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2020年12月19日
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 和泉式部日記 『日本の古典総解説』

  

発行者 長谷川秀記氏 発行所 自由国民社

 

(いずみ)式部(しきぶ)日記(にっき)

 

 平安時代に、女性によって書かれた仮名日記の一つ・作者 和泉式部

 

寛弘四年(一〇〇七)に二七歳で亡くなった冷泉院の第四皇子・敦道親王の死を悼み、かつての親王との恋愛の思い出をてんめんとつづった日記。作者白身を、「女」とする、三人称の自伝的物語形式をとっており、『和泉式部物語』とも称せられている。

 

 女流歌人である和泉式部は、夫のある身でありながら、冷泉院の第三皇子・為尊親王に愛された。しかし、それも長保四年(一〇〇二)親王が二六歳の若さで亡くなるまでのごくわずかな間であった。

 

夢よりもはかなき世のなかを嘆きわびつつ明し暮すほどに四月十余日にもなりぬれば、木のした暗が

りもてゆく。築地のうへの草あをやかなるも、人はことに目もとどめぬを、あはれとながむるほどに、

近き透垣のもとに人のけはひすれば、誰ならんとおもふほどに、故宮にさぶらひし小舎人(こねとり)(わらは)なりけ

り。

 

【解説】

夢ははかないものといわれているが、その夢よりはかない男女の仲というものを嘆きわびながら日頃明かし暮らしているうちに、もはや今年も四月一〇日あまりのころになったので、樹々の新緑も出そろい、次第に木の下は昼でもうす暗いほどに葉が茂ってきた。土塀の上の草も青々としてきたのを、他人は別に気にもとめていないようだが、私はしみじみと物思いに沈みながら、じっとみつめていると、すぐそばの竹や枝で間をすかして作ってある垣根のところに人のけはいがするので、一体だれだろうと思ってみると、今はなき為尊親王につかえていた童であった。

 

この日記は、亡き為尊親王の一周忌を迎えようとする長征五年(一〇〇三)四月一〇日あまりの頃、為尊親王の思い出にふけっているところからはじまる。

この童は、為尊親王の弟宮(あつ)(みち)親王が賜わった橘の花を持参して、久し振りに式部のごきげん伺いに訪れたのだが、これがきっかけで、弟宮敦道親王と和泉式部との問に和歌の贈答が始まるのである。

 こうして敦道親王は頻繁に歌を贈られるようになり、式部もそれに時々返事をしているうちに、敦道親王はいよいよ式部に熱を上げ、遂には式部を尋ねるようになる。式部とて、敦道親王の接近で、淋しい気持が少しなぐさめられるような気はするものの、未だ自ら積極的にはなれない。

 だが、

 敦道親王

「恋と言へば世のつねのとやおもふらんけさの心はたぐひだになし」

(恋と言うと男女の仲一般のものとお考えかもしれませんが、あなたと会った後の今朝の私の気持は他にくらべようのないものです)。

 和泉式部

「世のつねのことともさらにおもほえずはじめてものを思ふあしたは」

(並一通りの男女の仲のこととも思われません。はじめて物思いにかられる身となった今朝の私には)。

 

の歌を境に、今まで故宮を追暮してきた式部が、今は、同じ血を分けた弟言と関係して、複雑な物思いにかられる身となっていくのである。その心の変化を式部は、故為尊親王があれほど自分を愛してくださったのにわれながら意外である、と苦悶している。こうした反省をしてはみるものの、宮を思う式部のやるせなさはつのる一方であるし、宮の、式部に対する独占欲もつのる一方である。

 

八月になって、式部がつれづれをなぐさめようと石山に籠ると、宮は「なぜ山に入るということをおっしゃらなかったのでしょう。仏道のさまたげとまではお思いにならないでしょうが、わたしをあとにお残しになるのが情なくて」と式部に愚痴を言ったりする。

 こうした二人の恋愛は、一〇月、一一月と秋の深まりとともに深まっていく。そしてやがて一二月二八日、月の美しい夜に、宮は思い切って、ためらう式部を自邸にひきとる。宮家での評判はよくない。宮の北の方は、

「こういうことがあったのなら何故おっしゃってくださらないのです。お止め申すべきことでもない。このように私は人間らしくも扱われず、人から笑い者になってはずかしいことだ」

と泣く泣く宮に訴えられる始末である。

「かくて日ごろふれば、さぶらひつきて、昼なども上にさぶらひて、御ぐしなども参り、よろづにつかはせ給ふ。さらに御まへもさけさせ給はず。上の御方にわたらせ給ふことも、たまさかになりもてゆく。おぼし嘆く事かぎりなし」

(こうして日数を経ると、宮のおそば仕えも馴れて、昼も宮のお側で髪などもおすき申し上げて、なにかにつけて式部をおつかいになり、いっこうに宮のおそばをお離しにならない。宮が北の方の所にいらっしゃることも次第、次第に遠のいてめったにお行きにならないので、北の方はいよいよお嘆きになる)

と、その頃のことを式部は記している。

 

翌正月、北の方は里帰りした姉の春宮(後の三条天皇)女御からの誘いで、祖母のもとに帰ってしまう。その出立の騒ぎを、式部は聞き辛いと思いながらもそのままお仕えしているが、それにつけても物思い

が絶えることのないわが身かな、と自分を反省したりもするのである。

 

 以上で日記は終わっている。ところで、敦道親王の死は寛弘四年(一○○七)であるのになぜ式部は寛弘元年正月で筆を折り、その後の生活に触れなかったのであろうか。

一部には欠巻説があるが、敦道親王の思い出の記念塔としては、印象の最も深いところでとどめればそれでよかったのである、とみるのが一般的な見方である。

 

本書は、和泉式部の作とするが、一部には、藤原俊成の作とする説もある。またその成立は、敦道親王が亡くなってからほど遠からぬ時期(寛弘五年四、五月頃か)の執筆であろう、といわれている。

 敦道親王と和泉式部との恋愛は、この書の他に『大鏡』『和泉式部集』『栄花物語』などからも伺い知ることができる。それはかなり華麗なものであったらしいが、本書では、その行動よりも心理の微妙な起伏の描写に中心がおかれている。文章も率直で、奔放で情熱的な女性生活の一面をうかがわせる作品である。

 和泉式部は生没年未詳。女流歌人中最も歌が多く、歌集『和泉式部集』『同読集』があり、『拾遺集』以後の勅撰集にも多く入っている。

父は大江雅致で、式部といったのは父が式部ノ丞であったかららしく、また「和泉」は最初の夫・橘道真が和泉守であったことによる。敦道親王没後は、道長の娘である中宮彰子の女房として仕えた。生涯関係した男性は五~六人以上と思われ、子供も何人かいたようだが、中でも小式部はその名を知られている。

 また、和泉式部の伝説は、全国各地に伝えられているが、同一の話が、ある地では和泉式部のこととして、また他の地では小野小町のこととして伝えられているのはおもしろい。

 

 『和泉式部日記』は、日記の形による自伝体小説の試みであり、その中では、二人が結ばれるまでの微妙な心の動きを描いたところや、歌と地の文や消息との巧みに融合したあたりの表現などが、特に高く評価されており、この日記の文学史的な意義もこのあたりにあると思われる。

 『和泉式部日記』の伝本としては、応永本、三条西家本、寛元本の三系統があるが、このうち、三条百家本が現存写本の中では最古のものに属し、最も原典に近いかと考えられている。

             (この項・今西浩子)

 

●和泉式部の仕えた一条天皇の中宮彰子は、後一条・後朱雀天皇の母で、彼女の所には、ほかに紫式部・赤染衛門・大貳三位・小式部内侍・伊勢大輔ら才色兼備の女性たちが仕えて、はなやかに競い合っていた。

 






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最終更新日  2020年12月19日 05時40分45秒
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