年……秋、井伊城陥落後宇津山を越える。 二年……春、越後国寺泊に住む。 三年……越中国名子に住む。 四年……越中国名子に住む。 五年……春、信濃国大川原に籠もる。その間駿河国に至り、 六年……秋まで駿河国に住む。 ◎ 宗良親王、 (『李花集』) 駿河 駿河国貞長が許に興良親王あるよしを聞て、しばし立ち寄り侍りし比、富士の煙もやどのあさけに立ちならぶ心地して、まことにめづらしくなきやうなれど、都の人はいかに見はやしなましとゝまづ思ひいでらるれば、山の すがたなどゑにかきて、為定卿のもとへつかはすとて 見せはやなかたれはさらにことの葉もをよはぬ富士のたかねなりけり 返し おもひやるかたさへそなきことの葉のをよはぬ富士に聞につけても かくて又の年(興国六年)秋まですみ侍しかども、さすがまた我世へぬべき所にもあらねば、こゝをも立出侍らんとせしに、狩野介貞長などやうのもの共夜もすがら名残おしみ、さかづきたびたびめぐり侍し程、過にしかた、猶行すゑの事まで、二心なきことなど申あつめつゝはてはゑいなきなどせしかば、いつの程のなじみにかとあはれに覚へて、出さまにそこのかべに書をきし 身をいかにするかのうみのおきつなみよるへなしと立はなれなは 興津 庵崎 かしこ夜ふかく出侍て、興津といふ所は曙たに成ぬるに、霧もたえたえに成て、ゆたに見えたる庵崎の松原は、さながら海の上にのこれり、吹はらふ風の気配もすさまじきに、いつて舟のはやくすぐるも、波の関守にはよらぬかとみゆ、あくるもしらずおもしろくすみ渡りて、一かたばらずみすてがたければ、関の戸にしばしたゝずみ侍しに、 袖の浦風秋の夕よりも身にしむ心地せしかば 清見関 あつまちのすゑまて行ぬいほさきの清見はせきも秋かせそふく 浮島原 車返し 浮島が原をとほりて、車返しといひし所より甲斐国に入りて、信濃へと心ざし侍しに、さながら富士の麓を行めぐり侍しかば、山のすがたいづかたよりもおなじやうにみへて、まことにたぐひなし、裾野の秋の景色まめやか に、心言葉も及び難く覚へ侍て、 富士山麓 北になしみなみになしてけふいくかふしのふもとをめくり来ぬらん 甲斐国白須 甲斐のしらすといふ所の松原のかげに しばしやすらひて かりそめの行かひちとはきゝしかど いさやしらすのまつ人もなし 信濃 信濃国に行つきぬれば、をくりのもの返し侍し次でに、駿河なりし人のもとへ申つかはし侍し、 ふしのねのけふりを見ても君とへよあさまのたけはいかゝもゆると 信濃諏訪 諏訪下宮寳前に通夜し侍て、夜もすがら法施奉りしに、湖上月くまなくて、秋風もほかよりは夜さむに侍しかば、よみける すはの海や神のとかひのいかなれは秋さへ月のこほりしくらん 信濃更級 佐良科里に住み侍しかば、月いとおもしろくて、秋ごとにおもひやられしことなど思ひ出られければ、 もろともにをばすて山をこへぬとはみやこにかたれさらしなの月 あがたのすまひも、年を経てすみうくのみ侍し比、月を見て 月にあかぬ名をやたゝましことしさへ猶更級の里にすまはゝ (『新葉集』) をば捨山ちかくすみ侍し比、夜ふくるまで月を見て思ひつゞけ侍し これにます都のつとはなき物をいさといはゝやをは捨の月 信濃あさまの山ちかきわたりに住み侍し比、 あさましやあさまのたけもちかけれはこひのけむりもたちやそふらん (前編終わり)
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最終更新日
2020年12月18日 18時54分10秒
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