カテゴリ:山口素堂資料室
生誕地は何処 間違いだらけだった郷土史
『甲斐国意外誌』 新聞『山梨新報』山梨新報社 一部加筆 山梨 山口素堂資料室
教来石出身に疑問 「目に青葉・・・の俳人」
甲州出身は「国志」だけ
「目には青葉 山ほととぎす初鰹」の句で知られる江戸前期の俳人・山口素堂は、甲州教来石村・(北杜市白州町)出身が定説だった。 ところが昨毎八月の「甲府文芸講座」で山梨郷土研究会理事で駿台甲府高校教諭の石川博氏が 「資料を精査すれば甲州出身ではない可能性が高い」 と発表、郷土史界に波紋を広げた その講演によれば「素堂・甲州人説」の根拠は江戸時代後期の文化十一年(一八一四)に発行された「甲斐国志」で、それ以前の資料には「素堂は江戸の人」とあるだけで「甲斐出身」とはどこにもないという。 従来の定説によると素堂の本名は官兵衛・信章、先祖から教来石村山口にいたので「山口」を姓とした。寛永十九年(一六四二)五月五日に生まれ、幼少のころ甲府魚町に出、酒造業を営んだ父に従い、その家業を継いだが、向学の志に燃えて二十歳のころ家業を弟に譲り江戸に出た。 林大学頭家で漢学を学び、さらに京都に行って和歌や連歌、さらに俳諧を修めた。江戸に帰って儒学などで幕府に仕えたが、延宝六年(一六七八)辞職して上野不忍池畔に陰核した。貞享二年(一六八五)ごろに葛飾の阿武に移り俳聖といわれた芭蕉や、その門人たちと交遊、芭蕉門の客分として遇されたとい う。 素堂は最初、連歌から俳諧を独立させた松永貞徳の「貞門派」に属したが、微温的な俳風に飽き足らなかった。その頃、西山家因を盟主とする「談林派」が起こり、大胆奇抜な着想に破調句も嫌わず、自由に諧謔を楽しむ俳風が江戸俳壇を席捲した。素堂の『目には青葉』の句はこの時代のものだった。だが、その談林派も詩としての沈潜さを欠き、末端は放埓に流れ流行は比較的短かった。
濁川改修の生祀が残る
その洗礼を受けたものの、その弊風を脱し、厳粛な「わび、さび」としての人生詩、自然詩である「蕉風」を確立したのが芭蕉であり、それを助けたのが素堂だった。芭蕉が亡くなるのは元禄七年(一六九四)十月、それに気落ちした素堂は元気をなくし、翌八年八月に英気を養おうと故郷の甲府に帰ってきた。すると、待っていたように旧友の甲府代官桜井孫兵衛政能が、濁川改修の差配を頼みにきた。そのころ山梨郡中郡筋(甲府市西高橋、蓬沢、落合町など一帯)は濁川の氾濫に悩み、桜井代官はその改修の裁量をする人物を探していた。 そこへ素堂が帰ってきたのだ・素堂は和算(数学)にも堪能で土木工事の設計にも明るかったからという。一旦は断った素堂だが、江戸まで追ってきての重ねての依頼にようやく受諾した。 再び帰郷した素堂は三月末に着工、五月十六日までに西高橋~落合間二千二百間(三千七百八十メートル)に土手を築き、川底をさらう工事を完成させた。 長年の水害から開放された流域の百姓たちは左岸の蓬沢地内に祠をたてた。つまり素堂と桜井代官は 生きているうちに神に祀られたわけで、今もそれは「生祀」として残っている。 素堂が葛飾の庵で亡くなるのは、芭蕉より遅れること二十年の享保元年(一七一六)八月で七十五歳。谷中の感応寺に墓がある。もっとも甲府尊體寺にある素堂の子孫を称する山口氏の墓所にも墓石がある。
甲斐は亡妻のふるさと
以上の中から石川氏が疑問を投げかけているのは、甲斐国に関する部分である。 その第一は「教来石出生説」と「甲府で酒造業を営んだ父の跡を継いだこと」それに「濁川改修」である。その理由の第一は素堂が元禄五年から同十年(一六九二~九七)頃の間に甲斐を訪れ「甲山記行」という紀行文を書いている(実際は元禄八年夏)が、その中に甲斐国について
「亡妻のふるさとなればさすがになつかしくて」
と書いているからだ。素堂自身の故郷なら、あえて「亡妻のふるさと」とは書かないだろう。 二つ目は「甲斐国志」以前の資料には「甲斐出身」の記述が見当たらないことだ。こうして教来石出生説が否定されれば、甲府での父子二代の酒造業も消えてしまう。 また濁川改修は以前から疑問視する説があり、石川氏はふれなかったが、元県教育センター所長で俳文学詳しい松本武秀氏は「史実的に証するものがない」としている。
山口黒露の景気づけか
では、どうして「素堂・教来石出身説」は生まれたのだろう。 石川氏は 「素堂の弟子に山口黒露という甲斐在住の俳人がいたが、どうやらこの人物が怪しい。彼自身、 素堂の親類と称しているが、それも真実味はなく、黒露がなんらかの景気付けのために素堂を利用、山梨と結びつけようとしたのではないか。山口という地名から出身地を教来石に、魚町に山口左いう裕福な酒造家があったので、それを当てはめたのではなかろうか」 と推測している。 黒露は貞享三年(一六八三)に生まれ、享保年間、甲府俳壇の指導者の一人として活躍、明和四年(一七六七)に没しているので、考えられぬことはない。 黒露没後五十年近い文化十一年(一八一四)に完成した「甲斐国志」が、それを信じたのもやむを得ないかもしれない。しかし、甲府市蓬沢町地内に今も残る素堂と桜井孫兵衛の濁川改修の「生祀」は何を物 語っているのだろう。(素堂の生祀は無い) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年12月22日 06時17分15秒
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