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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年12月18日
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 甲州街道古代甲斐の駅路と宗良(むねなが)親王の進路






  甲斐国の古道の内、甲斐と奈良・京都を結ぶ路は東海道を経由していたと伝わるが、天然異変や時の執権の変遷にともない、移動していたと思われる。
奈良・京都へは通説では『総合郷土研究、山梨県』桂川七郎氏の云う、
《八代国衛-高家村-奈良原-鳥坂土戸川-大石峠-大石宿-河口湖-下吉田-明見-忍野-山中湖畔-平野-ヅナ坂峠-検定駅(御殿場)-車返駅(沼津)-東海道》
とされている。
甲斐の古道を記した最も古い書には延書式(延長五年/927刊〉兵部省諸国駅伝馬の条)がある。それには甲斐の駅路として、水市-河口-加吉、とある。しかし山梨県の地名比定のために、この駅路は逆であるとの説を唱え、甲斐の古代御牧の比定同様定説化している。これは史実を示す資料を持たない仮説で創作歴史とも云える。
当時は甲斐の西を通過して南アルブスを越えて伊那に出て東山道を利用したと云う説もある。当時は甲斐から都までの行程は上り二十五日、下り十三日と定められていた。甲斐国は東海道に属して国内には山梨・八代・巨麻・都留の四郡があった。
 現在では甲斐の古道は水市-河口-嘉吉は国書に依れば、水市は山中湖に水没している地名で、河口は河口湖の大石付近を想定し、嘉吉は御坂を越えた御坂町に想定できる。しかしこれは間違いとして、国書は古道の駅の順位を書き間違いとして、加吉を「加古」の書き誤りとして「加古」を「加古坂」(篭坂)「水市」を御坂の地に比定していて、定説化している。
 鎌倉幕府になってからは鎌倉街道が主になるが、甲斐から東海道を経て鎌倉に入る道は同じ道が利用されていると云う説が一般である。しかし武田信虎以前、群雄割拠して甲斐国内にあっては時により情勢により道は変化していたとも考えられる。
 宗良親王が甲斐を通過して信濃の更級に落ち着くまでの経過は定かではないが、駿河から更級に行くのが目的であれば、現在の国道五十二号線を利用するか、富士宮から中道往還を利用するこが考えられる。駿河から興津-沼津-御殿場-足柄-甲斐のコースを利用したのは、このコースを通過する「特別の理由」と、他のコースを通過できない事も考えられる。
 当時の甲斐の国は守護も定まらない時代で、南朝方、北朝方と別れ、この地の白須上野守も北朝方(足利幕府)で、宗良親王が富士を巡り甲斐を通過して更級に行く道筋を選んだのは、甲斐の武将の南朝蜂起を促す為とも考えられる。興津から甲斐に入るには南朝方の南部地方の国道五十二号線をあがったと推察できる。
この時は親王の戦力も不足していて、白須の地で加勢戦力を期待していて、それが御詠歌に顕われている。
 身延-鰍沢-白根-韮崎-武川-白須-信濃の諏訪-更級のコースが最適であり一番近道である。この興国六年(1345/35歳)時の南部氏の動向は分からないが、甲斐の白須一帯を治めていたと推定される白須一族氏や横手一族は北朝方武田氏に従い上洛していて、当時の甲斐にはこれといった武将はいなかった。従って南朝方として安定していた信濃に行く為に甲斐を通過したと思われる。久しく信濃更級に滞在した親王は伊那郡の大河原に
移動する。大河原には現在でも「信濃宮」が存在しているが、その歴史資料は乏しい。
 当時の甲斐国内は最も不安定な時代であり、守護も誰か定まらず混乱の様相を呈していて、その後の乱世を窺わせる安閑が生まれつつあった。
親王が目指した信濃更級は南朝や親王にとって安全な場所であった事は間違いないが、当地の守護はいったい誰であったのか特定できない。親王は更級の姥捨山の辺に暫く居たことはその歌により明らかであるが、その後伊那郡大河原に暫く落ち着く。「信濃宮」のある大河原地域は険しい場所で親王の生活ぶりも大変であったに違いない。
親王が白須松原で歌を詠まれた当時、甲斐の白須一帯は全国にも有名な「白須松原」があり、武田信玄・勝頼没後徳川家康や浅野により進められた甲府城の築城にも用材としてー役かっていた。樹種は赤松であるが、その木肌は黄色味を帯びていて木理も美しくこの地方の建築や土木(橋梁)に欠かす事のできない木材であった。江戸から明治にかけても橋梁用材や水路用材等としても活用されていた。しかし第二次世界大戦の復興用材として多量の赤松が切り出されて、各地に残っていた赤松の美林や銘木・古木も殆どなくなり、各市町村に数本を残すのみとなっている。また最近では虫害により壊滅的な枯れ死状況が蔓延している。白州町には横手駒の・石尊神社境内並木・武川舞鶴の松など多くの文化財も消失している。
◎宗良親王、(『李花集』)
  駿河
  駿河国貞長が許に興良親王あるよしを聞て、しばし立ち寄り侍りし比、富士の煙もやどのあさけに立ちならぶ心地して、まことにめづらしくなきやうなれど、都の人はいかに見はやしなましとゝまづ思ひいでらるれば、山のすがたなどゑにかきて、為定卿のもとへつかはすとて
見せはやなかたれはさらにことの葉もをよはぬ富士のたかねなりけり
 返し  
おもひやるかたさへそなきことの葉のをよはぬ富士に聞につけても
 かくて又の年(興国六年)秋まですみ侍しかども、さすがまた我世へぬべき所にもあらねば、こゝをも立出侍らんとせしに、狩野介貞長などやうのもの共夜もすがら名残おしみ、さかづきたびたびめぐり侍し程、過にしかた、猶行すゑの事まで、二心なきことなど申あつめつゝはてはゑいなきなどせしかば、いつの程のなじみにかとあはれに覚へて、出さまにそこのかべに書をきし
身をいかにするかのうみのおきつなみよるへなしと立はなれなは
  興津 庵崎
 かしこ夜ふかく出侍て、興津といふ所は曙に成ぬるに、霧もたえたえに成て、ゆたに見えたる庵崎の松原は、さながら海の上にのこれり、吹はらふ風の気配もすさまじきに、いつて舟のはやくすぐるも、波の関守にはよらぬかとみゆ、あくるもしらずおもしろくすみ渡りて、一かたばらずみすてがたければ、関の戸にしばしたゝずみ侍しに、
袖の浦風秋の夕よりも身にしむ心地せしかば
  清見関
あつまちのすゑまて行ぬいほさきの清見はせきも秋かせそふく
  浮島原 車返し
  浮島が原をとほりて、車返しといひし所より甲斐国に入りて、信濃へと心ざし侍しに、
 さながら富士の麓を行めぐり侍しかば、山のすがたいづかたよりもおなじやうにみへ
 て、まことにたぐひなし、裾野の秋の景色まめやかに、心言葉も及び難く覚へ侍て、
  富士山麓
北になしみなみになしてけふいくかふしのふもとをめくり来ぬらん
◎◎ 甲斐国白須
 甲斐のしらすといふ所の松原のかげにしばしやすらひて
かりそめの行かひちとはきゝしかど 
いさやしらすのまつ人もなし
  信濃
 信濃国に行つきぬれば、をくりのもの返し侍し次でに、駿河なりし人のもとへ申つかはし侍し、
ふしのねのけふりを見ても君とへよあさまのたけはいかゝもゆると 
  信濃諏訪
 諏訪下宮寳前に通夜し侍て、夜もすがら法施奉りしに、湖上月くまなくて、秋風もほかよりは夜さむに侍しかば、よみける 
すはの海や神のとかひのいかなれは秋さへ月のこほりしくらん
  信濃更級
 佐良科里に住み侍しかば、月いとおもしろくて、秋ごとにおもひやられしことなど思ひ出られければ、
もろともにをばすて山をこへぬとはみやこにかたれさらしなの月
 あがたのすまひも、年を経てすみうくのみ侍し比、月を見て
月にあかぬ名をやたゝましことしさへ猶更級の里にすまはゝ
 (『新葉集』)
 をば捨山ちかくすみ侍し比、夜ふくるまで月を見て思ひつゞけ侍し
これにます都のつとはなき物をいさといはゝやをは捨の月
 信濃あさまの山ちかきわたりに住み侍し比、
あさましやあさまのたけもちかけれはこひのけむりもたちやそふらん
◎石碑は白州町白須上集落と前沢集落の境にあるチビッ子広場奥に松原の碑と一緒にある。





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最終更新日  2020年12月18日 19時57分29秒
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