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2020年12月19日
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紫式部日記 『日本の古典総解説』

  

発行者 長谷川秀記氏 発行所 自由国民社

  紹介 一部加筆 山梨歴史文学館

 

紫式部日記

 

寛弘五年(一〇〇八)七月から同七年正月までの、紫式部が仕えた土御門殿と宮中の様子を中心に言かれた日記である。日記とはいえ、日を追って毎日書かれたものではなく、途中に消息文といわれる異質の部分を含んでいる。

 

  秋のけはひの立つままに、土御門殿の有様、いはむかたなくをかし。他のわたりの梢ども、遠水のほ

とりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたるにもてはやされて、不断の御読経声、あは

れまさりけり。やうやう涼しき風のけしきにも、例の絶えせぬ水の音なむ、夜もすがら聞きまがはさ

【要約】

秋の気配がするにしたがって、道長邸の土御門殿の様子はなんとも口で言えないほど趣き深くなってくる。池の周辺の梢や、庭への引き水の傍の草むらなど、それぞれ紅葉しはじめるものの、一方、空いったいもほのぼのと気持をそそるような風情であるのに引き立てられて、絶えまない安産を祈る御読経の声々は一層情深く聞える。次第に涼しくなっていく風のけはいにも、いつも絶えることのない遺水の音が、読経の声と入り交じって区別がつかないように聞える。

 

 この日記の書き出しは、中宮彰子が、一条天皇第二皇子敦成親王を生むために里帰りした秋の土御門の情景から始まっている。時は、紫式部が、夫・藤原宣孝を亡くし、道長のひきによって中宮彰子に仕えて

いた、寛弘五年(1009)秋のことである。

 このあと、皇子誕生の記事が続くが、その時の様子は、

 

中宮の初頭の髪をすこしお切り申し、五戒をお受けさせ申しあげなさる間、どうしていいかわからぬ

ほど動転してしまった気持で、形だけにもせよ、お髪を下されるとは何ということかと、言いようも

なく悲しんでいると、無事お産まれになって、後産がまだすまない間、あれほど広い母屋から南の(ひさし)

の間、その外側の縁側の高欄のところまで、いっぱい詰めかけていた僧俗ともども、いま一度声を張

り上げて仏を礼拝する

 

と、まず安産であったことが書かれている。   

 さらに

 

いよいよ御産をなさるというときに、物の怪が口惜しがってわめきたてる声の気味の悪いこと

 

と、書いたあと、

  

  正午に、まるで空が晴れて、朝日がさし出たような気持がする。ご安産でいらっしゃった嬉しさは、

何といってよいか言葉に尽せぬほどなのに、男御子でさえいらっしゃった喜びといったら、なんで並

一とおりのものであろう

 

と、男子誕生であったことに筆が及んでいる。

 

三日、五日、七日、九日の産養のことなどにもかなり筆がさかれているが、その中には、

 

御膳まゐるとて、女房八人、一つ色にさうぞきて、髪あげ、白き元結して、白き御盤もてつづきまゐ  

る。こよひの御まかなひは宮の内侍、いとものものしく、あざやかなるやうだいに、元結ばえしたる

髪のさがりば、つねよりもあらまほしきさまして、扇にはづれたるかたはらめなど、いときよらに侍   

りしかな、

 

【要約】

白い元結に引き立って見える髪の垂れざまは、ふだんよりもりっぱな様で、扇の端からはずれて見える宮の内侍の顔などは、一段と立派だったことよ。

 

など、『源氏物語』に見る、女性ならではの観察の細かさがこの日記の中でも見られる。

 また、道長が若宮におしっこをかけられ、直衣の紐を解いて御几帳の後であぶらせ、

「あはれこの宮の御しとねにぬるるはうれしきわざかな」

と、いったエピソードなども、道長のくつろいだ一面を伝えるものとして見逃していない。

 そういった中で、左衛門の督が「あなかしこ、このわたりにわかむらさきやさぶらふ」(恐れ入りますが、このあたりに『源氏物語』若紫の巻に出てくる姫君(紫上)はいらっしゃいますでしょうか)といった一文のあることは、この時すでに『源氏物語』の若紫の巻が書かれていたことを意味していておもしろい。

 宮廷風俗が中心をなす日記の中で異彩を放っている消息文中には、和泉式部や清少納言などに対する批評が見られる。

 

「これほどの歌人(和泉式部)でもやはりなお、他人が詠んだ歌について、非難したり批評したりしているのは、さあそれほど歌について分かっているのではあるまいと思われる。口さきまですらすらと歌が詠めてくるのだろうと思われるような歌風なのだ。こちらが引け目を感じるほどの歌人だとは思われない」

 

「清少納言こそ、高慢ちきな顔をしていてじつにたいへんな女だ。あんなに利巧ぶって漢字を書きちらしているが、よくみると、まだ十分でない点が多い。このように他人とちがって特色を発揮しようとすき好

んでいる人は、かならず見劣りがして、先先ろくでもないことになるばかりなのである。また情趣本位が板についた人は、ひどく索漠とした、何ということのない折でも、むやみに情趣をふりかざし、いちいち風情を見つけていこうとするうちに、自然どうも感心しない軽薄な風にもなるのであろう。その軽薄になった人の末がどうしてよいということがあろうか」

 

 こういった批評や、紫式部が幼少の頃、お兄さんが史記を読んでいたのを側で聞き覚え、お兄さんより記憶のよいところを示したので、親から「この子(式部)が男子だったらよかったのに」といわれたというあたりの記事をみると、式部こそ昇高々とした女性のような気がする。

 しかし、一方、日記にある

 

「年暮れてわが世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな」

(年が暮れてわが命もまた老いてゆく、その夜ふけの風の音につけてもわが心の中はわびしく荒涼としていることだ)

 

の歌などをみると、式部はやはり静かな思慮深い女性のようにもみえる。

 

【解題】 

 

 本書の作者は、『源氏物語』の作者でもあり、一条天皇中宮彰子の女房であった紫式部。

 また、成立の時期については、日記の最後の日時が、寛弘七年(一〇一〇)正月一五日であるから、それ以後の成立であることはいうまでもない。しかし、その下限については、寛弘七年正月一五日より後の記事が最初からあったかなかったか、立論のよりどころがない状態であるから、はっきりしない。

大体、寛弘七年の夏か秋のころに成立したのではないかと考えられている。

 『紫式部日記』の最大の文学史的意義は、なんといっても『源氏物語』の作者である紫式部について知る資料を提供しているところにある。

 ただ、その伝本は多くなく、現存諸本は伏見宮邦高親王(一四五六~一五三三)自筆本の系統のものばかりで、近世中期以後の転写本であり、紫式部自筆の原本の姿をどれほど忠実に伝えたものかかなり疑問がある。

 この現存する邦高親王自筆本系統の諸本は、その奥書および本文の性質などから二類に分けられている。

 このほか題名が『紫式部日記』『紫日記』『紫の日記』『むらさきの記』などとなっているものがあるが、これは必ずしも系統に関係しない。(この項・今西浩子氏著)

 

     この当時、公卿のふだんの衣服は直衣であった。礼装の抱(ほう)と形は同じであるが、袍の時は必ず冠をかぶり、旅衣の場合には烏帽子をかぶる。直衣は常服であるから、この服装で参内できるのは三位以上で勅許を得た者に限られていた。

 






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最終更新日  2020年12月19日 07時04分28秒
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